零ミリ
2024-02-08 20:32:38
2216文字
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不可触の瞳

无諦+藍桐+モブアイスクラー社員

「君、ちょっといいか」
 入り口の方から歩いてきた長身の男性が先輩に話しかける。白衣を着ていないことからアイスクラーの社員ではない。明るい茶色の髪に赤い目という容姿で長身も相まって日本人離れしており随分と目立つが、知的で落ち着いた雰囲気を漂わせており、製薬会社の工場兼事務所という技術者たちが集まる場に場違い感はそれほどなかった。歳の頃は三十の半ばほどだろうか。
「ああ、白衣ですね。今用意しますよ。おーい、誰か来客用の白衣持ってきてくれ!」
 先輩が奥に声をかけると奥にいた他の先輩がバタバタと用意を始める。
「悪い、この人の白衣を用意するまで説明は中断だ」
「分かりました」
「すまないな、何かの説明の途中だったか」
「こいつが今日入社したてで社内の説明をしてたんです」
「そうか、新しい社員か……
 今まで先輩にばかり話しかけてきた来客者がこちらを向く。特徴的な赤い目に真っ直ぐ射られる。その光には威圧感があり、背丈からして見下ろされることもあり、貴方は誰だ、という問いが自然と封じられる。謎の来訪者の視線はひそやかな好奇心が滲んでおり、決して悪意はないと思うが、どこか居心地が悪かった。
 奥にいた別の先輩が駆け寄って来訪者に白衣を渡す。来訪者はありがとう、と言って受け取ると慣れた所作で白衣を着るとすたすたと奥の階段に消えていった。もう聞こえないだろうということを確認して、先輩に小声で聞く。
「先輩、あの人誰ですか? 社員ではなさそうでしたけど」
「社長のご友人だ。多分な」
「多分?」
「紹介された社員はいないから実態が分からないな。名前は社長がムテイって呼んでるのを聞いた社員が何人もいるからムテイさんって呼ばれてるけどな」
「本人や社長に聞かないんですか?」
「聞ける雰囲気じゃないんだよな。社長も言わないってことは聞かれたくないことなんだろうし」
「確かに……
「それと、あの人が行った地下の研究室は社長以外立ち入り厳禁だからな。最後に説明しようと思ってたけど、今言っておく」
 先輩の言葉に驚く。社長以外入れない研究室に入れる部外者とは一体どういった存在なのか。好奇心と不審の思いを混ぜた声が出た。
「本当に誰なんですか? そのムテイさん。誰にも言わないなんてもしかして愛人とかですか?」
 愛人、と言葉にしてそれだけは嫌だ、と強く思った。自分は社長の宇津木藍桐を尊敬している。アイスクラーは先輩の紹介で知ったが、その過程で読んだ社長の論文にはその革新性に感銘を受け、宇津木藍桐という人間とアイスクラーという会社が未だ世に埋もれてるということに悔しさも感じた。いくつかあった就職先の中でアイスクラーに決めたのは宇津木藍桐とアイスクラーがもっと世に知られて欲しい、という思いもあってのことだった。それほどまで傾倒しているという自覚のある対象の人物が、職場に昼間から愛人を呼びつけるような色ボケした人間であってほしくない。
 先輩は面倒くさそうに手を振って答えた。
「俺が知るかよ。社長の機嫌を損ねてもいいなら聞いてみな。不機嫌な社長はかなり怖いぞ。さあ、説明再開するぞ。次はあっちだ」
 先輩は会話を切り上げて歩き始める。慌てて追いかけるが、その後の説明も始まった業務の間もあの目が忘れられなかった。
 夕方になる頃、次の作業の準備で資料を読み込んでいると肩を叩かれた。誰かと思って振り返ると、にこにことした社長が立っていた。
「やあ! 調子はどうだい!?」
「しゃ、社長!!」
「ああ、今はこの資料を読んでいるんだね!」
 社長は机の上の紙を一枚取り、うんうん、と頷く。
「何か困っていることはないかい? 分からないこととか!」
 分からないこと、という言葉に昼間の来訪者の姿が浮かぶ。あの視線に疑問を封じられたことも同時に思い出し、触れてはならないものに触れようとしているという自覚があった。しかし、純粋な好奇心と思い浮かんだ嫌な可能性を否定してほしいという思いが勝り、言葉が口から飛び出した。
「社長、昼間訪ねてきたあの人はどなたなんですか? どういう関係なんですか? もしかして愛人ってことはないですよね?」
 最後の言葉は掠れるような声になり、正視できなくて俯いてしまった。暫く俯いていた後、頼むから否定してくれ、という思いで再び顔を上げた。
 顔を上げてしまったことを後悔した。社長はにこやかな表情から無表情になり、細い目の奥から刺すような冷ややかな視線を感じる。その冷ややかな視線に部屋の温度が急激に下がったようだ。
「それを君が知る必要はあるのかな!」
 普段の親しみやすさを感じる大きな声も、有無を言わせない圧力を感じる大声に感じる。それは間違いなく、聞くどころか疑問に思うのも許さない、という圧力だった。
「あ……
「君には関係のないことだよ!」
 ダメ押しのように言葉を放つ社長の瞳の奥が黄色に光ったような気がした。その光にあの赤い瞳が重なった。
 言葉はなくとも自分が何をしたのか理解した様子を見て、社長はにこやかな表情に戻る。
「君には期待しているんだ! だから、長く続けられるように分別はつけてほしいな!」
 社長は肩を叩いて奥へ戻っていく。一人残された部屋で、自分が魅入られた宇津木藍桐という存在の決して触れられることのできない深淵を知ってしまったことを茫然と理解した。