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のま
2023-11-14 14:28:18
12879文字
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冬駿
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【サンプル】ラヴ・キルズ・ユー
冬駿/2023.11.23熱血ストラグル3で発行予定の新刊サンプル(前半抜粋)
山田への恋に破れてから八年。どこか似た人を追い求めて彷徨う大人冬居が、ひょんなことから山田と再会し同棲モダモダラブロマンスを繰り広げる話。
※冬居の恋愛対象が男性という設定です。冒頭に結構がっつりめに冬居×モブ男の肉体関係を含む描写があります。
※プロ山田の怪我設定があります。
だから、あのひとを殺したのは、本当は僕なのかもしれない。
鋭く切り立った崖際。強い海風に晒された主人公は、震えながらそう懺悔した。
主人公が〝あのひと〟と呼ぶのは、幼いころからの親友のこと。物語の中で二時間をかけて親友の死の真相を迫っていた主人公は、親友を殺した真犯人とトリックを見事に暴いた。しかし、その中で知ってしまった。犯人が親友を殺害した動機は、実は主人公自身にあったことを。
岸壁の上、罪の意識に首を垂れる主人公を残し、カメラがズームアウトしていく。そして、画面がふっと暗転した。
エンドロールが始まった。
黒一色の背景に白色のほそい角張ったフォントが下から上に流れる。歌詞もないストリングス中心の音楽が静かに流れた。クレジットのみを淡々と表示し続けるシンプルなエンドロールだった。
僕は、半ばぼうっとした心地でそれを眺めた。
――
また最後まで映画見ちゃったな
……
ミステリーものなんて、趣味でもないのに。
四角く黒い部屋の中、壁にかけた時計をちらりと見る。オレンジ色の間接照明にほのかに照らされた時計は、だいぶ深い時刻を指していた。
もう寝なければ。そう思って、長いクレジットを流すタブレットの画面を人差し指でつつく。映像が止まった。両耳に埋まったイヤフォンを勢いよく引き抜いて、タブレットの画面も落とした。
つめたく薄いタブレット端末を、ベッドサイドテーブルに慎重にそっと置く。
カタン。
ほんの小さな音が鳴る。しまった、と思った時にはもう遅かった。
んぅ、と隣に横たわる人間が唸った。
それから、
「
……
冬居?」掠れた低い男の声。
滅多に最後まで映画を見ない男が、浅い眠りから目を覚ました。
ごめんね、とちいさく謝ったが、男はかまわず吐息だけで気だるく笑った。
「映画、また最後まで見たんだ」
からかうように手首をふんわりとつかまれた。眠っていた人間の体温は、思ったよりも高くて、じっとりと手首に絡みつく。そのことをほんの少し厭わしいと思った。
その手のひらをそっと引きはがして、苦言を呈した。
「ねえ、最後まで見るつもりないなら、最初から映画見るのはやめようよ」
映画を見よう、と誘ってくるのはいつもこの男だった。でも映画の中盤で物語がややダレてくると、この男はなし崩しに寄りかかってきて、キスなんかを仕掛けてくる。僕も最初は「やめてよ」とゆるい制止はするけれども、いつの間にか男のペースに巻き込まれてしまうのが常だった。結局最後まで二人でお行儀よく映画を見られたことなんて、一度もない。
さっきの映画だって、はじめはリビングでふたりで見ていたはずだった。それなのにいつの間にか場所はリビングからベッドになっていたし、映画の肝となる中盤の謎解きのシーンなんかは、もはやセックスのBGMと化していた。
そのことを思い出すと、苦々しくなってくる。
男は僕の苦言なんかまったく気にしていない様子で、いたずらっぽい笑みを浮かべた。
「俺ぁさ、映画なんて見なくたっていいんだよ」体をこちらにぎゅうと寄せて耳元で囁いた。「映画見ようって澄ましてるヤツをその気にするの、好きなんだよね。それってめっちゃエロくない?」
