アストルはまだ捕まえたての馬の機嫌を取りつつ、たてがみを掴んで拍車をかけながら街道を走り抜けていた。母を探して家を出たときはあんなに遠く長く感じた道だが、自分次第でそれは近く短くなる。それは徒歩か馬かの違いだけではない。
一度出れば戻れないと思っていたのはとんだ間違いだったと気づく。戻ろうとする意志があれば、いつだってあの砂漠へ帰る事はできるのだ。同様に、母の住む家に戻ることも可能なのである。砂漠の国とハイラル王国が物理的に切り離されない限りは。
暴徒共の最後尾が見えてきた。だが明らかに人数が多いし、湖畔の村生まれではない者がちらほらいる。どういうことかと疑問に思いつつ、アストルは馬を加速させた。彼らは皆、武器や武器に転用可能なものを握って背負っている。猟銃から弓矢、鋤に鍬まで持ち込んで物々しい雰囲気だ。
「おい、これは何の行列だ?」
よその村の人間を見定めてアストルは馬で並走しながら話しかけた。
「何の行列かって? この国を狙ってる恐ろしい魔王を退治しに行くのさ!」
「魔王……?」
「先頭にいる奴に話を聞いてみろよ。奇妙な手鏡を持ってる奴だ」
それが村人たちを焚き付けたアイツだとアストルはすぐに理解した。野獣が何をどうしたら魔王と解釈されるのかはわからないが、アストルにできるのはとにかく前に進むことだけだ。アストルは答えてくれた男に「わかった、礼を言う」と告げると更に突き進んでいった。
だが窮地を救ってくれたプルアも「魔王がどうこう」と口走っていた。とても無関係とは思えない。確かにあの野獣の見た目は魔の王と呼ばれていても違和感はないが……。
いや、それでも彼に危機が迫っていることに変わりはない。出来るならばこの暴徒の列が砂漠の宮殿に辿り着く前に知らせなければ。
正直、昨日の朝起きてからほとんど寝ていない。昨晩は野獣と踊って幸せを噛み締め、そのたった数時間後には宮殿を出ていた。長かったように感じる冬の砂漠での生活はあっという間に終わりを告げて、もう遥か遠い日の出来事のよう。あの時間をもう一度と望むことで、アストルは今にも自分を覆い尽くそうとする睡魔を必死で振り払った。
列の最前はまだまだ先のようで、際限なく続いて見える。村の者たちはよその人間を取り込みながらその勢力を伸ばしているのだ。多人数になって気を大きくしなければ挑めない連中に負けたくなど無い。そんなことでは、多数決で少数派が滅ぼされようなもの。そんなことは、絶対に避けなくてはいけない。
❋❋
野獣は一人、西の部屋でガラスケースに入っているデザートローズを見つめていた。花弁は最後の一枚となり、少しの刺激を加えればそれすらも砂になってしまいそうである。だがこれでよかったのだ。アストルは母を救うことができて、悲しまずに済んだはず。この砂漠が永劫の冬に閉ざされ、民も臣下も、自分も元の姿に戻れなくても、ある程度は満足していた。多少は変われただろう。自分の願いを押し込め、アストルというハイリア人の願いを優先することが出来た。だが愛しているかどうかと問われれば、うまく答えることはできない。
一言に愛と言っても、その定義も形も様々だ。あの女神が提示した『愛』の条件は無論恋人としての愛だろう。だが自分がそれをアストルに対して抱いているのか……それは未だはっきりしていなかった。違う。はっきりさせては自分の沽券に関わるから、あえてしていないだけ。ハイリア人を恋人として愛したともなれば、自分にも民にも示しがつかない。それを思えば愛せるはずがない……否、愛してはいけないのだ。
この条件は最初から自分の詰み。女神がそれを見越していたとは思えないが、結局は同じこと。ならばやって来るハイリア人は皆殺しても構わないと思っていた。にも関わらず、アストルは何もかも変えていった。不思議なハイリア人だったと今でも思う。こちら側に寄り添ってくれるハイリア人など、これまで一人としていなかったのだから。
「ガノンドロフ、大変よ!」
