ひどい噂もあるもんだ。鉄虎はむしゃくしゃしながら豚骨ラーメンをすすり、濃厚なつゆまでしっかり飲むと、食堂のおばさまに「ご馳走さまッス!」と大きな声でトレーを返却した。
寮までの帰り道を大股でズカズカと歩いて、ふと考える。今朝、教室じゅうで噂になっていた話。匿名アカウントによる、『2wink・葵ひなたの枕営業疑惑』のこと。根も葉もない趣味の悪い投稿は相手にしないと固く決めている鉄虎だが、彼女が巻き込まれているとなれば話は別である。大手事務所のコズミック・プロダクションに所属できたのも、大御所タレントが司会の番組出演がとんとん拍子に決まるのも、役職のおじさんに抱かれているから───と断定する書き込みに、喉から拳が飛び出そうなほど、怒りを覚えていた。
確かに、ひなたは目上の人間に好かれる傾向にある。愛嬌があるし、話もうまい。そして可愛かった。鉄くん、と腕に絡みついてくる姿がよぎって、おもわず鉄虎はぽっと頬を赤らめたが、すぐさま首を振る。2winkが躍進しているのは、間違いなくユニットの実力に他ならない。もちろん、ひなただけではない。ゆうただって、並ならぬ努力を重ねているのを知っている。
クラスメイトのあいだでは、いわれのない誹謗中傷ということで意見は合致しているけれど。ネットに流布している以上は、拡散の危険性もある。真っ赤な嘘が、黒い真実として永遠に受け継がれる可能性があるわけだ。
納得のいかない鉄虎は、一旦ひなたに声を掛けたかった。枕営業の件を直接尋ねるわけにはいかないから、それとなく「夜メシでもどうッスか」と連絡してみたけれど、未だに既読マークがつかない。
そうして寂しく一人飯を済ませた鉄虎は、複雑な心持ちのまま、寮に帰ってきたのだった。こんなしかめっ面では、嵐に心配されるだろう。推理好きのHiMERUにも、原因を突き止められるかもしれない。鉄虎はぽん、と頬を叩いて、平常心を呼び戻す。ふう、と呼吸を整えて、エントランスをくぐり抜けようとしたその時だった。とつぜん手首を引かれた鉄虎は、びっくりしながら振り返る。渦中のひなたが立っていた。
「おっす!オラ葵ひなたちゃん!」
「ひ、ひなたちゃん」
ひなたは敬礼して、真夏の太陽を彷彿とさせる明るい笑みを咲かせた。天真爛漫な光のまぶしさに、鉄虎は思わずつられそうになったけれど、緩みかけた口角は一瞬のうちに引きつってしまう。例の噂がひなたの耳に入っているかどうか、不安になったのだ。
「ごめんね。今さっきメッセージに気づいた!」
「え?ああ、いや……別に構わないッスよ。……急だったんで」
「全然よくな~い!鉄くんが、せっかく私をディナーに誘ってくれたのにさ!……やっぱり、クラスが違うのって不便だよね?些細なことですれ違いがち!遠距離恋愛!」
「いやいや、すぐ隣じゃないッスか。北海道と沖縄じゃあるまいし」
「んもう、鉄くんは乙女心がわかってないなあ。冷静に返されると、地味に落ち込むんですけど……って、まぁそれは置いといて。あ~ん寂し~!鉄分不足でアタイ死んじゃう~!……となっていたところに鉄くんを発見したので、声かけちゃった。あ、鉄分ってのは、鉄くんの成分の略ね」
屈託のない笑みを咲かせるひなたは愛らしくて、緊張ぎみの頬がミルクチョコレートのように、甘ったるく溶けそうになる。だが、なんと声を掛けていいものか。う~みゅ、と悩んでいると、ひなたに肩をばしばしと叩かれた。
「どったの。元気ないね~?なんかイヤなことでもあった?数量限定の特盛カルビ丼が売り切れてたとか?それとも、お気に入りのプロテインが欠品してた?良かったら、鉄くんのマイスイートエンジェルひなたちゃんが聞いてあげよっか?特別価格の49,980円で!」
「生々しい金額ッス!しかも、ちょっと高い!」
「いや嘘ウソ、これはゆうたくんが欲しがってる新型ゲーム機の値段だよ。というか鉄くんなら、年中無休タダで承りますし?」
いまならマッサージもつけちゃう!肩を揉みはじめるひなたに鉄虎はようやく笑ったが、晴々とした空のごとく明るさも、そう長くは続かない。ひなたがぼそっと呟いたのだ。
「私のうわさ、聞いた?」
「えっ」
「葵ひなた、枕営業してる説」
「……知ってたんスか」
「たまに、エゴサしてるから」
力強く揉んでいた肩からぱっと手を離して、ひなたは「あはは」と苦笑した。
「ゆうたくん、お怒りモードでさ。アネキは絶対にそんなことしない!ってキレっぱなしなもんだから、一旦あんずさんに預けてきちゃった。お姉ちゃん想いだよね~、ゆうたくんは」
