らい
2022-08-06 21:09:29
5461文字
Public レオいず
 

本日のマラソン①「ときどき人魚姫」

お題「プール」レオいず♀(泉女体化注意)

 前世は、人魚だったのかもしれない。かの有名なアンデルセンの童話のように、恋に破れて泡になる結末だけは、願い下げだけれど。
 ESアイドル専用のプール施設に、ぱしゃぱしゃと水しぶきが鳴り響く。泉はクロールで水面をかき分けながら、終着点を目指した。水の世界を優雅に渡り歩く時間は、何物でもない自分を与えてくれる。モデル業界の女に嫌味をぶつけられても、SNSで不愉快なコメントを発見しても───怒りに震える行き場のない拳を、水の泡が包みこんでくれる。日頃のいやな記憶をすこしだけ忘れていられた。
 もちろん、プールでの運動は、カロリー消費もかねているけれど。きっと体重管理の問題を差し引いても、揺れる水面に乗ってからだを動かすのは好きだ。水に浮かせた腕と足で、どこまでも行けそうな活力が湧いてくる。

……ぷはっ」
「セナぁ~、おつかれ~」

 泉がプールの端に手をつくと、妙にくぐもった声が落ちてきた。バニラアイスに蜂蜜を垂らしたような、舌っ足らずの話し方。目頭にしたたる水滴をぬぐえば、私服のレオが、特大のメガホンで叫んでいるのが見えた。
 肩に食いこんだES指定水着を整えると、泉は眉間にしわを寄せる。この場に不釣り合いのレオを仰いで、怪訝そうにむっと観察した。泳ぐわけでもないのに、どうしてプールにいるんだか。ついでに、謎の小道具についても言及したい。美しく整った眉をゆがませて、文句をぶつけてみせる。

「ちょっと何ぃ?水泳のコーチみたいなアイテムなんか持参しちゃってさあ。なんかアホっぽくて恥ずかしいから、やめてくれるぅ?」

 泉はふん、と鼻で悪態をつきながら、耳に髪をかける。すると、レオは円すいの形をしたそれをぽんぽんと叩きながら、頬をぷくりと膨らませた。

「だってセナ、泳ぎにむちゅうでおれの呼びかけを無視したろ!」
「ああ、なるほど。だから声を大きくして気づかせてやろうって?発想がほんと子どもだよねえ。……それにしたって、んなもん一体どこから持ってきたわけぇ?」
「ふふん!ESビルの備品倉庫から借りてきた!」
「へえ……って、勝手に侵入したんじゃないだろうねえ?」
「まさか!……まぁ、たまにコッソリ忍び込むときもあるけど!」
「あるんかい!」
「たまたまオバちゃんが居たから、ちゃんと許可は得てる!壊さなかったら大丈夫だって!」

 クワガタとカブトムシの対決ではしゃぐような幼稚園児が、そのまま大人になった男なのだ。これでも、学院時代と比べれば大分ましになったけれど、目を離すと何をしでかすかわからない。今回はつむぎの了承を得ているようだから、ひとまず安心といったところだが。
 泉はふう、と安堵の息をついて、レオを見上げる。泉の心労をよそに、レオは大きく開けたメガホンの太い部分に顔を突っ込んでいる。穴があったら入りたくなる習性は、自然に住居を構える野生動物か、ランドセルを背負った小学生低学年でしか観測したことがない。あと数ヶ月で二十歳になるというのに、恥ずかしいったらありゃしなかった。

……とはいえこのメガホン、一体なんのために置いてあるんだろうな?ああ~っ、ちょっと待ってっ、一休さんになるからっ!ポンポンポンポン……選挙の演説?甲子園決勝の応援?ハリウッド映画監督のクランクイン?お弁当屋さんの呼び込み?こたつで爆睡してるリッツを起こすときに最適かもな~、わははっ!たぶん殺される!あいつは眠りを妨げられると、内に秘めた力が覚醒するから!ぱんぱんっ、おお~っ叩いたら意外と音が響く!」
「チョ~やかましいんだけど。……というか、マジでなんの用事ぃ?あんたの気まぐれに構ってる暇はないんだけど?」
「なんだなんだ!上から目線で、えらそうに!」

 パーティーの帽子に見立てたメガホンを頭に乗せて、レオは幼いくちびるを尖らせる。穴に顔を突っ込んでみたり自由に被ってみたり、十九歳のしぐさとは思えない。わざわざ言及するのも面倒で、泉は何事もなかったかのように続けた。

「れおくんの声を無視したのは悪かったけどさあ……。でも、故意じゃないし」
「うわ。開き直ったこいつ!」
「だって、本当に聞こえなかったんだもん。というか、わざわざメガホンを借りてくるほどじゃなくない?備品倉庫まで行かなくたって、プール岸にたどり着くまで待ってくれたらよかったのに」