暴露されたのはしょうもない性癖だった。自分はこの男の性癖に流されて、今まで趣味でもない映画を夜な夜な一人で見ていたのだと知る。気分はあまりよくなかった。
「
……
くだらない」
べったりと張り付いた男の体をダブルベッドの向こう側に押しやった。
「別に映画見ても冬居に損ないし、いいじゃん」
男は懲りずにカラカラ笑う。しばらく笑うと満足したのか、「おやすみ」とまた眠りに戻っていった。
六畳ほどの小さな寝室に、再び静寂が訪れた。
この男はいつも勝手で、それでいて結構僕のことが大好きだ。
僕もこの男のことは嫌いじゃない。そもそも嫌いな相手と付き合って寝ることなんかは、するはずもない。ただほんの少しだけ、厭わしさを感じているだけだ。この男を厭わしいなと思うとき
――
例えば今日とかは
――
別れてしまおうかな、と頭をよぎることもあるけれど、僕はどうしたってこの男と別れる気にはなれなかった。
腕を伸ばし、すぐに眠りに落ちた男の額にかかる黒髪を中指の側面でそっと掬う。丸まった毛先が指先にふわりと絡む。男の顔を覗き込んだ。日によく焼けた肌。重めの一重瞼。半開きのうすい唇。そこから覗く白い歯。
この男を構成するパーツを眺めてしまうと、別れる、という選択肢はたちどころに消えていってしまう。
男は〝あのひと〟によく似ていた。
──もうあれ以上の恋はない。ほんとうの恋をすることもない。
そう思ってから、八年の月日が経つ。
ほんとうの恋をすることはもうない。そう思ってはいるけれども、心の隙間に誰にでもあるさみしさみたいなものを紛らわせるために、僕は時折恋のまねごとをしている。
男とは半年ほど前に出会った。
初めて出会った時の衝撃を、今でも確かに覚えている。
馴染みのバー、茶褐色に色褪せた空間の中、現れた男の纏ったTシャツの白がやけにまぶしかったのが印象的だった。
男はカウンターにゆったりと腰を下ろす。横目で観察した。
浅黒い肌。鍛えていることがわかるような体のライン。ややボリュームのある黒髪は癖毛なのかパーマでも当てているのか、毛先がいろんな方向に散っている。
そのかたちを認めた瞬間、体中に電撃が走った。
男はこれまで出会ったどんな人より、〝あのひと〟のかたちによく似ていた。
(中略)
次こそは絶対に違うタイプと付き合おう、といつだって固く心に決めている。それなのに、実際に付き合うのはいつもあのひととどこか似た人だった。
――
年上、何かスポーツをやっていた人、色白よりは色黒、よく喋るどちらかと言えば明るいタイプ。大体そんな感じ。
そして関係の終わりも大体決まっていた。冬居って本当に俺のこと好きなの、と疑いをかけられる。他に好きな人ができたから別れてほしい、と頼まれる。思っていたのと少し違った、と一方的に言われる。おおかたその三パターンだった。
恋の終わりにはいつだって思う。こんな思いをするなら最初から付き合わなければよかったな、と。
だから今では、あのひとへの初恋が粉々に砕け散ったことをよかった、とさえ思っている。人生の初めの十数年間をかけて肥大化したあのひとへの気持ち。もはや今ではその気持ちが恋だったのか、愛だったのか、ただの刷り込みだったのか、それさえも分からない。でもその気持ちにきちんと名前をつけておく必要はなかった。万が一奇跡があって、気持ちが受け入れられたとしても、きっといつかはひどい終わり方をしていたのだから。
ひどい終わり方をするくらいなら、始まらないほうが何倍も幸せだ。あのひとに向ける気持ちを全部まとめて、心の奥深く、誰にも触れられないやわらかな部分に子供時代の思い出と一緒にしまいこんでおく方が、よっぽどいいに違いない。
(中略)
ぴろん、と軽快な通知音が鳴り響いた。
音の出所は、電子レンジの上に置いておいたスマートフォンだった。
タオルで手をかるく拭ってスマートフォンを手に取る。
画面に表示されたのは普段あまり使わないアプリからの通知だったから、思わず眉を顰めた。海外ではメジャーなメッセージツールらしいが、ほとんど使ったことはない。
スパムだろうか、と疑って、メッセージを開く。
