Isa
2024-02-09 20:06:09
5316文字
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癒す

軍人になって数年程度のガスパルさんとリゼットさん。ちょっと幼く書きすぎたような気もする。

「リゼット……
 縋るような声に呼ばれたのは、何も初めてのことではなかった。


 ガスパルは昔から隠れるのが上手かった。かくれんぼの鬼になったアニエスが、いつまでもガスパルが見つからないことに機嫌を損ねるほどだった。それが何らかの能力のようなものであり、単なる特技に留まらないことを知ったのは、暫く後の話だった。
 故にガスパルが、戦場を駆ける聖痕騎士を表とした場合の、いわば裏側と呼ぶべき人間に目を付けられるのは当然だった。ガスパルの能力は、存在感を消すことに留まっており、人に触れられれば気付かれてしまうものであったとしてもだ。エンブリオやリアクターを用いても、人ひとりの姿を周囲の目から隠すことが容易でないことくらいは、技術に詳しくないリゼットにもわかる。
 ガスパルの境遇を考えれば、そんな能力を持っていたこと、あるいは身につけたことが、幸福に繋がったとは思えない。それでもガスパルは、リゼットとは異なる方法で、この地獄のような戦乱の時代に立ち向かうことを決めた。父親を失い、アニエスを喪ったガスパルは、この能力を自分自身のために、そしてアニエスのために使うと言ってくれた。
『アニエスを泣かせちまったこともある、この力を使ってでも、俺は俺に守れるものを、護りたいんだ』
 ガスパルは泣き笑いのような表情をして、それでも涙を見せずに、アニエスとリゼットの前でそう誓った。
 戦場に立つことを目指すリゼットと、調査潜入や諜報活動など、表沙汰にならない方法で戦うガスパル。働く場所さえも異にすることになった二人は、互いの無事を遠い地から祈った。雪国の小さな村で、家族や友人と、寒さを凌ぐように近い距離で寄り添って生きてきたリゼットは、幼い頃から共にあったガスパルとすら離れることになったとき、家族の元を離れる時以上の心細さを覚えた。しかし寂しさを覚える都度、憎悪と決意で心を満たし、それを忘れようとした。
 何の罪もなく、優しかった妹を、奪われた。
 決して光を反射しない、闇色に沈んだ氷のような刃を研いで、祖国へと向け続けた。妹の最期の苦しみに比べれば、自分の寂しさなど取るに足りない。
 それはガスパルも同じで、リゼットとは全く別種の苦労を背負いながらも、過去のこととお互いの存在とを心の支えにしながら、一歩ずつ前へと進んでいた。その先に何があるのか、その先がどこへ繋がっているのかなど、少しも考えないままに──そんな頃だった。
 いつになくやつれた顔をして、ガスパルがリゼットの部屋を訪れた。リゼットにはすぐにわかった。必死に隠れて、隠れて、それでも苦しい思いをしたとき。痛い思いをしたとき。リゼットとアニエスが見つけるまで、雪の中に蹲って、震えていたとき。
『──リゼット、アニエス……
 ガスパルが、自分たち姉妹を心配させまいと取り繕っていた笑顔も浮かべられないほどに消耗していたとき。
 ガスパルは、そうやってリゼットの名を呼んだ。
 初めて遭遇した時は、心底驚いたものだ。二人して大慌てで、両親のいない合間を縫って、ガスパルを暖炉の前に連れて行った。それから、細い手指を握って、マフラーを巻いて、三人で毛布に包まって。少し落ち着いてから、リゼットがあたたかい飲み物を作り、その間中、アニエスがガスパルに話しかけ続けた。
 彼は間違いなくここにいて、リゼットとアニエスの大事な幼馴染なのだと伝えるように。
 村にいた頃は、そうしていた。あれからは? 村を離れてから、こんな風に消耗したガスパルを見たことはなかった。今まで、触れられなかっただけで、知らなかっただけで、何度も何度もこんな夜を過ごしていたのかもしれない。
 自分たちを裏切った祖国での夜を、たった独りで。
 リゼットは奥歯を噛み締めた。ガスパルのことはよく知っていたつもりだった。なのに、アニエスのためにとその力を使うことを決めたからって、傷付かないわけがないということを、どうして失念していたのだろう。少し考えればわかることだ。ガスパルがそうと決めたとき、自分は何を言った?