切羽詰まった様子で部屋に飛び込んできたのは養母だ。一人にしてくれとギラヒムに頼み、それは周知されているはず。いや、きっとこの女はそれを無視したのだ。
「誰も入れるなとギラヒムに言ったはずだが」
「そんな事言ってる場合じゃないわ! ハイリア人が大勢攻めて来てるのよ!」
「……なんだと?」
ご覧なさい、と養母に促されて野獣は窓から砂漠の入り口の方を覗き見る。確かにそこには人間たちが列を成し、純白の雪景色を穢しながら行軍していた。今この街に普通の人間は一人としていない。ハイリア人としか考えられない。
向かう先は当然、この砂漠の街と宮殿なのだろう。普通ならば入った者を惑わせる力が働くはずだが、彼らは迷うこと無く真っ直ぐこちらへ向かえている。
「どういう事だ……何故奴らが……」
「きっと坊やが裏切ったのよ」
「ッ! 何を根拠に……!」
野獣は一瞬でも感情を顕にしてしまったことに気づき、口を噤む。彼女の前でそうしてはいけない。自分がアストルを大切に思っていると知られれば、彼に危機が迫るだけ。この女は、そういう人間なのだ。
「貴方、坊やに女神からのいただき物を渡したそうね」
「だから何だというのだ」
「アイツらが此処に来られたのは何故なのか、答えはもう出ているはずよ」
養母は厚化粧した顔をニヤつかせている。手鏡はここへと導く標。アストルが道に迷わぬよう手渡した。アストルはハイラル王国の土地へと戻った。ハイリア人どもが砂漠でも迷わないのは、手鏡をアストルが彼らに渡してしまったからなのだろうか……?
「だからずっと言ってたでしょう? ハイリア人は信用ならないって。奴らは自らこそが神に選ばれし者だと信じている愚かな選民思想の塊。その考えのもとに、私達を虐げてきたわ」
養母の両手が野獣の肩に置かれる。不自然なほどに艶のある爪が野獣の毛皮に食い込み、何度となく重ねられた言葉を耳元で囁かれた。
「ハイリア人は、皆殺しにすべきなのよ」
野獣は両手を握りしめた。
「ご主人様! 如何しましょう!」
ユガとアグニムが滑り込んできた。司令は王の役目。状況が芳しくない中、皆は自分の指示を待っているほだ。野獣は振り向き、握っていた手を広げ、毛むくじゃらの右腕を突き出す。
「戦に備えよ。この地に入り込んだことを後悔させてやるのだ。奴らにとって、お前たちは『動く無機物』。それを最大限活かせ」
「ハハッ」
ドスドスとした足取りで部屋を出ていく野獣にユガは恭しくお辞儀をする。野獣は一度歩みを止め、ユガの隣で残念そうに俯いているアグニムに目配せし、一言告げた。
「そんな顔をするな」
アグニムが顔を上げた時には、野獣は歩きはじめていたためにその表情は伺えない。
「ひとまずお前達に任せる」
こちらへ来るなと主人の背中は言っていた。今はその言葉に従うしか無い。
任せられてしまったユガは頭を抱えたくとも抱えるための手がなかった。こちらの自主性にある程度の信頼を置いてくれているということだが、そうなれば生半可なことはできない。
「我々は無機物……我々は無機物……」
ユガはぐるぐると円を描くようにその場を歩く。ウンウン唸りながら、考えているのかいないのかどちらとも取れない様子だ。
「いや! ワタクシは木でできているから有機物なのでは!?」
「ご主人様はそういう意味で言ったんじゃ無いと思うけど」
アグニムが鋭く突っ込む。グサリと刺されたユガだったが、すぐに話を切り替えた。
「しかしあのアストル様がワタクシたちを裏切るとは思えないのだが……」
「ご主人様も、きっと私たちと同じ思いのはず。きっと待っておられるのですよ、アストル様がお戻りになるのをね」
「ワタクシたちはそのサポートをするべきなのですね」
ピン、とユガの毛筆部分が伸び上がった。どうしたのかとアグニムが問えば、ユガは『天才的なアイデアを思いついた自分を讃える笑み』を浮かべる。
「そう! ワタクシたちは無機物なのです!」
❋❋
