ひよこ豆
2024-01-28 01:23:15
8623文字
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エーゲ海の庭

ぽりすけさんからのリクエスト「転生パロのふたりのとある日の話」。
某ブランドが似合うなぁって話を昔ツイートしたので、それにちょろっとかかわる話です。短い後日譚の構想はいくつかあったので、そのうちのひとつ。
この設定で書くの久しぶりだったので、もしかすると以前からブレているところがあるかもしれない。過去の自分ちょっと教えてくれや。でも楽しかったです!ありがとうございます~!

 アテネ中心部、ターミナル駅の巨大モニターに映し出されるサイネージ。
 それはある種のシンボルだ。なにせ首都の一等地、最新鋭で特大の液晶である。当然ここにプロモーションを張るのは資金力のある企業にしか許されない。近年は主に金融業やファッションブランド、展覧会の告知などが幅を利かせている。
 駅構内を行く女がふとスマートフォンを構え、サイネージに向けてシャッターを切った。
 ――モデルは若い男。身にまとうのは洗練されたブラックのスーツ。袖口からは腕時計がのぞく。
 キャッチコピーはいらない。ただその男の視線だけで十分なのだ。
 彩度を押さえたシックなトーンの中で、黄金の瞳がいっとう存在感を放っていた。

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 親愛なるお客様へ

 ジョルジュ・アルマーンより、テオ・レアンドロス氏がグローバル・アンバサダーとして就任したことを発表します。
 レアンドロス氏の持つプロフェッショナルとしてのマインド、そして伝統を尊重しつつも時代と意識のアップデートを発信し続ける姿勢は、ジョルジュ・アルマーンの「理解と革新」という理念とも深く共鳴するものです。
 氏のさらなる活躍といっそうの輝きを、ジョルジュ・アルマーンはサポートしてまいります。

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 古今東西、トップアスリートがイメージキャラクターやアンバサダーに選ばれることは多い。
 人は単なる見目の良さだけでなく、鍛え抜かれた肉体の持つ「美しさ」に惹かれるからだ。流行り廃りは時代とともに変わるが、肉体の美については普遍的価値が醸成されていると言っていい。何せ人間という種族のかたちは、たかだか千年で大きく変わりはしないのだから。
 ギリシャ最大手の新聞をめくれば、広告面にはギリシャの韋駄天――テオ・レアンドロスの顔がデカデカと写っている。ギリシャにとって久方ぶりの金メダリストは、その若さやルックス、圧倒的な成績も相まって世界的有名人だ。当然母国でも抜群の人気と知名度を誇る。若年層はSNSやウェブのプロモーションなどで、そして年長者は雑誌やテレビなどの媒体で彼のことを知る。
 ヘクトールはその広告面を無視し、国際面を開いた。そもそも新聞なんてものは半分くらい広告で出来ているのだが、近年は余計にひどい気がする。
 ヘクトールは行きつけのカフェの一角にいた。穏やかにコーヒーでも飲んで、新聞をめくって、ゆったり過ごす。理想的な休日だ。ここしばらくは閑散期でトラブルもなかったが、平和な時こそ情報収集が大切である。
 昨今のトルコ事情は複雑である。これは昨日今日の話ではなく、昔からずっとそうだ。逃れようのない地政学的リスクともいえる。ヘクトールのように隣国との付き合いが重要な仕事をしている場合は、常に動静を見ておく必要がある。今のヘクトールは国をまとめる王族ではないが、結局この手の話題からは逃れられないのだ。
 新聞をめくりながら、ヘクトールはコーヒーを飲む。ギリシャは決して大きな国ではない。今ではトルコのほうがよほど大きい。均衡とは、穏やかな日々とは難しいものだ。そんなことを考えていると、近くのテーブルから話し声が聞こえてきた。
「ねえ、今度テオ・レアンドロスが大学に来るって話聞いた?」
「創立祭の講演でしょ? すごいあっちこっちにポスター貼ってる」
「テレビ局も取材来るんだって。チケットがポータルで申し込みして抽選らしくてさ――
