らい
2021-05-21 23:05:54
1324文字
Public こはひめ
 

IFなんて信じるな

こはひめ60min様/テーマ「キス」



「HiMERUが教えた通りに、実践してみてください」


 窓硝子に艶めく雨垂れのような、透き通った前髪をかき上げて、HiMERUはこはくの腰にまたがった。静寂に包まれた部屋に、ふたり分の体重を預けたソファーが、ひっそりと沈む。
 未だ発展途上の体格であるこはくと比べれば、HiMERUの身長は遥かに高いのに、あぐらの空洞におさまる尻は軽い。ジーンズ越しとはいえ、布の奥にあるくぼみに触れそうで触れない、いたずらな腰の揺らめきに翻弄されそうになる。こはくは微熱に震える指先で、HiMERUの頬をなぞった。なめらかな皮膚は清い水たまりのようで、そのまま吸い込まれてしまいそうだ。
 HiMERUが、指導してあげますよ───好意を伝えたあの日から、HiMERUはなんでも教えてくれる。自然に手を繋ぐ流れ、耳元でささやく言葉の選び方、背後から抱きしめるタイミング、軽く戯れる程度のくちづけ。
そして今日は、互いの舌を絡めあう濃厚なキスを教えてくれた。歯肉を丹念に舐められ、くちゅくちゅと水音を立てながら唾液を交換したのも、今日が初めてのことだった。
 大人のキスは、直前に飲んだコーラの味がした。色気など微塵もなかったが、快楽に酔っ払うには、充分すぎるほどの媚薬でもあった。アルコールの代替品は、もしかすると唇同士の営みなのかもしれない。


「桜河。待ちぼうけは禁物なのですよ」
「あないな激しいもん、すぐには出来ひん……
「尻込みしているのですか?まったく据え膳食わぬは何とやら、なのです。こうした局面に躊躇する男は、大方の場合においてがっかりされます。……例えば将来、あなたと出会うであろう素敵な女性にね」


 こはくは眉を歪めて、むっとした。愛嬌のある口角を不機嫌にぶら下げながら、無言でHiMERUを見やる。しかし、真夏の海を浴びたかのような涼しげなまなざしは、熱に濡れたまま、ただ一点にこはくを眺めているだけだ。
 好きや、と想いを告げて、HiMERUでよければ、と存外すんなり返事をもらったはずなのに。架空のパートナーをしょっちゅう話題に上げてくるのは、どうしてだろう。なぜ、もしもの分岐点を話すのか。こはくが好いているのは今、この瞬間に駆け抜ける現実であって、まぼろしの未来ではないというのに。


「がっかりするんは、後にも先にもHiMERUはんだけや」


 そうして斜め下から、静かにくちづけた。そっと触れるだけの幼いキスを、角度を変えながら何度も、なんども。濡れそぼった舌をくっつけるのは確かに気持ちがいいけれど、今はこうして子どもみたいな挨拶をしていたかった。好きや、好きなんよ。わざわざ言葉にせずとも、伝わるだろうか。
 本日の教えに背いたものだから、HiMERUは面食らっていたが、「復習は、また後日にしましょうか」と穏やかに笑って、まぶたを閉じた。
 視線が合っただけではにかんで、手を繋いで微笑みあう。平日の夜にチャンネルを回せば、どこかで必ずやっている純愛ドラマの恋人同士には、到底なれそうもないけれど。それでも憧れは捨てられないのだ。『好き』だけで永遠に続いていく関係が、どうしても欲しかった。