らい
2021-07-03 21:38:43
3453文字
Public みどゆづ
 

からすが鳴いたあとで

みどゆづ(お題『正直に申し上げます』https://shindanmaker.com/375517)

 頭のてっぺんから足のつま先をめがけて、雷が落っこちる。
 コメディーの分野においては、『ショック』の比喩表現として多用されるものである。先輩の衣更真緒から借りた少年まんがにも、そっくりそのままの描写があった。熱血主人公が、幼なじみのヒロインに『わたしに近寄らないで!』と叫ばれて、がっくりと肩を落とすシーン。まぁ、最近はそこそこ調子に乗ってたし、なるべくしてなったって感じだよね。ちょっと、かわいそうだけど───他人事の感想を抱きながら単行本を閉じたのが、昨晩のこと。
 まさか、『稲妻に打たれて茫然自失になる主人公』を追体験することになろうとは。思いもよらない展開に、翠のこめかみは引きつるのだった。


「えっ……?いま、なんて……?」


 夕陽が射す、放課後の弓道場。静寂を横切るからすの歌声とともに、翠の心臓がどくりと波を打つ。突然のできごとに、状況整理すらおぼつかない。かろうじて喉から放った声は、弦の切れたギターのごとく頼りなかった。
 元々はきはきと喋るタイプではないけれど、動揺に打ちのめされた声があまりにも情けなくて、翠は泣きそうになる。しかも、事の発端ともいえる弓弦が、表情ひとつ変えずに立ち尽くしているのである。涙腺のゆるみは、なおさら加速するのだった。
 記憶の糸をたぐりよせながら、これまでの経緯をたどる。バスケ部の休憩時間、水飲み場で汗を洗い流した翠は、弓道場にふらりと立ち寄った。入り口をひょっこり覗けば、そこには憧れの先輩にして、唯一無二の恋人がひとり。矢を掲げ、精神統一している弓弦を発見した翠は、大型犬のごとく喜びいっぱいに駆け寄った。
 真面目なクラスメイトの朱桜司をはじめとする部員はおらず、実質ふたりきり。ただでさえ学年が異なり、おまけに寮暮らしで、仕事だって忙しいのだ。逢引の回数はけっして多くなく、そんな状況下でも必死にやりくりしながら、愛を育んできたわけで。
 だから翠は、チャンスが到来したとばかりに、弓弦を抱き締めようとした。ところが、弓弦はすぐさま翠の胸を押し返し、あっさりと告げてみせたのだ。


「ですから。高峯さまと、わたくしの……ハグとキスを含むスキンシップは、本日より全面禁止といたします」


 一切の接触NG。つまるところ、『わたくしに近寄るな』という極刑宣告を受けたのである。まったく身に覚えがないうえに、堅苦しいトーンで拒絶されたことで、翠のつむじに雷が落っこちたのだった。
 唐突に、いったい何を言いはじめるのか。アンサンブルスクエア内でくっつくわけにはいかず、学院でのひとときが貴重な癒し枠だというのに。理由はどうあれ、真剣に恋している相手に距離を置かれるのは、つらい。頭がまっしろに染まり、夕焼けに彩られた雲の美しさすらも、灰色に映ってしまう。


(もしかして、嫌われた……?気分が塞ぎこむたび、イラストをねだるのは迷惑だった……?あわよくば追加のキスを狙おうとしたこと、バレた……?それとも、仕事明けでどうにも我慢できなくて、やむを得ず生徒会室で事に及んだこと、実は怒ってる……?)


 考えれば考えるほど、深みにはまっていく。荒んだ心を清らかに洗い流してくれるはずの夕陽、そのきらめきは跡形もなく蒸発する。眼下に広がるのは、悲観の沼だけだ。


「えっえっ。えっ……?な、なんで……?」


 翠は激しく狼狽しながら、弓弦の肩にそっと手を置いた。正解を知るのは恐怖だが、解答欄が空白のまま放っておかれるのは、真実を打ち明けられる以上に悪夢である。不安で眠れない夜を繰り返すぐらいなら、いまのうちに殺されたい。翠は、決死の覚悟で問い詰めた。
 すると、弓弦はふう、と息を吐いた。伏せられたまぶたから伸びるまつ毛と、気怠げに映える泣きぼくろ。夕暮れの光に照らされて、まるで芸術品のような美しい陰影ができあがる。翠は、おもわず見惚れてしまった。
 年齢は、たったの一歳差だというのに。些細な仕草さえも、大人顔負けの色香を漂わせる。それでいて『触れるな』は理不尽きわまりなく、かといって、好きで好きで仕方がない恋人の命令に背くわけにもいかない。まったく困った先輩である。ジレンマにがんじがらめになった翠は、上目づかいで「うう~」と呻いた。
 暁の空を駆けるカラスが、ふたりの沈黙を埋めるかのごとく、カァカァと鳴きわめく。ややあって、弓弦がこほん、と咳ばらいをした。


