汗の粒が皮膚に浮き上がり、喉は枯渇した泉のごとく渇き切っている。腕を振り上げ、腹の底から声を絞り出すたびに、身体中の水分がよそへと放出されていくのが分かった。体内を巡る熱から逃げ惑うように、不快な汗がしたたり落ちていく。一体なにがおかしくて、大量の汗水を流さなければならないのだろう。灼熱の太陽が蔓延る真夏の空の下に居るわけでもないのに。心の声は眼下に広がる現実に置換され、秒速でかき消されていった。
「緑の炎は慈愛の証…。ゆるキャラとかでみんなを癒す…」
「どうしたどうした!声が小さいぞ、高峯!」
「~~ッ緑の炎は慈愛の証!!ゆるキャラとかで!!みんなを癒す!!!」
「いいぞいいぞ、その意気だ高峯!半ばヤケクソ気味にも聞こえるが、熱い魂はこの俺の胸にも伝わっているぞーッ!」
流星グリーンの登場台詞とともに、豪快なスピードで右腕を折り曲げながらピースを放つ。いわゆる『決めポーズ』の練習成果を披露させられたところで、千秋はようやく「よしっ、一旦ここまでにしよう!各自、休憩に入っていいぞ!」と手を叩いた。
地獄のポーズ特訓から解き放たれた喜びよりも、長時間の拘束による倦怠感が全身を蝕んでいる。待ちに待った休憩の合図を耳に受け、翠は空気を抜かれたタイヤのように力を無くして座り込んだ。放課後のレッスンは基礎体力作りだと聞いていたのに、まさか数十回連続でポーズの練習をさせられるとは。腹筋と腕立て伏せの肉体強化メニューや、学院周辺でのマラソンを命じられるよりは比較的マシではあるけれど。引きつった口角を無理やり上げて笑顔を生み出す練習は、それはそれで苦痛である。ただでさえ恥を忍んで戦隊物のパフォーマンスに挑んでいるというのに、これ以上の辱めは勘弁願いたい。翠は額を抱えて、床と一体化するように寝そべった。
鬱だ…。しんどい…。帰りたい…。指先で引き寄せたタオルで汗を拭き取り、脆い呼吸とともに三つのワードを吐き落とす。翠とは別メニューをこなしていた鉄虎が、「翠くん、大丈夫ッスか?」と爽やかな声色で尋ねた。スポーツドリンクを豪快に飲み干す鉄虎に、翠は弱々しい返事を投げる。
「マジで死ぬかもしれない…」
「今日は一段と凄かったッスね~」
「気が狂ってる…。あ、俺も水、飲みたい…」
渇いた喉を唾で潤しつつ、傍らに置いてあるペットボトルに手を伸ばす。ところが中身はほとんど入っておらず、翠の気怠さは一遍に加速した。あーあ、買いに行くの面倒くさい…。水を調達してくれるロボットが居てくれたらいいのに…。むしろ俺の代わりに通学してくれる影武者的な味方が欲しい…。空想の物語に夢を膨らませて、翠は鈍重な動作で立ち上がる。スマートフォンの通知を確認する鉄虎に「水、買ってくるね…」と告げて、頼りない足取りで出口に向かった。
「おおっ、てっきり心が折れてしまったのでは!?と心配していたが、まだまだ元気が残っているようだな!それでこそ流星グリーン!わははははは!」
千秋に肩をバシバシ叩かれながら、やかましく見送られる。言い返す気力もない…。翠は溜め息を吐いて、レッスンルームを出た。
流星隊は守沢千秋を筆頭に、個性派揃いの奇抜な集団である。とはいえ練習一辺倒の熱血軍団ではない。休憩時間はしっかりと提供されるし、人間関係だって悪くない。学院内には軍隊体制であったり、スパルタ主義を貫いているユニットも存在するらしいので、そういった点では千秋に感謝している。何だかんだで居心地が良い環境作りが上手いのだ。本人に告げると調子に乗りそうなので、在学中のあいだは黙っていようと思うけれど。
ひとまず30分の休憩を貰ったので、翠はペットボトルを片手に、自販機のある階まで歩き始めた。放課後の廊下は生徒がまばらに散らばっている。学院指定衣装でドリフェスに備える者や、練習着で部活に精を出す者。今この空間には目視できないけれど、もしかしたら自分と同じように、ジャージ姿で練習に明け暮れている生徒もいるかもしれなかった。それぞれの恰好は違えど、今ここにいる誰もが、何かしらの目標に向かって打ち込んでいることに変わりはない。最近になって分かったことである。昔はその発想にも至らなかった。少なくとも、アイドル科を受験してしまったことを心の底から悔いていた入学当初には。
