らい
2021-08-08 22:11:29
7073文字
Public レオいず
 

沈む太陽

レオいず(モブ→泉)

 日本からはるばるやって来た瀬名泉という男は、僕を魅了してやまない。
 月夜に溶けてしまいそうな白い肌。森にたゆたう湖みたいに透き通った瞳。背丈はそれほど高くなく、薄く色づいた唇はあどけない。一見すると水の妖精のようでいて、凛としたまなざしからは気の強さも窺える。堂々とカメラの前に立つ姿に、最初は「おとぎの国からやってきた小人」とコケにしていた雑誌社の連中も、外面はもちろん、内面から滲みでる彼の美しさに惚れていた。モデルをやっている同業者の僕も、そのうちの一人だった。

 泉は、実に面白い男だ。僕はそれなりに売れているから、何もしなくたって可愛い女が寄ってくる。僕と仲良くしていれば仕事を紹介してくれるかもしれないと、積極的に媚びてくる奴もいる。しかし、すり寄るどころか「俺に追い抜かれたくなかったら、真剣に取り組みなよねえ」とあまつさえ喧嘩を売ってくるのが、瀬名泉という男だった。
 業界での知名度は、僕が遥かに上回っているというのに。そんな格上の僕に、挑戦的な態度をとってくる。老若男女に媚びられ、ありとあらゆる場面において崇拝されることが多かった僕の人生において、対等に接してくる人間は中々いない。これは貴重であり、新鮮な経験だ。何ひとつ不自由のない、強いて足りないものがあるとするならば時間ぐらいだった僕は、俄然、泉に興味が湧くのだった。
 だから、彼と友人になろうと思った。僕には気軽に話せる知り合いが山ほどいるけれど、風変わりの日本人がいると会話のネタになるだろう?多分、コレクション感覚だったのかもしれない。今後、下手に嫌われて理不尽に突っかかられるのも癪だし、ほとんど面白半分で交流を試みたのだ。

 最初こそ「ライバルと友達になるつもりはないんだけどぉ?」と仲良しごっこを好まない彼だったが、僕は、凍てついた心を融解するコミュニケーション力には自信があった。基本的には気さくに話しかけ、一定の距離を保ちながら、徐々に泉にすり寄った。日本人は礼節を重んじる一族だというし、さじ加減は難しい。決して平坦な道のりではなかったが、いったん懐に入ると、彼はすんなり心を許してくれた。
 そこで意外だったのは、彼は思いのほか人情味のある男だということだ。女をとっかえひっかえ遊んでいると「ちゃんと考えなよ」と苦言を呈したり、深夜まで酒を飲み歩けば「いまは大丈夫かもしれないけどさあ。将来的にガタが来るんだからねえ」と説教したり──表面上は「蹴落としてやるから」と好戦じみているくせに、ライバルの僕さえも、真剣に気にかけるのだ。

 もっと驚いたのは、それらの不祥事が重なったことで、有名ブランドの仕事を降ろされたとき。めずらしく憔悴しきっていた僕を、激励してくれたことだった。泉の美しさは、外面だけじゃない。隠された内面さえも、丹念に磨き上げられた美で構成されている。「俺は、あんたに落ちぶれてほしくないわけ」、「俺がずっと傍にいて叱ってやんないと、あんた一生ダメになるよねえ」、「こんなに親身になってあげてるの、たぶん俺ぐらいのもんじゃない?」、「あんたのこと、嫌いじゃないんだからさあ。これ以上アホなことしないで、俺を失望させないで」、「この俺が傍にいてやってるんだから、とっとと元気だしなよねえ」───嫌々と振る舞いながらも、なんだかんだで見捨てない彼に、僕はこのときから惹かれはじめたんだ。

 友人の泉に、友人以上の感情を抱いていることに気が付いたのは、つい最近のこと。プライベートに踏み込んだ話もするようになり、そこで僕ははじめて、泉に作曲家の恋人がいることを知った。
 音楽ばかりにかまけていて、私生活がだらしない。俺が料理してあげないとチョコレートを塗りたくったパンだけで済まそうとするとか、電気を点けたら点けっぱなしで消さないのがイライラするとか、牛乳一本だけ買ってきてと頼んだのになぜか余計に二本も買ってくるとか、毛布を畳まずベッドを散らかしたままで仕事に出かけようとするとか───美しく整った顔から繰り出される愚痴を聞かされているうちに、僕の自尊心はズタズタに切り裂かれてしまった。

