「馬鹿じゃないの!?」
怒気に満ちた言葉が頭の上からのしかかってきた。力なく顔を上げたリューの目の前にドンと五百ミリのペットボトルが置かれた。こまかな汗をかいた青い側面には白抜き文字で商品名が印字されている。せっかく買ってきてくれたのに申し訳ないと思ったがとても口にする気にはなれず、感謝の言葉もそこそこにリューは再び丸テーブルに身を伏せた。まだ少し目眩がする。
「リュー、だいじょうぶ?」
「だ
……」
「心配することないよウィル。ちょっと酔っただけなんだから。自業自得」
青年が言葉を紡ぐより早くアンがさっと返答した。心配そうに寄り添っていたウィルは半信半疑の面持ちで叔母を見上げる。そんな甥を一瞥し、むっと眉根を寄せたアンは腕組みしてそっぽを向いた。
「おれ、あんな高速回転するコーヒーカップ初めて見た! やるなぁ、おっさん!」
明るい笑い声が後頭部に刺さる。気配がそばに近寄るのを待って顔を上げると視線の先にあったのは端正な面立ちの少年だ。ストローの刺さった大きな紙コップを片手に、口角がにんまり上がっていた。彼の向こうにも容姿の似通った少年がいて、同じように紙コップを手にしているがその顔には笑みはない。何かを訴えるようにじっと見つめてくる瞳は、リューと目が合った途端ふいと逸らされた。
双子の彼らはウィルの兄にあたる。真面目な顔つきの方が長男のジール、にやにや笑顔を振りまいているのが次男のファルだそうだ。なるほど、バレンタインのチョコレートを山ほど貰うのも納得の容姿である。無邪気で天使のようなウィルと比べると二人ともどこか
擦れてる印象を受けるが、小学六年生ともなればこれで普通なのかもしれない。
近くで蝉が鳴いている。パラソルの下から眺める景色は強い日差しに照らされ白く眩しかった。七月半ばの三連休初日。頭上に広がる蒼穹は濃く青く、いよいよ夏到来という感じがする。
聞けば夏休みに先立ってやってくるこの連休は甥たちと出かけるのがアンの恒例行事になっていたそうだ。
「今年はもういいよ。なんとなく続けてきた程度のものだしあの子たちも大きくなったし。あたしが家を出たのはいいきっかけだったと思う」
そう言ってアンは肩を竦めていた。リューはしばし思案したのち「きっと楽しみにしてるんじゃないかな」と継続を提案した。そうして相談の結果みんなで遊園地に繰り出すこととなった。
鮮やかな緑の垣根の向こうには趣ある石畳が広がっていた。ジェットコースターを始めとする数々のアトラクションや売店前には行列ができている。ああ、ウィルと一緒に乗ろうねって約束したのがまだ幾つもあるんだっけ。
よろよろとペットボトルを掴んだ。意を決して口に含んだスポーツ飲料はすっかり温く、喉をやさしく滑り落ちていった。胸のむかつきもだいぶ治まったようだ。
蓋を閉めたところでようやく周りに意識が向く。リューの隣には双子しかいなかった。
「あれっ、アンとウィルは?」
「先に行ったよ。おっさんもう大丈夫? おれら案内しよっか?」
「
……あのさ、おっさんじゃなくてリューって呼んでもらえると嬉しいかなぁ」
「なんで? どこからどう見てもおっさんじゃん。もしかして自分ではおっさんと思ってなかったりする? 駄目だぜ〜認めないと。な、おっさん」
