両手いっぱいの花をきみに(7)

10月。秋の夜の小さな発見

 
「こんなところで、どうしたの」

 帰途を急いでいたアンがその小さな背中を見つけたのは、煌々と明るいエントランスの片隅だった。インターホンの前、びくりと肩を震わせ振り向いた少年は目を真ん丸に見開いた。

「アン!」
「あんたひとり? もう暗いのに、いつまでも出歩いてるのはあまり感心しないねウィル」

 鞄の中を探りつつインターホン機器をちらりと覗いてアンは内心首を捻る。呼び出しどころか何の入力もされていない。今さら部屋番号を忘れるはずはないから、おおよそ一定の呼び出し時間を過ぎてリセットがかかったのだろう。

「とにかく中に入って。あとで送っていってあげるから、」
「あっ、待って!」

 取り出した鍵を機器に近づける。その瞬間、機器との間にウィルが割り込んできた。彼はそれまで大事そうに抱えていた紙袋を押しつけるようにアンに突き出した。



「ぼくもう帰るから、だからこれ、リューに渡して」
「え、なに?」
「お母さんにお願いしたの。できるだけ今日中に食べてって言ってた」

 紙袋の口から四角い密閉容器が覗いている。義姉からのお裾分けであればおそらく菓子の類いだろう。状況的にアン一人で攻略することになりそうだが。

「ありがとね。あいつにもちゃんと伝えとく」
……あの、リューだいじょうぶ?」
「うん?」
「寝込んでるんでしょ」

 ――知っていたのか。
 遠慮がちに見上げてくるウィルの視線を受け止め、アンは唇に薄く笑みを乗せる。思えばやんちゃな方の甥っ子と会って立ち話をしたのはついさっき、スーパーに向かう道でのことだ。広めてくれと頼んだ覚えはないが、さすがに仕事が早い兄である。

……心配いらないよ。薬は飲ませたし、栄養とって寝てればすぐ良くなる」

 たった今調達してきた買い物袋の中身を見せれば、不安そうな面持ちはほっと和らいだ。小さな肩をポンポンと叩き、アンはそのまま回れ右をした。

「先に送っていくよ。行こう」




 * *




――

 ざらりとした掠れ声がこぼれ落ち、リューは思わず口を噤んだ。続けるはずだった言葉は呑みこんで、代わりに緩慢な手つきで喉元を撫でた。いつも通りの肌の感触が指の腹から伝わってくる。こういうとき、内側を直接掻きむしれたらいいのにといつも思う。
 衣擦れの音を耳が拾った。縦に細く漏れていた光の筋がさっと広がり、またすぐに薄暗くなる。

……リュー、起きた?」

 明るい廊下を背に、まるで影絵のようなその顔色は逆光になってよくわからない。でも躊躇いがちにそうっと囁く声音には気遣わしげな色が滲んでいて、ついリューの口角が上がった。

 短い声を返して半身を浮かせた。忍び足でやってきた彼女は、それが勤めとでも言わんばかりに体温計を差し出す。リューがゆっくり脇に挟んでいると、ふと何かが頰に触れた。アンの掌だ。

「気温差が大きいとすぐ風邪引くんだから。――気分は?」
……だいぶましかな。……いま何時?」
「八時を過ぎたとこ」
「え……? もう、夜中かと思った」
「よく寝てたもんね。何回か様子見にきたけどさ、」

 控えめなアラームが話を遮る。のろのろと抜き取ればそれは瞬く間に取り上げられた。
 じっと見つめていたアンの纏う空気が柔らかくほどけていくのを感じ、詰めていた息を吐き出す。アンは嘘をつくのは上手くない。あでやかな花が綻ぶような彼女の笑顔は、何にも勝るカンフル剤だと思う。

……アン、あのさ」
「なに? 喉乾いた?」
「うん。あ、いや、そうじゃなくて……ちょっと来て」

 もぞもぞと身じろいでリューは小さく手招きする。きょとんと見開かれた吊り気味の瞳は一拍置いて訝しげに眇められた。真意を掴んでやろうという意思が透けて見える強い眼差しには自ずと後ずさりたくなる。動いたところで臥せっている身では高が知れているのだが。
 ――日頃からもう少し真面目にしとけばよかったかな。
 そんな後悔がよぎったのも束の間、アンはすっと膝をついた。長い髪がひと房ふわりと肩を滑り落ち、花の香りが微かに漂う。
 間近に寄せられた愛しい顔に目を細めると、リューは彼女の斜め後ろを指した。

「みて」

 アンが背後を振り返った。
 真っ暗な夜空に白い光が浮かんでいる。真円には幾らか足らず、半円よりは丸みを帯びた、レモンのような形の――

「月?」
「うん。……目が覚めたら、ちょうど見えててさ」
「満月までもうちょっとだね」

 建物と建物の間の、縦に長細く切り取られた空間。その絶妙な位置にまるでぴったりとはめこんだように浮かぶ十三夜の月。明るくて、静かで、眺めているとなんとなく厳かな気分になってくるそれ。

 リューがアンと寝食をともにするようになって半年が経った。日々のいろんなことを体験し、共有する知識も随分増えた。なのに今の今まで知らなかったのだ。この部屋から月が見えるなんて。きっとアンも気づいてないんじゃないか――そう思った。

「キレイだよね……。ちょっとした、お月見って感じで」
「お月見、ねぇ。あんたの場合、楽しみなのは団子の方でしょ?」
……あるの?」
「さっきウィルが持ってきた。あんた、前もってねだってたんだってね。義姉さんの団子」

 じろりとめつけられ思わず息を呑む。その鋭い光は一瞬で消え去り、彼女はやれやれと胸の前で腕を組んだ。

「食欲出てきたんならいいことだけどね。まずはおかゆだよ」

 きっぱりと、だが瞳には安堵の色を滲ませてアンはリューの腕をとんとんと叩いた。「待ってて」と言い置き立ち上がった彼女にすかさず手を伸ばす。ハッと驚く横顔と、振り返った余韻に宙を舞う髪を見上げながら、リューは彼女を掴む手に力を籠めた。

……リンゴは? だめ? すったやつ……
「あんたの味覚ってほんと、ウィルとおんなじなんだから」

 くすくすと優しい苦笑が降ってくる。手首を掴む手の上に彼女の温かなそれが重なった。
 満たされた思いでリューは口の端を持ち上げると、捕えた花をそっと離した。

 淡い光に照らされた、静かで優しい夜だった。





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