 僕は、顔が良ければ人当たりも良い。金だって稼いでいるし、恋愛だって不自由したことがない。そんな僕でさえ手に入れられないのが瀬名泉だ。なぜなら彼には男がいた。思わせぶりの態度をしておいて、ちゃっかり恋人と仲睦まじくやっていたのだ。適当に作ったはずの友人に恋をしていただけでなく、すっかりと騙されていたのだから笑ってしまう。彼の一番の理解者とまではいかずとも、上位のポジションを陣取っているものだと信じこんでいた。泉を最もわかっているのは僕だ。数日前までそうやって浮かれていた僕はひどく滑稽で、恥ずかしい。これまで安寧に包まれていたはずの心が、どうにかなりそうだった。
 僕は瀬名泉に恋をしているが、彼には恋人の男がいる。恋を認識すると同時に、失恋してしまった。それだけならば苦い思い出として済んだのかもしれないが、いつしか泉の愚痴が悪化しはじめたことで、僕の感情はあらぬ方向に漂流するはめになった。

 行きつけのバーで飲んでいると、泉は突然、恋人の男と上手くいっていないことを打ち明けた。なんでも泉が付き合っている男は来るもの拒まずの性格で、ファンを装って言い寄ってきた女にホイホイついていき、酒を盛られて、危うくベッドに連れ込まれそうになったらしい。既成事実の捏造は辛うじて回避したものの、そのことでひどく喧嘩したようだ。
 泉は、「あいつはアホだから、すぐに人のこと信じるんだよ」と随分と怒っていた。僕は、泉の良き友人として「泉の気持ちはよくわかるよ」とか、「誤解を招くようなことはダメだよね」とか、最もそれらしい言葉で励ましながら頷いた。僕は、泉の友人なのだから、そうして然るべきだ。僕が抱えているこの淡い恋心は、永遠に実らない。脳裏に浮かぶ真っ黒なドブのような感情を、なんとしてでも押し殺さなければならなかった。しかし、脳の片隅に封印を試みようとした僕のどす黒い発想は、泉によって解放されることとなる。

……まあ、可愛い女の子だったから。気が緩んで、目移りしちゃったのかもしれないし。本人は『セナが一番に決まってるだろ!』って主張してるけど。この先、どっちか選ぶなら……小言がうるさい俺よりも、純粋に慕ってくれる女の子だよねえ。……あーあ。あいつも、あんたみたいな気遣いのできる男だったらよかったのに」

 気丈な瞳がしおらしく伏せられたそのとき、僕の理性はみるみる溶けていった。
 恋人の男が女についていくのは許せないのに、自分は別の男と一緒にいるのは構わないのか?寂しそうに俯くその仕草は、僕に慰めてほしくてやっているのか?気高く美しい君を傷つけるちゃらんぽらんの男より、ずっと優しさを与えられる僕が一緒にいたほうがいいんじゃないのか?今この瞬間だけでも君を抱いて、僕以外に考えられなくなる身体にしてやりたい。頭の裏側に渦巻いていた邪悪な感情が、表の顔に滲んでいく。

「今日は、嫌なことを忘れさせてあげるよ」

 僕はそう微笑んで、普段はめったに酒を飲まない泉に、下戸でも飲みやすいワインがあると勧めた。そんなものに限って、度数が高いことをひとことも言わないで。
 愚痴を聞き、相談に乗り、最良の解決策を考えてやる。悩みを抱える友人に理解があるふりをして、家に連れ込むのは簡単だった。
 酔っ払った泉は、色素の薄い肌を紅潮させながら、ソファーの背にしなだれかかっている。テーブルライトを眺める瞳はすっかりと酔いしれ、普段はぴんと伸びた美しい足先さえも、気怠げに放り出されていた。アルコールに不慣れな身体は、僕の想像以上に無防備を晒している。新鮮な空気を求めて半開きになった唇は、薄桃に濡れていた。
 僕が性経験のない童貞ならば、あっという間に服を剥いで、襲い掛かっていただろう。泉はそれくらい魅力的で、そそる身体つきをしているのだ。

「泉。大丈夫かい?」
「ええ~?」
「その仕草は、誘っているようにしか見えないけれど」
「はあ?熱いだけぇ

 素でやっているのか、焦らしているのか正直わからない。首元を緩めて「ん~」を身じろぐ泉に、僕の頬は熱くなる。いつだって直情型の泉だから、相手を転がすテクニックなど持ち合わせていないだろうけれど。だからこそ、厄介なのだ。魔性の男というのは、タチが悪い。

