毎週水曜日は、レオと食事をするのが習慣になっていた。フィレンツェの自宅でレオの好物を振る舞うこともあれば、小洒落たレストランに足を運ぶこともある。そうしてディナーを過ごしたあと、その日の晩は決まってレオに抱かれるのだった。先週は洗いたてのシーツの上で、先々週はヒットチャートが流れる車のなかで。更にその前は、玄関で立ったまま致したのが記憶に新しい。
しかし、今週はやむを得ない事情でとりやめになった。業界内でも名高いファッションデザイナーとの会食に誘われたのだ。モデルにしては小柄な身長ながら、ランウェイを堂々と歩く泉の凛々しい姿に、心を惹かれたのだという。ぜひ話がしたい、きみの服を作ってみたいと熱心に口説かれたら、泉にはもう断る理由などない。これまでの仕事はレオ経由で得たものが多かったけれど、ようやく単独で手に入れたチャンスなのだ。全世界に瀬名泉という存在を知らしめる機会を、みすみす逃すわけにはいかなかった。
レオは思いのほか理解が早かった。「チャンスを物にしてこいよ」とにっこり笑顔で背中を送りだすほどには。学院時代なら「おれ以外のやつとご飯に行くなんて、やだ~っ!」と幼児のごとく駄々をこねていただろうが、これも大人になった証なのだろう。
満面の笑みで「いってらっしゃい!」と見送られた会食は、とんとん拍子に事が進んだ。泉に言い寄る男はたいてい下心を隠しておらず、背の低い日本人だからと小馬鹿にする輩もいるけれど、デザイナーはいずれにも該当しなかった。無理に酔わせることなく、嫌味をだらだらと並べることもない。それなりの地位を築いているからといって、自慢話を始めるわけでもない。モデルの理想像を説きながらも泉を褒めたたえ、ときには冗談を織り交ぜるデザイナーに、天邪鬼の泉も真剣に話を聞いていた。酒が苦手な泉ですら、飲みの席を楽しいと感じるほどだった。
そうして帰ってきたのは、既に日付を超えた木曜日0時過ぎのことだった。デザイナーが手配したタクシーで帰宅した泉は、ひとまずドアノブに手を掛ける。扉は、開かない。鍵が掛かっているので当たり前だが、レオは施錠を忘れることがあるのだ。口酸っぱく言い聞かせたかいがあったと達成感を覚えつつ、泉はやっと鍵を取りだす。
ただいま、と玄関に足を踏みだせば、レオがうつ伏せになって倒れていた。
「んぎゃーーーッ!」
美しいモデルの女とは思えないほどに素っ頓狂な声を出して、泉はかばんを放り投げた。急性心不全?それとも殺人事件? 半狂乱になりながらレオを抱き起こせば、レオのまぶたが静かに開かれる。甘い蜂蜜のようなとろんとした眼差しで、泉を見やった。
とりあえず、死んでない! 泉は安堵しながら、ふにゃりと脱力しているレオを揺さぶる。
「ちょっとぉ! 急に何ぃ!? あんた大丈夫なのぉ!?」
「セナぁ~……今日の会食、どうだったぁ~……?」
「え!? ああ……ええと、普通に楽しかったけど……?」
「……どんな人だった……?」
いつもの「ちょっと待って! 妄想させて!」を繰り出すことなく、レオは唇をぱくぱくと震わせている。質問の意図はさっぱり分からないけれど、泉は続けることにした。
「え? あ~……あの人がデザインする服は元々好きだったけど。一番尊敬できたのは、なにより賢いところで……小粋なトークもチョ~秀逸。こっちに来てから身長が低いことをバカにされがちだけど、あの人は『イズミは美しい。芯がある』ってしっかり褒めてくれたし……モデル業界の未来とかも、真面目に考えてくれてるし……?」
「そっか……」
「帰りのタクシーも出してくれたから、安全に帰れたよ。まっ、普通にいい人だったと思うけど」
「そう……」
「ちょっとぉ。せっかく聞かれたから教えてやってんのに、なにぃその態度!」
あさっての方角を眺めているレオに苛立った泉は、もういちど肩に揺さぶりを掛けた。しかし、黙っていれば品のある顔つきが、地割れのごとく崩れ始める。男らしさにあふれた眉は、心許ないハの字にぼやけた。
「う……うう……」
「れおくん?」
「うわあああああああん!」
急にレオが起き上がる。額が激突しそうになって、泉は慌てて避けた。事切れた死体がとつぜん暴れ出すような、ゾンビ映画でよくある光景が繰り広げられる。
尻もちをついて茫然としている泉をよそに、レオは頭をもたげて天井を睨みつけるのだった。
「大人の余裕ぶって『いってらっしゃい』って見送ったけど、やっぱり腹が立ってきた~っ!うう~っ、おれとセナの水曜日を邪魔するな~っ!……ああ~っ、でもいい人なんだろ?いい人なんだよな!セナのこと、綺麗だよって誉めてくれるし!酒に酔わせて、お持ち帰りするわけでもないし!……いや待てよっ、年頃の女の子を夜に呼びだす時点で、やっぱり悪いやつなのでは……?と思ったけど、世界的に有名なデザイナーは海外をびゅんびゅん飛び回って、常時てんてこまい!そこしか自由な時間がないのにセナに会ってくれたんだから、やっぱりいい人っぽい!ぐあぁ~っ、ずるいっ!ずるい奴だっ、責める理由が一個もない!こまった!荒れ狂う感情の波っ、これは一曲書けそう~っ!」