 ただ、私もそうだと。妹を護ってくれることに対して、ありがとうと言っただけだ。過去の自分を殴り付けなければ気が済まない。
 ガスパルはこの力を使うことを、本質的に恐れていた。悪いことをするには、都合のいい力だろ。そんなことを言うくせに、自分が一番傷付いていた。本当は、大切な人を守るために、その力を使いたいと、決意できるような人なのに。周りの目を盗み、誰かを裏切って、隠れて、ないものとして扱われて、誰かを呼ぶことさえ許されなくて。
 ──まるで、この世界にひとりぼっちになったみたいに。
『ガスパル、あったかいでしょ?』
「ガスパル、大丈夫だから」
 妹は、いつも、なにを、言っていたんだっけ。
『あのね、アニエスとおねえちゃんは、ガスパルがだいすきだよ!』
……私は、……お前を、見失ったりしないから。……ね?」
 胸の痛みと熱さを感じながらリゼットが絞り出した言葉に、ガスパルは返事をしなかった。リゼットはひとまず、ひどく冷え切ったガスパルの手を引いた。俯いたまま、覚束ない足取りではあるが、ガスパルは部屋に上がり込んでくれた。
 リゼットは扉を静かに閉めて、机の上に置いていたマグカップを取った。一脚しかない椅子を一瞥して、これではダメだと、足を向ける先を変える。この部屋にあの日のような暖炉はない。連邦は温かく、室内に火を灯す必要がある日は少なかった。リゼットは絨毯のない床ではなく、一人用の寝台を選んだ。
 ガスパルを座らせて、隣に腰を下ろすと、先ほどまでリゼットが飲んでいたホットココア入りのマグカップを差し出した。上手く寝付けない自分のために作ったもので、少しぬるくなっていたが、温め直す時間も惜しい。
「飲めるか?」
 ガスパルの手は震えている。寒さで、ではないだろう。ここは故郷と違って雪だって滅多に降らない。一体何があったのだろう。気にはなったが、今はそんなことを尋ねている場合ではなかった。
 ガスパルは黙ったまま、ゆっくりと手を差し出して、取っ手を持った。その動作が心配で、リゼットは手を添えたまま、ガスパルの一口を見守る。喉に引っ掛かることもなく、ゆっくりと嚥下するのを見届けると、リゼットも少しだけ落ち着いた。幼い頃の習慣を実践することが、僅かに安心と平静を取り戻させてくれる。
 そのままいくらか口にするうち、ガスパルの震えが少しずつ収まってきた。蒼白な顔色がだいぶ戻ってきたことに深く息を吐いて、いつの間にか力を入れてしまっていた肩をそっと下ろした。ガスパルは、リゼットが僅かに安堵を見せたことによって、自分の少しだけましになった状態を自覚したように、口を開いた。
「ご、めん、リゼット」
「謝ることなんか何もない。……久しぶりに会えて嬉しいよ、ガスパル。任務中、怪我はなかったか?」
 声変わりを経た声には聞き慣れているはずなのに、弱々しい謝罪が昔と変わらなかった。そのことを切なく感じながら、返されたマグカップを受け取り、脇机に置く。繋いだ手はまだ冷たく、まるで固まっているかのように反応もない。その様がリゼットの不安を煽った。
 任務終わりの足でそのまま来たのだろうか。ガスパルは乱れた軍服のままだ。酷く傷付いたような表情が未だ痛々しくて、リゼットは困ってしまった。どうしよう。どうすれば良いだろう。アニエスなら、こういう時……
 一瞬の躊躇の後、部屋で使うための小さな毛布を取って、ガスパルの肩に乗せた。もう片方の端は、自分の肩に乗せて、毛布が落ちないよう身を寄せる。肩と腕が触れ合った先で手を取り、ぎこちなく口を開いた。
「その……、今日の任務な。お前のしてることに比べたら、全然大したことなくて。ただの獣退治だったんだけど……
 本当は、自分は話し上手な人間じゃない。アニエスは昔からお喋りだったし、今生きていたとしても、リゼットよりよほど上手く喋るだろう。ガスパルもそうだ。軍に入ってからは特に、昔より口が回るようになったし、冗談だってよく言うようになった。たとえそれが見せかけのものだとしても、やはりリゼットには真似できない芸当だった。
 だが、今はそんなことはどうでもいい。ガスパルが話したくないなら、リゼットが喋り続けて、ガスパルがここにいることを、リゼットが彼を絶対に見失わないことを、伝えなければならない──アニエスの分まで。
