らい
2021-07-24 19:52:02
4157文字
Public みどゆづ
 

寂れたビルにもあなたが光る

みどゆづ


 得意なものは多いほうだ。掃除・洗濯・料理の家事はもちろん、姫宮家に害をなす不届き者をこてんぱんに蹴散らす体術、他人の懐にすっと入り込む処世術まで。弓弦が身につけてきた技能は、多彩な領域にわたる。絵を描くこと、犬に群がられること以外ならば、何でもそつなくこなしてきたつもりだ。
 ESビル、スターメイカープロダクションフロアの休憩室。弓弦は窓ガラスに身を預けて、短い息を吐いた。20階の窓から見下ろす夜の街は、光の洪水で溢れている。これを夜景と呼ぶには物足りないが、そんなビルの群れさえも、いまの弓弦には妙にまぶしく映る。
 きっと頭のなかに暗雲が立ち込めているせいだ。舞台の稽古を終えてから、ずっとこうだった。足場のない道をひたすら歩かされているような、不安定な精神状態に苛まれている。


「俳優畑で鍛えたこともないアイドルが、小手先の演技だけで通用する世界じゃないからね」


 演出家から告げられた言葉が、延々と脳を巡っている。
 最近では、ありがたいことに演劇の仕事が増えた。自分以外の誰かの人生を追体験できる俳優は、好きだ。級友の氷鷹北斗や、fineの一員でありドラマティカの大黒柱でもある日々樹渉。彼らに教えを乞うなどして本格的な演技を学ぼうとする程度には、演劇の世界にのめりこんでいるかもしれない。
 仕事の関係者からの評判も悪くなかった。『伏見くんは憑依型の俳優さんだね、大御所さんも褒めてたよ』、『前回のドラマ、視聴率が良かったからまた次も呼びたいな』、そんな言葉を投げかけてもらえることも多かった。好きと得意は必ずしも一致するわけではないけれど、少なくとも演技は、絵と犬の同列に並ぶほど苦手ではなかったはずなのだ。
 映画とドラマの分野においては、それなりの実績を重ねてきたように思う。けれども舞台に飛びこんだのは、今回が初めてのことだった。ひとくちに演劇といっても、媒体ごとに求められるものは異なる。重々理解していたつもりではあるけれど、やはり努力が足りなかった。『所詮アイドル』という色眼鏡を払拭できない、その程度の実力しか持ち合わせていなかったのだ。


「伏見先輩


 真っ黒にひしめく心の渦。その向こうから、遠慮がちな声がする。弓弦がおもむろに振り返れば、オレンジジュースの缶をふたつ持った翠が立っていた。


「よかった。まだここにいたんだ


 翠は、飼い主との再会に喜ぶ大型犬のごとく駆け寄ってきた。「うれしい」とはにかむ翠に、弓弦の頬はおもわず緩んでしまう。きっと桃李に見られたら、いつぞやの冬よろしく『何ニヤけてんの?キモ〜イ!』と罵倒されてしまうに違いない。図体が大きいくせに、甘えたがりの生き物。彼の愛らしさには拭えない。どうにも調子が狂ってしまう。不可抗力なのだ。


どうして、こちらに?」
「同室の青葉先輩が、『伏見くん、スタプロの休憩室でたそがれてましたよ〜』って教えてくれて
「なるほど」
「天祥院先輩とのやりとりで、こっちに用事があったみたいです
「それはそれは意外なお方に見られてしまいましたね」
「でも、そのおかげで来ちゃいました」


 自販機で買ったばかりなのだろう。無防備の頬に、ひんやりとした感触を押し当てられた。珍しく油断していた弓弦は、びくりと身じろいでしまう。


「んっ
「あ、すみませんびっくり、させちゃったかも


 幸せいっぱいの瞳が一転して、慌てふためく。しかし弓弦は、すぐさま撤退しようとする翠の手首をつかみ、みかんの妖精が描かれたジュースを受け取った。『果汁たっぷりだヨ!』とウィンクしながら跳ねるそれは、いかにも翠が好みそうなマスコットだ。今度、機会があれば差し入れに用意してみようか。そんなことを考えながら、弓弦は柔らかに微笑む。
 わざわざ自腹を切ってくれたのだ。ささやかな優しさをないがしろにするほど、弓弦も鬼ではない。


「せっかくですからいただきましょうか」


 プルタブをひねると、ぷしゅっと爽快な音がする。弓弦はそっとくちづけて、ごくりと喉を鳴らした。冷たいそれが、甘酸っぱさをともなって流れこんでくる。普段はもっぱら水かコーヒーを好んでいるから、果汁の味は久しぶりかもしれない。とはいえ、一週間前はピーチ味のキスだったから、彼のくちびるを通して、定期的にジュースを飲んでいることになるけれど。
 三口ほど味わったところで、視線を下ろす。翠がなにか言いたげにこちらを見つめていることに気が付いて、弓弦はこてんと首をかしげた。