ひなたは夜空にめがけて腕を伸ばすと、あくびをしながら背伸びする。にっこりと振り返って、鉄虎の肩をぽんと叩いた。
「まぁ、でも安心してよ。この件は、副所長が秒で把握してくれたし。アカウントの特定と、枕疑惑の払拭に動いてくれてるっぽいからさ。世間のみなさまに変な誤解をまねく前には、消火できるっぽい。大手事務所の強み~っ」
「そうなんスね……」
火を消したからといって、名誉棄損の事実は変わらない。鉄虎が不満げにつぶやくと、ひなたは「お客さぁん、凝ってるんですか~!?」とマッサージを再開した。雨雲を吹き飛ばす太陽のような、きらめきに満ちた声。月の浮かぶ静かな夜に、溶けこんでいく。
「……ったく、ひどい話ったらありゃしないよね」
「ひどい話の一言で、看過できないッスよ」
「え!?彼女のために怒ってくれる鉄くん、かっくいい~!ヒュ~ヒュ~!」
「そう言われると照れ臭いッスけど。……でも、当たり前じゃないッスか」
「ふふ。うれしいな。……うれしい」
軽快にテンポよく動いていた指先が、鈍足になる。ひなたは、ふう、と息を吐いた。
「……いったい、誰がこんなことしたのかな。どうして、こんなことしたのかな。そりゃあ全員が全員、私のこと好いてくれるわけないと思ってる。葵ひなたという人間が『単純にムカつくから』、それ以外の理由はないんだろうけど。顔?性格?喋り方?しぐさ?ものの考え方?……明確な理由がわからないぶん、モヤっとするよね」
肩を揉んでいた手が、すっと離れていく。鉄虎が振り返ると、ひなたは俯いていた。
「私だけが疑われるなら、まだいいけどさ。別にいいんだよそれは。伊達に修羅場くぐり抜けてないんだから、他人の悪意には慣れたもんだし。メンタルが強くなきゃ、芸能界なんてとてもじゃないけど生き残れないもん。……でも。……でもさ。これまでの功績が私ひとりの枕によるもので、ゆうたくんの努力まで踏みにじるのは、ほんと……ほんとに、許せないよ。腹立つ」
「……ひなたちゃん」
「ゆうたくんは優しいから、怒ってくれたけど。……でも、きっと美しいきょうだい愛じゃ終わらない。人間って、綺麗ごとだけじゃないから。こんな噂が平然と飛び出すぐらい、自分は力不足なのかって……心の底では、悔しいんじゃないかと思う」
鉄虎のシャツの裾をつかんで、ひなたは唇をきゅっと閉じた。垂れ下がった前髪がじゃまをして、目の部分が隠れてしまう。今この瞬間に顔を上げたなら、彼女の瞳は一体どんな色をしているだろう。太陽に咲く向日葵のような女の子。雨雲に覆われてしまっても、果たして輝いていられるのだろうか。
鉄虎が声を掛けようとすると、ひなたはパッと視線を戻した。整った白い歯をのぞかせて、にこりと笑う。
「……なぁんてね!気にしないで!なんか言葉にすると辛気くさくなっちゃったな。うげ~、暗ぁいオーラが鉄くんまで伝染しちゃう!南無妙法蓮華経~!」
ひなたは『お坊さん』のように両手をすり合わせて、けらけらと笑う。そうして女子寮の方角に足を進めた。
「というわけで、鉄くん!おやすみ!いい夢みるんだぞ!」
右手をぶんぶんと振って、ひなたは駆けだした。
だが、鉄虎にはわかる。ひなたはなにか嫌なことがあったとき、気丈に振る舞いたがることを知っている。友達のころからそうだった。彼女になってからは、なおのこと。
颯爽と去ろうとするひなたの手首を、鉄虎はとっさに掴む。振り向いたひなたの髪がふわりと揺れて、目尻から水滴が跳ねた。まるで薄暗い雲から降ってくる、雨粒のようだった。
「鉄くん……」
「俺には、お見通しっスからね!」
「あはは……。鉄くんには、バレちゃうかあ……」
ひなたは困り眉で笑いながら、手の甲でまぶたを擦った。ぽとりと落っこちた涙の粒には、きっと色んな意味が込められているんだろう。怒り、悔しさ、怖さ、悲しみ、虚しさ。その全てをかき消すように、鉄虎は親指でぐっと涙を拭いてやる。ひなたは照れくさそうに笑うと、鉄虎の鎖骨にとんと額をあずけた。
ひなたの頭をぽんぽんと撫でながら、ああ、やっぱり守りたい女の子はこの子なのだと確信する。放っておくと拗ねるくせに、か弱いお姫さま扱いをすると不機嫌になるものだから、はっきりと告げたことはないけれど。
「参ったな。鉄くんのこと、好きすぎて」
「ええ?」
ひなたは目尻を拭いて、鉄虎を仰いだ。
「だってさ。『ひなたちゃん。いちおう確認するッスけど、ほんとにやってないッスよね?』なんて聞いてこなかったじゃん」