「少し、楽にしようか」

 ああ、これ以上、僕を勘違いさせる態度をとってくれるな。我慢の効かない指先でシャツのボタンを一個、二個と外していけば、美しく鍛えられた胸板が現れる。これまで抱いてきた女と違って、柔らかい乳房はなかったが、なぜだか甘い匂いを嗅がされているような気がした。愛用している香水かもしれないし、実のところは無臭で僕の妄想だったかもしれないが、服の隙間から立ち香る汗は、紛れもなく僕を誘う蜜の匂いだった。
 僕は、泉のシャツに手を掛ける。布一枚をめくった先に、一体どんな熱に色づいた肌が待っているんだろう。恋人の男がさんざん触り尽くした中古品かもわからないが、とにかく暴きたくて仕方がなかった。もっと泉のことを知りたい。触れたい。犯したい───はあ、はあ、と獣のような呼吸をしながら、僕はこてんと首を傾げる泉に近づいた。
 しかし、唇を奪える距離まで寄ったところで、けたたましい着信音が響き渡った。天才的に奏でられるピアノの旋律は、泉のスマートフォンから鳴っている。泉は、春に舞う綿毛のようにふにゃりと微笑みながら、上着のポケットに手を突っ込んだ。そうして僕をまっすぐに見つめて、まるで自慢するように鼻で笑ってみせる。

「この着信音さあ……れおくんが作曲したやつ」
「は?」
「俺をイメージして、作ったんだってぇ……

 泉は、伸びやかに歌い続ける端末を、おもむろに取りだそうとする。いま流れているメロディーは恋人の男が作ったものという、僕にとっては至極どうでもいい情報を共有しながら。
 僕は、その手を力強く掴んで押し戻した。今ここにはいない誰かに邪魔されているようで、ひどく不快だったのだ。

「なんで止めるわけぇ……

 電話は程なくして息を潜めたが、今度はポンと短い音が放たれた。連続で響き渡るそれは、ひっきりなしにメッセージの通知を知らせている。僕は、「もう、何ぃ?」と確認しようとする泉の指を再びなぞって、意識を反らそうとした。

「だめだよ」
「ん……あんたのほうこそ、ダメだってばあ~……
「誘ってきたのは、君だろう?」
「はあ~?言ってる意味が、わかんなぁい……

 僕の制止を振り切って、泉は液晶に触れた。指紋認証でパスコードを解除して、アプリを起動する。『れおくん』と表示された画面には、大量のメッセージが並んでいた。
 おれが悪かった。言い過ぎたよ。セナの気持ち、ちっとも考えられなかった。本当にごめんな。なあ、今どこにいる?なにしてる?おまえは今どんな気持ちでいる?一言ずつ綴られた言葉たちが、青白く光り続ける液晶を突き破って、僕の視界にすっと飛びこんでくる。
 おれ以外のやつと、いま何してる?───短い文章ながらも、独占欲を隠しきれないそれに、僕はごくりと唾をのんだ。

「れおくんが……。今すぐ迎えに行くから、場所教えろってぇ……

 こうして一夜の過ちを犯しかけた僕の熱は、燃え盛る前に鎮火することとなった。




 足元さえもおぼつかない泉を支えて、家の外に出た。すっかり黒く染まった空の下、夜風に晒されながら、人通りが少ないそこで男を待つ。「れおくんはさぁ~、ああやってすぐに恋人ヅラするんだよねえ~」と愚痴をこぼす泉は、ちっとも呂律が回っていない。酔っ払いの世話など趣味ではないし、下品に酔いつぶれる女にも辟易していたぐらいなのだが、月明かりに照らされる泉のなめらかな頬は美しく、酒の匂いがこびりついた吐息さえも悪くないと思ってしまう。こんな気持ちに苛まれるのは、生まれて初めてのことだ。静まった夜が、僕の思考を邪魔することなく横たわっているものだから、余計にその感情が高まってしまう。
 ややあって、迎えの車が到着した。泉の恋人が乗っている小さな車体は、僕たちふたりの姿を確認するなり、急ブレーキで停車する。男はすっと窓を開き、子猫を発見した幼子よろしく、無邪気に手を振った。黙っていると品があるけれど、いざ喋りだすとアホ丸出し。泉からはそう聞いていたが、恋人の男は、僕が想像していた以上に愛嬌に満ちあふれていた。人懐っこい八重歯を覗かせながら、「おれのセナが、ごめんな!」と車から降りる彼に、僕は「こちらこそ、すまないね」と朗らかな声色で声を掛けた。