 ヘクトールは静かに瞬きをした。
 近くて遠い隣国にどれほど思いを馳せようと、ヘクトールは今トルコではなくギリシャ国内にいる。それはつまり、そこかしこで彼を目にするということでもある。
 国家のスターとは、人気があるからスターなのである。その輝きに誰もがあやかりたい。イメージがいいからみんなこぞって使いたがる。それも若くてハンサムで成績も世界一。わかりやすくて象徴的で、広告塔としてこれ以上ないほどの最強のステータスを誇るのだ。テオ・レアンドロスのスポンサー契約金は、オリンピックからしばらく経っても天井知らずの高騰を続けている。
 ヘクトールはコーヒーを飲んだ。たとえ新聞を破り捨てても、インターネットをやめても、どこかしらで彼の情報は入ってくる。ギリシャは狭い。どこにいたってすぐ捕まってしまう。そんなことは何千年も前から知っているのだが、やはりどこかそわそわとするものである。
 テオ・レアンドロスは現在二十三歳。オリンピック二連覇、現役の世界記録保持者――名実ともに世界最速の名をほしいままにしている。前回の世界陸上では残念なことにフライングをとられて表彰台を逃したものの、やはり彼が現役最速であることに疑いの余地はない。他国資本の大手メディアも、やはり彼を「最速の男」として取材にやってくる。
「そういや駅前に大きい広告あったじゃん。えーと、どこだっけ、なんかブランドの宣伝のやつ」
「アルマーンでしょ。めっちゃかっこよかった。もはや本職こっちですみたいな感じ」
「そりゃあの顔だし」
「え、確か親御さんも美男美女らしいじゃん。まじで羨ましい、遺伝子の勝利って感じ。ハリウッド女優とかと結婚しそう」
「わかるー」
 若い女の好奇心はヘクトールの耳を素通りしていく。どこにでもあるティータイムの世間話だ。
 以前なら気になったのかもしれない。いや、今でもまったく気にしていないというわけではない。ただそれは、この先ずっと付き合っていかないといけないレベルのものになったというだけのことだ。軽度の腰痛とか運動不足とか、そういったものに近い――いわゆる「頑張れば克服できる」部類で、だけどいつまでも撲滅されない課題。人が人である限り必ず発生しうるリスクだ。
 あの男はどうやったって諦めないのだ。ヘクトールの迷いとあの男の信念と、根比べをした結果が"今"なのだから。
 テーブルの上に置いていたスマートフォンがブンと振動した。通知だ。ヘクトールは軽く画面に触れて内容を確認した。
『出かけてるのか?』
 噂すれば影である。しかももう自宅には立ち寄り済みといった雰囲気だ。
 ヘクトールは新聞を置いて画面を睨む。返答次第では何か重大な結果が待っているのだ。主に腰とか喉に来るタイプの結果が。
『近所のカフェでコーヒー飲んでる』
 素直に返事を打てば、すぐさま応答があった。
『このあいだコーヒーがうまいって言ってた店か?』
 ヘクトールは思わず「わあ」と間抜けな声を漏らした。そういえば前に彼とそんな話をしたのだ。自分から行動範囲の情報を与えていただなんて、あまりに腑抜けていて笑えない。もっと前の――トロイアの王子だったときは、絶対にそんなことはしなかった。
 気安く肩が触れるほどの距離を、もう何年も許容している。日常の何気ない場面をともに過ごし、おいしい店があれば共有する。たまに出先でいい菓子やインテリアがあると、相手がどんな顔をするか想像する。そんな穏やかな「家族」じみた暮らし。それがヘクトールの中にも少しずつ根付いてきていた。
 もう「前とは違う」のだ。わかっている。わかっているけれど、たまに驚く。そうしてヘクトールが返信を打ちあぐねていると、ポンと新たなメッセージが増えた。
『近いからそっち行く』
 さすがにこの発言にはヘクトールも面食らった。帰宅する旨のメッセージを慌てて送り、代金を置いて立ち上がる。
 閑静な町とはいえ、スーパースターが突如来店すれば波風が立つに決まっている。もし彼が変装していたとしても、どうせ帽子とサングラス程度のものだ。ヘクトールには容易に想像がつく。それに、変装したところでどうしようもない部分も大きい。そこかしこで目にする著名人だし、アスリートらしい体格の良さですぐに只者ではないとバレる。だってギリシャは狭いのだ。