吹雪が止んでいたとはいえ、砂漠は砂漠。ただでさえ無茶をさせた馬をこれ以上走らせるのは酷だ。ここで待っていてねと告げ、アストルは暴徒に紛れて彼らと道を同じくした。魔王を殺せ野獣を殺せとシュプレヒコールを繰り返す彼らの目は、正直言って正気ではない。まるで何者かに操られているように思える。野獣は危険ではない、優しい人物だと声高に言ってしまったために、こんな事が起きてしまった。きっと野獣はアストルが彼らを連れてきたと思うことだろう。実際その通りなのだから、何も反論できない。民の安全を第一に考えている彼の怒りを買うことは間違いないだろう。
「見えたぞ! あれが魔王の住処だ!」
前の方から聞こえた一言に周囲が沸いたように盛り上がる。彼らは其処をまるで悪の根城のように思っているのだろう。だがそこには普通に生きている者だっている。姿こそ普通とは言い難いが、生きて存在しているのだ。ここでそれを叫べたらどれほど良いだろうと思いつつも、アストルは口をむっすりと閉ざし黙って俯きながら付いていく。声を上げれば状況が改善するわけではないと、数刻前に突きつけられたばかりなのだから。
「行くぞ! 突撃だ!」
それを合図に、暴徒共は一斉に動き出した。人の荒波に攫われぬよう、アストルは足をしっかり地につける。他人に流されはしない。引き時も攻め時も、自分で決めるべきだ。
人が疎らになってきた辺りで街を囲う土壁に沿い隠れ、様子を伺う。最初聞こえてきたのは暴徒共が街を荒らし尽くし、それに愉悦を覚えている声だった。自分はここで待つことしかできない。痺れるようなその罪悪感に苛まれたが、ここまで来るのに体力は殆ど使い果たした。戦えるような腕力も体幹も自分には無い。アストルは目を瞑り、状況が好転するのを祈った。
……と、その時。加虐の悦は、被虐の懊にすり替わり始めた。嗤いながら破壊と略奪を行っていた人々は、まるで尻に火がついたかのように慌て恐れ、果ては砂漠の街を飛び出していった。何事かと入り口から覗き込めば、なんと家財道具や生活用品、仕事道具に姿を変えられた砂漠の民が一本の絵筆の指揮下で暴徒に盛大な仕返しを行っているではないか。鍋で頭をすっぽり覆われた上にお玉にカンカンと叩かれて気絶。絨毯に巻き付かれた者はそのままクローゼットに収納されている。槍が指揮を執り、弓矢が集団で一斉射撃。動く無機物たちに悲鳴を上げて逃げ惑う姿はあまりにも滑稽でアストルは笑いを堪えるのに必死だった。侵入したのは良いものの、ここの仔細を知る者は誰もいない。大混乱が起きるのも当たり前だ。
「あっ、アストルさんだ!」
「アストルさん、こんにちは!」
足元から可愛らしい声が幾つも聞こえたと思えば、それはアストルに懐いていた柔らかナプキンの一団だった。声と振る舞いから察するに、この子達はまだ子ども。きっとユガはこの子らには避難するように言っただろうだが、一体どうしたのだろうか。
「君たち、今は危ないんだなら隠れていなきゃダメだろう」
「アストルさん、ご主人様は貴方を待っているのよ」
そうだよそうだよとピョンピョン跳ねながらナプキンの形をした子どもたちは口々に言う。
「私のことを、疑っていないのか?」
「だってアストルさんがそんな事するはず無いもん!」
「早くアストルさん! ご主人様にはもう時間がないの!」
「ひみつの入口があるって知ってた?」
「こっちこっち!」
アストルは可愛いナプキン軍団にぽよぽよと背中を押され、案内されるがままになった。会って直接話をしなければいけないのはわかっていたが、いざこうして導かれるとなるとその先が見えてきて緊張してしまう。
「ここ……」
子どもたちに連れてこられたのは地下水路だ。入り組んだ場所だが、ナプキンたちは何度も冒険をしているのか迷うこと無く突き進んでいく。ぱしゃぱしゃと水を跳ねさせたり、水の流れにボーッと自分を委ねてみたり、その無邪気な姿を見ているとホッと安心できる。靴やズボンの裾を濡らしながら、それを厭わずアストルは先導に従った。
