最寄り駅の出口、屋根のあるぎりぎりの場所。階段を降りきったその場所でアンはそそくさと端の方へ移動した。溜息とともに仰いだ天は暗い灰色に塗りこめられている。
しとしとと乙女の流す涙のように静かに降る雨は一向に止む気配がなかった。色とりどりの傘の花が咲きまたはしぼみ、アンの視界を
忙しなく横切っていく。いつもの鞄なら折り畳み傘が入っているのに今日に限って違う鞄で出てきてしまったのが恨めしい。本当についてない。
とは言えいい加減嘆くのにも飽きてきた。ここから如何に濡れずに帰るか、その方法を模索する方へ思考をシフトする。
我が家は駅歩七分、走れば五分だ。出来る限り屋根の下を選んでいってもこの雨ではずぶ濡れになるのは
必定。そもそも走る気分ではないし。
――傘を買うのが妥当かな。
ロータリーに面した商業施設に視線を投げた。一階正面にはコーヒーショップの併設された書店があり、たくさんの客が出入りする様がここからもよく見えている。あそこならバス停の下を辿っていけば確実に濡れずに行ける。そして入口近くのエスカレーターを下れば百均が店を構えているのだ。うちの傘立てにビニール傘が一本増えたところで特別困ることもない。よし、そうしよう。
だが一歩踏み出したアンの足は再び止まった。見覚えのある色と柄の傘が近づいてくるのが見えたから。痩身でひょろっと高いその人はまっすぐこちらに向かって歩いてくる。傘の下から覗いた面持ちはアンと目が合うと嬉しそうに綻んだ。
「アンおかえり!」
「リュー。迎えに来てくれたの?」
「急に降ってきたからね。もしかしたら傘持ってないんじゃないかなぁと思って
……ええと、時すでに遅し?」
彼の視線がアンの左肩から胸元辺りに注がれた。薄手のカットソーは哀れにもぐっしょり濡れている。むすっと一言「さっきぶつかったの」と答えれば青年は苦笑を滲ませた。
それより、とアンは両腕を腰に当てた。
「あたしの傘は?」
「あっ! 忘れた」
「あんたねぇ
……」
ごめんごめんと明るく謝罪されたところで本当に悪いと思っているのかどうか。だが彼が抜けているのはもう慣れっこだ。脱力気分でリューの傘に入ると「早く帰ろう」と促した。
歩き始めてすぐ、アンは訝し気に眉を
顰めた。隣を歩く青年の周りに小花が飛んでいた。よくよく耳を澄ませてみれば鼻歌まで歌ってやしないか。この、今にもスキップをし出しそうな浮かれた雰囲気はなんなんだ。
じとーっと
睨めつけていると気配に気づいたリューがうきうき口を開いた。
「なんかさ、朝から一緒に出かけるのはよくあるけど仕事上がりに合流する感じは久しぶりだなあと思って。せっかくだしどこか寄っていかない? ほら、たまにはコーヒー飲んでくとか
……最近行ってないよね」
楽しそうに指差す彼につられて目をやれば、ロータリーの向こう側にはさっきも眺めた商業施設がある。確かにコーヒーショップには久しく行ってないけれど。
「
……いい。今日は帰ろう。最近思うのよ。コーヒーはあんたが
――」
「え?」
アンはぴたりと口を噤んだ。無邪気に向けられた視線に気づいた途端、頬に朱が差した。「俺が何?」と小首を傾げる青年には「なんでもない」と返し、アンは慌てて目を逸らす。
……最近思うのだ。リューの淹れたコーヒーは自分が淹れたものより美味しい気がすると。
だけどそんなこと言えるはずもない。先生より生徒の方が美味しく淹れられるなんて。こっそり手順を確かめてはみたが特別違うことをしているわけではなさそうだった。本人に聞いても要領を得ず、悔しいが真相は謎のままだ。
思案気に息を吐きつつロータリーを抜け、我が家の方へ歩を進めた。歩道の脇で咲き揃う紫陽花がしっとり濡れていた。もうこの花が咲く時期なのかと頭の片隅でぼんやり思う。
「あのぅ
……」
弱々しい声が耳朶を打った。振り向いた先にあったのは八の字眉の顔。
「アン、ごめんね」
「は?」
「なんか変に気を遣わせてるみたいで申し訳なくて」
「
……言ってる意味が、よく、わからないんだけど」
「コーヒーのお店だよ。飲めない俺と行っても楽しくないって思ったんでしょ。だけど俺はアンが楽しかったらそれが一番嬉しいから、別にそこまで気にしてもらわなくても大丈夫だよ」
かろうじて口角は上がっているもののしゅんと
悄気ている青年の姿に、それまで疑問符を頭上にたくさん浮かべていたアンは慌てて「違う」と両手を振った。
「単に帰ってゆっくりしたいってだけ。コーヒーは家でも飲めるでしょ。服だってこんなだし」
哀れなくらい色が変わってしまってる箇所を指して見せればようやく納得してもらえたようだ。得心のいった顔を目に留めてアンは安堵の息をつき、それからゆるゆる目線を下げた。
「雨って嫌い。濡れるし、足元悪いし。周り見てないやつも多すぎ」
「まあ、傘さしてると周り見づらいよね。視界も悪いし