 もし彼が来れば、ヘクトールの憩いの場所がひとつ失われてしまう可能性がある。最近懇意になった店長に「あなた実は有名人と知り合いだったのね!」なんて言われたらちょっと面倒くさい。常連客に「サインもらえない?」なんて言われたら余計にしんどい。ただコーヒーを楽しむだけの時間すら奪われるなんて、それだけは避けたかった。
『すぐ戻るから、いい子で待ってなよ』
 だからそんなことを言われたアキレウスがどんな顔をするかなんて、ほとんど考えていなかったのである。

 ◆

 自宅に戻ったヘクトールは真っ先にすんと鼻を鳴らした。
 かすかだが香水のような香りがする。
 ヘクトールは香水にさほど詳しくないが、メンズものだろうというのはわかった。残り香程度だが、シダーのようなウッディの要素を感じる。キツさやオヤジ臭さもなく、清潔感重視の若い男なら悪くないチョイスだ。
 アキレウスが香水をしているのは別段珍しくない。何せメディア方面でも引っ張りだこのスーパースター様である。ハイブランドの香水くらいはプレゼントなどでもよくある。ただ、ヘクトールの知る限り、アキレウスが使っているのはほとんどがマリン系だ。かつての由縁からなのか、どことなく彼には海との親和性がある。
 リビングに入れば、香りの中心にアキレウスがいた。金色の目がばちりとヘクトールを捉える。ヘクトールは少し目を細め、アキレウスがよく「腹の立つ顔」と言う表情を作って見せる。
「なんかすごい匂いだな、君」
「おいケンカ売ってんのか? ……今日撮影で香水使ったから、そのせいだろ。結構きついか?」
 言いながらアキレウスが自分の服をすんすんと嗅ぐ。その様子がなんだか面白かったので、ヘクトールは笑いながら首を振った。つけすぎというほどではない。いつもと違うからはっきりわかるというだけだ。
「というか撮影で香水使うの? あんまりイメージないけど」
「今日の撮影は香水のパッケージとか広告で使う写真の撮影だからな。試作品もらった」
 アキレウスが何やら大きな紙袋を示す。ソファに無造作に置かれたそれは、どうやら撮影時のお土産らしい。それなりの大きさで、しかも二つもある。こんなものを両手に持っていたら他は何も持てないだろう。香水の試作品どころかブランドの衣類が適当に詰め込まれている。
 ヘクトールが「この量なら事務所に送ってもらえばよかったんじゃない?」と聞けば、アキレウスは「よさげなもんもあったから」と言った。いつもなら彼の信奉者――もといマネージャーが預かってくれそうなものだが、珍しく本人が気に入ったのなら、用意した側も周囲もさぞ喜んだだろう。
 ヘクトールは自分の財布や鍵をいつもの場所に戻し、アキレウスの荷物を押しやってソファに座った。リビングを満たす香りは、いつもの爽やかな溌溂とした印象とは違う、少しスパイシーでミステリアスなものだ。かといってダンディとかセクシーとか濃密なものとも違う。若く、清潔感があり、けれどどこか深みがある。
「そういやアルマーンとかも香水出してるもんな」
 ヘクトールは少しアキレウスに顔を近づけ、ふんふんと香りを嗅いだ。つけたてと時間が経ってからでは香りも異なるが、少なくとも悪い印象ではなかった。それにアキレウスによく馴染んでいる。オファーを出した側もきちんとイメージが合うか考えているのだろう。
 珍しく自分から近づいて来たヘクトールに、アキレウスは目を瞬いた。絶好の機会だ。逃すはずもない。彼はむんずとヘクトールの肩をつかんだ。
「うん?」
 完全にうっかりで捕まったことを自覚しつつ、ヘクトールはとぼけた顔をしてみせた。
「どうしたアキレウス。まあ座れよ、お疲れだろ? オジサンが買ってきた豆でコーヒーでも入れてやるからさ」
「あんた年々ごまかしが下手になってないか?」
「単純にめんどくせえんだよ」
「おい。"いい子で待ってた"だろ」
 以前なら考えられないような油断と諦めだ。だがそれもこの二、三年ですっかり慣れ切ってしまった。あの十年の死線を、たかが数年の安寧が塗り替えるなんて、思ってもみなかった。