画面の上部のバーに表示されたメッセージの送り主を見て、息を呑んだ。
──信じられない。
〝あのひと〟のフルネームがそこにはあった。
咄嗟にスマートフォンをひっくり返して、キッチンカウンターに置く。心臓がばくばくとありえないスピードで鳴り、指先までがすうっと一瞬にして冷えた。背筋に嫌な汗が吹き出す。
――
なんで、ほんとうに、どうして、いまさら、もしかして。
数えきれない言葉と可能性が脳内に洪水のごとく渦巻いた。
震える手で伏せた画面をもう一度、ひっくり返す。画面をもう一度かすめ見ると、メッセージはやはりそこにあった。
表示された文字をひとつひとつ読む。
『冬居、久しぶり。元気にしてるか?』
文字が織りなす意味を理解するのに、五回は読み直した。
それからそっけない文章の最後についた疑問符を、穴の空くまで見つめた。
あのひとが──山田駿が、今どこかで生きていて、今この瞬間、僕のことを考えて、語りかけてきている。
その事実を認識した途端、押し込めていたはずの記憶が溢れ出す。あのひとと一緒に過ごした色んな場所のこと。例えば、家の近くの小さな公園とか、電車に乗って通った東京の体育館とか、何百回も顔を合わせた高校の古びた体育館とか。
記憶の中の最後の場所は、飛行機がひっきりなしに飛び立つ空港の展望ロビーだった。
──あー、なんつーか、悪いけどさ
……
あのひとらしくなく、珍しく歯切れの悪い言葉も一緒に思い出す。それから頬をくすぐった髪の毛の感触と、ぐっと近づいたあのひとの匂いのことも。
忘れたくって記憶に閉じ込めていたはずなのに、昨日のことみたいに鮮明に思い出せた。
──今から八年前のこと。
高校最後の大会を終えて、受験に本腰を入れ始めたとき、ひとつの連絡が入った。
山田さんがついにインドに行く、と。
実家の玄関で久しぶりに会った彼は、意気揚々と語ってくれた。まずは武者修行として大学を休学してインドのチームで練習する。いきなりプロ入りとはならないだろうけど、一年か二年、現地で修行すれば、自分がやっていけるか分かるだろう。それで同期の誰よりも早いプロ入りを狙うんだ、と言っていた。
これが最後のチャンスかもしれない。
そう思った僕は、出国の日程と航空便名を聞き出して、見送りと称して空港まで着いていった。中学校の時のインド遠征ぶりに訪れた空港は、昔よりも小さく見えた。そして事前に調べた通り、展望ロビーに山田さんを誘った。
冷たく乾いた強風が吹き付ける屋外の展望ロビーには、目論見通り、人はほとんどいなかった。飛行機がひっきりなしに轟音を上げて空に飛び立っていく。
その場所で人生初めての、最大の、最後の告白をした。
何を言ったのかはあんまり覚えていない。
たくさん考えたはずなのに出てきた言葉はすごくありきたりで拙くて、何回もつっかえたし、顔をちゃんと見ることもできなかった。
ただ、言い終わったあと、恐る恐る対峙した山田さんの表情だけは今でもはっきりと思い出せる。案の定顔色は全然冴えなくて、「気まずい」と額にはっきり書いてあるようだった。
「
……
あー、なんつーか悪いけどさ、お前のことは嫌いじゃねえよ。でもよ」
俺、男は考えられないっていうか。
山田さんはそう言って、目線を逸らして頭を掻いた。
「そう、ですよね
……
でも」
ここまでは、まあ、予想通りだった。山田さんが中学で二ヶ月だけ作っていた彼女のことも知っているし、わかりやすいエロ本を持っていたのだって、先輩たちと恋愛話に興じていたのだって、大学ではちゃんと彼女作る、と息巻いていたことだって、知っている。
それを知った上でも、どうしても言いたかった。万が一があると思いたかった。必死に言葉を継いだ。
別に今はそうじゃなくてもいいから、僕に一回だけチャンスをくれないですか。帰ってきたタイミングで会うとか、それだけでもいいし。いつかいいと言ってくれるまで待つし、それから、それから──
折悪く一番近くの滑走路から飛行機が大きなエンジン音を立てて飛び立って、僕の話は遮られた。
鼓膜を揺るがす轟音の中、山田さんのくちびるが、
とうい。
と、僕の名前を紡いだのがわかった。
