小鳥たちのささやきに共鳴するように、カーテンが揺れる。朝の陽ざしに溶ける午前六時の歌声が、泉のまどろみを引き裂いた。ふやけた目尻をこすりながら上半身を起こせば、隣の毛布はめくれあがって、既にもぬけの殻になっている。わずかにくぼんだシーツには、確かなぬくもりの跡。昨晩の営みがいやでも思い返されて、泉はお気に入りの低反発枕に顔を埋めた。
幼稚園児が、そのまま大人になったような男なのだ。あんな攻め方をするなんて、想像もしていなかった。本能のままに激しく腰を揺さぶったと思えば、次の瞬間には「気持ちよかった?」と額に張りついた前髪をはらって、穏やかに尋ねてくる。翌朝どんな顔で起きたらいいか分からなかったから、さっさと居なくなってくれて正解かもしれない。生まれた姿のまま、八重歯をニカッとのぞかせて「おはよう、セナ」なんて挨拶をされたら、ぶっきらぼうに突っぱねていただろうから。
泉は気だるい腰を起こし、爽やかな風に踊るカーテンを引っ張った。解放された窓の外には、住宅が密集している。隣接するアパートの隙間に広がる晴天の空も、道路に行き交う人々の顔ぶれも変わらない。今こうして上半身裸で過ごしている以外は、いつもとなんら変わりのない朝だ。
紺のパーカーが、床に脱ぎ散らかしてある。泉はそれを羽織って、ゆっくりとドアを開けた。部屋の外にはリビングがあって、食卓の椅子にあぐらをかいているレオが見えた。
ふんふんふ~ん、と鼻歌を奏でるレオの背後から、クラシック音楽が流れている。初夜明けに響き渡るピアノの旋律は、いささか耽美で照れくさい。泉はくちびるを引き結んで、気まずそうに挨拶をした。
「……おはよう」
「あっ、セナぁ~。うっちゅ~!めずらしくお寝坊さんだ!」
レオが、愛嬌のある幼い笑みを浮かべる。昨日の夜には触れずに、あくまで日常的な会話をぶつけてきた。下手に気遣われるよりは、自然に済ませてくれるほうが泉としてもありがたい。それにしたってこの音楽はなんだ。泉は向かい席に腰を下ろして、恥じらいをごまかすように頬杖をつく。
「てか何?」
「ん~?」
「コンポから謎に流れてる、この曲よ」
洋画のワンシーンじゃあるまいし、不釣り合いな選曲もはなはだしい。甘い初恋を味わう紳士と箱入り娘の組み合わせならまだしも、高校生からの腐れ縁である男ふたりにはまったく似合わなかった。泉が尋ねると、レオは左手のペン、右手のノートを意味もなく交差して、元気いっぱいに叫んでみせた。
「ドイツ・ロマン派にして作曲・指揮をこなすピアニスト&オルガニスト!あだ名は不機嫌なポーランド伯爵、最期の言葉は『疲れたよ、ひどく疲れた』、一度聴いた曲は完璧に記憶する神童メンデルスゾーン無言歌集第5巻、『春の歌』!」
「そうじゃなくってさあ……」
疲れたよ、の部分をいやに気持ちを込めて説明するものだから、昔の記憶が思い返される。泉は、妙にぐったりした。誰よりも博愛主義者で、人一倍繊細だった作曲家のSOSに気づけなかったあの頃。数年経った今でも、決して消えることのない古傷だ。はあ、と溜め息をつきながら、泉は椅子から離れる。
一抹の希望もない、真っ暗な日々。暗黒時代を生きていたあの頃からすれば、信じがたい。やっと這いずりあがった先で、未来の自分たちが一線を越えているだなんて。おまけに優雅なクラシックが祝福しているのだから、人生なにが起きるかわからない。
泉は、冷蔵庫から新鮮な水を取り出した。嵐から新居祝いに貰ったコップにこぽこぽと注ぎながら、喉を鳴らす。清々しくゆったりと流れるメロディーに乗って、レオがぼそっと呟いた。
「いやな夢みた」
「なんだってぇ~!?」
勢いよく置いたコップから、水がぴゅっと跳ねる。泉は眉間にしわを寄せながら、レオにズカズカと歩み寄った。初めての夜を過ごした翌朝に「いやな夢みた」と報告するなんて、情緒がなさすぎる。脳に浮かんだ言葉を加工せず、産地直送する気配りのなさ。騎士を名乗るわりにデリカシーが欠けているのは、いまに始まったことではないけれど。まるで性行為がきっかけで、悪夢にうなされたかのように聞こえてしまう。
「どういう意味ぃ!?」