……ええと、ぶつかったんだっけ?」
「向こうがぶつかってきたの。なのに謝りもしなかったのよ。最低でしょ。そのうえあたしのこと『デカイ女』って」
地下鉄からの乗り換えで地上に出て初めて雨が降り出していることをアンは知った。同時に前方の横断歩道の信号が点滅し始める。片側二車線の道路を早く渡らなければと焦って周りをよく見ていなかったのはアンの落ち度だ。そしてそれは真横から歩いてきた男にも同じことが言えるはずだった。
反射的に「すみません」と出かかったアンを遮るように告げられたその暴言は聞き捨てならないものだった。よくも人が気にしていることを。
アンは水平に構えた手のひらで喉のあたりを指した。
「なんて小さい男って、本当にここまで出かかったわよ。見た目じゃなくて中身がね。だけど電車の時間が迫ってたからやめた。
……今思えば言ってやったらよかった。もう本当に雨なんか大嫌い」
思い出すだけでもむかむか腹が立ってくる。アンだって大きくなりたくてなったわけじゃない。
ちらりと横目で窺ったリューの目の高さはほぼ同じ。アンがヒールのある靴を履けばあっという間に抜いてしまう。ただでさえ可愛げのない性格だと自覚しているのに身長まで可愛くない女。そんな女を一体誰が好いてくれるだろう。
「うーん、でも俺は結構好きだよ」
歌でも歌うような朗らかな声音とタイミングの良さに思わず息を呑んだ。長い前髪の奥にある双眸はアンのそれと合うと柔らかく細められた。
「雨の日。雨の中を歩くの、俺は割と好きだけどなぁ」
「あ、ああ、雨、ね」
「うん。いつもはさっと通りすぎちゃう景色が、歩くと小さな発見の連続だったりするだろう? ほら、紫陽花が綺麗だなぁとか」
まあそれはわかるとアンも首肯する。紫陽花はついさっき同じことを思ったばかりだ。
「それに傘の中ってちょっとした個室みたいで落ち着くよ。アンとこんなに堂々とくっついてても誰も何も言ってこないし」
ね、と微笑む青年につられて頷きそうになり、アンは一瞬後むぅと口許を歪ませた。
これはただの相合傘だ。傘が一本しかないから濡れないよう寄り添っているだけで、わざわざ人目のあるところでくっつく必要は全くない。もう一緒に住んでいるのだもの。ふたりきりになれる場所も時間もちゃんと確保されている。そう指摘してやればリューは「まあそうなんだけど」と微苦笑を返した。
赤信号にふたりの足が止まった。駅前から少し離れただけで通行人はぐっと少なくなる。人の気配もなければ耳朶を打つのはお互いの声と雨音のみ。この状況は確かに個室のようだと言えるかもしれない。視界も傘でずいぶん狭められ、ある程度周りが見えているとはいっても透明の壁が存在するかのごとく遮断されている感じはある。
「
……でもさ、俺はいつでもアンとくっついてたいなーって思うんだよね。だから外でも堂々とくっつける雨の日はやっぱり好きだな」
「なにそれ。その言い分だとあんた、わざとあたしの傘忘れてきたってことになる
――」
アンは最後まで言うことができなかった。気配が近寄ったと感じるより早く、頬に温かくて柔らかいものが押しつけられた。
瞬間、彼女の世界から音が消えた。
不意打ちとあまりの早業に一瞬何が起こったかわからず、徐々に理解が及んでくると途端にアンの頬は熱を帯びた。唇の触れていった箇所に思わず手をやり身体ごと彼の方に向き直る。
「ちょっと! なにしてんの!?」
「だって。すぐ横に可愛い顔があったから」
「人が見てるかもしれないでしょ!?」
「大丈夫だよ。雨だもん」
にっこりと幸せそうに笑むリューの周りにまたも小花が咲いていた。彼の笑顔は妙に人を和ませるところがある。好きな点のひとつではあるけれど今はそれどころではなかった。いくら近くに誰もいないからって
――。
あらためて辺りをきょろきょろ窺っていると耳元にそっと気配が近寄った。
「ついでに手を繋ぎたいんだけど傘持ってて無理だから、代わりに腕を組んでくれたら嬉しいなぁ」
「絶対しない!」
「ええー、なんで?」
信号が青に変わった。ぱっと早足で歩き出したアンを「濡れるよ」とリューが追いかけてくる。
また可愛くない態度を取ってしまっている。言われた通り素直に腕を組める性格だったらよかったのに。もしくはリューが傘を持っていなければ向こうから腕を組むか手を繋ぐかしてくれたと思うのに。
……ああ、顔が熱い。
「やっぱり雨は好きじゃない。ほら帰るよ。早く!」
くるりと振り返りむっとした顔を向ければ青年は一瞬きょとんと目を丸くする。が、すぐに柔らかな笑みを口許に漂わせた。
――だから、なんであんたはそんな嬉しそうな顔をしているの。
紫陽花に彩られた帰路。アンは再びリューと肩を並べ、落ち着かない心を持て余しながら歩き出した。
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