彼は僕の言葉の続きは聞かずに迷ったような顔をして、それから何事かを決心したようにひとつ頷いた。そして腕を広げた。
僕が戸惑ったままでいると、一歩距離が詰まる。次の瞬間、二本の腕が背中の中央あたりに回っていた。
抱きしめられたのだ、と分かった。ぎゅ、というぎこちない感触。頬のあたりをくるりと跳ねた髪の毛先がくすぐる。厚手のコートの下にある肉体はしっかりと硬い。うなじのあたりからは、落ち着くような、それでいてどきどきするような、このひとの匂いが立ちのぼった。文脈を理解していない心臓は、ばくばくと大きな音を立てた。
「山田、さん
……
」
「ごめんな、これで終わらせてくれよ」
最後に肩をぽんぽんと二回叩くと、山田さんは僕から離れた。そしてくるりと振り返って、後ろのベンチに置いた機内持ち込み用のリュックをひょいと持ち上げた。
僕がはっきりと覚えているのはそこまでだ。
別れ際の山田さんがどんな顔をしていたのか、何を言って送り出したのか、あるいは何も言っていないのか、そこからの記憶はひどく断片的だ。
展望ロビーに取り残されて、飛び立つ飛行機をただずっと見つめていた、と思う。
そのどれかに山田さんはきっと乗っているはずだった。便名まできちんと聞いて調べたはずなのに、飛び立つ飛行機のどれがニューデリー行きの飛行機なのかはわからなかった。でも、もうそんなのものはどれでも良かった。飛行機がひとつ飛び立つたび、山田さんを、たった一人の恋焦がれたひとを、僕は永遠に失ったんだ、と思い知らされた。
ひとつ目の飛行機の時には呆然として、ふたつ目の飛行機の時にはしゃがみこんで、みっつ目の飛行機の時にはジーンズの膝が濡れて重たくなっていた。飛行機が飛び立つたび、胸に穴が空いていくみたいに痛かった。
世界でたったひとりの幼馴染に抱くべきじゃない思いを告げたことで、僕は生まれてからの十八年をひとときにして全部失ったんだ、と知った。
「おばあちゃん、あの人、ずっと座ってる」
ちいさな女の子が自分を指さして不思議そうに言わなければ、僕はずっとそこにいたのかもしれない。
大丈夫ですか、と心配げに声をかけてきた初老の女性に「大丈夫です、もう帰るので」と返して、なんとか展望ロビーを去った。
そこからは、たったひとりで、世界に取り残された気持ちだった。
電車に乗って、自分の手を見つめる。数時間前に、山田さんに確かに抱きしめられた僕の体。鼻先にふわりと香る山田さんの匂いまで、鮮明に思い出せた。
でもそこでふと気づいた。
きっと僕が女の子だったら、山田さんも抱きしめたりなんかしなかった。
僕らは幼馴染で、何回だってお互いの身体に触れたことがあった。特にカバディなんて接触が当たり前のスポーツだ。手首を固く握り締め合うことも、足首を掴んで引きずり倒すことも、胴体に腕をきつく回して帰陣を阻止することも、躊躇はしない。僕らは骨ばった手首の硬さも、ふくらはぎに指を食い込ませたときの感触も、Tシャツ越しの汗ばんだ体の熱さも、全部をお互いよく知っていた。
だから山田さんにとってはいまさら僕の身体に触れることなんて、抱きしめることなんて、なんの意味も持ってはいない。意味がないから抱きしめるなんてできたんだ。
そう思うと、涙がこぼれ落ちた。
絶望的なまでの初恋の終わりだった。
──もうあれ以上の恋はない。ほんとうの恋なんて、一生することはない。
そう決意して顔を上げた時から、世界は色を失った。
思えばあのときの季節と、今の季節は同じだ。晩秋、冬の入り口。気温は下がって、全てのものがだんだんと灰色がかっていく。空も、雲も、街行く人々の服装も。
『久しぶり、元気にしてるか?』
そのメッセージに答えられないまま、数日が過ぎた。
無視すれば良い、忘れてしまおう、と頭では考えているはずなのに、そのメッセージは頭の片隅にずっとこびりついていた。顔を洗っていても、仕事をしていても、ご飯を食べていても、恋人と話をしていても、ふとした瞬間にそのメッセージを思い出す。
その度に何度も繰り返し、繰り返し、考えた。僕は何を答えたらいいんだろうか。
――
元気ですよ、山田さんは?
