そういえば「東京は今年一番の猛暑でしょう」なんて今朝のニュースで流れていたな、と寮に帰る道すがら、水澄は思い出していた。隣を歩く伊達とあちー、と文句を言いながらなんとか足を進めるが、帰るまでの大して長くない道のりが永遠に思えてくるほどの暑さだ。傾いてきたとはいえ、まだまだ刺すような日差しにジリジリと焼かれながら、ようやく辿り着いた寮の階段を一歩ずつ上がる。
一分おきに暑いと発する水澄に対して、飽き飽きしてきたのか、伊達は玄関を開けながら呆れたように口を開く。
「なんで暑いのにうちに来るんだお前、家で一人でいた方が涼しいだろ」
「だってどうせ夕飯の時に真の部屋に来るだろ? それまで自分の部屋で一人で冷房つけるのもったいねーじゃん」
水澄は勝手知ったる部屋に靴を脱いで上がり込み鞄を放り込むと、キッチンに立ちすっかり自分用になっているコップを出して、雑に水道水を注いで飲み干した。生温い水道水が、乾いた身体に染み込んでいく。喉を潤すと、空になったコップともう一つのコップ──これは部屋主の伊達用だ──に水を注いだ。水道水はあまり美味しくないけれども、今は何でもいいだろう。
二つのコップをローテーブルに置くと、定位置にデンと座りこみ、後から入ってきた伊達が換気のために窓を開ける。流れ込んできた外の空気は、室内の空気と大して変わらないほどの熱があり、換気の意味があるのかないのか水澄に言わせてみればわからない。すぐにでも冷房をかけて欲しいが、これは伊達の癖でもあるのだろうから、黙って窓を開ける姿を眺めていた。
「うー、風が吹いても熱風じゃ意味ねえんだよなぁ」
水澄はそうひとりごちて、ワイシャツをぱたぱたと仰ぐ。見上げる空の青さが憎々しいほどだ。
「そうだな……ああ、水ありがとう」
ローテーブルの向かいに腰を下ろした伊達は、先程水を入れてもらったコップを傾けて喉を上下させた。相当喉が乾いていたのか、勢い余って水が口の端から溢れる。全身を包むぬるい風と倦怠感に水澄はぼーっとしていたからかもしれない。目の前の男の口からつっと漏れた水滴が、太い首を伝って、制服のワイシャツの襟を濡らす様子が、まるでスローモーションのように見えてしまった。
さっきまで部活で至近距離で汗まみれで絡み合っていたというのに、テーブル一つ挟んだ距離でまじまじと見るその姿に、いつもとは違う空気を感じて、無意識にこくりと喉が鳴った。
「俺変かもしれない。今お前にめっちゃムラッとしたわ」
「は? 何言ってんだ、暑さでおかしくなったのか?」
口を拭った伊達に怪訝な目を向けられて、水澄は被りを振る。もう一度、目の前にいる男を見つめると、そこにいるのは、普段のダチとしての伊達真司だった。さっき覚えた感情は何だったのだろうか。
「そうだよなぁ……マジでおかしくなったのかもしれないわ」
俺、どうかしてるのかも、と思いながら、伊達が立ち上がりクローゼットから部屋着を出す後ろ姿を追う。伊達は少し躊躇いがちに言った。
「着替えるから……後ろ向いておけよ」
「いつも着替えなんて見てんじゃねーか! いまさらなんなんだよ」
「お前がムラッとしたとか言うからだろ!」
目ェ閉じておけばいいんだろ、と言って、不本意ではあるが目を瞑ったが、バサバサと着替えをしている気配を感じ、チラリと薄目を開けてしまった。すると、部屋着のTシャツを着ようとしている無防備な背中が目に入ってくる。
よく発達した僧帽筋にじんわりと汗が滲んでテラテラと光を反射している。明るいうちから狭い部屋で見るその姿は、やっぱりさっきと同じように見たことがない感じがした。水澄は、その背中がTシャツに綺麗に収まるのまで見届け、慌てて目を閉じた。
「目、開けていいぞ……そろそろ窓閉めるか」
伊達が窓を閉めると、エアコンがぴ、と無機質な機械音を立てる。求めていた冷風が、緩やかに暑くなった体と思考を冷やしていく。水澄はゆっくりとコップの水を飲み干した。
「なー真」
「なんだ」
「さっきのこと……冗談じゃないって言ったらどうする?」
「……本当におかしくなったんじゃないか?」
水澄の思いのほか真剣な目線に、伊達はくらりとして口が勝手に動いてしまったが、なんだかそう答えてはいけなかった気がした。
「だよなぁ……」
この話、無し無し!と妙な雰囲気を払拭するかのように水澄は朗らかに声をあげて、立ち上がった。暑さで頭までやられたんだろうか。自分と同じくらいの体格のいい男友達に、こんな感情を覚えるなんて自分でもどうかしてると思った。
「今日夕飯どうしよ。真が作ってよ」
「別にいいが……鶏むねとブロッコリーと米くらいしかないぞ」
「えー、さすがにそれ以外が食いてぇな」
いつも通りのやりとりをするが、少し大きくなってしまった声に伊達は気づいただろうか。大丈夫、このままやれる、と水澄はゆっくり自分に言い聞かせて、これからスーパーに行くかどうか相談を続けるのであった。
猛暑の日々はまだまだ続く。さっきのぐらついた気持ちが、やはり暑さのせいではないと水澄が気づくのは、もう少し後の話だった。
If you make a mistake, you can cancel it by pressing the reaction.