やがて抜け出たのは、洞窟を活かした造りをしている広大な地下街だった。アストルを連れてきた子らよりも更に小さな子ども……と思われる小さなスプーンやフォークや、人間の乱闘できるほどの年齢ではないらしい古びたツボが転がっている。
「ここは今避難所になってるけど、宮殿のお部屋にも繋がってるんだって!」
「ご主人様はそこでアストルさんを待ってるよ!」
「すまない、ありがとう。早く君たちを自由にしてやるからな」
そこからアストルは見知った道を探し出し、宮殿の敷地内へと入り込んだ。彼が待っているのはきっとあの室内天球の部屋だろう。そんな気がしていた。
「野獣さん、何処ですか?」
部屋は相変わらず真っ暗で、アストルは心得ているスイッチを探し出して照明をつけた。
「あら、戻ってきちゃったの?」
ギトギトの嫌悪感をたっぷり浸したような声にアストルはその方を向いた。そこには優雅な様子で野獣の養母が……ツインローバが空中に腰掛けていた。彼女がクルリと指を振れば、後ろの扉に鍵がかかる。閉じ込められた。
「せっかくお家に帰れたのに、どういう風の吹き回しかしら?」
「私は彼に伝えなければいけないことがあるだけです。ここから出してください」
「そういうわけにはいかないのよ」
ツインローバは床に足裏をつけると、ニヤニヤ嗤いながらアストルに歩み寄った。嫌な気配がしてアストルは後ずさる。
「貴方はとんでもないことをしてくれたわ」
「決して私が彼らを連れてきたわけでは!」
「わかってるし、それじゃない。貴方が、ここに来たことそのものよ」
無から錫杖が作り出され、アストルは喉元にその先端を突きつけられた。赤々と燃えるそれは、砂漠本来の環境を表すようにひどく熱い。前髪の毛先から焦げた匂いがする。
「私はガノンドロフを……貴方からしてみれば野獣と呼んだほうが伝わりやすいかしらね? 彼を一族の王として教育してきたわ。『傲慢で愚かなハイリア人を斃し、我らがこのハイラルに君臨するのだ』とね。あの子はよく頑張っていたわ。王国の守護女神にあんな事をされるのは計算外だったけど」
「私たちの先祖が、皆さんに何をしたのかは……彼からもよく聞いています。とてもひどい仕打ちだったと」
アストルの言葉を無視するように「その上!」とツインローバは声を張り上げる。
「貴方がここに来てから、あの子は変わってしまったわ。ハイリア人に対して情を抱くなんて、とんでもないことよ。お陰で私の計画はぶち壊しだわ」
「計画……?」
アストルは少しずつ今回の不可解な出来事のあらましを理解し始めた。
「そう。まず貴方の母親を村の連中に襲わせて、貴方を村へ帰す。そしてハイリア人共を操りここを襲わせる。貴方の密告だと言えば、ガノンドロフは貴方に失望して本来の役目を思い出すはずだったのよ」
「それが、『魔王』なのですか」
アストルは怒りに震えていた。その低く地を這う声にツインローバは少しばかりたじろぐ。
「確かに、貴方がたの受けた仕打ちは不当かもしれない。けど目的を成し遂げるために、民の犠牲を勘定に入れるなんてあんまりだ! あの人は、あの人はそんな事望むはずないのに!」
「おだまり坊や!」
明らかな憎悪を向けられ、アストルは膝から力が抜け落ち床に崩れ落ちる。ここで過ごす内、野獣と心を通わせられたと思っていた。アグニムやユガとも。ギラヒムとは少しばかりぎこちなかったけれど。砂漠の民は恨むべきハイリア人の自分を受け入れてくれたと思っていた。
だが彼女はそれを許していなかった。当たり前だ。『養母』を名乗るのだから、野獣よりも遥かに長生きで、遥かに歴史を背負っている。そう簡単に、ハイリア人であるアストルを受け入れるはずがない。
「悪いけど、貴方はあの子にとっても我が一族にとっても危険すぎる。ここで、死んでもらうわ」
錫杖は鋭利な短刀にその姿を変える。座り込んだアストルは脚が竦んで動けない。
あぁ、死んでしまう。せっかくここまで戻ってきたのに。彼に愛を告げられずに、死んでしまうなんて、そんな……!
