目的地の旅館までレンタカーを走らせるだけでは、もったいない。道の駅で、のんびりと地元の名産品を堪能したり。教科書にも載っていないマイナー偉人の記念館に足を運んでみたり───とくに意味のない寄り道さえも、大好きなひとが傍にいるだけで、永遠の思い出になるのだ。
雲ひとつない夏空に照らされて、一台の車が走っている。助手席を通り抜ける涼しい風を浴びながら、翠は運転席を見やった。ハンドルを握り締める弓弦は、まっすぐに道路を見つめている。しかし赤信号で停車すると、すぐに視線を合わせて、やさしく目を細めた。
繊細に伸びたまつ毛、美しい泣きぼくろ、上品に引き結ばれたくちびる。全てのパーツを、今日だけはひとりじめ。翠はふにゃっと頬をゆるめて、まるで褒められた子どもみたいにえへへ、と笑う。すらっと伸びた身長から大人びていると誤解されがちだが、弓弦の前ではどうしても幼くなってしまうのだ。白馬の王子さまと評される端整な容貌も、クレヨンで描いたような輪郭になって、甘くとろけるのだった。
「高峯さま。この先に、巨大迷路があるそうですよ」
「へえ~……?俺、こどものころに遊んだ記憶がうっすら残ってるけど、ほとんど覚えてないや……。ちょっと、気になるかも……?行ってみたいなあ……」
「ふふ。せっかくですから、寄ってみますか?」
「本当ですか……?わあ~、嬉しい……!」
「それでは、参りましょうか」
「はい!伏見先輩と一緒なら、どこへでも……♪」
弓弦の誘いに、翠は間髪を入れずにOKした。画伯のその大ファン、かつ恋人同士の絆があれば、どんな場所でも楽しめるに違いない───翠は、少なくともそう思っていた。駐車場でシートベルトを外し、巨大迷路の入り口をくぐり抜けるまでは。
「で、出られない……!」
きらめく太陽を浴びて、すくすくと育ったとうもろこしに囲まれながら、翠は膝から崩れ落ちた。かれこれ三十分以上は散策しているが、ゴールで待ち構える係員の気配なし。まったく出口が見えてこないのである。
収穫したてのとうもろこしを抱え、にこやかに手を振るマスコットが描かれた『きょだいめいろ いりぐち』からは、まったく想像できない。数分もあれば、小学生の子どもでも脱出できるものだと信じていたのに。もはや魔物のごとく立ちはだかるとうもろこしに、翠はしだいに焦燥を抱きはじめるのだった。
「……。とうもろこし畑で遭難とか、ちょっと……いやだいぶ恥ずかしい……」
「ええ、困りましたね。ここまで苦戦させられるとは」
「東西南北も、上下左右もよくわからなくなってきた……。しかもド平日の僻地だから、人もあんまりいないし……」
「はい。参加者の皆さまと協力のしようがありませんね」
「うう、どうしよう……永遠に閉じ込められたら……?」
「さすがに、そのような事態には陥ることはないと思いますが……ああ、申し訳ございません。わたくしが軽率にお誘いしたばかりに……」
「えっ!いやいやいや、謝らないでください……!きっと俺の方向感覚が足を引っ張ってるんです……俺ってほんとにダメすぎる……鬱だ……」
じわりと暑い夏の風に吹かれて、若穂が揺れる。気ままに流れゆく雲を仰ぎながら、翠はぐすんと瞳をうるませた。自身の身長よりもうんと伸びたとうもろこしの背には、すくなからず好印象を抱いていたのに。弓弦との貴重なひとときを邪魔する存在になるとは、思いもよらなかった。
のんきに歌う緑の葉っぱが、うらめしい。さらさらと奏でられるとうもろこしのメロディーに、翠はうう、と歯ぎしりした。姫宮家の従者である弓弦を借りられるチャンスなんて、滅多にない。桃李との交渉は思いのほか簡単で、「あいつ、放っておくとずっと仕事してるんだもん。おまえが回収しちゃってよ!」と逆に頼み込まれる始末だったが、「しかし、坊ちゃまが……」と渋り続ける弓弦をやっと連れだすことができたのだ。
念願の一泊二日にこぎつけた。もっと寄りたい場所だってあるし、いつまでも足止めを食らうわけにはいかないのに。
「行ってみたいって言いだしたのは、俺なのに……」
出口が、いっこうに見当たらない。地面に座りこんだ翠がうじうじと悩んでいると、目の前の世界がとつぜん暗くなった。迷子の状況すら不運だというのに、まさか雨でも降るのだろうか。晴天の空に、どす黒い雲がやってきたのだと思って、翠は不安げに首をもたげた。
真夏の太陽に不釣り合いの白い肌。けれども、青空にはよく映える美しい色。しょんぼりと俯く翠に合わせて、弓弦が身を屈めている。
「……高峯さま」
ふしみせんぱい、と返事をしようとして、唇のやわらかな感触に音を奪われる。数秒ほど経ったあと、翠は触れるだけのキスをされていることに気が付いた。
とうもろこしの葉がひっそりと揺れる。そっと寄り添うような風が、ふたりのあいだをすり抜けた。暑い夏のせいなのか、それとも別の理由があるのか。ほんのり紅く染まった頬を艶めかせながら、弓弦はしっとりと目を細めた。
「わたくしは、誰にも見られないこの場所で。永久に、永遠に。貴方とふたりきりで彷徨うのも、悪くないと考えておりますが」
「せ、せんぱい……」
「……なんて、冗談ですけれど。もしも本当にとうもろこし畑に閉じ込められてしまったら、坊ちゃまと二度と会えなくなってしまいますから」
でも、すこしだけ。ほんのすこしだけ、本当ですよ。
いたずらに笑う弓弦が、てのひらを差し出す。天使のような手に支えられながら翠が立ち上げると、夏の陽ざしが射しこんだ。
とうもろこしの葉っぱが風にこすれて、さらさらと歌う。好きだな、愛おしいな、そうやって恋を噛みしめるときの、心臓のざわつきによく似ていた。頭上に広がる空も、頬を撫でる風も、地面から生える植物も、人間のように決して笑いはしないのに。楽しくて切なくて、それでいて穏やかなひとときは、万物に共通する時間の流れなのかもしれない。
とうもろこしも、夏の音色が反響する青空の美しさに、恋をしているのだろうか。
「無事にゴールにたどり着いた暁には、来場者特典としてその場でとうもろこしをいただけるそうですよ。特にこの畑の品種は、生で食べられるものだそうで」
「伏見先輩……」
「わたくし、幼少期に食べたとうもろこしの味を……ふと、思い出してしまいました。シャキッとした歯ごたえ。水分のような果汁。まるでフルーツを彷彿とさせる甘さがクセに───」
「すきです」
昔の思い出をさえぎって、翠はくちづけた。弓弦はほんの一瞬だけ驚いて、そっと胸を押し返してくる。けれども角度を変えてやさしくキスをすれば、凛とした切れ長のまなざしが、ゆっくりと細くなっていく。
紫陽花の瞳はまつ毛にすっかり覆い隠されて、二重の線しか見えなくなった。まるで夏の迷路に閉じ込められた自分たちの縮図のようで、けれどもこの永遠が続くのであれば、ずっと隔離されたままでもいいのかもしれない。そんなことを考えながら、翠はやわらかな果実をついばんだ。
数年と続くであろう無数の記憶に、またひとつ永遠の思い出が増えた。何年後かに思い返す夏のキスは、穫れたてのとうもろこしより甘いだろうか。
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