らい
2022-08-14 21:19:26
5253文字
Public つかそら♀
 

本日のマラソン⑨「ロマンチック・ナウ」

お題「キス」つかそら♀(宙女体化注意)

 夢ノ咲学院のトレーニングルームに、きゅっと擦れる靴の音がひとつ。最後のステップを踏み終えた司は、傍らに置いてあるスポーツドリンクを手に取ると、壁際にそっと腰を下ろした。
 新曲の振り付けは、おおむね頭に叩き込んだ。あとは後輩たちにどう吸収させるべきか───新人の育成計画を練りながら、甘酸っぱい液体に喉ぼとけを鳴らす。腕時計の針は、午後八時に近づこうとしていた。もうすぐで約束の時間だ。なにげなく扉の方角を見やると、トントン、と優しい音色のノックが響き渡る。司は顎にしたたる汗をタオルで拭いて、声高々に返事した。

「どうぞ!」
「つかちゃん、こんばんは!」

 くるりと跳ねるたんぽぽ色のふたつ結びを揺らして、扉のすきまから宙がひょっこり現れた。木の穴から登場するリスのように愛らしく笑うものだから、司の頬は甘いチョコレートみたいに溶けてしまう。魔法使いの女の子はいつだって、司をお菓子に変えるのが得意なのだ。
 もしも泉に目撃されたら、「ちょっとぉ!かさくん、だらしなさすぎぃ!」とねちっこく説教されるかもしれない。Knightsの王になった今でも、後輩いびりが趣味の先輩が恐ろしいことに変わりはない。司はハッと我に返って、緩んだくちびるを引き結んだ。気高い騎士の立ち振る舞いを意識しながら、こほんと咳払いをする。

「一足お先に、お迎えに来ちゃったな~。……でも、さすがに早すぎました?」
「いいえ。Best timingでしたよ、春川さ……ではなく、そ……宙さん」

 ふたりきりで居るときは、下の名前で呼ぼうと決めている。けれども、未だに慣れなかった。身体じゅうの血液が煮えているのは、きっと自主練習の効果だけではないだろう。司は、とれたての桃みたいに、うっすら頬を染めた。
 宙とは、すこし前に付き合いはじめたばかり。恋人同士になれば、いずれは解消するものだと楽観的に考えていたけれど、些細な会話でさえも緊張が走るのは相変わらずのことだった。嵐は「あ~ん♡初々しくって、可愛いわァ!」と気に入っているようだが、司はどうにかして改善したかった。これでは、ただの友達だったころと変わらないのだから。
 恋人の距離感を図りかねている司の恥じらいを吹き飛ばすかのように、宙はにっこりと笑った。

「HuHu~♪ りぴ~とあふたみ~、『そらさん』です♪」
「は、はあ……?なぜ繰り返されるのでしょう?」
「つかちゃんの『そらさん』!なんだかとくべつな気がして、宙はとってもハッピーな~っ」

 宙はスキップをしながら入室すると、司の隣にぴょこんと体育座りをする。「おつかれさまです、つかちゃん」とふんわり目を細める宙に、司の頬はまたしても砂糖たっぷりのココアのように熱を帯びるのだった。
 本日、宙はゲーム研究部のeスポーツ練習試合。司は新曲の個人レッスン。互いの用事を済ませたら、寮まで一緒に帰ろうと約束していた。どんなに忙しくとも、ふたりの時間は週のどこかで必ず作ろうと決めている。付き合いはじめたとき、ゆびきりげんまんした約束のうちのひとつだ。

「どうでしたか?esportsの練習は」
「はい!首尾はじょ~じょ~です!」

 制服のスカートから伸びる華奢な足をぷらぷらと伸ばして、宙が元気いっぱいに返事する。

「新しい部員さんたちと細かな指示を出しあって、見事な連携プレイをおさめました!ただ、宙のよそ見で負けちゃった試合があったから、そこは残念でしたけど……。でも、終始わくわくして楽しかったな~。普段あんまりおしゃべりできてない部員さんのことも、いっぱい知れました!ぎゃるげ~だったら一歩前進です?」
「ぎゃる……?」

 馴染みのない単語に司は首をかしげたが、脳の書庫から、かろうじて知識を引っぱりだした。ふむ、と顎に指をかけながら、会話を続ける。

……ああ、個性豊かな女性たちが登場する恋愛gameですか。一時期、Trickstarの衣更先輩が、scenarioが泣けるだの、heroineをひとりに絞れないなどと凛月先輩に熱弁していたのを聞いたことがありますよ。……ですが、私以外の方々と好感度を深めるのは、あまり感心しませんね」

