放課後を迎えた廊下は、人通りがまばらになる。レッスン室や部室に向かう生徒が行き交う程度で、昼間の賑わいに比べると格段の静けさだった。
青緑のヘッドフォンから幾度もリピートされるインストを聞きながら、ゆうたは窓のふちに両腕を預ける。外に見える若緑の葉のすきまから、夕暮れの光が射しこんでいる。かれこれ一時間はこうして立ち尽くしているけれど、脳みそは依然として空っぽのままだった。
「ゆうたくん」
延々と流れていた穏やかなBGMが急速に遠ざかっていく。ヘッドフォンを勝手に外された、と気が付いたときには耳元で名前を囁かれていた。ゆうたは猫のごとく背すじを伸ばし、ピギャー!と素っ頓狂な声を上げる。振り向くとそこには瀬名泉が立っていた。引き締まった薄い唇の端っこを上げながら、してやったりと言わんばかりの満足げな表情を浮かべている。
「瀬名先輩!驚かせないでくださいよ!」
「おばけかと思ったぁ?だいじょうぶ、おにーさんが守ってあげるから」
「いりません。っていうか、今は一大事なんです。驚いてる場合じゃないんです」
瀬名の手からヘッドフォンを取り返して、ゆうたはハァ、と肩で息を吐いた。その様子を見た瀬名が「なぁに、おにいちゃんに話してごらん」と細長い指でゆうたの顎をつかむ。ゆうたは「やめてください!」と狼狽しながら身をねじった。相変わらずスキンシップの激しすぎる上級生である。
「なぁに。俺に言えないことぉ?女でもできたぁ?っていうかその女、何年生?まさか言い寄られてるんじゃないよねえ。女の出方によっちゃあ、こっちもチェーンソーで襲撃しに行くけど」
「ちっがいますよ!っていうか物騒な発言やめてもらえませんか!?そしてチェーンソーはどこから仕入れたんですか!?」
「伏見弓弦とかいうfineの――」
「真面目に答えないでください!」
頭が痛くなる展開だ。ゆうたは額を抱えた。
「…違うに決まってるじゃないですか。…作詞です。作詞の宿題が出たんです!」
「へえ。だから悩んでるわけ」
「はい」
俺もあんまり好きじゃないねぇ、作詞するのは。瀬名はお手上げのボーズで溜め息をつく。あらゆるジャンルを器用にこなす瀬名にも苦手な分野はあるのだということに驚いた。
「あらかじめ指定された楽曲に歌詞をつけていくんでしょ。どんなメロディーなの、ゆうたくん」
「ええと、聞きます?」
「うん」
瀬名がヘッドフォンを装着する。ゆうたは曲のスタート位置をリセットして、ふたたび再生ボタンを押した。曲が流れてきた瞬間、瀬名はあからさまに顔を歪めた。
「うわ、何これ。こんな静けさ全開のバラード調とかさぁ、情緒も何も育ってない一年生には厳しくない?普通、もっと前向きな明るいメロディーでやらせるでしょ。書くのも恥ずかしいじゃんコレ」
「瀬名先輩もそう思いますか?…これだけなら百歩譲ってギリギリ理解できなくもないんですけど、でも」
「でも?」
「作詞のテーマが、『恋』なんです」
「はあ?こんな男だらけのアイドル科で冗談カンベンしてよって感じ」
瀬名はうんざりした顔でヘッドフォンを外すと、ゆうたの首にかけ直した。
「……俺、まだ、その。恋とか、そういうの、したことなくて」
「……でしょうねえ」
「……そりゃあ、幼稚園の先生とか、近所のお姉さんとかはあるけど。そんなの、ずっと昔のことだし。ひとくちに恋とか言われても、まるでイメージが思い浮かばないというか」
「ふうん。……ゆうたくんって、純粋に生きてきたんだねえ」
「じゅんすい、っていうか…なんていうか……」
「こんな風に歩み寄られたこととか、ないわけぇ?」
瀬名の身体がグッと近くなり、斜め上からコールドブルーの瞳に覗きこまれる。ゆうたはとっさに視線を逸らそうとして―――瀬名の首筋に、赤紫のあざのような跡がちいさく残っていることに気が付いた。遠目からはちっとも気が付かなかったけれど、至近距離で見るとはっきり分かる。ゆうたは目を丸くした。その様子に瀬名はほろ苦い表情をぶら下げながら、遠ざかる。
「…ゆうたくんさあ。そんなにドギマギしてたんじゃあ、女の子なんて相手できないよ」
「…それは。…瀬名先輩が急に近づくから―――」
「まぁ、ろくでもない女に引っ掛かる前に俺が阻止するけどねえ」
ふふ、と瀬名が笑う。ゆうたも笑おうとしたが、なぜだか笑えなかった。
「...瀬名先輩は、そうやって茶化してばっかりです。課題の提出までもう時間がないのに。俺、本当に悩んでるんですよ」
「ゆうたくんは複雑に考えすぎ。もっとシンプルに考えたほうがいいんじゃないの」
「それじゃあ瀬名先輩は、俺と同じ課題が出されたとして、どんな歌詞を書くんですか。"ゆうくん"のことでも、書くんですか」
「ゆうくんのことは書けないよ」
だって、きれいだから。ことばになんかできない。俺とは、違うの。間髪入れずに答えた瀬名の横顔は、さすがモデルとも言うべきか―――整然たる一枚の絵のように、非の打ちどころのない輪郭が描かれていた。ところが、ピースが一枚だけ足りないような違和感を覚えるのはなぜだろう。遠くを眺めるまなざしに色はなく、無機質な冷たさを感じるからだ。
「俺が女だったら片思いの一つや二つ、いくらでもさせてあげるのにねえ。残念だったね、ゆうたくん」
「そうやって人の心を弄ぶのはよくないと思います」
「冗談に決まってるでしょ」
それじゃあ、俺これから仕事あるから。ちっとも助けてあげらんなくて、ごめんねえ。―――にこやかに手を振りながら去っていく泉に、ゆうたは思う。「ゆうくんのことは、書けないよ」とは、一体どういう意味なんだろうか。遊木真に対する瀬名泉の執着は、きっと恋ではないけれど、それだけで、あんな風に返すだろうか。首筋に残っていた跡は、単なる虫さされの跡なんだろうか。あるいは―――
(俺だったら、いくらでも書かせてあげるのに)
ふと考えたところで、ゆうたは顔を真っ赤にしながら首を横に振った。とつぜん多くの言葉たちが降ってきたのもまた同時であった。ゆうたはペンを握りしめ、ブレザーの中にあるまっさらなメモ帳にインクを走らせた。
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