凍てついた空気が頬を刺し、踏み締めた靴底の裏には雪音が鳴いている。翠は、冷え切った顔をマフラーで覆ったあと、冬の気配から逃げるようにポケットに手を突っ込んだ。
見慣れた通学路は、すっかり銀景色に染まっている。朝、寮の共用ルームで流されていたニュース番組によれば、どうやら数年ぶりの大寒波が到来しているらしい。夜のうちに猛吹雪が止んだのは幸いだったけれど、それでも昨晩どっと降り積もった雪は、寒がりの翠にはどうにも耐えがたい。こどもの頃は喜んでこねくりまわした白銀のかたまりも、高校生となった今では、手先を蝕むだけの強敵なのである。
同室の天満光でもいれば、喋りながら登校しているうちに身体が温まったのだろうけれど。残念なことに彼はおとといから遠征しているし、寝坊しがちな翠を起こしてくれる青葉つむぎも、ニューディメンションの仕事が残っているからと朝早くに出て行ってしまった。残るは七種茨だが、彼はだいたい寝静まったころに帰ってくる。顔を合わせる機会がそもそも少なく、肩を並べて校門をくぐる姿は到底、想像できない。
鉄虎も、忍も、早朝から部活に励んでいるから、捕まえられなかった。ファンの子からプレゼントを貰っただの、ドラマで共演した女の子が可愛かっただの、なんてことない雑談で暖を取る生徒たちの横で、翠はとぼとぼ歩く。世話焼きの千秋に連れられて、なかば強制的に登下校を共にしていた昨年が懐かしい。今この瞬間だけは、ザク、ザクと鳴り響く足音だけが、翠の友達なのだった。
寒いと起きるのが億劫だし、鼻が真っ赤になって格好悪いし。早く春になってほしい。ああ、でも、新入生が入ってきたら立派な先輩として振る舞わなくちゃいけないし、どちらにせよプレッシャーに押し潰されて、憂鬱だ───薄暗い冬につられて、気持ちもろとも下降しそうになる。翠ははあ、と溜め息をついて、ふと顔を上げた。
スコップを持った伏見弓弦が、校門の前に立っていた。
「画伯だ……!」
胸の底に降り積もる雪を溶かすように、一筋の光が射す。灰色の雲がのさばる心の草原に、ぱぁっと花が咲いて、ふわふわの綿毛が舞った。昨年の出会いからおよそ一年、世界中の誰よりも尊敬してやまない『画伯』こと伏見弓弦と、朝から遭遇できるなんて。こわばっていた翠の頬は、一気に緩む。草木が枯れ果てた冬でさえ、彼がいれば、またたく間に蝶々の舞う春になるのだった。
翠は、大きな図体でズカズカと歩み寄る。すぐに気配を察したのか、弓弦はスコップを握りしめたまま、「高峯さま、おはようございます」と穏やかに微笑んだ。
学院のために、率先して除雪をしていたのだろう。さすが世界一、いや宇宙一の絵を創造する画伯だ。翠はうんうんと、頭のなかで何度もうなずく。心掛けからして、凡人とは違うのだ。
「画伯は凄いなあ。なんでもできちゃうなあ……!雪の積み方にも、至高のアートを感じる〜……!」
「はあ。雪をすくって、放り投げて、道を切り開いて……。一般的な除雪と、何ら大差はありませんけれど……?」
「謙遜なんてしないでください。画伯が何かをするだけで、それはもう芸術の集大成なんです……!」
七面鳥の絵に出会ったあの日から、ずっと崇拝しているのだ。神々しい作品をこの世に産み落とす、そんな敬愛してやまない作家の行動一つひとつを、称賛せずにはいられない。翠は前のめりになると、ポケットに籠城していた手をひっこ抜いて、弓弦の両手をぎゅっと握りしめた。皮膚に伝う柔らかな感触を味わいながら、ぐいぐいと迫る。
「画伯のこと、マジで大好きなんです……!というわけで、サイン下さい!」
「はあ。ですが生徒会、ならびに事務所の許可が下りませんと……」
「だったら、ノートの隅っこにイラストを描いてもらうだけでいいんで!ちょっと待っててください、いま鞄から出します!ああ~っ、こんなことならロフトで上質な色紙でも買ってくるんだったなあ~……!」
翠は、肩から通学バッグを降ろそうとする。しかし、弓弦はその指を握り返して制止した。普段ならば、「よろしいですよ」と快く対応してくれるのに。翠はきょとんと瞬きしながら、弓弦を確認する。切れ長の瞳は、まっすぐに翠の手を見下ろしていた。