 で?なんの用事?泉は呆れながら腕を組む。ちゃぷ、と波が揺れて、水滴がぽとりと落っこちた。

「セナ、最近ちょっと運動量が過剰すぎると思う!」
「はあ?」

 お腹が空いたからご飯つくって!霊感をたぐり寄せたいから散歩に付き合って!新曲のデモができたから仮歌いれて!───自分本位の頼みごとを想像していたものだから、泉は拍子抜けする。
 一体なにを言い出すのかと思えば、余分なトレーニング量の指摘とは。とはいえ、プロでも何でもない作曲一途の男に説教される筋合はなく、泉はすこしばかり機嫌を損ねる。そんな泉の心情など知るよしもないレオは、頭に乗せていたメガホンを外して、傍らにそっと置いた。

「モデルの体重管理は、おれが想像するより大変なんだろうけどさ。でもここ数日、頑張りすぎのセナを見てたら、ちょっと不安になった!もちろんおまえはおれと違ってプロだから、己の限界を把握したうえで無茶はしないと思うけど!」
「その通りじゃん。決して無理はしてないし、するつもりもない。『やりすぎ』で倒れるアマチュアじゃないんだから、これぐらい当然」
「おまえなら、絶対にそう言うと思ってたよ。……でも、おれは違和感を大事にしたい。セナのことずうっと見てきたから、なんとなくわかるんだよ。おまえのプライドを傷つけてるなら申し訳ないけど、身体っていうのは存外疲れるもんだ。今日はもうその辺にしといたら?」

 レオはプールサイドにあぐらをかいて、まるで空気を締めるようにしてメガホンを叩く。つい数秒前までは、おもちゃではしゃぐ子どもだったのに。真摯に指導するコーチみたいな面で忠告しないでよねえ。泉は心のなかで毒づいた。
 確かに、最近は国内外の移動で疲れていた。仕事が上手くいかなくて、イライラすることも多々ある。日々の体重も、理想の数値に安定しない。食事制限に加えて運動量を増やしたこと自体は、紛れもない事実なのだ。
 しかし、プールで泳ぐのはほんとうに好きだった。水のランウェイを駆け抜ければ、研ぎ澄ませた心に耳を傾けることができる。いやみな女への腹立たしさ、評価されない現実へのもどかしさ、それらのストレスを水の底に沈没させて、すう、と地上の空気を吸ったとき、清らかな心に生まれ変われる気がした。美しいうろこも、艶めかしい尾ひれもないけれど、陸の世界を恨むことなく恋焦がれる純粋な人魚になれた。
 レオにそのつもりは毛頭ないのだろうけれど、『好き』すら『無理をしている』ように変換されているのだとしたら、心外だ。気遣いはすこし嬉しい反面、妙にか弱い女に見られた気がして、泉はむっとする。可憐な姫は、ファンの女の子たちで充分だ。

……そりゃあ、モデルのカロリー調整は一日二日の努力じゃ成り立たないぐらい大変だけど。ほんとに無理なんかしてないから。あっ、このままだと倒れるかも……っていう自分の限界だって充分わかってるし、今だって平気。『けなげに頑張ってる』とか『おれが守らなくちゃ』とか、そういう目で見られるのはマジで嫌なんだけど?」

 はっきりと言い返せば、レオは押し黙る。じっと泉を眺める翡翠色の瞳は、海底でポセイドンの槍を構える魔物のまなざしみたいに鋭く、尖っていたけれど、数秒もすると向日葵のような、いつもの輝きを取り戻す。そうして愛嬌のある八重歯をのぞかせると、レオはわははと高笑いした。

………………う~ん、それもそうか。セナはどっちかっていうと、『けなげ』というよりかは『ふてぶてしい』もんな~。食堂でランチしたときも、おれの海鮮丼から勝手にエビを取ってくし!センターに立ってるHiMERUとかいうやつをお尻でぐいぐい押し退けて、無理やり目立とうとするし!わははっ、いろんなエピソードがナイアガラの滝みたいにあふれてくる~!細くてきれいで美しいけど、ずぶといセナ~!」
「ちょっとぉ!どういう意味ぃ~!?失礼しちゃうんだけどぉ~!?」

