いを
2024-02-08 19:03:57
3012文字
Public 刀神
 

額透かす夜光

スミのこと。
・雪月さん【higasa_onink】
お借りしています。

 壱段に昇りきったからには、それ相応の責任も負うし、責務をまっとうするという覚悟も必要だと言った。
 誰かから言われたわけではない。壱段になったなら、だれしもそう考えるものなのだろうと思う。
 
 椿油のにおいがねっとりと鼻につく。髪に櫛を通すたびにそれはスミの鼻孔にへばりついた。
「髪の毛はきれいにしておかなければ」
 そう言ったのは母だった。
 見目も麗しく。
 ――気に入られるように。と明け透けに言わなかったが、彼女の目が言っていた。
 必ず。
 と。
 気配に敏感なのは刃佩流だから、というわけではない。持って生まれた「もの」なのだろうと、スミは思う。
 霊的な力が強い、一般人からすればうさんくさいと言われるような血筋だ。こそこそと指をさされるのも慣れている。
 時計を見上げる。14時半を過ぎていた。髪の毛をまとめ、結い、スタンドカラーの白いシャツをハンガーから取り去って身につける。
 玄関を出ると、むわっとした花の香りが再度鼻についた。
 つるばらや、たくさんのばらのの香りだ。隣の家で育てているらしい花々は、こちらにも香りを運んでくる。
 花切鋏を持った老人が、スミに背中を向けていた。
 腕の動きで、花を切ったのだと分かる。花を切る、パチン、という音が耳に残った。

 なぜ非番の日の昼間に家を出たのか分からずに、ぼんやりとしながら歩く。
 街路樹が多い道を歩いていると、いい匂いがしてきた。
 大勢の人間の行列が建物を這うように並んでいる。のぼり旗はない。白い真新しい看板に黒くて小さな文字。建物は前々からあったが、しばらくの間入っていなかった場所に買い手がついたらしい。
 パン屋のようだった。
 道路を挟んだ向こう側にある店の中は、忙しなく動く店員が5人かいた。人数をつい数えてしまうのは職業病なのかもしれない。
 口を噤んだまま、近くの横断歩道を渡ってパン屋の行列に並んだ。
 いつもなら気にもせずに通り過ぎるのだろうが、なんとなく気になった。焼きたてのパンの匂いは嫌いではないから、だろうか。
 並んでいる人間はほとんど女だった。ほぼ全員が片手にスマートフォンを持っている。
 そういうものなのだろうかと思って、ジーンズに突っ込んだままだった自分のスマートフォンを引き抜く。
 せっかくなので、この店の店名を検索するとどうやらチェーン店ではなく、個人で経営している店らしい。
 じわじわと行列が入口に近づいていくたびに、店の中の5人が忙しそうにレジ対応や品出しをしている姿がはっきりと見えた。
「ぁ」
 ふと思い出す。
 財布を持ってきただろうか。いや、持ってきていない。並んだのは無駄足だっただろうかとよく磨かれた硝子戸を見ると、電子決済ができるようだった。
 店内は明るく、あたたかい色の照明で照らされていた。
 パンの焼ける匂いが店内に充満している。隅にいっても真ん中にいっても同じ匂いだ。
 トングでクロワッサンふたつと、バゲットをみっつを取って買った。愛想のいい店員で、クラフト紙のような色をした紙袋に次々とパンを入れ、やはり愛想よくスマートフォンに映し出されたバーコードを読み取り、「ありがとうございました」と明るい声で頭を下げた。
 店を出ると、まだ行列が続いていた。
 それを横目で見ながら、なだらかな坂道をのぼる。
 時折風が吹いて、白いシャツの裾を揺らした。