「やめろ!」
物陰から巨大な毛玉が飛び出し、ツインローバを弾き飛ばした。彼は別れた時と同じ、少し窮屈そうな夜会服を着ている。四足歩行で、獲物を狙う獅子のような体勢で養母に対し唸りを上げた。突然のことにアストルは、そのピンと立った尻尾を見上げるばかり。
「野獣さん……?」
「アストル、無事か?」
小さなか細い声だったはずなのに、野獣は振り向いてこちらの安否を確認してくれた。それに深く安堵して、アストルはゆっくり立ち上がる。
「はい、怪我は何も……」
「そうか。ならば良かった」
野獣は一向に二足歩行にならない。ナプキンの子どもが言っていた「もう時間がない」というのは、魔法の期限の事だろうか。彼はこのままでは永遠に野獣のまま。心まで獣になってしまうのかもしれない。
「アストル、我の背中に乗れ」
「えっ……?」
「奴は我には攻撃せぬ。我の背が一番安全だ」
アストルは震える脚で野獣の背に乗り上げる。ぎゅっとしがみついたのを確認すると野獣は入口の扉をぶち破り、宮殿の中へ舞い戻った。
「ごめんなさい、私が帰ったせいでこんな……」
アストルは野獣の背中の毛皮に顔を埋め、けれど溢れる涙で背が濡れては悪いと袖口で拭う。
「お前のせいではない。全て聞こえていた」
反論してはいけない。今はただ彼の思いを受け止めるべきなのだ。
野獣が逃げ込んだのは西の部屋だった。今にも日が沈みかけている。いつの間にこんな時間が経ってしまったのだろうか。もういいと言われたので、アストルは野獣からソロリと降りた。アストルは床にぺたんと座り込み、野獣はそれに目線を合わせた。二人は面と向かい、見つめ合った。野獣の手がアストルの頬に伸び、そっと撫ぜる。
「戻ってきてくれたこと、感謝する」
「どうしても戻りたかったんです。貴方に、伝えなければいけないことがあって……」
「伝えなければいけないこと?」
アストルはコクリと頷いた。拒まれるかもしれない不安と恐れに胸が締め付けられて苦しい。けれど彼は助けてくれた。伝えなければ。この想いを。
「私、貴方のことを……」
背中から冷たく鋭いものが食い込んだ。それはアストルの薄い胸を貫通し、胸の真ん中から切っ先が僅かに顔を出す。振り向けばそこにいたのは、手をブルブル震わせながらも狂喜の笑みを浮かべている……同郷の男だった。アストルの口から血が溢し、身体が野獣の方へドサリと倒れ込む。
「アストルッ!」
野獣がアストルの名を繰り返し叫ぶ中、男は「オレは依頼を成し遂げたぞ!」と誇らしげに高笑いしている。そこへ臣下三人がようやく到着し、ユガの命令の元ギラヒムが自らの刀背で項を引っ叩き、男を気絶させた。ユガは何が起きたのかをすぐに把握し「アグニム、ありったけの布を!」と指示を出した。
アストルはぼんやりとした視界の中、自分の血が野獣の毛皮を汚してしまったことに気づく。
「ぁ……ごめん、なさい……」
「アストル、喋るでない!」
野獣はアストルの腕を体側に固定させながらゆっくりと側臥位にさせた。傷口を刺激してはいけない。だが迂闊に刃物を抜くこともできない。ただでさえ白いアストルの顔色はどんどん青ざめていく。
「野獣さん、私……」
「だから喋るでないと言ったはずだ! 心配いらぬぞ、お前は助かる」
アストルの手を握れば、指先から段々と冷えはじめていた。背中から胸を貫く傷だ。助かるはずがない。だがその場しのぎの嘘でもアストルを安心させてやりたかった。
「野獣さん……私……、貴方に、言いたいことが……」
