らい
2020-10-24 17:45:19
1863文字
Public こはひめ
 

召しませ心臓

こはひめ60min様/テーマ「kiss」

 幼少の頃から、背後から迫りくる気配には敏感だ。本気になれば、肋骨に指を滑らせて、心臓を潰すことだってできる。
 汚れ仕事をこなすための訓練を受けてきたのだから、当然である。だから、己に近づく不穏な影を察知する能力も───間違いなく、備わっていたはずなのだ。


「桜河」
「ん?」


 弾力性のある柔らかなソファーに座り、雑誌のスイーツ特集を読んでいると、ふいに唇をうばわれた。生温かく、それでいて不快感のない、まるでパンケーキのような甘い感触が、ひだをつたって全身に流れていく。こはくは、次のページをめくろうとする指を止めた。そっと触れるだけのキスをしたHiMERUが、涼しげに微笑んでいる。


「準備ができたので、行きましょうか」
……まんまと、やられたわ」
「油断禁物ですよ、桜河」


 読みかけの雑誌をぱたりと閉じると、こはくはキスの余韻に、頬を熱くした。
 今日は、ふたりで外食に出かけようと約束していた。肉汁たっぷりのステーキを食べたいとか、ついでに期間限定のパフェも頼みたいとか、ソロで請け負ったファッション誌の仕事がうまくいった話をたくさん聞いてほしいとか。そんなことを考えながら、シャワーを浴びているHiMERUの準備を、のんびり待っていたのだけれど。いつの間にか着替えていたHiMERUに、キスを仕掛けられたのだ。不審者の奇襲はすぐさま返り討ちできるのに、HiMERUの不意打ちには反応が遅れてしまったわけである。
 最近は、常にそうだった。生クリームがたっぷりと含まれたチョコクレープを頬張っているとき、高難易度のダンスの振りつけ映像と睨めっこしているとき、冷蔵庫のなかから楽しみにしていた八つ橋を取り出したとき───他にも数えきれないほどあるけれど、HiMERUはふとした瞬間に「桜河」と名前を呼んで、こはくに軽くキスをする。単なるスキンシップ感覚で、本格的に誘うつもりは微塵もないであろうお子様仕様のくちづけだ。付き合う前は、恋人同士のコミュニケーションを億劫に感じるタイプとばかり思っていたけれど、蓋を開ければこの通り。隙あらば、ちょっかいを掛けてくるのである。
 年上の相手がいたずらで楽しんでいるのは、正直なところ可愛らしい。男心に響かないといったら、嘘になる。しかし、年下だからといって、一方的に遊ばれるのはしゃくだった。男として生まれたからには、雄の自我を見せつけたい。好き勝手におちょくられるのではなくて、立派な男として格好をつけたいというのが、本音なのだ。


「そういえば……。今日はノープランですが、桜河はなにを食べたいですか?HiMERUの推理によると、最近は海鮮系が多かったので………食べざかりの桜河は、肉厚のステーキを求めていると推測します」
……HiMERUはん」
「どうでしょう。当たっていましたか?」
「HiMERUはん……


 こはくは、ごくりと唾をのみこんだ。そうして、スニーカーの靴ひもを結んでいるHiMERUの横から、薄いくちびるをかっさらう。靴に絡んだ細い指が、展示品の硝子細工のように、美しく止まった。


「わしだって、やられてばっかりとちゃうよ」


 ちゅ、と音を立てながら、キスを終える。される時も、する時も、くちびるの感触は変わらないはずだが、それでも、胸の鼓動がどくりと跳ねてしまう。


「だったら。もっと、やり返してください」


 こんなにも頬が熱くて、脈の音がやかましいのに。HiMERUは、平然と笑ってみせた。


「HiMERUは、明日オフなのです」
………今日、やっぱり、カップ麺でも、ええ………?」


 外食、やめよ。こはくは、HiMERUの肩をおそるおそる掴んで、尋ねた。どくどくと跳ねる鼓動に、喉がかすれてしまう。しかし、履きかけの靴を放り投げて、HiMERUが「ご自由に」と微笑むものだから。今度は、薄いくちびるを目がけて、獣のごとくがっついてしまった。
 いつ、いかなるときも、どんな仕事であっても冷静に対処する。それが桜河家の教えで、幼少期からずっと学ばされてきた。無様な弟の姿を見たら、姉三人はなにを思うだろう。朱桜家と陥れようとする輩を始末するのは造作もないのに。恋と対峙すると、目の前の視界がアップルパイのように甘く焼けて、使い物にならなくなってしまうのだ。どくり、どくりと波打つ鼓動が、とまらない。毎秒、心臓をえぐりとられるはめになるなんて、恋に落ちるまえは、ちっとも知らなかった。