ぶっちゃけ疲れたけど、みんなも頑張ってるし…。とりあえず俺も、死なない程度に頑張ろっと…。
緩やかな決意を固めて、廊下の角を曲がる。そこで翠は「うわぁ!」と間の抜けた声を上げた。突如、人影が現れたのである。ホラー耐性が微塵もないせいか、急に飛び出してくるものには滅法よわいのだ。翠はその場でいったん立ち止まり―――『人影』の手から、何やら大量の書類が床に零れおちたことに気付く。その内の一枚が、上履きの表面にはらりと落ちた。翠は「すみません…」とそれを拾い上げるついでに、目の前の人物を見やる。青みがかった黒髪と、切れ長の瞳の下にある涙ぼくろ。一つひとつの特徴を統合して、翠はゆっくりと顔を綻ばせた。『画伯』と敬愛して止まない伏見弓弦が、そこに立っていたからである。
「ふ、伏見先輩……!」
「おや、高峯さま。大変失礼いたしました、わたくしとしたことが前方不注意とは」
「いや、俺もボーッとしてたんで…。……っていうかこれ、大事な書類ですよね……。すみません、俺も拾います……」
「いえ、お気になさらず。…本当によろしいのですよ?……ああ、申し訳ございません」
ペットボトルを小脇に抱えて、A4の紙を拾い上げる。野外ライブ立案書だの新規ユニット申請書だの、いかにも重要な文言が印字されていた。例によって生徒会の仕事をこなしていたのだろう。弓弦は生徒会所属の人間ではない。しかしながらその優秀な能力を買われて、今では役員同様の職務に従事していると聞いている。
「えっと…。これで全部?ッスよね…?」
縦と横をきちんと揃えて弓弦に手渡す。弓弦が「ありがとうございます」と柔らかいトーンでほほ笑んだ。翠はつられて笑い返しながら、脇に挟んでいるペットボトルを持ち直す。水の入っていない容器から、ベコ、と表面をノックする音が鳴り響いた。
「ええと…生徒会の仕事ッスよね…?いつもお疲れ様です…。なんか大変そうッスね…?書類とか…。その他にも色々と、いっぱい…」
「いいえ、お気遣い頂くほどの仕事量ではございませんよ。……どちらかといえば、高峯さまのほうがよっぽどお疲れのご様子ですが…?」
「わ…っ」
翠の額に、弓弦の掌がごく自然な流れで密着する。翠はごくりと息を飲んだ。もはや罰ゲームにも似たポーズレッスンに謎の体力消費を強いられたぶん、第三者の優しさに敏感になっているのかもしれない。「風邪ではないようですね、熱もないですし」と遠ざかってゆく弓弦の整った指先を、名残惜しげに眺めてしまう。
(伏見先輩は、いつでも優しいなあ…。わりと毒舌なときもあるけど…。精神的に不安定になるゆるキャラの絵も勿論だけど、伏見先輩にも癒されるっていうか…。マジで疲れたから、もっと癒されたいかも……)
伏見先輩で。
お疲れさまでございました、と淡い笑みを吹きこぼす弓弦から、直々にスポーツドリンクを手渡される場面を夢想する。優しげに細められる目尻は、翠の想像上の世界においても気品に溢れていた。『鬱だ』、『死にたい』、『だるい』。脳内全域に形作られた憂鬱の螺旋階段も、弓弦の微笑みがきっと壊してくれるだろう。
頭の奥に設けられた妄想劇場は、鮮明な映像を再生し続ける。
高峯さま、お身体には充分お気をつけ下さいまし。
弓弦の繊細な指が頬を掠める。そして―――
「どうやら、相当ハードな練習をこなされていたようでございますね」
「!?…えっ?」
「ペットボトルが、空っぽだったものですから」
「え、ああ、…これ?…そッスね」
