らい
2015-09-23 20:54:50
2738文字
Public りついず
 

わたしに傘をくれたひと

りついず♀→まこ②/瀬名女体化

 帰りのホームルームが終わるまで、あと3分を切ろうとしていたときのことだった。クラスメイトの守沢千秋が、「くそう!降ってきたか!」と、唐突に立ち上がったのである。今日はゴミ拾いのボランティア活動をしようと思っていたのに、と拳を握りしめる千秋に、担任教師が「守沢、座りなさい」と声を強めた。ははは、と笑いの渦に巻き込まれる教室をよそに、泉はサイアク、とちいさく呟いた。

 学院の外を映す窓には水滴が張りついて、その向こう側ではポツポツと雨が降っている。眼下に広がる灰色の雲に、溜め息がこぼれてしまう。今日の朝は珍しく寝坊したせいで、天気予報をろくに見ていなかった。折りたたみ傘のひとつも持ってきていない。おまけに愛用のバイクは修理に出していて、公共交通機関を使わなければ帰ることができない。学校から駅までの数分間と、駅から家までの数分間。雨風に晒されながら歩かねばならないと思うと、泉はいささか気が重くなった。

 放課後の合図であるチャイムが鳴って、クラスメイトは散り散りに教室を出ていく。わたし傘わすれちゃったんだよね。それじゃあ途中まで一緒に入って帰ろうか。仲睦まじいやりとりを繰り広げる女子生徒の横を通り抜ける。友達の一人でもいれば、こんな風に帰ることも可能なのだ。けれども泉には無縁の裏技だった。傘に入れてくれる友達なんて、自分にはいなかった。


 今日はグラビアの仕事もないし、レッスンの用事もない。黄金の放課後といってもいい条件が揃っている。しかし悪天候のなか、どこかに寄り道をする気はさすがに起きなかった。とっとと直帰して、ゆうくんのアルバムを整理して、お風呂でのんびりしようっと。泉はスクールバッグを抱え直して、玄関へと向かった。雨に濡れたくはないけれど、傘がないのだから致し方ない。駅まで急いで走ろう。効率的な帰宅ルートを模索しながら、靴箱のローファーに手を掛けようとした。その瞬間だった。ふと反らした視線の先に、よく見知った金髪の後ろ姿を見つけた。泉は天にも昇る心地になった。

(ゆうくん!)

 玄関の向こう側で、遊木真が腕時計を確認しながら立っていた。誰かのことを待っているのだろうが、泉にとってそんなことはどうでもよかった。真のことだから、天気予報をチェックしたうえで傘を持ってきているだろう。多少は苦戦するかもしれないが、女の頼みに弱い彼のことである。強引に交渉すれば、駅まで相合傘という夢のシチュエーションに持っていけるかもしれない。そうと決まれば、話は早かった。泉は靴箱の中にふたたび手を突っ込み―――突然”だれか”が手首を掴んだので、慌てて手を引っ込めた。


「ひっ!?」


 反射的に声を上げて、泉が振り返る。数秒ほど沈黙したあとで、泉はすぐに不愛想な表情を向けた。「セッちゃん」といたずらにほほ笑む凛月の姿を確認したからである。


ちょっと、なぁに?驚かせないでよね」
「ふふふ。ぐうぜんセッちゃんを見かけたから、捕まえたくなっちゃった」
「はあ?ほんっと、暇だよね」
「セッちゃんだって今日は暇なくせに」
「チョーうざぁい!っていうか、くまくんも今帰りでしょお?とっとと帰んなよ!」
「帰らないよ。どうせ早く帰ったって、ウザイ兄者がいるもの。部室で一眠りしてから、帰るつもり」
「それじゃあ部室に直行すればいいでしょ!」
「部室に行く途中でセッちゃんを見かけたから」
「理由になってない!っていうか、離してくんない!?」
「やだって言ったら?」
「おまえの兄貴を召喚してやる」
「うわ。まじ勘弁」


 凛月がパッと手を離す。ようやく解放された手首を胸にしまい込みながら、遊木真が立っていた場所をもういちど見やる。先程まで存在していた真の姿はもう消えていた。
 こいつのせいで、すべての作戦が台無し!チョーサイアク!――泉は眉を吊り上げて、凛月の胸をグーで叩いた。


「ゆうくん、行っちゃったんだけど!?」
「ゆうくんと帰る約束してたの?」
「して!……ないけど、それはこれからどうにかしようと思ってたわけ!」
「強引な女だね、セッちゃんは」
「ゆうくんはやさしいから、きっと許してくれるしぃ?」
「やさしすぎる男って罪だよね」


 そう言うなり、凛月の表情に影がともった。哀れんでいるような、それとも呆れているような、どちらともつかない眼差しが泉を射抜く。凛月はたいてい眠そうな顔をぶら下げていて、くすぶった色を揺らめかせるのはたいそう珍しいことだった。コイツ、急にどうしたの。拍子抜けした泉が首をわずかに傾げる。ややあって、凛月は「そうだ」となにかを思い出したようにつぶやいた。


「セッちゃん。あのね」
「なぁに?」
「曲のフリで、ちょっと分からないところがあるんだけど」
「はあ?」
「時間あるでしょ。教えてくれる?」


 凛月が泉の手首を引っ張って、校内へと引き返し始める。ちょっと、くまくん、どういうつもり。突然のルート変更に泉はたじろぎ、おぼつかない足取りとなった。
 このままだと、こける!―――ところが、最悪の事態は訪れなかった。バランスを崩して転倒しかけた身体を、凛月が片手で支えたからである。グッと顔が近くなり、泉は反射的に目を閉じた。


「だいじょうぶ?」


 強制的に連れ出しておいて、コイツは何を言ってるの。泉は切れ長の瞳を更に細めて、凛月の腕を小突いた。


「ねえ!『いいよ』なんて一言もいってないんだけど!?」
「セッちゃんさあ、傘、持ってきてないんでしょ」
それが、どうしたっての」
あ~、やっぱりね。だったらさ、雨が止むまで俺にダンスを教えてよ」


 いったん立ち止まって、ゆっくりと振り返る。何それ、自分勝手に話を進めないでよ。反論しようとすると、凛月がふたたび歩き出した。泉は抵抗する暇もなく、まっすぐに連れていかれる。


「あのねえ。ぜんぶ教えたとして、その時も雨が降ってたらどうするわけ?」
「傘、持ってるから」


 送っていってあげてもいいよ。凛月は振り向かずに言ってのけた。
 凛月の真意は何ひとつ分からない、けれどもこの時の泉は、なんら疑問を抱くことをしなかった。雨の中、わざわざ帰りたくないし。家に帰っても、暇だし。ちょうどいいから、教えてあげてもいっか。ただ、それだけだった。

 だから、泉は知らない。あの時、真が他の女の子を待っていたことも。その女の子と相合傘をして帰っていったことも。泉にその光景を見せまいと手を引っ張った凛月のことも。
 自分という存在が一人の庇によって守られていることを、泉はまだ、なにも知らない。