「あとで良い! 今は喋るな! 頼むから、我の言うことを聞いてくれ……」
ギュウとアストルの手を握った。それが嬉しいのか、アストルは穏やかな笑みを浮かべている。僅かな力でアストルの冷たい手が野獣の剛毛に覆われた手を握り返してきた。
「わたし……あなたのこと、あいしています」
スゥ、とアストルの瞳が長いまつげを生やした瞼の奥に仕舞われた。呼吸に伴っていた胸の動きも止まる。野獣は冷たくなりつつあるアストルの身体を揺さぶった。
「何を……何を……? アストル……我の元から永遠に去ろうというのか!? 許さぬ! お前はまだ我の囚人だ! 勝手に出ていくな! そんなことを認めた覚えはないぞ!」
言うべきことはこんなことではないとわかっていた。今ばかりは、王としての自分を捨てても良いのだろうか。言ってはいけないと自らに言い聞かせてきた、最も大切な一言。その体を起こし、体温を分け与えるように抱きしめた。
「アストル……頼む……我を置いていくな……」
触れあえば、まだ微かに彼の鼓動を感じた。一縷の希望を託す。彼の耳には、この言葉が届くはずだと。
「愛しておる」
デザートローズの最後の花弁が、砂になって崩れ落ちた。ユガとギラヒムはそれを見て途方に暮れた。日は地平線に沈み、この砂漠は永遠の冬に包まれる。
誰もがそう思った。
ところが突然、青白い流れ星が群を成して空を引き裂くように現れた。そしてその輝きはこの部屋へと注がれ、アストルと野獣を包み込み浮かび上がらせる。聖なる光はアストルの身体を突き刺さった短刀を消し去り、傷を癒やした。
そして野獣には最大の変化が訪れる。毛むくじゃらの手足は筋肉を残しつつも毛皮を失い、鋭い爪や牙は丸みを帯びて、獣の顔つきは人間のそれへと戻っていった。全身を覆っていた真っ赤な毛は美しい頭髪として残り、元野獣は幾年ぶりかも覚えていない本来の容姿に戸惑いさえ覚える。だが目の前で横たわりながら宙に浮かぶアストルを我が腕で抱けば、何もかもどうでも良くなった。傷が癒えたのだから目を覚ましてくれてもいいだろうと、砂漠の王はアストルを呼びかけた。
「アストル、アストル起きてくれ。アストル」
なかなか目を覚まさないアストルに王は不安を抱く。間に合わなかったのだろうか。自分の想いは、彼を生かせなかったのだろうか。彼の想いは、こうして自分を元の姿にしてくれたというのに。呼吸している。鼓動もある。ならば何故目を覚まさないのかと歯がゆく思った。
「ん……?」
睫毛が震えて、アストルは目を覚ました。だが彼の目の前にいるのは『全く知らない相手』のはず。誰だとか、野獣さんはどこだとか、そんな事を言われてもおかしくはない。しかし彼ならばきっとわかってくれるはずだ。
「アストルよ、我だ」
アストルは腕を緩慢に持ち上げ、見知らぬ男の髪を房に指先を通した。太く逞しいが柔らかな毛質、そしてその色は美しい赤。何よりその目を見つめれば、奥には魂の姿が見える。
「貴方なのですね」
アストルの方から強く王へと抱きついた。もう離してはならない。逃げるつもりもなく、逃がすつもりもない。ただ側にいたいと互いが願うのだ。
青白い光は砂漠の街中に降り注ぎ、永遠に解けぬと思われた雪を溶かしていった。光に包まれた無機物たちは人間の姿へと戻り、親子やら友人やらが元に戻れた事を喜び抱きしめ合う。そしてそれは絵筆と剣と水晶玉にももたらされた。
ユガは派手な化粧をした道化師のような男に、ギラヒムはスラリとしつつも逞しく美しい剣士に、布を山程抱えて戻ってきたアグニムは賢そうな銀髪の壮年に、それぞれ戻った。