そんなの当たり前だった。愛するゆうたのためならば、あらゆる手段を尽くしてでも守り抜くような、したたかな一面を持っている女の子だとしても。鉄くん、好きだよ、と太陽さながらの笑みでまっすぐに告げてくれる彼女が、根拠のすべてだった。世間はそれを恋は盲目だとか、恋愛経験に乏しい男のお花畑だとか、散々な評価を下すかもしれないけれど。それでも、たった一人の女の子に寄り添う正義だけは、捨てないでいたい。ただそれだけだ。
国語の苦手な鉄虎は、しばらく言葉選びに悩んでいたけれど。ひなたが人差し指で、いたずらに頬をつつくものだから、「う~みゅ」と唸ってしまう。
「ううん。別に理由を並べなくたっていいよ。顔を見たら、なんとなくわかるから。『当たり前じゃないッスか』って主張せんばかりの、超わかりやすい顔してるし?」
「えっ。俺そんなに顔に出てるッスか!?」
「嘘つけないタイプだよね、ほんと」
あはは、と口元を抑えながら、ひなたが笑う。ひとしきり茶化したあとで、鉄虎にそっと向き直った。
「このご時世ではピュアすぎて、悪いひとに騙されないかどうか、たまに心配になるけどね。でも……鉄くんのまっすぐなところ、やっぱり好きだな。私のこと、ちゃんと見てくれるんだ。……いつでも」
「……ひなたちゃん」
「鉄くん。……好きだよ」
火照った頬で瞳を潤ませると、ひなたは静かにまぶたを閉じた。鉄虎は、まるで大鏡をはじめて目の当たりにした動物の赤ちゃんみたいに背筋を震わせながら、周囲の景色をあわあわと観察する。そうして人の気配がないことを確認して、おそるおそる肩に手を置いた。
ファーストキスは随分と前に済ませたが、それでも毎度のことながら緊張する。しかし、鉄虎だって伝えたかった。傍にいるのが楽しくて、一緒にいるだけでほっとする。おてんばに笑うくせに、ときおり寂しそうにする。そんな彼女が好きで、すきで仕方のない気持ちを、くちびるを通して知ってもらいたかった。
鉄虎は目を細めて、ゆっくりと顔を近づける。ところが、急にひなたが目を見開いたために、「わ~!」と勢いよく後退するのだった。
「あはは。鉄くん、ラーメンかなにか食べてきたでしょ」
一秒、二秒と考えて、今しがたラーメンを食べてきたばかりであることを思い出す。どうして、こんな時に限って!───鉄虎はしょんぼりと眉を下げて、獲物を逃がした肉食動物のごとく意気消沈するのだった。
「タイミングが悪すぎて、すみませんッス……」
「やっぱり?いやぁ、逆に配慮できなくてごめんね、男らしさにあふれるにんにくの香りがしたもんで!あはは」
「うう……ううう……」
鉄虎はがっくりと肩を落としそうになったが、なんとか姿勢を持ち直した。ひなたが抱きついてきたのだ。柔らかな腰を支えながらスニーカーで踏ん張って、ひなたを見下ろす。翡翠の瞳にたっぷり溜めた涙が、明るい笑い声とともに頬を伝った。
「まぁまぁ、そう気を落としなさんな!初恋はレモン味の鉄くんとか、想像できないし。たばこの味がしたら、不良になっちゃったの~!?ってお母さんの気分になっちゃうし。ロマンチックなワインのにおいがする年齢でもないし?」
「でも、よりによってラーメンって……。ダサすぎッスよ……」
「もぉ、気にする必要ないってば……って、先にツッコんじゃったのはこっちだけど。だって普段の鉄くんは、ちゃんと気を付けてるじゃん。今日たまたまでしょ?だったら───」
キスができないのなら、せめて。鉄虎は、励ますように笑うひなたを、ぎゅっと抱き締めた。強くつよく、心をまるごと包みこむように。
「今日の俺は、ひなたちゃんに伝えたいことがいっぱいあるんスよ。……今日だからこそ、ちゃんとキスしたかったッス……」
「んもう。真面目だなあ。素直に嬉しいけど、鉄くんはもっと柔軟に───」
「……ひなたちゃん」
ひとりの男として、大好きな女の子を守りたい。しかし同時に、ファンの前では絶対に涙を見せない、アイドルとしての強さも尊重してやりたかったから。鉄虎はなにも言わずに、栗色の頭をそっと撫でた。優しく、流れるように髪をといてやる。
ややあって、ひなたは胸板に顔を埋めた。しわが寄るぐらい服を抱き寄せて、すんと鼻を鳴らす。
「好きだなあ。大好きだなあ。……困っちゃうなあ」
「胸なら、いくらでも貸すッスよ」
「……ありがと。……大好き」
元気いっぱいの太陽も、出ずっぱりは疲れてしまうから。たまには、雨を降らせてあげよう。空を覆い隠す雲にだって、それぐらいの役割はある。
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