 アキレウスがソファに身体を割り込ませ、ヘクトールを背もたれに追い詰める。ソファはすでに定員オーバーだ。もともとヘクトールが紙袋を押しのけてなんとか自分の座る場所を確保していたくらいなのに、一般よりずっと体格のいい男が増えれば当然である。素敵なお土産の数々も、ちょうどアキレウスが雑に背中で押しやったため、ソファからずり落ちそうになっている。
 ぐいぐいと迫ってくる最速アスリート相手に、しがない勤め人のヘクトールは身体をねじって精一杯の回避に努めた。しかしアキレウスは意に介さない。大体、そんな小手先のテクニックで引き下がるならこんなことにはなっていない。それを嫌と言うほど思い知っていながら、それでもやっぱり素直に受け入れるのは癪なのである。
 面倒になったらしいアキレウスがヘクトールの顎をつかみ、がぶりと口づける。アキレウスからすれば「逃げるのでやった」くらいの認識だろうが、ヘクトールは大型犬にじゃれつかれたような気分だった。相手が本気で食いついてくれば命の危険があるが、そうではないから"じゃれあい"に収まっている。この認識はおそらく変わることはない。
 すぐ離れていったアキレウスに、ヘクトールは「君ねえ」とたしなめるように声をかけた。二発目を食らう前に文句は言っておきたかった。しかしアキレウスもあっけらかんとした顔で返した。
「半月空いてんだぞ、ちったぁ負けろよ」
 アキレウスはしばしば期間を話題にする。
 多忙を極めるアキレウスと、役職つきになったヘクトール。特に競技シーズン中などは、月に一、二回会えればいいほうだ。一時期アキレウスがヘクトールを家に連れ込んで半同棲状態になったこともあったが、結局短期間で解消せざるを得なかった。やはり互いのライフスタイルがあるし、ヘクトールも自分の家への愛着がある。
 ヘクトールはため息交じりにソファにもたれた。その動きに連動してか、かろうじてソファに乗っていた紙袋がずり落ちる。ゴトッと派手な音がしたので、ヘクトールは手を伸ばして紙袋の持ち手をつかんだ。
 詰め込まれた衣類のほかに、簡素な白い箱が飛び出していた。重量の正体はこれのようだ。箱には何も書かれていない――だが、手に取った瞬間ふわりとあの香りがした。
「あー……?」
 箱越しでもはっきりわかる。匂いの発生源だ。
 そういや試作品もらったって言ってたな、とヘクトールはひとり納得した。撮影で使ったという香水の本体なのだろう。
 アキレウスが紙袋を雑にどかし、ヘクトールのほうを振り返る。
「どれかいるか?」
「いらねえよ」
 アキレウスの問いに即答し、ヘクトールは箱を差し出した。アキレウスは特に拒むことなく受け取り、肩をすくめる。
「たぶん完成品含めてあと二、三本ダブるんだよな……
「配ればいいんじゃない? そういうの好きな人いないの?」
「それじゃなんか『いかにも』じゃねえかよ」
 たぶん俺の名前で出るんだぞ、とアキレウスは言った。ヘクトールは目を瞬く。
「はぁ? じゃあ君のプロデュースとかコラボとかそういうやつ?」
「あ? ……あー、一応そうなるんだろうな。そういやブランドのお抱え調香師のとこに連れてかれて、いろいろ聞かれて、試作品の感想も言わされた」
「まあそのくらいやってりゃプロデュースって言っても差し支えなさそうだけど……君契約書ちゃんと読んでる?」
「エージェントがとってきた」
「丸投げか」
 無理もないけど、とヘクトールは半目でアキレウスのスポンサーに思いを馳せた。大金を積んで「テオ・レアンドロスのプロデュース商品」というチャンスを勝ち取ったというのに、本人の意識がこれである。
「結構前にブランドとプロモーション契約したんだが、そのとき知り合った担当者のオッサンが結構変わったやつでな。うちのエージェントが言うには、俺イメージの香水出したいって言ってて、もう三年くらいずっと企画書とか持ってきてるから今回受けたんだと」
 本気じゃねえか、とヘクトールは苦笑した。
 三年かけて口説き落としたのなら、まあアキレウスと同じくらい粘り強い――というか執念のある人物なのだろう。アキレウスの執念については、文字通り歯を食いしばってヘクトールと根競べをした実績がある。