「おぉ! ユガ、ギラヒム! それにアグニムも!」
「ご主人様にアストル様、ご無事で何よりでございます」
「三人とも、何だか想像通りの姿ですね」
「ほう、この美しい姿を想像できたとはなかなかやるじゃないか」
「ギラヒム、口を慎みなさい。アストル様は我らがもう一人の主人になるのですよ」
和気あいあいとする五人の元へ「何故……」と絶望を引っ提げてツインローバが現れた。臣下三人は反射的にアストルを守るように立ちはだかり、王はその四人に背を向けて養母に相対した。
「どうしてなのガノンドロフ。ハイリア人と共に生きるなど、出来やしないのに!」
「あぁ、我もそう思っていた。アストルに変えられるまでは」
それに、と王は付け加えた。
「それを勘定に入れたとて、此度のことは到底許せぬ。民の犠牲を計算に入れるなど論外だ。ゲルド王ガノンドロフが命じる。悪しき反逆者ツインローバよ、二度とこの砂漠の地を踏むでない!」
それと共に武装した兵士たちが次々と集まってきた。王の宣告は逆らうことが出来ない絶対的なものである。たとえそれが王の母だろうと関係ない。ツインローバは拘束され「恩知らず!」やら「薄情者!」やらキーキーと叫びながら連行されていった。アストルはその様子を見ながら、ガノンドロフを見上げる。
「あ、あの……良いのでしょうか? 追放ってことですよね……?」
「お前の母もババアの策略に嵌められたのだろう? やはり関わるとろくな事にならんな。この国はもう長生き婆さんの支配から脱却せねばならぬ。アストル、お前が来てくれた事は恐らくその第一歩だったのだ」
「野獣さん……。じゃない……えっと……ガノンドロフ、様?」
「長ったらしいな。ガノンで良い」
ガノンドロフはアストルの額に軽くキスをした。アストルは真っ赤になっているが、ガノンドロフは至極満足げだ。
「思いのままに振る舞えるとは、とても心地が良いものだ」
「では、私も……」
アストルはつま先立ちをしてガノンドロフの頬に口づけた。まだ唇へのそれは気恥ずかしいらしい。髪を耳に掛けながら、アストルはふにゃりと笑った。
❋❋
「アスママさぁ、ちょっと寂しいんじゃないの? たった一人の可愛い息子が嫁に行っちゃうんだもん」
「えぇ、寂しいかもしれません。けど……」
ガノンドロフと見つめ合い、ゲルドの情熱的な踊りを楽しむアストルは実に幸せそうな顔をしている。少し前までは不満や不安を表面化させていた息子が、こんなにも穏やかで愛情に満ちた顔をするのは本当に久しぶりのことであった。
「あの子が幸せなら、私はそれで良いのです」
「なら良いんだけど」
プルアは禁が解かれた例の本に、今目の前で起きていること、そしてそれが起きた経緯を書き足していた。長い事伏せられたゲルドは、確かにこのハイラルに存在するのだということを国中に知らしめてやる。『いない者』など、この世にはどこにも存在しないのだから。
「しっかり語り継がせてもらうわ。ゲルド王と、その最愛の相手がどうやって出会い、惹かれ、結ばれたのかをね」
その歴史書は長い時の中で少しずつ形を変え、定番の御伽話となった。東から日が昇るように、古いわらべ歌のように、誰もが知る常識の一つのようなものである。
『砂漠の王とその最愛のハイリア人は、大切な人たちに囲まれて、いつまでも幸せに暮らしました』
終わり
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