劇団ドラマティカで鍛えられたのか、長台詞もお構いなしだ。レオは「来たっ来たっ来たぁ~っ」と霊感を受信しながらメモ帳を破いて、壁に張りつける。唖然としている泉のそばで、一心不乱にペンを走らせた。
「ああっ、親愛なるサリエリ!おまえもこんな気持ちだったのか?いや、おまえが妬いたのは才能だけどっ!おまえはモーツァルトを毒殺したりしないよな?あいつが死んだとき、葬儀に参列してたもんな?おれはおまえの潔白を信じてる!あいつのことは大嫌いだけど、そうすることでおれも清らかになれる気がするから!わはは~、過去の偉人に自己投影すんな!気持ち悪!がるるるるる!」
「あのさぁ!サリエリだかアクエリだか知らないけど、急にいったい何なのぉ? 深夜にやかましい声出さないでくれるぅ!?」
「あぁあ~っ、嫉妬の炎で楽譜が燃え尽きてしまいそうだ!消えるな、おれのメロディー!消火器はどこだ!?ここか!?あそこか!?……いやおまえしかいない!」
泉の腰をぐっと抱き寄せると、レオが胸元に飛び込んできた。ぐすんと鼻を鳴らしながら、ライオンの子どものように埋もれるレオの背をぽんぽんと叩いて、泉は呆れ顔になる。あのころに比べれば、ずいぶん大人になったかのように見えるけれど、やはり本質はなにも変わっていないのだ。自分はすぐに放ったらかしにするくせに、泉がよそに行こうとすると猛烈に淋しがる。
「おまえが世界に羽ばたくのは喜ばしいことだけど、水曜日をとられるのは……さ、さみしい~……」
「他の曜日だったらいいんかい!……まぁ、急に予定が入っちゃったのは悪かったけど。でも、仕方ないでしょ?おたがい別の人生を生きてるんだし。……それに私は、私の願望に貪欲なの。叶えたい夢は、何がなんでも手に入れる」
「わかってるよ。そういう奴だからこそ、おれはおまえをすきになったんだし。……セナの水曜日は、だれのものでもない。……わかってる。うん、わかってる……わかっています……」
語尾がどんどん小さくなって、しゅんと眉が下がった。百六十九センチの身長は、まるでりんご三個分のサイズに縮んだかのように、情けなく丸まるのだった。
いくつになっても、ばかのひとつ覚えみたいに「セナがすき」と告白する。寛容な大人になりきれず、繊細な少年を忘れられずにいる男。どうしようもなく愛おしい生き物におもえて、泉の胸はきゅんと締め付けられる。
泉は、レオの鼻にちゅっと口づけた。愛という言葉は柄ではないけれど、本能がそうさせるのだ。頼りなく収まるレオの輪郭が、炭酸ジュースみたいにしゅわしゅわと泡立っていく。
「ふぅん。そこまでして私のこと好きなんだ?」
「当たり前だろ」
ほんの軽い気持ちで尋ねると、今度は明瞭なトーンで返された。セナ、愛してるよ、と低い声で囁いてくれるときの、性愛に満ちた男の表情。毎週水曜日に、かならず見せてくれる雄のまなざしが、確かに存在している。
温かいお風呂に浸かって、とっとと寝てしまおうと考えていた。だが、気分が変わった。レオの前髪をはらって額にくちづけると、泉はおもむろに立ち上がった。
「ベッドで待ってなよ」
「え?」
「シャワー、済ませてくるから」
「ということは……!」
「チョ~機嫌がいいからね。今日だけは、とくべつ」
生まれたての赤ちゃんのような、柔らかいほっぺたにキスをする。レオは黄昏色のしっぽをぴょこんと揺らして、身体測定の出番が来たかのように背筋をすっと伸ばした。相変わらずわかりやすくて、単純なやつだ。いつだって純度百パーセントの愛で返してくれる。
泉はふふ、と鼻で笑って、シャワーに向かおうとする。ところが、浴室に去ろうとする手首を、レオがぐいっと引っ張った。一瞬のうちに身体がふわりと浮いて、騎士にエスコートされるお姫さまのごとく抱かれてしまう。
「おれも一緒に入るっ♪」
「ちょっとぉ!?」
メロディーを鳴らす鍵盤のように、るんるんと跳ねる。泉は、くるりと回転しながらステップを踏むレオの首筋に抱きついて、絶対に振り落とされまいと必死に踏ん張るのだった。
時計の針は、既に0時を超えている。毎週水曜日なんて、今だからできる約束だ。これから先、帰ったころには木曜日になっている───そんな日々が、当たり前になるかもしれない。けれど、こうして愛されているうちは、きっと死ぬまでずっと水曜日なんだろう。
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