あっけらかんと話すファルは頭の後ろで組んでいた手を解くと青年の背をばしばし叩いた。それは確かに正論だけど
……。肯定も否定もできずリューは引き下がるしかなかった。かろうじて笑みを形作る口の端が引きつる。
おもむろにジールが立ち上がった。目が合うと一言「こっち」と告げ、何の躊躇いもなくひなたに踏み出す。振り返ることなくすたすた歩いていく兄をファルもぱっと追いかけた。が、一瞬後あっと叫んだ彼はくるりと反転しリューの手を掴んだ。
「おっさん、こっちこっち!」
有無を言わせず引っ張られていった先はこぢんまりとした白い建物だった。壁にはオーソドックスな西洋のお城がファンシーなタッチで描かれ、いたるところに雪の結晶が散りばめられていた。上部に掲げられた看板に並ぶ文字は〝アイスラビリンス〟。
「
……ここ?」
「そーそー。頑張れば間に合うんじゃないかな~。グッドラック!」
何を頑張れば何に間に合うのか
――尋ねる間もなく中に押しこまれたリューはあたりをきょろきょろ見渡した。どうやらここはウォークスルータイプのアトラクションらしい。つまりスタートした時間に差があっても頑張って早足で進めば追いつける。
場内には氷柱や氷像を模した造形物が並んでいた。夜の設定らしく頭上には無数の星がきらめき、オーロラまで出ている。幻想的にライトアップされた氷像はチープな造りながらまるで本物の氷のようだった。
何より寒い。
とてつもなく寒い。
一気に体温を奪われたリューは二の腕をさすりながら逃げ出すように先を急いだ。氷点下の世界をのんびり楽しむ人々の間をすり抜け、ビニール製の暖簾をくぐる。
短いトンネルを抜けると次の部屋は白く明るかった。冷凍庫ではなくなったが通路は全面鏡張り、乱反射する光の中で両脇に無数の自分が並んでいた。リューは左右反転した己と手を繋ぎながら慎重に進んでいった。
「あー、また行き止まり
……」
四度目の袋小路に引っかかったところで目の前の鏡面に手をついた。もはや追いつくどころではない。方向感覚はとっくに失ったし一体どこが道でどこが壁なのか
……。
溜息をついているとふと背後に映る影に気づいた。いつの間に来たのやら、にこっと人好きのする笑みを浮かべた端正な少年につられてリューも口の端を上げる。
「えーと、ファルくんだよね。もうアンたちは出てきたのかな。俺があんまり遅いから迎えに行ってこいって?」
「勘違いしてるようだから言っておいてやる。お前、アンと全然釣り合ってない」
「
……え?」
口を笑みの形に開いたままリューは固まった。聞き間違いでなければ今とんでもないことを言われたような。少年は笑顔を引っこめ片手を腰にやった。すうっと半眼を閉じたその顔は
もとが良いだけになかなか凄みがある。
「お前みたいなのがアンに相応しいわけないだろう。朝から迷惑ばかり。アンを怒らせるわ困らせるわ、それで本当に自分が相応しいとでも思ってるのか? 全然、笑えない」
再び空気が凍った気がした。まるで仕組まれたかと錯覚するほどあたりに
人気はない。無数に広がる自分たちの影に囲まれ、いつ終わるとも知れない沈黙と緊張に支配されている。
やがてリューは深い息をついた。
「
……一理あるかもしれないね。俺も釣り合ってるなんて思ってないよ。時々、なんで俺なんだろうなって不思議に思うし」
「それ、馬鹿にしてるのか?