 小さな村を獣から救ってくれたと感謝されたこと。任務で隣町に出かけて、見たことのない料理を食べたこと。成人まで生き延びたら酒を奢ると約束してくれた先輩の話……、過酷な任務につくガスパルにとってはあまり面白い話ではないだろうし、自分の喋り方だって上手くはない。それでも、少しでも、ガスパルの心を癒してやりたかった。温めてやりたかった。リゼットの声は、いつだってガスパルを通り過ぎてはいかないのだと、知っておいてほしかった。
 繋いでいた手にようやくリゼットの体温が移った頃、ガスパルの唇に色が戻ったことに気付く。リゼットが口にした何気ない話にふと口元が緩んだのを見て、こちらの唇も自然と綻んだ。
……良かった」
 思わず呟いた安堵の言葉に、ガスパルは自然な微笑から打って変わって下手な作り笑いを浮かべた。無理に笑わなくていいのにと思ったが、それが自分のためだと知っているリゼットは結局口を噤んだ。今はそれが、ガスパルの心がここに戻ってきたことを示しているように感じて、作りものだとしても、嬉しかった。
「ごめん、リゼット……
「謝ることないって言っただろ。ごめんはなしだ、ガスパル」
「そう、だったな。ありがとう」
 こんな風にひとりで喋り続けることはほとんどない。リゼットはガスパルが飲み残していた、すっかり冷え切ったココアを飲み干した。焦りと心配で渇いた喉が潤う。肩を離せば、二人を包んでいた毛布が後ろに落ちた。あっという間に温もりは失われたが、リゼットには少し暑いくらいだったので、あまり気にならなかった。
「もう夜も遅いし、ホットミルクくらいしか作れなくて悪いけど……、入れてくるから、少し待ってろ。その様子じゃ、何も食べてないんだろう」
「いいのか?」
「もちろん。ああ、そうだ、ココアじゃない代わりに、特別に蜂蜜を入れてやるよ」
……はは、なんか懐かしいな」
 ガスパルはリゼットよりひとつ歳上だ。けれど昔から、リゼットにとってガスパルはアニエスと同じく守りたい相手だった。アニエスの姉として危ないことを嗜めたり、機嫌を取ったりする時に、ガスパルを含めることはよくあった。
 ガスパルはそのことを言っているのだろう。ただ、続きを口に出すことを恐れただけだ。アニエスのことは、未だ生々しい傷痕として二人の心に残っている。それでも、「懐かしい」と口に出せるだけの時間は経っていた。リゼットはガスパルの空元気に微笑を返して立ち上がったが、
「っと、……おいこらガスパル、手を──」
「──あ、悪い」
 いつの間にか、ガスパルの方から強く掴まれていた手が、リゼットを引き留めた。だがリゼットが言えば、彼はすぐに手を離して、顔を背けた。その態度に、リゼットは眉根を寄せて言葉を切ると、昔から変わらない幼馴染の手を取り直した。
「え」
「まったく。ほら、行くぞ。もう子供じゃないんだ、手伝えるだろ」
 リゼットが手を引くと、ガスパルは目を白黒させながら、それでも立ち上がって着いてきた。足取りはもうしっかりしていて、ただ慌てて乱れた足音が後ろをついてくるだけだ。
 アニエスと違って甘え下手のガスパルは、何というか、甘やかしがいがある。自分のこういうところは、姉という生き物として育てられたから、なのだろうか。それともガスパルが相手だからなのかもしれない。
「お、おい、リゼット」
「何だ。言っておくけど、火を使うときは離すぞ。危ないし」
「い、いや、もういいって。大丈夫だから。それこそ子供じゃないんだし、こんなの気恥ずかしい……
「それこそ今更だろうに。いいよ、甘えられる時は甘えておけばいいだろ」
「そんな、……ああ、もう、わかった……
 夜も遅いこんな時間帯にリゼットを訪れるなんて、いくら姿を隠せるからといって、ガスパルは普段そんなふうには能力を使わなかった。悪用できる力を、我欲で便利に使いたくはない。そう、自分で決めたことを守るガスパルが、それでもここへ来たのだ。その胸の内を、無理に話させることはガスパルの心を救わない。それなら、できる限り寄り添ってやることしか、今のリゼットにはできない。
 ガスパルは諦めたように、けれど少し呆れたように言って、手を握った。こうしていると幼い頃を思い出す。いろんなことが変わってしまったけれど、温かい飲み物を二人で飲んで、そばにいられる時間を、大切に過ごしたいという気持ちは、きっとこれからも変わらないはずだ。