「怖っ。……それにしたって、セナはお肌が綺麗だな~。ぷりぷり怒っても、きれいな顔してる♪ 昨日の夜だって、『こんなの俺じゃない』ってイヤイヤしながら腕で隠してたけど、全然そんなことなかった。『見ないで。聞かないで』って首を振るセナは、世界一きれいで……」
「お、俺の話はいいでしょ~!?億の価値がある美しいこの俺を抱いておきながら、『いやな夢』なんて見ちゃってさぁ!俺は、そこがチョ~気に食わないって言ってんの!」
昨晩の情事を語り始めるものだから、泉は振り上げた腕をしまわずには居られない。普段なら絶対にそんなことはなくて、渾身のグーで頭をぐりぐり挟んでやるのに。初夜の影響というものは凄まじい。泉はうっすらと紅くなる頬を押さえながら、レオの隣に腰かけた。
「……どんな内容」
「ん~?……Knightsのライブツアー!千秋楽のドーム!全国行脚したおれたちの盛り上がりは最高潮!お姫さまたちに手を振ってたら、緊急事態!……親方!ステージの真ん中に、突然でっかい大穴が!スポットライトの光すら届かない、まっくらな地底!……に、まっさかさまに落っこちた夢!」
「……ありがちな夢ぇ」
「むむっ、馬鹿にすんなっ!少なくとも、おまえが一週間ぐらい前に見たとか言ってた『ゆうくんが、どこの馬の骨とも知れない異星人の女とサイクリングに出かける夢』だって、おれの夢とそんなに変わらんわ!夢の中ぐらい自由に遊ばせてやれよ~、よその星の女のひとと約束を取りつけるなんて、世界初の快挙だぞ!」
「はあ~!?そっから交際に発展したらどうすんの?火星で式を上げますとか宣言されたら、あんた責任取ってくれるわけぇ?」
「おれは『ゆうくん』の恋愛には責任は取れないけど、セナと死ぬまで添い遂げる覚悟はある。昨日えっちしたのも、覚悟のあらわれ♪」
「俺と……死ぬまで……?れ、れおくん……って、んな台詞でほだされると思ったか!」
「ちょっぴり嬉しそうな顔してただろ!」
「あぁ~っ、うるさいっ!これ以上調子に乗るつもりなら、永遠に抱かせてやんないよぉ!」
「それはやだっ!」
「やだじゃない!」
初夜の翌朝とは思えないほど、色気のないやり取りを繰り広げる。泉はぐいっと迫って、ぶーぶーと文句を垂れるレオを睨みつけた。強気だったはずのレオはちいさく丸まると、耳を塞いでたじろいだ。
「あ~わかったわかった!夢とはいえ大事な弟なんだから、ちゃんとしたお付き合いができるのかどうか心配になるよな!相手のひと、見極めたいもんな!はい!」
「わかったなら、よろしい。あんたはペットなんだから、飼い主の発言にウンウンって健気に頷いときゃそれでいいの。……で、夢の内容はそれで終わり?」
ふたりの言い争いで折れるのは大抵レオだった。泉が続きを促すと、レオは淹れたてのコーヒーをすすって、椅子の上に直立する。ミュージカル俳優のごとく腕を広げると、声高らかに喋りはじめた。
「……とにかくおれは、真っ暗闇のなかで永遠に地底暮らしなんて、いやだった!上・右・下・左、あらゆる角度を観察したけど、おれの周りはブラックホール!お姫さまたちの歓声は、地上から途切れることなく聞こえてくるのに。どういうわけだか、光だけが届かない!……だから、ぽっかり開いた穴に手を伸ばして、Knightsのみんなに助けを求めてみた!『お~い』『聞こえるか』『返事してくれ』、何度も叫んだけど、おれの声はちっとも響かない。今度は、ポッケに入ってた楽譜に『HELP!』と綴って、紙飛行機にして投げてみた。ところがどっこい片道切符、だぁれも様子を見に来ない。……やっと誰かが覗きに来たと思ったら、まったく知らんおじさんに『ドッキリ大成功!』の看板を出されて、唖然とするおれ。なんと絶好調だと思っていたおれの人生は、すべて仕掛けだったのだ!そして、唯一の脱出口である穴が、無情にも閉じていく……」
「……はあ?最悪じゃん」
出来の悪いB級ホラー映画のようだ。うげえ、と眉をしかめる泉に、レオはあっけらかんと結末を告げた。
「コラ~!ふざけんな~!って叫ぼうとしたけど、なんでか声が出なかった。そりゃあ、そうだ。夢の中のおれは、アイドルじゃなかったんだから。いつの間にかKnightsのきらびやかな衣装から、みすぼらしいジャージ姿になってて……髪も、ぼさぼさで……。……あ~あ、こわかった」