――
いまさら何の用ですか?
――
あんなことしたのに平気なんですね?
考える度に答えは違った。
何もなかったことにしたいのか、怒りをぶつけたいのか、自分でも理解できなかった。浮かんだどの答えも、全然しっくりこなかった。
キッチンの小窓が今日の朝の空を四角く切り取っている。重たい灰色の雲が低く鬱蒼と垂れ込めていた。
(中略)
まぶたの奥がにぶく痛む。車内はひどく混雑しているのに、喧騒も車輪の軋む重低音もすべてが遠くに聞こえる気がした。
そのとき、スーツのポケットがぶるりと振動した。
背筋からぞわぞわと嫌な予感が這い上がる。予感、というよりはもっとはっきりとした確信、に近かった。
ポケットに突っ込んだスマートフォンを取り出して、おそるおそる画面を見た。
『今、日本にいるんだけど、会えないか』
メッセージよりも小さく記された送り主、山田駿〟の文字の並び。
とうとう観念して、震える親指でアプリを開いた。
カフェの大きなガラス窓からは、白い日差しが惜しみなく差し込む。
穏やかな日曜の午後、あまりに眩しいその陽射にすこし目を細めた。
白いマグにたっぷり注がれたカフェオレをひとくち啜った。カフェオレはなんだかミルクの風味がやたらと薄くて、コクも香りもあまり感じられなかった。
ほんの少し眉を顰めて、それから腕時計をちらりと見やる。二時五十八分。待ち合わせ時間の二分前だった。
カフェにとってピークタイムのこの時間、店内は騒がしかった。レジの近くでは小さな子どもが泣き声を上げているし。窓際ではカップルが楽しそうに肩を寄せ合っている。トイレの横のボックス席では老人が井戸端会議をしているし、隣の女子高生四人組は時折黄色い声を上げている。
雑多な喧騒の中、うすいカフェオレに眉をひそめる僕だけが、ひとり世界から切り離されてるみたいだった。
窓の外、街ゆく人々を見ながら、ぼんやりと考える。
――
あのひとは、本当に来るんだろうか。
待ち合わせ時間まであとほんの少しだというのに、現実味は無かったし、生きた心地もしなかった。
もしかするとこの待ち合わせも、それまでのメッセージアプリでのやり取りも、全部が全部、僕の夢で幻想なんじゃないだろうかという気さえしてくる。何しろ、あのひとを八年も見てないんだ。全ては僕の都合の良い夢かもしれない。それか、いたずらメッセージということも考えられるかもしれない。(誰がそんな悪趣味なことをするのかと言われたら、思い付きはしないのだけれども)
頭の中の悪い想像がどんどん膨らんでいって、ついには巨大な陰謀論まで疑いそうになったその時。
僕の鼓膜を揺らしたのは、あまりに鮮やかな音だった。
「久しぶり、冬居」ほんの少し掠れた男の声。「元気にしてたか?」
懐かしいような、それでいて胸が苦しくなるような声だった。僕は、この声をよく知っている。
顔を跳ね上げた先には、あのひと──山田さんが、そこに立っていた。
手を軽く上げて、たった一メートル先の距離に存在するその人は、ほとんど昔と変わらない姿形をしていた。ほうぼうに毛先の跳ねた黒髪、前髪の少し落ちたおでこ、鋭い角度でつり上がった眉、重いまぶたから覗く三白眼。
すこし変わったことといえば、もとから浅黒かった肌が年月の分だけもっと色濃くなっていたことと、上半身を包むハードな革ジャンの下、シンプルなTシャツが覆った胸板がややたくましくなったように見えたこと、くらいだろうか。
その中で、ひとつだけ、明らかな異変があった。
両脇に挟み込まれた一対の松葉杖。
その異変を認めた瞬間、ずっと考えていた最初の一言目なんか全て吹っ飛んでしまって、
「どうしたんですか、それ!」
思わずソファから立ち上がった。
山田さんはほんの少し鬱陶しそうな表情を浮かべて、片手で松葉杖を振った。
