らい
2021-07-10 21:06:49
1662文字
Public みどゆづ
 

本日のモーニングセットは刺激的

みどゆづ


 焼きたてのパンと、コーヒーの香りが、まぶたの裏にやってくる。心地よいまどろみをノックする、朝のにおい。ベッドで丸まっていた翠は、うんと背を伸ばして、あくびをした。
 寝室のドアを開き、眠気を拭いきれない目尻をこする。洗面所に向かうまえに台所に立ち寄ると、エプロン姿の弓弦が、せっせと洗い物をしていた。あやめ色の瞳は、寝ぼけ眼で後頭部をかいている翠に、すぐ気づく。ゆるキャラのキッチンハンガーにぶら下げたタオルで手を拭くと、「おはようございます」と歩み寄ってきた。
 翠はもう一発あくびを放ち、とろんとしたまなざしで弓弦に手を振る。夢と現実の境界線があやふやな視界でも、好きですきで仕方ない恋人の輪郭だけは、はっきりと映るのだ。中途半端にずり上がったスウェットを直しながら、ふにゃりと笑った。


「伏見せんぱぁい。朝から来てくれたんすね


 姫宮家の執務が最優先であるから、同棲には至っていないけれど。弓弦には合鍵を渡して、しょっちゅう家に来てもらっている。四六時中ずっと一緒にいられないのはむず痒いが、通い妻もこれはこれで悪くない。


「ええしばらくぶりでございますね。シンクのお掃除と、溜まった衣類のお洗濯。燃えるゴミも、まとめておきました。朝食の用意もできておりますよ。お顔を洗ったら、こちらにいらしてくださいまし」
「うう、助かる。最近ほんとに忙しすぎて、帰って寝るだけの生活だったから。ありがとうございまぁす……
「ふふ。少年漫画の主人公のような、個性的な寝癖がついておられますよ。それによだれの跡が」


 弓弦はふんわりと微笑んで、翠のくちびるの端っこを親指でなぞる。よほど疲れていたのだろうか、昨晩はどうやら豪快に熟睡してしまったらしい。母親に世話される小学生のようで恥ずかしかったが、同時に愛おしさが胸の内からどんどん溢れてくる。
 いつだって、優しく笑いかけてくれるひと───噴水のごとく吹きあがる喜びに、翠はたまらず弓弦をぎゅっと抱き締めた。シャワーを浴びてきたのか、細い首筋から上品なローズの香りがする。両腕に包みこんだ肩は柔らかく、底を尽きかけていた体力がみるみる回復していくようだ。


「本日も、朝からお仕事でしょう?早くしないと、遅刻してしまいます」
「はいはい、わかってまぁす
「困りましたね。わたくし、甘えん坊に育てたつもりはないのですが」


 やれやれ、と呟きながらも、弓弦はどこか楽しそうだ。特別なんてことのない朝のやりとりも、ふたり一緒だから、幸せいっぱいに満たされる。翠は、やわらかな頬にくちびるを落として、はにかんだ。


「わたくし、坊っちゃまのお仕事がございますので……一旦、屋敷に戻りますけれど。夜になりましたら、またお食事の支度に参りますね」
「マジすか?伏見先輩の手料理、ずっと食べてない気がする!うわあ、やべえ!死ぬほど嬉しすぎる!」
「ふふ。明日はオフと伺いましたので。高峯さまと、ゆっくり過ごせたらと」


 ずり落ちたエプロンの肩ひもをおもむろに直して、弓弦は茶目っ気たっぷりに微笑んだ。


「セックスも……いっぱい、しましょうね」


 弓弦はそう言って、水切り棚の食器を、ふきんで拭きはじめる。翠の意識は半分ほど眠っていたが、「せっくす?」と反芻したあと、急速に明るみを帯びていくのだった。
 手の甲をなぞられ、太ももを股間ぎりぎりに撫でられ、普段はそんなふうに誘導されることが多いのに。直接的に告げられるのは初めてのことで、翠はかぁっと熱くなる。爽やかな朝にいきなり、急に、刺激的すぎやしないか。ぷしゅう、と蒸発しそうになる翠をよそに、当の本人は姫宮桃李のソロ曲を口ずさみ、上機嫌に鼻歌を奏でていた。
 弓弦と恋仲になってから迎える朝は、もう何度目になるかわからないけれど。いつになっても、心臓にいたずらを仕掛けられてばかりだ。コーヒーの湯気のごとく熱された頬は、きっと夜まで冷えることはないだろう。