らい
2018-08-25 21:00:48
2881文字
Public レオいず
 

ファーストキスは色褪せない

レオいず♀(瀬名女体化)※20代のふたり



 泉は時折OBとして、母校である夢ノ咲学院を訪れる。時を同じくして卒業したレオとともに、在校生たちの指導という名目で定期的に足を踏み入れていた。
 凛月に「お局セッちゃん」と評されるほどのスパルタで後輩たちを鍛えたあとは、大抵レオの車で夕飯を済ませて帰宅する。FMラジオのリクエストコーナーを聞き、あるいは、レオの新曲をiPodで流しながら、助手席でのんびりと帰路をたどる。それが『当たり前』の『いつもの流れ』で、不変の日常だった。

 さほど高くない洋食屋の駐車場は、しんとした夜の一角に溶け込んでいる。靴音がいやに響きわたるアスファルトを通り抜け、泉はさっさとレオの車に乗りこんだ。
 オムライス、決してまずくはなかったけど、ちょっと量が多かったかも。そんなことを考えながらシートベルトを締める。少し遅れて、レオも乗ってきた。ややあって、自動でドアが閉まる。車内いっぱいに静寂が閉じ込められた。
 レオは、めずらしく黙っていた。普段ならば、「最高にうまかった!」とか「お店のひとが飴くれた!」とか、「裏メニューがあるとかいう噂を聞いたけど、どうやって頼むのか全然わかんなかったな!というか初見の客でも頼めるもんなのか?」とか───いくつもの話題を、軽快に並べ始めるというのに。くちを開くどころか、夜色に反射するミラーをぼんやり見つめている。エンジンを掛ける気配すらない。


「どうしたの?」


 泉は、ふと尋ねた。レオの返事はない。そのかわり、レオは助手席の背もたれに手をかけて、おもむろに身を乗りだした。ギシ、と軋む音がする。柔らかく渇いた肉が、泉のくちびるに触れた。
 キスされている。己の身に起きている状況が、水に溶ける絵の具のように滲んでいく。脳の隅々までじわりと広がり、ようやく現実の色として認識したとき───レオの身体はすでに離れていた。


……おれの女になって!……ほしい」


 そう告げるレオは妙に姿勢がよく、両手でハンドルを握りしめている。円をなぞる指先は忙しなく動いていて、どこか落ち着かない様子だった。
 泉はとっくの昔に少女ではなかったし、それどころか成人を迎えている二十代の女である。おれの女になってほしい───今どきドラマでも耳にしないその台詞の意味は、充分にわかる。しかし、決して男女の間柄ではない男からのくちづけ。その意味を理解できても、事実として受け止めるにはいささか時間を要した。
 泉は、そっとレオに視線を投げる。こんなにも鼻筋がすっきりしていただろうか。目つきは鋭かっただろうか。手の甲が、角ばっていただろうか。数年ものあいだ見慣れていたはずの横顔が、どこか知らない男の姿に見えた。胸の奥に、火花のごとく閃光が走る。泉は太腿に手を置いて、うつむいた。


あんた、なに考えてんの。急に」
「すまん」
「マジで何なの。しかも駐車場で」
「わるい」
「この車のワイパーもぎ取られて、ぶん殴られたいわけ?」
「おれ、ワイパーで殺されたくないな……
「のんきに返事しないでくれる?」


 まっさらな無音が、ふたりのあいだに横たわった。遠くを走る救急車のサイレンが、車内の静寂をさらに強調させる。
 なに、この空気。死んじゃいそうなんだけど。───泉は、耐えきれずにラジオをつけた。続いては、高速道路情報です。穏やかな女性の声が、淡々と流れていく。レオはちらりとラジオを見やり、「あ~」と盛大な息をこぼした。


……まぁ、いやだよな。付き合ってもない奴に。しかも、おれに。……突然キスされるのはさ」


 レオは「ごめんな」と詫びる。
 いきなりのキスで困惑させといて、マジでなんなのこいつ。勝手にひとりで結論づけるな!───泉は、レオの左腕をグーの拳でこづいた。


……すぐに自信をなくすぐらいならさぁ。軽い気持ちで、キスしないでくれる?」
「あ?」
「ずるいよ、あんた。そんなふうに『ごめんな』って謝られたら、なんにも言えない。肯定も否定も、なんにもできない」


 今週も始まりましたこのコーナー、既に色んなメッセージが来ています。まだまだ受け付けていますので、最近あった素敵なエピソードなどがあれば───次のラジオ番組が、いつのまにか始まっていた。
 泉はレオの上着の裾をひっぱった。まずは1回、控えめに。やや間を置いて、2回。


それに。こういうことされるって、分かってたらさぁ。もっと良いリップ、塗ってたし。肌だって、いつも以上に。念入りに。昨日のうちから」


 突然、なにを言っているんだろう。冷静だったはずの思考回路が、ぐちゃぐちゃにかき乱されていく。
 だって。まさか、特になんでもない日にこんなこと。男からのキスに夢みていたわけではないけれど、それでも───泉は、ゆっくりと顔をあげた。翠色のまなざしが、泉をじっと見つめていた。


「そりゃあ。あんただって、色々と考えることあったんだろうけど。こっちだって、諸々の準備がいるわけ。ちっちゃな駐車場で。ご飯を食べたあとに。近くのコンビニに出かけるときみたいな、ふつうの顔で。……そういう雰囲気でも、何でもないときに。急にキスとか。……順序ってもんがあるでしょ」
「セナは、どんな時だってきれいだよ」
「はあ?いまは順序の話をしてるの。ほんとにバカ。空気、よんでよねえ。チョ~うざぁい」


 泉は、ぷい、と窓の外を見やった。夜に染まったアスファルトに、月すら見えない曇り空がある。ロマンもへったくれもない。ごく平凡に生きてさえいれば、いつだって見られる風景が広がっている。
 世の中の女子たちは、一体どんな場所で、男とのキスを経験しているんだろうか。夜景きらめく観覧車?魚が揺らめく水族館?ティーン向けファッション誌の恋愛コラムに載っているような、理想のワンシーンを望んでいたわけではない。それでも男と女のくちづけは、特別なときに、特別な場所でするものだと思っていた。
 けれども案外、こんなものなのかもしれない。はっきり言って、最低のシチュエーションであるのに。キスのその先を知りたいとすら思うのだ。


「あのさ。『いやだった』?『いやじゃなかった』?」
なにを言わせようとしてるわけ」
「順序の話してる。……べつに、『いやじゃない』んだったらさ。……もういちどやり直していい?」


 それでは、恒例のリクエストコーナーです。まずはラジオネーム───DJの声がすっと消える。レオは電源を切った。


「おれ、おまえのことすきなんだ」


 耳にそっと寄り添うような声色が、胸の裏まで溶けていく。泉はこくりと頷いた。視界いっぱいに、オレンジ色の影が生まれる。柔らかな肉が、再度くちびるにくっついた。
 誕生ではない。記念日ですらない。なんてことない人生の通過点に、こじんまりとした駐車場でキスをされた。
 きっと特別な日にキスをするのではなくて、キスをしたその時が特別な日になるのだろう。