 二次元のゲーム、それも女の子が対象とはいえ、宙が恋愛を語る姿はおもしろくなかった。むう、と眉をひそめる司に、宙はちいさな唇をとがらせる。

「つかちゃんってば、心配性です?宙のおはなしは、例えばのはなし。それも、ゲームの出来事な~?」
「もちろん、わかっていますよ。ですが、宙さんは、か……か、可愛らしいので、どこの馬の骨とも知れない輩に奪われないかどうか、私は常々……心配なんです」
「んもう!宙は、つかちゃん一筋です!現実のよそ見は、絶対にしないな~?」

 焼きたてのパンみたいに頬をぷくりと膨らませる宙が、肩にこてんと寄りかかってくる。もう一度スポーツドリンクを飲もうとしていた司は、キャップをぽとりと落として硬直した。
 浮気の可能性が限りなくゼロであることが喜ばしい気持ちと、恋人に疑われてむくれている彼女がたまらず愛おしい気持ち。抱き締めたい衝動に駆られた指先は、自然と肩に伸びそうになるけれど、どうにも踏ん切りがつかなくて、引っ込めてしまう。
 最近になって、付き合いはじめたばかりなのだ。手を繋ぐのがやっとだというのに、いきなり抱き寄せていいものか。欲望に飢えた獣だと誤解されるのがいやで、司の手は迷子になるばかりだった。
 しかし、これから恋人として付き合っていくのなら。一人前の男として、次の段階に進みたい。やわらかな手を繋いで、ぎゅっと抱擁したかった。もちろん、その先だって───司の頭上に、ピンク色の煙がボンと爆発してしまう。
 私はいったい何を考えているのでしょう!司はぶんぶんと首を振りながら、思春期の煩悩を切り裂いていく。そうして男の自我と戦いを繰り広げる司をよそに、宙がぼそっと呟いた。

……そういえば、ひなちゃんに聞かれました」
「はい?」

 床に転がったキャップを拾って、司はペットボトルに唇を近づける。宙のまるっこい瞳が、無邪気にきらめいた。

「『キスはまだなの?』って!」
「きっ……

 微量の液体が、気管に入りそうになる。予想もしなかった展開にごほごほと激しくむせていると、宙は「つかちゃん、だいじょうぶ?」と背中をさすった。彼女の気遣いに愛しさを覚えながらも、司は荒々しい動作でキャップを閉じる。必要以上に回転させて、勢いよく容器を床に置いた。

「な、なぜkissの有無を尋ねてくるのでしょう?第三者がcoupleの進展にちょっかいを出すべきではありません、ええ!私たちには、私たちのpaceがあるというのに!」
「う~ん……。ひなちゃんのことは、あんまり悪く言わないであげてほしいな~?ひなちゃんは、一年生のころから宙たちをずっと応援してくれていたので……。興味本位じゃなく、真剣に聞いてくれたんだと思います!」

 Tシャツからのぞく司の腕に柔らかな頬をすりよせて、宙がぼやく。
 司本人はひなたと交遊は少ないが、宙には随分と良くしてくれていると聞いている。ふたりの仲の良さには嫉妬しそうになるが、基本的には友達想いの性格だ。きっと仲を取り持つために、世話を焼きたくなったのだろう。
 かくいう司も、数日前に似たような質問を受けたことを思い出した。年下のこはくと抹茶パフェを食べに出かけたとき、「どこまで進んだん?」とさりげなく尋ねられたのだ。「ふふん。こはくんには、まだ早いですよ」と先輩ぶってみたけれど、よくよく考えてみれば、あれは司にヒントを与えようとしていたのかもしれない。キスのひとつも仕掛けてこない男に、彼女はんは愛想を尽かしそうになっとるんやない?と……
 甘ったるく緩んでいた頬が、分厚いせんべいのような硬さに変わる。司は、急速にやってきた不穏の足音を、スポーツドリンクで押し流そうとした。だが、先刻きつく締めすぎたせいで、そう簡単には開かなくなっていた。たかが蓋に苦戦している様子を見られるのも恥ずかしく、司はなんでもない仕草を装いながら、床にペットボトルをそっと置く。司の困惑を知るよしもない宙は、愛嬌のある柴犬のような笑顔でシャツを引っ張った。