弓弦が底尽きたペットボトルを指差している。俺、一体なんてこと考えてたんだろう。翠は物腰柔らかな声色に導かれるままに、たちまち現世へと引き戻された。空想世界からのおみやげに、虚無感だけが色濃く残る。
可愛らしい女の子が相手ならまだしも、れっきとした男の先輩に『癒されたいかも』と願うとは。突飛な妄想に巻き込むべき対象ではないはずである。いくら尊敬の念を抱いている先輩だとしても。
今日の俺はマジで疲れてる…。
翠は気を取り直して、精いっぱいの笑みを繕った。皮肉な話ではあるが、作り笑顔の完成度は数分前の練習で磨かれたばかりである。見事に『にこり』と口角を上げて、何事もなかったように振る舞った。
「……い、今の今までユニット練習で扱かれてたんスけど、あっという間に水が無くなっちゃって。休憩時間に入ったんで、今から自販機に行こうとしてたところで……」
「ふふ。左様でございましたか。……高峯さまも日々精進していらっしゃるようですね。感服いたします」
「精進っていうか……。ウチの隊長に延々とポーズ練習をさせられただけなんスけど……」
「隊長、と仰いますと。確か、守沢さま…でしたか」
「そッス…。あのひと、『様々なパターンで試行錯誤を重ねることが重要だっ!さぁ行くぞ高峯!お前なら出来る、俺は信じているぞ!』とか適当なこと言って……。『キラッ☆』とかいう日曜8時台の魔法少女がウィンク付きでキメてそうな擬音で決め台詞を言わされたりとか……。はぁ、鬱すぎる……親に見られたら確実に死ねる……来世の分まで死ねる……死にすぎて辛い……」
「……などと仰ってはいるものの、隊長さまと随分と仲がよろしいようで?」
口元に手を当てて、弓弦がクスクスと笑う。形の良い眉がゆがんで、男子高校生らしい笑みが飛びだした。不意打ちともいえる幼さに、翠の心臓が跳ね上がる。
伏見先輩も、こういう顔するんだなあ…。
唇が半開きになりかけて、翠は首をぶんぶんと振った。今日の自分は、本当に疲れている。
「…高峯さま?」
「…ア~すみません…!……というか、どこがッスか……?……確かにまぁ昔と比べたら、多少は嫌ではなくなってきてるけど……」
「そのお言葉を聞いたら、守沢さまもきっと喜ばれますよ」
「ぜ、絶対に言わない…。伏見先輩、絶対に言わないで下さいね…!?」
「そのようにお願いされてしまっては、わたくし…屋上から拡声器で盛大に暴露したい衝動に駆られてしまいます…」
「マジで勘弁して下さい…」
「もちろん。ほんの軽いジョークでございますので」
はあ、良かった…。胸をホッと撫で下ろす翠に、弓弦がふふ、と目を細める。その笑顔が、夜空の星屑さながらに煌めいて見えた。翠はたまらず唇を噛みしめた。
弓弦とは、ゆっくりと距離が縮んできている。最近の弓弦は、こうして冗談をぶつけてくるようになった。翠自身も、他愛のない話題を気軽に向けられるようになった。
ちょっと、嬉しいかも…。―――翠は頬を熱くしながら、更に会話を弾ませる。
「……『流星隊』……。なんだかんだで楽しいな…って感じるようになってきたのは……わりと本当で……」
「おやおや」
「最近の話だと…皆で焼き肉に行ったりとか……。そうだ、ほら、深海先輩っているでしょう。三奇人の…。あのひと、焼き肉屋に来てるのに『おさかなは、ないんですか?』ってションボリしちゃって。仙石くんが『うう~…何とかしてあげたいでござるけど……』って真剣に悩んじゃって……ちょっと面白かったな……。」
加入当初はスチャラカな集団でしかないと思っていたけれど、近頃はそうでもなくなってきているのだ。登場台詞の絶妙なダサさも、子ども向けの決めポーズも。未だに慣れない部分もあるけれど、流星隊というユニットが、それなりに落ち着く場所になりつつあって―――ほくそ笑みながらエピソードの続きを広げようとしたところで、翠はとっさに話を中断した。弓弦がきょとんと瞬きを繰り返していたからである。
「うわ~……すみません……こんなところで立ちっぱなしのまんま、さっきから俺の話ばっかりで……というか伏見先輩、仕事中ッスよね……」
