らい
2020-10-10 17:44:22
1460文字
Public こはひめ
 

青のアトリエ

こはひめ60min様/テーマ「芸術の秋」


 絵の具をしぼったパレットに、おろしたての筆をひたす。白い毛先が鮮やかな緑と混ざりあったとき、ふいに「桜河」と名前を呼ばれた。
 空中庭園の下絵に集中していたこはくは、おもわず筆を落としそうになる。足元に落ちる影から視線を上げると、そこにHiMERUが立っていた。片手にコーヒーの缶を持ち、耳たぶに髪をかけながら、微笑んでいる。


「なんや、HiMERUはんか……。驚いたわ、今日の仕事はもう終わったん?」
「ええ。長丁場の撮影で疲れたので、新鮮な空気を吸いに……たまたま桜河がいたので、声を掛けてみました。……絵を描いているんですか?」


 HiMERUが、こはくの隣に腰かける。喉を鳴らしながら、缶にくちづけた。歳は二つしか変わらないというのに、大人顔負けの色気を醸し出している。アイドルでなければ、きっとモデルでも通用するに違いない。芸術品として称えられても違和感がないほど、美しかった。


「桜河?」


 長いことHiMERUを見つめていたことに気がついて、こはくは慌てて平静を装う。


「せ……せやねん。ほら、わし今度バラエティに出るやろ、ゲストで」
「そういえば……。天城から聞きました。確か……
「『才能あるなし選手権』にな、呼ばれたんやけど。そこで絵心を試されるんよ。事前の課題っちゅうことで、空中庭園で写生大会してんねん」
「なるほど。どうりで一生懸命に、真剣な目つきで筆を握りしめているわけですね。ふふ、小学生の頃を思い出します」
「わし、子どもやないんやけど…………まぁええわ。今日のわしは本気やねん。傑作を生みだして、番組に爪痕を残したるわ」
「桜河。ここに、絵の具がついてますよ」
「あ?」


 チューブから取り出したときに、こびりついたのだろうか。角ばった手の甲に、紙の草木に色づくはずの緑がべっとりと塗られていた。
 習字を学んでいた幼いころ、しょっちゅう手の平を墨だらけにしていた記憶がよみがえる。これでは「小学生の頃を思い出します」と笑われても仕方ない。周囲の同学年よりは大人びている自覚があるが、ふとした瞬間に年相応の間抜けさが滲みでてしまう。こはくの頬は、かぁっと熱くなった。


「まだ渇いていませんから、すぐに落ちますよ」


 HiMERUは上着から取りだしたティッシュを、筆洗い用のバケツにひたす。そうして、こはくの手に触れると、優しくこすって汚れを落とし始めた。細くて長い指が、血管をなぞるように動きまわる。
 凝視していられなくなって、こはくは目線を外した。しかし、移動した視界の果てに、やはりHiMERUを映してしまう。長い睫毛がまぶたに影をつくり、薄いくちびるは上品に引き結ばれ───ほつれた髪が、艶やかに反射する。こはくは、ごくりと喉を鳴らした。


「綺麗になりましたよ、桜河」
「お………おおきに」
「HiMERUは応援しています。お絵描き、頑張ってくださいね」
「おっ、『お絵描き』やのうて、『写生大会』や!」
「冗談です」


 HiMERUは「それでは」と手を振って、空中庭園を後にする。華奢な背中が去ったあと、こはくは長い息を吐いた。眼下に広がる世界には、美しい風景が広がっている。瑞々しく生い茂る緑の木々、風と寄り添う灰色の石、澄み渡る空に反射する透明な池───それらの自然を上書きするように、薄青の髪がなびく。
 こはくは、首をぶんぶんと振って、筆を握りしめる。それでも緑に染まっているはずの毛先が、青く滲んで映るのだった。