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のま
2023-07-29 15:10:35
1966文字
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お題「山田駿」
ワンライで書いた山田の引退の日の話
ホテルの給湯器は昨夜からずっと壊れているようだった。
目もさめるようなつめたい水が、むきだしの水道管から勢いよく噴き出す。それを手のひらに受けて顔をすすぐと、山田は洗面所の鏡に映った己の顔をじっと見つめた。
インドの強い日差しによって一段と灼けた顔の皮膚。まだほんの少し眠たげで目つきの悪いまぶた。目尻にこまかく刻まれた皺。シーズン中のためか少し痩せぎみの頬。
──だいぶ老けたもんだな、俺も。
タオルで水滴を拭いながら、しみじみとそう思う。額にかかったやや伸びてきた前髪を人差し指ではらうと、整髪料を手にとって延ばしていく。
「シュン」扉の向こうから、男の声に呼びかけられた。「そろそろ出てくれないか? 俺も使いたい」
返事のため、すこし声を張り上げた。「オーケー、すぐ出るからちょっと待っててくれ」
整髪料をつけた両の手で、サイドの髪を後ろに勢いよく流すと、急いで手を洗う。
「待たせたな」
洗面所の前で待っていた男に声をかけると、男は「シュンはいつも支度が早いな」なんて笑ってドアの向こうに消えていった。豊かな黒髪とよく鍛えられた身体を持つその男は、今シーズン同室で過ごしている台湾出身のエースレイダーだ。同じ外国人選手だという理由で同室にされたこの選手は、山田の半分程度の年齢で、インドのプロカバディリーグに参加するのは今年が初めてだ。コーチに「こいつにシーズン中の過ごし方とかうちのチームのこと、色々教えてやってくれよ」と背を叩かれたことがきっかけでこの数ヶ月一緒に過ごしたこの選手。山田がありとあらゆることを教えたおかげもあってか、順調に初めてのリーグ戦でも結果を残している。今や誰よりも長くこのチームにいる山田にとって、これも期待される役割のひとつだ。
マットレスに座り込むと、リュックの中から愛用のサージカルテープを取り出す。年を重ねた体はもはや笑えるほどガタガタで、機械が段々と壊れていくみたいに噛み合わないことばかりだ。数年前に怪我をした膝の靭帯のあたりはもうずっと軋んでいるし、シーズン中に痛めた肘だってまだ完治していない。言うことを聞かないパーツたちを宥めて、今日だけは動いてくれよ、と念じながらテーピングで丁寧に丁寧に繋ぎ直していく。
──もうとっくに辞めるべきだったんだよな。
サージカルテープの剥離紙をゴミ箱に放る度、多くの人に惜しまれながら引退していった数々の名選手の顔が山田の脳裏に過ぎる。ここ数年は山田自身、若い選手の育成ポジションがメインで、ゲームに出してもらうこともかなり減っていた。現に今シーズンも出番は片手で数えられる程度だったし、そのような形でずっと現役を続けていることを未練がましいと笑うものも多分いるのだろうな、と思う。
「シュン、今日はもちろん出るんだろ」
ついに引退の日だな。支度を終えてそう声をかけてきた若い男は、なぜか山田自身より神妙な面持ちだった。
「お前が引退するみたいな顔するなって! 今日もかましてくれよ、エース」
笑って背中を叩いて激励すると、男はなぜだか泣きそうな顔をして「ありがとう」と言った。
──後半十分。
三点ビハインドの拮抗した状況下、選手交代を告げるブザーが鋭く鳴り響いた。
「頼んだぞ、シュン」
汗を流した交代要員の選手が、山田の肩を叩く。
「シュン、悔いのないプレーをしてこいよ」
何年も世話になったコーチが激励する。
「シュン、本当にありがとう」
自分より若い選手たちが口々に言う。
それらを背に受けて、ベンチから立ち上がって深呼吸すると、急に“引退“という二文字が胸に迫ってきた。何十年も前、初めてこの異国のコートに立った時みたいに、胸がふるえて指先がつめたくなっていくのがわかった。
ふと気づく。──自分は引退時期を間違えたわけではない。そもそも全てが間違っていたのだと。
日本一になれる、という言葉につられて幼馴染と共にカバディを始めたことも、中学の時に初めてこの国に来て世界のレベルを知ってしまったことも、自信が底をついて辞めようと思ったことも、それでもやめられないのだと悟ってしまったことも、かっこよくなんて終われなくてこんなにぼろぼろの姿になるまで続けたことも、全てが全て、人生をかけた大間違いだったのだと知った。
でも、不思議なことに何度生まれたとしても、どこかでやり直せるとしても、きっと自分は間違えると思うのだ。
異国の地、高い高い天井を見上げる。
山田の名前がコールされると、観客の誰かが小さな拍手を始めた。やがてそれはさざなみのように広がって、会場中が熱気に満ちていく。
この国はとても暑い。いつだって。
山田は拳を握りしめると、最後の舞台となるコートへ駆け出した。
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