「どうかなさいましたか?」
「ああいえ、その
「はい?」
「元気、なさそうだったんで


 憂うつに揺らぐ心の有様を、他人に見透かされてしまうとは。外面を隠し通せないほどに疲れていたのだろうか。姫宮家の執事として、まだまだ半人前である。己の未成熟さを恥じながら翠を見やると、彼は端正な眉を八の字にして、おろおろと視線を泳がせていた。助けになりたい、けれども何をしていいかわからない。ありったけの親切心と、わずかな臆病さが争っているような顔だった。
 まるで、無力な子どもみたいだ。急激に愛おしくなって、弓弦はとっさに手を伸ばす。そうして翠の頭を、ふんわりと撫でた。短いながらもさらりと透き通った髪は柔らかく、心地よい。


「心配してくださっているのですか?」
「はいでも、こういうのって重い?」
「いいえ。嬉しゅうございますよ。……わたくしは、ただ」


 ふと、演出家の顔を思い返す。悔しくて仕方がない。アイドルゆえに、大した仕事はできない。そう揶揄する彼を、あっと仰天させるような演技ができなかった。己の実力不足を、しつこく憂いてしまう。


……個人のお仕事で、舞台が決まったのですが。演出家の方に、『アイドルは、小手先だけの演技で通用する世界ではない』と……お叱りを受けまして」
「え?」
「どうしたものかと考えていましたら……このような時間に」


 結局は、己自身との戦いである。誰かに打ち明けたところで、本人の努力なしに事態は変わらない。だから胸の内に抱えて、最後まで黙っているつもりだったのに───つい喋ってしまった。もしかして、年下の後輩に甘えようとしていたのか。完全に無意識だった。己の意外な一面を発見してしまったかもしれない。翠と恋仲になってから、良くも悪くも理想の『伏見弓弦』像を捻じ曲げられつつある。身体の奥から羞恥心が高まって、ともすれば発熱してしまいそうだ。
 弓弦はこほん、と咳ばらいをして、愛想よく笑ってみせた。


なんてね。正直わたくしも調子に乗っておりました。お褒めいただいた数少ない評価を真に受けて、わたくしには俳優の道が向いていると浅はかな誤解をしていたに過ぎません」
「伏見先輩……
「わたくしに真の実力があれば。『所詮アイドルだから』などという偏見は、演技でねじ伏せられるはずですし。わたくしの努力が至らなかっただけの話、でございます」
「俺は……
「ですから、いまの状況に胡坐をかかず、これからも日々たゆまぬ努力と邁進を……ん?」


 すると、翠はいきなり背を向けた。側にあったテーブルに缶を置いて、ずかずかと踵を返す。弱々しい眉を吊りあげ、すうっと深呼吸したかと思えば───腕を大きくかっ開き、弓弦をぎゅっと抱き締めた。


「俺は伏見先輩がいっぱい努力してるの、知ってるんで!」
「高峯さま?」
「うまく言えないけどみ、見てます!俺は!ちゃんと!」


 力加減がめちゃくちゃだ。華奢な女子であれば、きっと抱き潰されてしまうに違いなかった。その一方で、愛ある抱擁とは裏腹に、紡がれる台詞はたどたどしい。不器用な愛を、一生懸命に振る舞っている。年下の後輩は、ほんとうに愛おしい。がむしゃらに頑張ってみせる姿に、いつだって笑わされてしまう。


「ふふふふふ
「え?俺、おかしいこと言いました?」
「いえ。わざわざジュースを置きに行って、急いで戻ってくるお姿にジワジワときまして。打ちひしがれている飼い主を励まそうとしている犬のようで、愛おしいな、と
「ええ?だって、手ぇ塞がってたらなんにもできない


 しゅん、と頼りなげにいじける翠の胸をそっと押し返せば、耳たぶまでりんご色に染まっていた。喉ぼとけをごくごくと鳴らしていたものは、オレンジジュースだったのに。どうして、こんなにも可愛らしいのだろう。胸の奥が暖かくなって、たまらなくなる。


「キスは可能でございますね」


 弓弦は、すこしだけ背伸びして、そっと触れるだけのくちづけを交わした。


「ふ、ふ、伏見せんぱい!?」


 ちゅっ、と音を鳴らしてくちびるを離せば、翠は口元を抑えながらうずくまる。弓弦も一緒にしゃがんで、いじわるに覗きこんでみせた。翠は「あ~」とか「う~」とか、声にならない声をひねりだしながら、より一層、真っ赤な頬になっている。


「急に、ずるい
「先に仕掛けてきたのは、高峯さまではございませんか」
「俺は、まじめに伏見先輩を、励ましたくて!」
「ええ、わかっておりますよ。おかげさまで、わたくし元気をいただきました」
「本当?」
「ふふ。充電完了、でございますよ」


 得意だったものが、そうでないものに変わるかもしれない。脳にまとわりつく得体の知れない不安心が、いつのまにか和らいでいることに気がついた。おもえば、数少ない『苦手』も、翠がいるから前向きになれたのだった。誰もが気持ち悪がり敬遠する絵を「すげえ!」と賞賛し、無邪気にしっぽを振る犬のように「好きです!」と無垢に近寄ってくるこの子に、随分と前から助けられているような気がする。
 所詮アイドルだから、一体なんだというのだ。スポットライトがなくたって、美しく艶やかに見返してやろう。弓弦は、困り眉で恥じらう翠を優しく引っ張って、すっと立ち上がる。窓の外には、ビルの谷間に照り返す光が並んでいる。夜の帳に控えめに輝くそれは、どこか力強く見えた。