 もうひと泳ぎ、してくる!チョ~うざぁい!
 レオに悪態をついて、泉はふたたび水中に潜った。せっかくプールで身も心もリフレッシュしていたのに、「ふてぶてしい」とデリカシーのない言葉を浴びせられるなんて。学院時代からフィレンツェでの同居に至るまで、長いこと一緒に過ごしてきたけれど、たまにどうしようもなく痛烈なビンタを放ちたくなるときがある。周りの迷惑を考えるのが苦手だし、気配りも足りなくて、なにをするにも子どもっぽくて───体調が悪いときにはそれなりに気遣ってくれるし、レオの純粋な好意には励まされることもあるから、翌日には仲直りしていることが多いけれど。
 それでも今は、カッと血が昇った頭を冷却せずにはいられない。泉は、反対岸まで目がけて、腕を振る。
揺らめく波。弾ける水しぶき。深くふかく潜った先には、美しい世界。胸の裏に蓄積する苛立ちを溶かしてくれる、いつもの光景がそこにあるはずだった。しかし水のきらめきは、突如として暗闇に変わる。レーンの中心に差し掛かったとき、右の足首が急にそり返ったのだ。
 まずい、と察したその瞬間には、既に水の底に飲み込まれていた。反射的にわっ、と声を出したおかげで、鼻にぶくぶくと水が入ってくる。
 運動量をすこしだけ増やしたつもりだった。愛する水の世界に触れる機会が増えるだけだと、過信していた。レオの言うとおりだ。大丈夫だと信じていたはずの身体は、思いのほか疲弊していたのだ。泉は、四肢を浮かせることも忘れて、みにくく藻掻いてしまう。尾ひれを奪われ、声を失った人魚みたいに。
 溺れる!───水面の彼方にきらめく天井のライトに、がむしゃらに手を伸ばす。絵本に登場する人魚姫は、ああ、最期の一瞬でいいから王子さまに会いたかったと愛しの太陽に想いを馳せていたけれど、現実はそうもいかない。息ができない、足がうごかない、手ですがるものもない。泉の脳裏を、恐怖が支配する。すいすいと泳げる人魚なんて、はなから存在しない。ただの人間であるという事実が、ともに水没するだけだ。
 そうして高く腕を伸ばしたとき、ようやく地上から手を引っ張られた。

「ごほっ、はぁっはぁごほっ、はぁ、はぁ」

 新鮮な空気を吸い込んで、泉はせき込む。はあ、はあ、と必死に息をかき集めれば、目の前にはレオが立っていた。黄昏色の髪は肌にぴったりと貼りついて、パーカーはずぶ濡れになっている。

……だから、言ったろ。身体は案外、疲れてるんじゃないのかって」

 夕焼けをそのまま映したような髪の毛から、ちいさな雨が降る。ぽたぽたと垂れるしずくが、泉の華奢な肩に落っこちた。ごほごほっ、と息を荒げる泉を、レオが胸元に抱き寄せる。
 泉は、反射的にレオにすがりついた。掴んだ袖は水びたしで、まるで嵐の海にでも呑まれたようだった。

「大丈夫か?」
「うん…………ごめん」
「無事ならいい。……でも、今日はもうやめとけ」

 めずらしく低い声が、耳の奥に吸いついた。基本的にデリカシーがないし、年齢のわりには幼すぎる行動をする。なんでこいつを好きになったんだろうと後悔しても、結局のところは嫌いになれないのだ。ふと気が付けば、そばにいる。夏の陽だまりのような熱さに、心臓が焼かれてしまうのだ。
 こむら返りした足首が、すこしずつ元に戻っていく。泉はしばらくレオの胸に身を預けていたが、ふいにレオの手のひらが尻たぶを掴んでいることに気が付いた。きっと無意識だろうけれど、公共の場で堂々と触れられている現実に、泉はカッと頬を熱くする。両手をぱっと開いて、レオを押し返した。

「どこ触ってんの、エッチ!」
「むぎゅっ」

 やわらかな頬を突き放せば、レオは抗議する。いつもどおり愛らしい声色で、タコのようなくちびるを披露した。

「むむう、なんてやつだ!セナの緊急事態なのに、セクハラの悪事を働くやつがあるか!冤罪だ、冤罪~っ!ぶ~ぶ~!」
「ふ、ふん……億の身体は、そう易々と触れていいもんじゃないの!ごほっ……お、お安く売り渡してるわけじゃないんだからねえ!」
「り、りふじんだ……

 母親に叱られた幼子のごとく、しゅんと肩を落とす。泉はちょっぴり言い過ぎたかも、と反省して、水をたっぷり吸い込んだレオの髪をといてやる。薄汚い下心なんかないことぐらい、知っていた。そんな奴だからこそ、好きになったわけだし。

……ありがと」

 レオの耳元でそっと呟けば、レオはふにゃりと笑う。水中を散歩するクラゲのようにふわふわに溶けるものだから、呆れた泉は「だらしない顔」と頬をつねろうとする。しかしそうなる前に、レオは泉の手首をそっと引いた。

「すこし休んだら、寮までいっしょに帰ろう」

 とくりと高鳴る心臓に波を打つように、ちゃぷ、と水音が反響する。
 前世は、本当に人魚だったのかもしれない。地上から落っこちてきた人間に、こんなにも胸がときめくのだから。