「お酒が苦手とは、聞いていたんだけどね。少しばかり飲ませすぎたみたいだ」

 嘘はついていない。ただ、望んだ結果は違ったけれど。自他ともに認める爽やかな笑みを浮かべると、男は───レオは、夜空いっぱいに高笑いを反響させる。『おれ以外のやつと、いま何してる?』と送るような奴だから、正拳突きで叩きのめされるかもしれないと覚悟していたが、どうやら杞憂だったらしい。ふんふん、と鼻歌を奏でるレオに、僕はホッと安堵する。
 だが、その安心も一瞬の幻だった。レオは上機嫌に笑いながら、告げたのだ。

「わははっ、大丈夫!セナ初心者は、み~んな口を揃えて『ここまでとは思わなかった』って困るぐらいには、お酒に弱いし!おれも比較的すぐに赤くなるほうだから、人のことはとやかく言えんけど!」
セナ初心者?」
「そうそう!おれ以外の人類は、全員セナ初心者だから!まぁKnightsの連中とか、ESの奴らはその限りじゃないけど!……まったく。セナ取扱検定の資格を一つも持ってない友達を困らせるなよな、セナぁ~」

 僕だって、それなりに泉と一緒にいたつもりの『友人』だ。彼の取扱い方を十分に心得ていたつもりだが、この男にとってはそうではないらしい。そう、この男にとっては───ふいに僕は、頼りなげにフラつく肩を抱き寄せた。恋人のレオと張り合うつもりは微塵もない。泉がバランスを崩しそうになったから、すぐ傍にいる僕が支えた。ただそれだけの話だ。
 か弱い女性のように扱われているのが不服なのか、泉は眉をゆがめて悪態をつく。理不尽な返しに不愉快になってもおかしくないはずだが、なぜか泉がやると許せてしまう。ああ、僕は本当に狂わされてしまった。瀬名泉という男に。

「もぉ~……乱暴しないでよねえ~……モデルの身体は、繊細なんだからぁ……
「おっと、ごめんね。酔っ払った君が、あまりにも……

 あまりにも可愛くて、守ってあげたくなるものだから。僕がそう言い切る前に、泉の身体がすっと離れた。助手席のドアを開いたレオが、ほとんど強引に引っ張ったからだった。「ちょっとぉ……」と文句をぶつけようとする泉を抱き留めて、レオはわはは、と口角を上げる。それなりに人生を謳歌してきた僕さえも恐れおののくほどに、自信満々の笑みをぶら下げていた。

「おれのセナを介抱してくれて、どうもありがとう!」

 静まった夜に、満面の笑みが咲き誇る。紡がれた台詞とは裏腹に、目が笑っていないとか、やたらと声が大きいとか、そんなことは全くない。本当に屈託のない笑顔だったから、僕はなにも返せなかった。

……危なっかしいやつだ、ほんとうに」

 その台詞が僕に掛かるのか、泉に掛かるのか不明瞭な言い方をして、レオはごねる泉をさっさと助手席に押しこむ。そうして運転席に乗ると、全開にした窓に腕を預けて、そっと振り返った。

「あのさあ」

 夏のひまわり畑を駆け抜ける子どものような、愛嬌たっぷりの声が消え失せる。そのかわり、いやに低い声が響き渡った。透き通った翠の瞳が、僕を射抜く。獲物を仕留めるライオンのごとく鋭いまなざしに噛みつかれて、浅い呼吸さえもままならない。
 もう二度とセナに近づくな。僕はてっきり、そう吠えられるのだと思った。だが、レオから返ってきたのは意外な言葉だった。

「おまえも乗ってく?」
「え?」
「セナが途中で潰れちゃっただろ。だから、おまえも退屈だろうと思って。よかったら、うちに遊びに来いよ」

 ピザを焼いてあるからさ。帰ったころには、冷えちゃってるかもしれないけど。
 レオは、淡々と喋りながらベルトを締める。それを装着する際に俯いたものだから、肝心の表情が隠れてしまう。僕は、ただただ首を振ることしかできなかった。

「いや……いいよ」
「そっかあ。残念!」
「ああ。お気遣い、ありがとう」
「それじゃあ、おやすみ!」
「うん。気を付けて」

 片手でハンドルを握りしめ、もう片方の手で「チャオ!」と別れを告げながら、レオが車を発進させる。街角に消えていく車を見送ったあと、僕は黒染めの空をそっと仰いだ。真っ暗な夜に、青白い月が美しく反射している。行き場がなく救いもない感情の中、それでも僕の脳裏にしつこく焼きついて離れない、瀬名泉のようだった。
 手が届かないとわかっていても、欲しくなってしまう。太陽のごとく光輝いていた僕の人生に、この日はじめて影が差した。