「高峯さま。手袋をしていませんね」
「え?……ああ」
しっかり者のつむぎでもいれば、きっと「高峯くん、忘れ物ですよ」と教えてくれたのだけれど。今日に限っては同室のメンバーがおらず、ひとりで寮から登校してきたのだ。しばらく甘やかされていただけに、失念していた。翠はあはは、と苦笑する。
「……直前まで、覚えてたんですけど」
「このような寒い日に……。手先の冷えは、血行不良にも繋がりますよ。免疫も下がってしまいますから、お気をつけくださいまし」
「うう……。俺なんかを心配してくれるなんて、画伯はやっぱり優しいなあ……。……って、画伯に会ってすっかり吹き飛んだ気でいたけど、今日はむちゃくちゃ寒い日なんだった……。さっきまでの寒気、ぶり返してきたかも……」
暖かな陽気に溢れる花畑で、ずっと踊っていたいのに。目の前に広がる現実は、無情にも雪まみれである。心のなかで上機嫌に揺れていた花々はしおれ、やがて枯れ葉が落っこちて、ふたたび粉雪が吹き荒んだ。
翠はぶるり、と身震いをしたけれど、それもすぐに治まった。冬の厳しさに硬直する翠に、弓弦がふふ、と微笑んだのだ。雪の結晶のごとく涼やかで、美しさを兼ね備えたまなざし。冬景色に埋もれかけた翠の視界は、もういちど桜の花びらに包まれて、ふんわりと温かくなっていく。
「まったく。貴方というひとは……。身体は大きいのに、たまに子供のような頼りない顔をしますね。……どれ」
わたくしが、暖めて差し上げましょう。
弓弦はそう呟くと、すっかり寒空が染みこんだ翠の手をすっぽり包みこむ。「坊っちゃまもよく手袋を忘れるのですよ」、「妹君のために雪だるまを作るのだと意気込んでおりました」、「風邪を引かないかどうか心配でございます」、そんな他愛のない話をしながら、手の甲をなぞる。
指と指のすきまを往復する、温かなてのひら。翠はごくりと息を呑む。弓弦のくちびるから紡がれる言葉たちは、しんと降り積もる雪みたいな穏やかな色であるのに。ロッジの暖炉で甘い言葉を囁いているようにも聞こえたものだから、脳が不具合を起こしそうになる。
心から尊敬する先輩が、とんでもない雪女に化けている錯覚に襲われて、翠の額に汗の粒がにじんだ。寒くて、さむくて仕方がないはずが、身体じゅうに熱が灯ってくる。朗らかな陽気に包まれるどころか、桜の花びらは燃えつきて、常夏の太陽がさんざめいた。心臓がばくばくと高鳴って、背筋の裏が火傷してしまいそうだった。
「ふふ。多少は暖まりましたか?」
「え?あ……あっ、は、はい」
「それでは。わたくしは残りの作業を済ませますので……」
弓弦は翠のマフラーを整えると、スコップを持ち直して、柔らかに笑んだ。
「高峯さま、いってらっしゃいませ」
「いっ……いってき、ます……?」
『いってらっしゃい』に『いってきます』。至極まともな返事であるはずだ。それなのに、まるで妻に送り出される旦那の台詞に感じてしまうのは、弓弦から放たれる色香のせいだろうか。憧れの先輩に、低俗な感情を抱いていること自体が恥ずかしくなって、翠は慌てて背を向けた。「伏見画伯も頑張ってくださいね」と返すのが正しいルートだったのか。それとも「俺も手伝いますよ」が模範解答だったのか。後悔がうずまく脳の片隅で反省会をしながら、翠は校門を走り抜ける。
結局、イラストは描いてもらえなかったな。
名残惜しさを感じたのも一瞬だけで、手の甲に這いつくばる温もりが、思考回路をじわじわと焼き尽くす。
全身を駆け巡る冬の厳しさなんて、いつの間にか忘れていた。
「翠くん、押忍!」
「おはようでござる、翠くん!今日は、かちんこちんに冷えるでござるなあ。ぶるぶる」
そうして教室に入れば、朝のあいさつが交わされる。しかし翠は、額の汗を拭いながら、ブレザーの袖をめくるのだった。
「いや……。俺はむちゃくちゃ熱い……かも」
暑さの理由なんて、知らない。ただひとつわかるのは、胸の奥がめくるめく四季のように、色彩豊かに揺れ動いていることだけだった。
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