邪魔してごめんなさい、と一歩下がろうとする。
ところが弓弦に手首を掴まれた。一本の親指と、残りの四本指で包囲された付け根の部分が熱くなる。翠は反射的に「え?」と困惑まみれの声を漏らした。
「高峯さま」
弓弦は翠の両手ごと掴んで、自身の胸に引き寄せる。ひんやりとした温度が手の甲を伝って、身体中に流れる血液を沸騰させた。
えっ?えっ?えっ?―――大量の疑問符を頭上に浮かべる翠をよそに、弓弦は続ける。
「―――初めてお見かけした際は、『鬱だ鬱だ』と曇り空のごとく真っ暗な表情を浮かべておられましたのに。今では、ご自身の所属するユニットのお話を楽しげに語られるとは……。わたくし、少しばかり感動してしまいました…」
「?……自分ではよく分からないけど……そう見えるのかな……。というか、あの、手……そんなに手ぇギュッとされたら俺……」
「高峯さまは、とてもよく成長されていますよ」
「そ、そうッスかね…?伏見先輩から褒められると嬉しいなあ…。……って、あの、だから、手…」
「?ああ、申し訳ございません。こちらのほうが宜しいでしょうか?」
よしよし…。
濃灰のセーターから僅かにはみ出た掌で、愛しの子どもを褒めるかのように頭部を撫でられる。想定外の展開に、翠の肩は波を打った。しなやかな手つきで左右に触れるものだから、思わずうっとりと瞳が潤んでしまう。
……うっとり?なんで?―――翠はハッと目を見開いた。
「ふ、伏見先輩。……それは、ちょっと。……さすがに」
憧れの画伯といえども、恥ずかしいんスけど…恥ずかしいっていうか…なんというか…とにかく…それをやられると俺はダメになるというか…!
喉の奥から切羽詰まった声を絞り出し、弓弦を強引にしりぞける。ところが手首を掴んだ瞬間、「あっ」と控えめな声が漏れた。そして意外にも簡単に持ち上がってしまったので―――翠はひどく赤面しながら、弓弦の手をパッと離した。
突然、手を握り締められたうえに。頭をよしよしと撫でられて。おまけに、妙に情欲を掻き立てられる声を聞かされて―――不覚にも心音が早まってしまった。相手は憧れの先輩であって、そもそも性別:男であるというのに。数十回以上にも及ぶ連続決めポーズの疲労感が、もしや思考回路にも影響を及ぼしているのだろうか。鬱だ死にたい。翠は身を震わせる。当の弓弦は、相変わらず品の良い笑顔を向けていた。ああ、俺の気も知らないで!―――尊敬する先輩に、脳内で八つ当たりを繰り広げてしまう。
「……おおっと、とんだご無礼を。我が子の成長を見ているようで、つい手が伸びてしまいました」
「わ、我が子って…。背の高い16歳の男を捕まえて頭を撫でるとか、さすがの伏見先輩も変質者扱いされちゃいますよ……!」
「それは困りますね」
「そんな、他人事みたいに」
まぁ、褒められること自体は悪くないけれど。
きっと疲れているだけなのだ。翠は何度も唾を呑み込みながら、もう一人の己自身に言い聞かせる。善悪のあいだで揺れる犯罪者を説得するように。それはもう必死の形相で。
伏見先輩は、ゆるキャラの天才絵師。伏見先輩は、心の底からリスペクトする大先輩。伏見先輩は、伏見先輩は、伏見先輩は―――翠はおおきく息を吸って、弓弦の肩をぐっと掴んだ。
伏見先輩は俺のこと、純粋に褒めてくれたんだから。俺も、後輩として当たり前に振る舞おう。平常心を忘れずに。そうだ、落ち着け。深呼吸だ……!―――不思議そうに見上げるあやめ色の眼差しに、語りかける。
「あ、あの……!なんか、俺ばっかり褒めてもらって申し訳ないっていうか……!」
「は?」
「いや、なんつーかその……伏見先輩も最近めちゃくちゃ忙しそうだし……。ええと、うまい言葉が見つかんないけど……大変なこととか、面倒くさいこととか……。なんか吐き出したいことがあったら、俺にいつでも話してくださいね……!」
「はあ……?」