「宙は、ちゃんとわかってるな~?つかちゃんの言うとおり、宙たちには宙たちのペースがあります。つかちゃんがなぁんにもしてこないのは、宙を大切にしてくれてるからだって……宙は、そう信じてるので!……だから、大丈夫です。宙たちのあいだには、なぁ~んのバグも見つからないな~?」
「そ、そうです。もちろんですとも。私は宙さんのことを、心の底から大切に思っています。お付き合いしているからといって、すぐに手を出す野蛮なmonsterには……なりたく……

 ほんとうは、先に進んでみたい。だって、恋人同士なのだから。あなたを愛していますと優しくキスをして、永遠の思い出を作ってみたかった。
 夜景の美しい丘。きらめく海がのぞくコテージ。観覧車のてっぺん。ひまわり畑のまんなかで───もしも、大好きな女の子とはじめてのキスをするのなら、こうでありたいという理想。頭の片隅に絵の具を垂らし、しかし現実では筆を放り投げたままだ。
 司は、ふと考え直した。いい加減、前に進んでもいい頃合なのではなかろうか。ファーストキスに相応しいシチュエーションを、真剣に思案する必要があるのかもしれない。
 ただし大切な日というものは、場所とタイミングが重要だ。Knightsはただでさえ忙しく、Switchのファンも着々と増えている現状を考えれば、早めに動いたほうがいいだろう。今日、さっそくデートの約束をとりつけてしまえばいい。実家の使用人には、はじめてのキスにぴったりの美しいロケーションを探してもらうことにして───そんな計画を練りながら、宙を見やる。宙はじっと司を仰ぐと、寂しそうに目を細めるのだった。

「でもね、つかちゃん。……宙は、いつだって待ってるな~?」
「え?」
「だって宙は、つかちゃんのことがだぁい好き!だから……
「宙さん……?」
「だから……。つかちゃんさえよければ……いつでも、来てね」

 むきだしの腕に、ちいさな指がけなげに絡みつく。司をまっすぐと見つめる瞳は、遠いとおい宇宙にぽつんと浮かぶ地球のように、まばゆい輝きを放っている。空と海を束ねた青のまなざしは、地上に存在するどの楽園よりも光り瞬いて、銀河の星屑みたいにまぶしく弾けるのだった。
 星々が散らばる夜景も、寄せては返す波の子守歌も、夕焼けに照らされる観覧車も、夏空に微笑むひまわりも───まぶたの裏で輝くロマンチックな未来計画は、超新星の炎に包まれていく。そうして燃え尽きた宇宙のなかに、蒼の星座がきらめいた。ふと気が付いたときには、可愛らしくカールしたまつ毛に吸い寄せられて、ぷるんと潤ったくちびるにくちづけていた。
 洋画のような激しいものではなくて、触れるだけの幼いキス。時計の秒針がチクタクと進み、ペットボトルが倒れる。床を叩きつける鈍い音を合図に、ふたりのくちびるが静かに離れた。

……嫌でしたか?」

 茫然とする宙に尋ねると、宙はかぶりを振った。すっかり大人しくなったふたつ結びの髪が、しおらしく揺れる。

「ううん。……うれしいな~?」

 めずらしく鼻を赤くした宙は、司の小指をぎゅっと握り締めながら、か細い声でつぶやいた。天真爛漫で、あちこちを駆け回るおてんばな女の子も、くちづけひとつでお姫さまに変わってしまう。とくりと脈を打つ胸の裏側に、愛しさがぐっとあふれた。

「本当はね、もっとromanticな場所で、kissしようと思っていたんです」

 宙の小指、人差し指、そうして残りの三本をすくいあげて、司はぎゅっと手を握る。

「でも……私にとってのromanticは、なぜか今でした」

 詩人でもないのに滑稽な台詞におもえて、急に羞恥心がこみ上げてくる。司はおもわず視線を反らそうとしたけれど、宙がぐっと顔を近づけたために、ふたりの視線はしっかりと絡みあう。
 程なくして、うっすらと赤く染まった頬に、やわらかな感触が伝った。今度は宙が、司の頬にキスをしていたのだ。

「そ、宙さん……?」
「今日は、つかちゃんとはじめてのキス記念日!宙は、とぉ~ってもハッピーな~♪………ぎゅ~っ」

 人懐こいうさぎのように、胸板にぴょんと飛びこんでくる小さなからだ。司は、沸騰したやかんのごとく頬を赤らめながら、宙の腰をそっと抱き寄せた。
 キスしたい瞬間というのは、ある日いきなり訪れる。例えそこが、なんのときめきもないレッスン室だとしても。ふたりを映す大鏡すら、ロマンチックな夜空に映るのだった。