「膝の靱帯。怪我してさ、手術が必要だっていうから日本に戻ってきたんだよ」
それから松葉杖をまとめると、向かいの赤くてふかふかしたソファの背に立てかけた。
「別にこれももう無くってもいいんだけどさ、あと三日位やっとけって医者が言うから」
面倒そうな表情を浮かべた山田さんは、よっこいせ、と言いながらぎこちない動作でソファへ腰をおろした。
頭の中は聞きたいことでいっぱいだった。いつ、何があって怪我をしたのか、どんな怪我なのか、いつ帰ってきたのか、手術ってどんなものなのか──競技には、カバディには復帰できるのか。
お前も座ってくれよ、と言われてはじめて、自分が立ったままであることに気が付いた。
ソファの弱いスプリングを軋ませると、慎重に言葉を選んだ
「
……
いつ治るんですか」
治る前提での問いかけにした。
「この怪我も二回目だからなあ。入院しての手術とリハビリはもう終わり。これから半年はスポーツするためのリハビリ。いつ復帰できるのかは、様子見ってとこだな」
選手生命をすぐさま断つような怪我でないと聞いて、胸をなでおろす。でも軽い怪我でないことは、カバディを辞めた僕にもすぐ理解できた。
黙り込む僕に対して、山田さんは肩を大げさにすくめてみせた。
「しゃあねえよ、こればっかりは。コンタクトスポーツだし、あっちの奴らはフィジカルも違うしよ。体作ることで対策はできるけど、運次第のところはどうしてもあるからな」
淡々と語ってみせるその姿に、僕は「そうですか」としか言うことができなかった。
ちょうど、ウェイターが注文を取りに来た。
「あ、俺、アイスコーヒーで」
山田さんが注文する。
「かしこまりました」と言ったウェイターが、厨房と思わしき扉の向こうに消えていくのを目で追いかけた。
「ここ、いいとこだな」
テーブルを挟んだ向こう側で、山田さんがぽつりとつぶやく。「入院中はつまんねーからさ、全部新鮮に見えるよ、久しぶりの日本だしな」
何も返す言葉はなかった。自分は何を言ったらいいのか、何を言いたいのか、落ち着いてみるとひとつも思い出せなくなっていた。
山田さんは僕の顔をゆったりと見た。そして、冬居、と懐かしい声で僕を呼んだ。
「久しぶりだな。何年ぶりだ?」
ほんの少し、目を細めていた。昔を懐かしむみたいな表情に、慌てて目をそらす。その表情に何の感情が含まれているのか、読み取ってしまうことは今の僕にとって何より恐ろしい気がした。
「
……
何年ぶりですかね」
逃げるように口ごもって、冷めきったカフェオレをひとくち啜る。
本当は何年か数えることなんて容易かったし、山田さんも数えることはできただろう。でもそれ以上の追求を受けることもなく、会話は煙のように立ち消えしていった。
相変わらず午後の強い日差しが窓から惜しみなく降り注ぎ、僕らのあいだに存在するウォルナット色の机の上に光の帯を作っている。店内にはボサノバアレンジの洋楽がかかっていて、ときおりエスプレッソマシーンの動作音がけたたましく響き渡る。あたりはコーヒーの芳醇な香りに満ちて、隣の席の女子高生たちは好きなアイドルグループの推しについて熱心んに話し込んでいた。
その中で、僕と彼の間の時間だけが、すっかり止まっていた。
視線が合わないように、巧妙にずらしながら、時折手持ち無沙汰にマグカップのつるりとした表面を親指の腹でなぞる。
彼が注文したアイスコーヒーが届いたのをきっかけに、ようやく沈黙が破られた。
お前、ぜんぜん変わってないな。
……
そうですかね、それなりに老けましたよ。
最近何してんの? 何って、普通に働いてます。
ふーん、住んでんのはこの近く? 隣の駅ですね、歩いて三十分くらいのとこ。