「いっつもゆるキャラの絵を描いてもらってるお礼も兼ねて……。先輩の悩みを一発で解決できるほどの助言力はないですけど……。その、なんていうか……気晴らしくらいにはなるかもしれないし……?」
「……高峯さま?」
「せっかくお近づきになれたんだから、先輩のこととかもっと知りたいし……」
「はい?」
「だって俺、先輩のこと好きだから……」
「え?」
「…え?」
ふたりの間に沈黙が流れる。これが漫画の世界であるならば、仏壇の鈴音が横切っているに違いなかった。チーン、と反響する架空の効果音をあざ笑うかのように、翠の額からすだれのごとく汗が流れ落ちる。
おのずと零れ落ちた台詞は、まぎれもなく本心だった。そう、本心なのである。だって俺、先輩のことが好きだから。急に湧き上がった感情の行き先が、もはや翠にもわからない。更にはその声がいやに大きく響き渡ったような感覚に襲われて、翠は真っ赤になりながら両手をぶんぶんと交差させた。
ただの後輩がこんなこと言うわけがないのに!―――掌を開いた拍子にペットボトルが落っこちる。それは弓弦のつま先に転がって、ぴたりと止まった。
「いや、あの!そういうつもり?ではなかったんですけど…いやそういうつもりってなんなんだよ訳わかんねえ……鬱だ死にたい……すみません忘れて下さい……すみません……ごめんなさい……」
頭がまっしろに染まって、呼吸が止まりそうになる。真っ黒な雨雲が空を覆うように、暗愁の影が額の奥に渦巻き始めた。
もう駄目だ…。絶対に嫌われる…。むしろ確実に嫌われた…。
頭を抱えて、静かにうずくまる。まるで肺のなかに石ころを投げ込まれているかのようだった。海底に沈む碇のごとく、心がまるごと沈んでいく。
無音の時が流れる。やがて少しの間を置いて、ペットボトルを拾い上げる弓弦の姿が見えた。翠はおそるおそる視線を上げる。弓弦が翠の目線の高さに合わせて、しゃがみ込んでいた。
「高峯さまのお気遣い、大変嬉しゅうございます」
弓弦は膝の上に書類の束を置くと、静かに翠の両手に触れた。
伏見先輩が、また、俺の手を。
熱い息を吐く翠を一瞥すると、今度は手の甲ごと握り締める。そうして、ペットボトルをぎゅっと持たせた。
「今度、二人きりの機会があれば。……ぜひ」
弓弦は人差し指と中指を滑らせて、翠の肌をなぞる。指の隙間を浸食するかのように、しなやかな動きで関節を侵した。
細い指先がうごめく姿に、翠はあわあわと唇を震わせる。急に触れられた人肌の温かさに過剰反応してしまっているだけなのか、いや、それとも。
翠が正解に辿り着く前に、弓弦がすっと立ち上がる。いつも通りの、穏やかな笑みを携えて。
「それでは、わたくし―――生徒会のお仕事が残っておりますので。失礼いたします」
弓弦は会釈して去ってゆく。しゃんと伸びた背筋がまぶしく見えて、まじまじと直視することができない。翠は萎んだ風船のごとく脱力して、すぐ傍にある廊下の壁にもたれ掛かった。
伏見先輩は、ゆるキャラの天才絵師で。伏見先輩は、心の底からリスペクトする大先輩で―――彼が持っているペンから紡ぎ出される魔法のイラストが、この世の何よりも大好きなだけだったのに。握り締められた手から広がる、得体のしれない熱の名前がわからない。弓弦の姿が見えなくなったあとも、熱を帯びた身体の体温は一向に下がらなかった。
(休憩時間、あと1時間くらい延長してほしい…。鬱がひどい…だるい…帰りたい…)
今しがた触れられたばかりの手の甲を押さえつけながら、翠は下半身の筋肉に力を入れる。喉の渇きは、もはや頂点に達していた。とりあえず、水。なんでもいいから、水。砂漠のオアシスを求める放浪者のように、ふらふらと身を起こす。全身を駆け巡る熱を一刻も早く、清らかな液体で押し流してしまいたかった。
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