らい
2021-06-19 21:22:16
1955文字
Public みどゆづ
 

1+1すら解けなくなった

みどゆづ


 計算には自信がある。
 幼いころに過ごした軍事施設では、耳が腐るほど『次の事態を常に予測して生きよ』と教えられてきた。想定外を、想定内のできごととして処理できないようでは、姫宮家の執事は務まらない。だから弓弦は、人生に起こりうるパターンを、いくつも用意している。最善の道を選び、滞りなく事を進めるための数式を、常に頭のなかで組んでいた。
 おおむね計画どおりに生きてきたつもりだ。多少の失敗はあれど、いつだって正確に、そして上品に振る舞えるように。あらゆる手を尽くして、美しい人生を目指してきたはずである。


「高峯さま。みだりに触れるのは、おやめくださいまし
「本当にだめ?」


 しかしながら、上目づかいで続きをねだる後輩によって、人生の計算は狂わされつつある。神聖な学び舎の、荘厳な生徒会室で、どうしてキスをせがまれる事態に陥っているのだろう。窓の外には、部活を楽しむ生徒たちの、無邪気な声が飛び交っているというのに。ガラス一枚を隔てたこちらは、健全な青春と反するいびつな空気が漂っている。


「いけません」


 弓弦は、ぐいと攻めてくる翠の胸を押し返し、乱れたネクタイを直そうとする。ところが手首を掴まれて、ふたたび唇が近づいた。資料棚に背筋が当たり、ガコンと音が鳴る。いやに大きく響き渡ったような気がした。生徒会役員は誰ひとりとしていないはずだが、万が一、聞かれていたとしたら。もしもの被害妄想に、肩がびくりと跳ねてしまう。
 だがそれは、ふたりだけの秘密が流出する不安とはまた別の、興奮にも似た熱がもたらす反応だ。


「わたくし、ろくに『待て』すらできない大型犬を飼った覚えはございません」


 とはいえ、欲望のままに遊ばせる放し飼いは、弓弦の趣味ではない。弓弦は、柔らかな頬をてのひらで包みこみ、甘えたがりの背高のっぽを注意してみせた。八の字の眉をぶら下げて、悲しげにくちびるを引き結ぶその姿は、まさしく叱られた犬のようである。
 幼少期の苦い経験から犬っころは大の苦手だったが、図体の大きい生き物が、みるみる縮んでいくその姿はなんとも愛おしい。胸が、いっぱいになってしまう。


「俺、犬じゃない………高峯翠………
「ふふ、冗談ですよ。貴方が、あまりにもしつこいので……つい」


 うなだれる頭のてっぺんを撫でると、瞳をうるませた翠が「先輩の、いじわる……」と肩を揺さぶる。頼りなく動かされる指先を眺めながら、弓弦は穏やかに微笑んだ。すこしばかり厳しめな態度をとっただけで、しょんぼりと視線を下げる。可愛らしくて、もっと見つめていたくなる。
 しかし、翠がとつぜん頭を浮上させたので、弓弦は柄にもなく驚いた。いつもなら、おおきな身体をぎゅっと抱き締め、背をぽんぽんと叩くまで、うじうじと落ち込み続けるというのに。
 ふたたび手首を掴まれて、壁にそっと縫いつけられる。静寂な生徒会室に、時計の秒針が淡々と刻まれていくのが聞こえた。だがそれ以上に、心臓の鼓動がどくりと高鳴った。


「でも……。次の仕事が成功したら、なんでもしてくれるって約束したのに……
「確かに、わたくしはそう言いましたけれど。ですが、そのタイミングは今では……んっ」


 ゆっくりと唇を啄まれる。衝動のままに舌を突っ込むわけでもなく、表面をくっつけるだけの幼いくちづけだ。やっていることは強引だが、優しいキスだった。それなのに、くちびるの表面は甘く濡れて、いやらしい液でも塗りたくられたような気分になる。弓弦の腰は、きゅっと痺れた。


「いけません、と……んっ……申して、おりますのに………っ」


 隙あれば、果敢にサインを求めてくる翠だけれど、ほんとうは繊細で、引っ込み思案で、なにをするにも消極的な性格だと聞いている。だから、茂みの奥でこっそりと愛を育む、小動物さながらの生き物だと信じていた。けれども実際に付き合ってみると、存外そうでもないことがわかる。
 計算には自信があったのに、そろばんの弾き方を間違えた。高峯翠は、のんびりと草を食べ、ひなたぼっこをして満足するような生き物ではない。狙った獲物を巣に持ち帰るまで逃さない、肉食動物なのである。


「仕方ありませんね」


 熱っぽく求められたら、抗えなくなる。すっかり彼の虜になってしまったこともまた、想定外の数式だった。


「すこしだけ……ですよ」


 潤んだまなざしの前でシャツを割り開けば、あっという間に食らいつかれる。


「ふしみせんぱい、だいすき………


 嬉しそうにつぶやく大きな背に両手をまわして、弓弦はため息をついた。きっと、すこしだけでは終わらないだろうから。そのぐらいの計算は、できる。