 開かれた公園に寄ると、木で出来たベンチに見慣れた姿があった。
 ぴんと背筋を伸ばしてどこかを見ている。スミと同じくらい長い髪が風に揺れた。
 黙ったまま隣に座る。
「あら、パン? 珍しい」
「新しい店、できてたから」
 左腕に抱えていた紙袋からクロワッサンをひとつ取り出して、そのまま雪月に渡す。
「クロワッサン? バターの匂いが濃いわね」
「そうか」
 紙袋からもうひとつのクロワッサンを取って、鼻に近づける。濃いバターの匂いがした。ともすれば、出る前に嗅いだ椿油よりも濃いかもしれない。
 足もとを見下ろしてから、ひとくち囓った。さくりと音がする。
「食べたら」
 呟くと、雪月はそのまま白い手で口をつけた。
 ベンチに添うように、ぺんぺん草の白い花が咲いている。
「おいしいクロワッサンね」
……そうか」
 おいしいのか。自分ではよく分からない。
「新しい店って、どこの?」
「この道をくだった先の、白い看板の店。建物は新しくないけど繁盛しているようだった」
「へえ。定ちゃんたちに買ってこうかな」
 雪月とスミの間に置いた紙袋を、彼女に押しつけた。
 こちらを向いたとき、艶のある髪の毛がするりと揺れる。
「これを持っていけ。バゲットがみっつ入っている」
「アンタが食べるために買ったんじゃないの?」
「半分正解」
……まあ、くれるっていうなら……
 ――気に入られるように。
 母の言葉が脳裏に浮かぶ。
 ――そのためなら金を惜しまず使いなさい。
……
 スミは指先を丸めて、親指で人差し指の爪を撫でた。
 雪月と少なからず、多くの時間を過ごした。そして、大金を叩いて買ったものなどで喜ぶような女ではないことは知っている。
 きょうだい思いの優しい女だ。彼女は。
「美味そうだと思ったから、買ってきた。それだけだ」
 他意はない。
 そう足もとに咲いているぺんぺん草を見下ろしながら呟いた。
「そうみたいね」
 とっくにクロワッサンを食べ終わっていた雪月は、顎をあげて空を見上げた。
 濃い青色と、うっすらとした雲がある。雲は少しずつ流れて、なにかの形に見えてきた。なんだっけと考えていても、形はゆっくりと崩れて流れて消えていく。
「それじゃあ。帰る」
 音もなく立ち上がり、雪月に告げる。
「ごちそうさま」
 彼女は紙袋を持ち上げた。その目を、今日初めて見たかもしれない。
「ああ」
 ぶっきらぼうに応えると、公園を出てそのままゆるやかな下り坂を下って、パン屋の前で再び立ち止まる。スマートフォンのカメラで店舗を撮ると、店名と一緒に雪月に送っておいた。
 行列は途切れており、店内の5人の店員たちは奥まった所で談笑しているようだった。
 よく見ると扉にクローズ、と書かれている。どうやらパンは完売したらしい。
 冷たい風が吹きに抜けてくる。重たい髪の毛の毛先が揺れる。

 この長い髪の毛を見るたびに、否応なしに「責任」「責務」という単語がちらつく。
 阿弖の家に生まれたから。
 次男だったから。
 運が悪かったのかもしれない。
 さまざまな、ことが。
 兄の蔑む目が、妹の哀れんだ目が、突き刺さる。
 しっかりしなさい・・・・・・・・
 幼い頃からぼんやりとしがちのスミに、何度も叱責してきた父と母の顔が、霞かかったようにうまく思い出せない。
 ほとんど毎日会っているはずなのに。

 スミのくちびるが開いても、言葉を紡ぐことはなかった。
 ごめんなさい、すみません。謝罪の言葉しか許されなかったから、いつしか家の中で自分から話すこともなくなった。
 このような特殊な家なら、それが普通のことだと思っていた。
 それでも、今の雪月は違った。
 ――同じくらいの大家でも。

 うらやむような気持ちは蓋をした。
 相応しくない。
 ただすこし、息が詰まっただけだった。