レオの劇的な説明が終わると同時に、トースターがチン、と鳴る。レオは椅子からぴょんと降りて、さくさくに焼けた食パンをとりだした。アボカドとチーズを挟んだホットサンドを皿に取り分けると、フライパンに準備してあった目玉焼きを添える。
「朝、起きたら。おまえが隣でぐっすり寝てたから、なぁんだ!あっちが夢か~!知らんおじさんも空想世界の人物だ!って安心したんだけどさ。……もしかしたら、こっちが夢なんじゃないかと思って───」
レオは、冷蔵庫からレタス、トマト、きゅうりを取り出した。そうして余ったハムを乗せると、サラダを仕上げる。簡単モーニングセットの出来上がりだ。
「ここ最近うまく行きすぎてる気がする。なんか幸せすぎるってのも怖い。ちょっと不安になった。……だから」
「……うん」
「だぁい好きなクラシックでも流して、乱れた心を落ち着かせてたところ!……というわけで、おまえの朝食も用意してあげたぞ~。ふふん、偉いだろ?存分におれを褒めろ♪」
一流シェフのごとく上品に皿を置いて、自慢げに胸を張る。やだやだと駄々をこねたり、ほめてほめてと称賛されたがったり。過去の思い出にとらわれて、いやな夢に苦しめられたり───相変わらず子どもっぽくて、放っておけない。胸の裏から噴きだす、あたたかな感情の名前。言葉にするよりも行動で示したほうが早いだろう。泉は、えっへんと偉ぶるレオの腰に抱きついた。
「なんだなんだ?甘えん坊か?」
「は?違うし。れおくんと俺のはじめての思い出が、暗闇のドッキリおじさんに上書きされたのがムカつくだけ。俺と死ぬまで添い遂げるからには、変な夢を見るなんて絶対に……ぜったいに許さないから」
「セナ……」
「今度また穴に落っこちたら、次こそは救ってみせる。地上に戻るまで、ずっと一緒にいてあげるから。俺ひとりだけが無様に生き残るなんてこと、もう二度としない」
地底の暗闇なんて、くそくらえだ。太陽に照らされながら無邪気に駆けまわる姿が、この男にいちばん似合うのだから。
泉がふと視線を上げると、レオが斜めに傾いた。柔らかなくちびるを伝う、やさしい温度。昨晩のベッド以来の、穏やかなキスだった。
「……ほんと?」
穴から助けてくれることが?今この瞬間が、現実として存在することが?レオが、どちらの意味とも取れる問いを投げかける。神妙に尋ねるレオを抱き寄せて、泉は静かにささやいた。
「当たり前でしょ」
頬にちゅっと唇を落とせば、髪のしっぽが跳ねた。満面の笑みを浮かべながら、五線譜に泳ぐ音符のようにスキップをして、すとんと着席する。いつだって単純で、分かりやすい男だ。
泉も、やや遅れて席につく。レオの手作りモーニングセットを目の前にして、ぐう、と音が鳴った。朝っぱらから腹の虫が騒ぐのはめずらしいことで、羞恥心が加速する。
「と……とりあえず!朝ごはん作ってくれて、ありがとうねえ。……だけど、最近ちょっと食べ過ぎたから、俺のハムはれおくんにあげる」
「ええ~?セナは、ふっくら太ってても綺麗だけどなあ~」
「なんだって~!?」
チャララー、チャララララーラー。『春の歌』が終わって、痛快なオルガンサウンドが鳴り響いた。頭のてっぺんに稲妻が落ちるようなメロディーは、バレエ以外の西洋音楽に詳しくない泉でも知っている。レオは出来たてのホットサンドを頬張りながら、屈託のない笑みを飛ばした。
「わはは~、トッカータとフーガ!ナイスタイミング!」
「チョ~うざぁい!」
能天気に流れるバッハの曲を聞きながら、泉はふんと鼻を鳴らす。『春の歌』と同様のクラシックといえども、毛色が違いすぎる。一体どんな曲で構成されていて、何曲が収録されているアルバムなのか、気になって仕方がない。
いまの曲が終わったら、次はどんな音楽が流れるだろうか。小動物のようにハムを味わうレオを見つめながら、泉はつられて笑った。のんびり予想するのも悪くない。だって、死ぬまで添い遂げるつもりなのだ。レオと一緒にいれば、そのうち分かる。多分『おじいちゃん』になるまでには、すべてのクラシックを網羅できるだろう。たとえ暗闇に飲み込まれたって、ふたりで奏でる音楽は、きっと一筋の光そのものだ。
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