自惚れるなよ」
自惚れるなんてと青年は慌てて両手を振った。これは純粋に素直な思いだ。他意は全くない。どうしてと聞いてみたい気持ちはもちろんあるし、聞いたら赤面して答えをはぐらかすかななんて想像してみたりもする。けれど実際に問いただす未来はきっとこない。理由を知ることにあまり意義を感じないから。
「ひとつわかるのはさ、相応しいとか相応しくないとかそういう考え方はアンはしないよ。人を値踏みする女性じゃないのはきみも知ってるだろう? 俺の場合はだけど、アンと一緒にいたいからいるしそこは多分アンも同じなんじゃないかな。俺が不甲斐ないから面倒かけてる自覚もあるけどね。そこはもっとしっかりしないとなぁと思って
……あれ、ファルくん?」
少年は相変わらず半眼を閉じていた。先ほどと違うのは攻撃的な空気が薄れていることと、どこか嫌そうな感情を滲ませているところ。
「自惚れの次はノロケ?」
「ノっ
……! い、いやそんなつもりは」
リューはまた慌てて手を振った。果たしてどのくだりがそう受け取られてしまったのだろうと自分の発言を思い返すもよくわからない。
少年が大きな溜息をついた。そうして腕を組み、ふいと顔を背ける。
「
……どうせすぐに見限られるに決まってる」
面白くなさそうに唇を尖らせるその様を眺めていると、脳裏にウィルが浮かんだ。彼も時々こういう顔をする。直近だと授業参観の後でアンに連れられやってきた際のこと。不満も露わに「もっと遊びたかった」と言って。
目の前の彼は難しい言葉をいっぱい知っていて、背丈もリューの肩くらいある。もう六年生、されどまだ六年生。
「ファルくん
……アンに帰ってきてほしい?」
瞠目したように見えたのは気のせいか
――。リューが囁いた次の瞬間、彼は弾かれたように振り向いた。眉間に力を籠め、ぎらりと音のしそうな目つきで青年を睨みつける。あまりの剣幕に息を呑んだリューの前で彼は意外な名を叫んだ。
「
ファル!」
「はいはーい。話終わった?」
通路の向こうからのんびり声が返ってきた。一拍置いて少年の肩越しにひょこっともうひとり少年が現れた。ぎょっと目を剥く青年の前で彼はにんまり笑みを浮かべ、唇を真一文字に結ぶ少年と肩を組む。明らかに同じ顔が並んでいるがこれは明らかに鏡像ではない。
真顔の少年は隣に一瞥をくれる。
「
……あっちは?」
「今からだとギリってところかな〜。おっさん超のんきだからさぁ。ま、一応行ってみよっか」
「あれっ
……きみが、ファルくん? え、じゃあ今まで俺が話してたのはジー
……」
話し終わらないうちにリューはファルに手首を掴まれた。またも引きずられるようにその場を後にし、鏡の迷路をあっという間に抜けた。園内を猛スピードで駆けていくとやがて長蛇の列にぶち当たった。何の列か確認する間もなく、ファルはリューを連れてその脇をどんどん前の方へと突き進んでいく。
最前列、透明色のゴンドラに乗りこもうとしている二人組を見つけた少年は歓声を上げた。
「ギリギリセーフ!」
「えっ
……ファル!? リューも、どうしたの!?」
突然響いた声に驚き振り向いたのはまさにアンだった。ようやく止まったのと無事再会できたのとでほっと胸を撫で下ろしたのも束の間、リューはファルからタックルを受けた。
「すみませーん。このふたりが乗りまーす。フリーパスも持ってるんで!」
「えっ!? ちょっ
……ファルくん!?」
「ファル! 待って」
ふたりをゴンドラに押しこんだファルは、慌てふためくアンに手をひらひら振って応える。それからそばで右往左往していたウィルを捕まえ風のように走っていった。
* *
「間に合ったのか」
頭一つ分の身長差がある兄弟の後ろから声が飛んできた。のんびり歩いてきた兄にファルは肩を竦めた。
「もうすぐ
てっぺんだぜ。しかも運よくシースルー。ほんとラッキーなやつだよな」
「
……ねえ、高いところがこわくてもシースルーってラッキーなの?」
下から割りこんだ声に双子が揃って目線を下げた。追及の目の前にウィルはもじもじと両手を組み合わせる。
「リュー、高いところダメなんだよ。だからさっき、リューが休んでる間にみんなで乗ろうかって言ってたの。ぼくも乗りたかったな」
しばしの沈黙の後、兄弟は示し合わせたように目の前のアトラクション
――観覧車を仰いだ。透明のゴンドラがちょうど頂上に差しかかっていた。
――悲鳴が、聞こえる。
「アン! 死ぬときは一緒だぁぁぁ!」
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