これからさ、この辺りのA大学病院ってとこに通うんだよ、知ってるか? 名前だけは。
実家から遠いし、隔日で来なきゃなんないからさ、ホテル暮らししようと思ってんだけどいいとこある? いや、この辺に泊まるところはあんまりないですね。
──ようやく交わした会話も、一問一答の域を超えることはなかった。
僕はここに来たことをだんだんと後悔し始めた。
思えば、昔フラれた幼馴染にわざわざ会いに来るなんてどうかしてる。幼馴染という距離を、関係を、全て壊したのは僕だし、だからと言って今更幼馴染に戻る気も、戻れる気もしなかった。かつて切望したようなそれ以上の関係を求める気持ちも、今はあるわけではなかった。恋なんて、だれかを好きになるなんて、してはいけないのだと知った今は特に。
僕はこの空間で、戻ることも進むこともできないまま、自らが八年前に壊した関係を、ただ壊したなあと思って見つめることしかできないのだ。
そう気づくと途端に馬鹿らしくなってくる。一体何を期待して自分はここに来たのだろうか。元気にしているか、という一言にひどく動揺して、恋人とも別れることになった。会えないか、の一言に怯えながらも、どこか心を躍らせて今日この場所を選んだ。
自分はとんでもなく馬鹿だった、と思い知る。この人がアイスコーヒーを飲み終えたら早々に切り上げて帰ろう。そしてもう二度とこの人と会わない。
そう決心したとき、山田さんはもう一度口を開いた。
「あのさ、俺、あのときのこと、お前にずっと謝りたかった」
今まで見たことがないくらい、まっすぐで強い視線だった。
思わず息を呑む。──あのときのこと、八年前の空港での別れのことだ、と瞬時に理解した。背中に嫌な汗がにじむ「
……
もう忘れましたけど」
山田さんは首を振った。
「お前が忘れても、俺は忘れてねえよ」
それから、
「第一お前のことなんて、忘れられるわけないだろ。何年一緒にいたと思ってんだよ」
と言った。
忘れられるわけないだろ。
その言葉を反芻すると、どうにもたまらなくなった。
この八年の間、僕の知らないところで生きていたひと。そのひとが、自分にまつわる記憶を刻みつけたままずっと生きていたのだと言う。鼻の奥に熱くつんとこみあげるものがあったから、慌てて唇を噛み締めて押し寄せる感情にただ耐えた。
いっそのこと、お前のことなんて忘れてたよ、と言ってくれたどんなに楽だったろうか。そうだよね、じゃあ元気でリハビリ頑張ってください。そんなふうに笑って、手を振って帰ることができたはずなのに。
「忘れてくれたほうが良かったんですけどね」
ほとんど泣き笑いでそう言った僕の顔は、たぶんひどいものだっただろう。
でも、山田さんは「んな人でなしじゃなくねーか」とくちびるを尖らせるから、もう本当にどうしようもない人だった。
僕のことなんか好きにもなってくれないくせに、そんな言葉を簡単に吐けるこのひとの残酷さが昔から大好きで、心の底から忌まわしかった。
半分ほど残ったアイスコーヒーに刺したストローに、山田さんが唇を寄せる。こんな時だというのに、真っ黒な液体をちゅう、と吸い上げる薄く乾いたくちびるにうっかり見入ってしまって、どうしようもないのは、本当は僕の方なのかもしれないと思った。
「なあ、冬居、あんなことして悪かったな」
珍しく神妙な表情を浮かべるこのひとのことを、僕はまだぜんぜん嫌いになんかなれない。それどころか、多分、また好きになってしまう。
好きだと言うことも許されなくて、嫌いになることもさせてもらえないのなら、一体僕はどうしたら良いのだろう。
もうどこにも行きようがなくなって、机の下の拳を握りしめた。
「別に気にしてないからいいですよ」
やっとのことでそう絞り出したけれども、その語尾はカフェの喧騒にいとも簡単に攫われていった。