 それに、アキレウスを取り巻くエージェントたちは誰も彼も癖が強い。若者風に言えば「強火」なんて言葉が似合う連中ばかりだ。ヘクトールは何度か彼らと会ったことがあるが、「テオ・レアンドロスという英雄を信奉し、その名誉を守ることに心血を注ぐ戦士」といった印象を受けた。およそ現代らしからぬ発想である。そんな彼らのお眼鏡にかなったということは、この香水の担当者にも並々ならぬ苦労があったはずだ。
「担当者はさぞかし喜んだだろうな」
 三年越しの超大型契約。キャリアシートがあるならば、「三年かけて国民的英雄テオ・レアンドロスを口説き落とし、数百万ユーロが動く商品の企画を取ってきました」とデカデカと書けるだろう。ビジネスマンなら一度は憧れる内容だ。ヘクトールは素直に祝福したい気分だった。
 しかし経緯を知ると、この香りのとらえ方も変わってくる。
 鼻腔をくすぐる香りはやはり爽やかで、けれど奥行きがある。きっと世間が思うテオ・レアンドロスもそんな男なのだろう。きっぱりとした性格で親しみやすく、しかし常人にはわからぬカリスマ性と神秘性を備えてもいる。
 ヘクトールはもう一度すんと香りを嗅いだ。腕を組んで口元に手をやる。戦場には存在しない、優美できらびやかな香り。宴のそれとも違う、完全に作られたもの。悪くはない、きっと傑作なのだろう。名門ブランドのお抱え調香師が、知識と経験を総動員して作り上げた作品。けれどそれは半神にして俊足の英雄アキレウスではなく、世界最速の競技者テオ・レアンドロスのためのもの。
「君がこんなでたまるかよ」
 ヘクトールは思わずそう言った。テオ・レアンドロスという今の生き方を尊重してはいるが、それでもやはり、ヘクトールにとっての彼はアキレウスだ。変わることはない。だからこそ共にいる。
 アキレウスが金色の目を見開き――箱を放るようにテーブルに置いた。一歩で距離を詰め、ソファにいるヘクトールに再度覆いかぶさる。さっきとは打って変わって荒々しい口づけに、ヘクトールは少し眉根を寄せた。もう慣れている。けれど今でも首筋のあたりが落ち着かなくなる。吐息どころか命そのものを食われるような、薄ら寒さを内包した気持ちになる。
 ほんの少し逸れた意識を咎めるように、アキレウスの手がヘクトールの手首をつかんだ。ぴたりと密着するように体重をかけられ、身動きが取れなくなる。近付いたぶんだけ香水の香りが強くなって、体温のせいか少し甘さを帯びる。きっと至近距離まで行かなければわからない、微細な変化だ。もし調香師が狙って作ったのなら、かなりの技術である。
 濃密で甘い。溺れそうになる。最初とはまるっきり違う印象だ。
 上顎を舌でくすぐられ、ヘクトールの足が反射的にピクリと動いた。くすぐったさと官能は紙一重だ。アキレウスの手がするりと移動し、ヘクトールの手のひらをたどって、指を絡めた。唇が離れる一瞬、ヘクトールははぁと大きく息をつく。
……ほんと君のスイッチわかんねえなぁ」
「うるせー。ベッド行くぞ」
「ハァ!? まだ夕方にもなってないだろ!」
「引きずられて行くか、自分で行くか。あんたが選べよ」
 ここで食っても構わねえんだぞとばかりにアキレウスは獰猛に笑った。爽やかアスリートで売っているとは思えない顔だ。スイッチが入ったときのアキレウスは手に負えない。ヘクトールは自分がそれを押したのだと理解しつつも、理不尽な仕打ちに唇を尖らせる。その顔が余計にアキレウスを煽るのだが、さすがにそこまでは気が回らなかった。
 ただ己の理想の休日が崩壊したことを感じながら、ヘクトールは天を仰いだ。
「君がオジサンの前で"いい子"にしてたことなんかないよなぁ」
 アキレウスはひくりと口元をひきつらせた。
「テメエの口車に乗って"いい子"で二十歳まで待ってやっただろ。もう忘れたのか」
 しまったこの話は地雷だった、とヘクトールが思うより早く、アキレウスはヘクトールを荷物のように担ぎ上げて寝室へ直行したのだった。

 時間にして約三か月後。
 満を持してテオ・レアンドロスのプロデュースフレグランスが発売された日から、ヘクトールの受難は始まる。
 駅やショッピングモールやそこかしこで、あの香りと遭遇するのだ。発売前からアキレウス本人もしばしば使用していたため、ヘクトールはすっかりそれを覚えてしまった。
 ついでにあの香りをまとったアキレウス本人と過ごした――主にベッドでの時間のことを思い出して、いろいろと困る羽目になるのである。