……正直に申し上げます」


 弓弦はそう呟くと、緊張にふるえる翠をほぐすように、手の甲をなぞった。ひんやりと冷たくて、それでいて熱を帯びたてのひらが、指と指のあいだをおもむろに這う。ベッドでの熱い夜を彷彿とさせる手の動きに、翠は身じろいだ。背筋がぴんと跳ねて、全身をめぐる血液が、火にあぶられているかのごとく燃えたぎる。
 しかし、ふと弓弦を見下ろせば───彼もまた、切なげに眉をゆがめて、くちびるを引き結んでいた。


「高峯さまに求められると、わたくし……。非の打ちどころのない、完璧な執事として調教したはずのこの肉体が、熱く疼いてしまうのです……
……え?」
「胎内が、溶け落ちて……わたくしが、わたくしではなくなってしまう……。恥ずかしながら、わたくし……ほんとうは底抜けに欲深く、浅ましいのです。そのようなわたくしを知られることに、抵抗がございまして……
「えっ?」
……ですから、キスもハグも、その先の激しい営みも。当面のあいだは禁止……でございます」
「えっ!」
「幻滅したでしょう?……はしたないわたくしは、お嫌いですか?」
「いいえ!これからもずっと好きです!」


 大好きなひとに拒絶されるほど、嫌われている。思い描いていた最悪の結末が杞憂に終わったことに、翠はたまらず嬉しくなって、弓弦の手をぎゅっと握りしめた。
 痛ましく刻まれていた胸の鼓動が、一転して甘ったるい心音に変わる。庭園に咲く花のように、ぱぁっと顔が綻んだ。


「いけませんと、申したばかりでしょう……。そのように強く、きつくされたらわたくし、どうにかなってしまいます……
「あっ……すみません……


 駄目です、と首を振られて、翠は慌てて手を離す。けれども、熱を帯びた色欲の残り香が、てのひらに残ってしまった。
 切なく垂れた困り眉、紫陽花色に濡れたまなざし、遠慮がちに引き結ばれたくちびる。弓弦のすべてが、欲しくなる。


「伏見先輩……
「ん…………こらっ………


 翠は、きゅっと結ばれた弓道着をゆっくりと割り開いた。汗の滲んだ鎖骨から、熱の奔流がもわっと浮きあがる。だが、運動部にありがちな男臭さはない。そのかわり、清潔なせっけんの香りが鼻孔をふわりと通り抜け、脳髄ごと溶かしていく。


「いけません、高峯さま……
「だって、安心したもん……嫌われてなくて、よかった……
「何をおっしゃいますやら。そんなことより、今すぐ離れてくださいまし。貴方に求められると、わたくしが、わたくしでなくなってしまうと……そう、お伝えしたばかりでしょう……?」
「でも、俺はもっと見たい……。滅多にわがままなんか言わない先輩の、素直なからだ……


 翠は、美しくかたどられた鎖骨に頬をよせる。そして、飼い主にしっぽを振る犬のように甘えながら、ぼそっと呟いた。


「はしたない伏見先輩も、すげえ好きですよ………?」


 好きで、すきで、仕方がないからこそ、いつだって触れていたい。キスをして抱き締める、物理的な愛情はもちろんのこと。完璧で非の打ちどころがない、優等生の皮を剥がしたい。性的な事柄にはまるで無縁といわんばかりの、涼しげな顔をしているくせに。存外求めたがりの弓弦の本性を、余すことなく暴きたかった。


「ねえ……練習が終わったら、また弓道場に寄ってもいい……?」


 いけません、と返されるのはわかっているから、ちゅっと触れるだけのキスをして、続きの言葉を奪ってみせる。年上の忠告を無視するのはよくないが、致し方ない。いまさら恥じらう恋人の姿を目の当たりにして我慢できるほど、大人ではないのだから。子どものふりをできるのは、年下の特権だ。
 それに───昼間は、凛として振る舞っているけれど。太陽が落ちたあとの素顔だって、知りたいのだ。ほんとうは底抜けに欲深くて、浅ましいのは、翠だって一緒なのだった。