──もう本当に、会うのはこれきりだ。これが、本当に最後だ。
自分からピリオドを打つことを決意した。
聞くべきことも、喋るべきことも、もう何一つとしてなかった。
山田さんが残りのアイスコーヒーを啜るのを腕を組んで黙って待った。中身がほとんどなくなってズズ、という音が鳴ったのを確認して、「行きますか」と自分から席を立った。
あたりに満ち満ちていたコーヒーの匂いも、扉を開けると外気にすぐに混ざってわからなくなってしまった。カラン、とドアベルの鳴る音が空々しく響く。
往来にはたくさんの知らない人々で溢れていた。僕らはここで別れて、この人々に混ざって、他人に戻っていく。そして二度と会わない。
乾いた都会の空気を吸い込むと、それはとても正しいことのように思われた。
数分後、他人になっているであろうひとを視界の中央に捉える。松葉杖を使って立つ山田さんは、ほんの少し左に傾いでいた。
「来週くらいからはこの辺にずっといるしさ、また会おうぜ」
山田さんはそう言って、握手を求めるように手を差し出した。
その手を握りながら、その言葉の意味を考える。これからこの辺にいる、という言葉の意味。
それから店内での会話を思い出した。──これからリハビリでこの近くのA大学病院に頻繁に来ることになる。だから、ホテル暮らしをしようかどうか迷っている、という話を彼がしていたことを。
山田さんは「じゃあ」と言って、踵を返した。
呆然としたまま、ちいさくなっていく後ろ姿を見つめて考えた。もうこれっきり会わないと誓っていた。でもこれから僕らはどこかでばったりと会う可能性があるのだ。駅まで急ぎ足で歩いているときとか、洗剤を切らしてドラッグストアにほんのちょっと出かける時とか、駅前のビルに入った大きな本屋に足を延ばすときとか。日常のすべてに、山田さんの影が付きまとう。その影は、いとも簡単に僕の日常の全てを絡めとっていくに違いない。
もうそんなのはごめんだ。それならいっそ。
強い衝動が込み上げた。
「待って!」
小さくなった背中に駆け寄った。
山田さんはその声に振り返ると、やや目を丸めた。
「どうした? なんか忘れもん?」
「ううん
……
あの、これからホテル、探すんですか? この辺で?」
「この辺はないってさっき聞いたからな。ちょっと離れたとこで探すか、最悪友達んとこでも泊めてもらうよ、ホテル代も馬鹿にならねえし」
その返事を聞いて、一歩距離を詰めた。
「それなら僕の部屋に来ませんか? スペースはあるから」
申し出ると、山田さんは鳩が豆鉄砲を喰らったような顔をしていた。
それから迷ったように、
「お前がいいなら、俺ぁ助かるけどよ
……
でもいいのか?」
と言った。
かつてフラれたノンケの男と一緒に暮らすなんてどうかしている。
僕だってそう思うのに、どうしてだか口は止められなかった。
「別に、平日は仕事でほとんどいないし、好きにしてもらっていいですよ。別に家賃もいらないし、僕なら気遣いもいらないでしょ」
「でもよ──」
山田さんの目には、明らかな困惑が滲んでいた。
ぐっと声を潜めた。隣を行きかう人々が聞こえないくらいのボリュームで。
「もしあのときのこと、僕に悪いと思ってるなら、来てよ」
最後の一押しをすると、山田さんは、んぬ、と言葉に詰まった。
これを言えば彼は答えられないに違いない、と内心僕は理解してやっていたのだと思う。あとから後悔と罪悪感が波のようにじわじわと押し寄せた。
あれから一週間と少しが経った。
見慣れた玄関先に立つそのひとを見て、僕は思わず目を瞬いた。
「来たぞ、冬居」
(つづく)
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