namaeggg
2022-11-05 00:24:43
2876文字
Public アークナイツ
 

10月31日

ズィマーとロサの、なんでもない一日。
「人間が到達できる唯一の知識は、人生は無意味であるということである。」――トルストイ『懺悔』

 腕にいつも巻いている赤い布を解き、ボトルの口に被せる。ワイヤーごとコルクを引き抜けば、ポンと軽やかな音が立った。
「ずいぶん手際がいいのね」
 あなたは未成年なはずなのに。
 言外にたっぷりと皮肉を含ませると、噴きこぼれた液体を拭いていた彼女の動きが一度止まった。
「昔な、酒屋の息子に喧嘩吹っかけられてよ。勝ってぶんどってやったことがある」
 アタシはビールの方が好きだがな。とヘラヘラと悪びれることなく答えるものだからロサは頭を抱えそうになる。
「聞かなければよかったわ」
「ハッ、ウルサス人のくせに白々しい態度すんな。オマエだって飲んだことくらいあんだろ?」
 イエスともノーとも言えないから、ロサはただ小さく肩を竦めるだけだ。
 二つのグラスにボトルを注いでいく。瓶の中に閉じ込められていた時間が拡散し、無機質なワンルームにむせ返るような果物の香りをもたらす。瞬間、ロサの眼前には一面の葡萄畑が広がっていた。正式な後継者として指名されてから父に連れられて視察した場所のひとつだ。国土の半分が凍土に覆われた厳しい大地にあって、ワインが生産できる土地を所有することに父は誇りを持っていた。その宝珠のように艶やかで瑞々しい果実は平民から搾り取られ、上流階級を満たすための存在であろうとも。
「飲めよ」
 着席した彼女が顎で指図する。
「こういう時は何か言葉があるんじゃないかしら? ソニア」
「アタシとオマエの間にか?」ズィマーは一笑した。「そんなもんははじめからねぇだろ、ナターリア」
 グラスの前で名前を交わし合う。それが乾杯の合図であるかのように。
 二人の間には何もない。だから、酒が飲みたくなったからという理由を提げて夜分にこの部屋を訪れることにも決して意味はない。
 空っぽだったグラスを満たす、透き通った琥珀色。アロマキャンドルを焚いた室内でそれは幻惑的に輝いて映った。シュワシュワと控えめに弾ける炭酸を見つめていると、言葉が泡のように浮かんでくる。
「人間が到達できる唯一の絶対的な知識って何か知ってる?」
「は?」
「人生は無意味であるということよ」
……意味わかんねぇ」
 つまらなそうに吐き捨てる彼女にふふっと満足してロサはグラスに口をつけた。芳香がたちまち鼻腔を抜けて、程よい酸味が上品に舌の上を転がっていく。ラベルの種類はそれほど知らないけれど、たった一口でこのシャンパンが上等なものであると知れた。
「素敵なお酒ね。普通のグラスしか持っていないことが惜しいくらいに」
「味は変わらねぇだろ?」
「こういうものは雰囲気も楽しむものよ」
 グラスを揺らしながら香りを味わう。へぇ、と興味を引いたように声を上げた。
「貴族様は酒にも慣れっこってか?」
……あなたが思い描くくだらない社交界にはアルコールが付き物よ。大人たちに混じっていればそれなりに覚えてしまうわ」
 それに、とロサは付け足す。
「これはあなたが持ってきた物よ、ソニア?」
 揶揄が絡んだ視線をいなすように目配せすれば、彼女は鼻白んでそっぽを向いた。
 二人の間で蝋燭の火が小さな息遣いのように微かに灯っていた。柔らかな暖色の揺らめきが夜陰の縁をなぞり、酒精を帯びた空気が見えないドレスを纏っていく。
「炎を眺めていると、いろんなことを思い出すわね」
 ぽつりと、零れた声には万感がこもっていた。
 ロサの脳裏に炎の記憶が蘇る。屋敷を華やかに装飾するいくつもの燭台、厳しい寒さをしのぐ大きくて暖かな暖炉、長い冬を送り春を迎えるためのマースレニツァの案山子。生活を豊かに彩った炎はあの日、罪業を薪木として一段と激しく燃え盛り、尊厳ごと食糧庫を飲み込んだ。
 一生背負わねばならない心の火傷を負った。それを殊更癒そうとは思わない。それでも。
「ねぇ、ソニア」
 大人びた仕草でグラスの縁を指でなぞる。
 なんだよ、と青い瞳と目が合う。
「私、そろそろ制服を脱ごうかと思うの」
 ――どう思う?
 風もないのに小さな灯火が不意に大きく揺れて、闇夜に一瞬飲み込まれそうになる。
 恐る恐ると目で尋ねれば、じっと注意深く様子を窺っていたズィマーがやっと口を開いた。
「オマエがそうしたいなら、そうすればいい」
「許してくれる?」
 普段よりも滑らかに動く舌が、言うつもりのなかった言葉を引き出す。
 浅ましく赦しを乞うてしまったことをロサは後悔した。だが、そんな悔いを一蹴するように彼女は鼻を鳴らす。
「許すも何も、今更格好にこだわる必要なんざねぇだろ。それに、」
 そんなふうに飲むものではないのに、彼女はグラスの中身を一気に呷って手の甲で口元を拭ってみせる。ふぅと一息つくと、勢いのままきっぱりと言い切った。
「オマエはもう、変わったんだ。だから……好きに生きればいい」
……あなたはそうやって、」
 いつでも私を生かしてくれるのね。
 続く言葉は喉の奥で詰まって出てこなかった。着飾らない物言いがまっすぐに心臓に届いて、強く拍動する。視界はぼやけて滲みそうになった。ウルサス人は酔いにくいはずだけど、慣れないアルコールが多少効いているのかもしれない。平静が上手く保てないことを自覚していた。
 制服ごと過去を背負って生きていくつもりだった。けれど、少女たちは確実に大人になっていく。その等しく抗いようのない時間の中で停滞し続けることはできない。
「それに、成人しても制服姿ってのは痛々しいしな」
「ひどい人。」
 湿った声を誤魔化すようにむくれてみせれば、ズィマーは心底楽しそうに笑った。

「そうやって、せいぜい無様に生きやがれ」

 許されるはずもなかった。許したくない自分を許さないでいてくれる、彼女の実直さが羨ましかった。
「それなら、」
「あ?」
「今度、私の服を一緒に選んでくれないかしら?」
「お嬢様が好きそうな服なんてアタシは知らねぇぞ」
「あなたがよく読んでいる雑誌のような格好でいいわ。次の寄港の時にでも」
……めんどくせぇ」
 約束よ、とロサが嬉しそうに念押しをすれば、
「わーったよ」
 ひらひらと手を振って、渋々と了承してくれる。
 今こうして二人が交わしている会話も、盃も。あまねく万象は死にゆくために生きる人生の到達点で意味を持たないのかもしれない。それでも信じていたかった。生きているこの瞬間、今日という何でもない一日が特別な価値を持つのだと。
 ロサはグラスを傾けた。彼女にとって未知だった味が喉を伝い、やがて既知となる。明日からグラスと酒肴を用意しようかしら。ロドスには酒を嗜むオペレーターが多数在籍していると聞いた。今度、バーに行ってみるのもいいかもしれない。スパークリングの泡とともに未来の予定が次々と浮かび上がってくる。なんだか愉快な気分になってロサはふふっと微笑んだ。それはなんて、贅沢なことなのだろう。
 夜が更ける。何でもない今日が夢の淵に微睡んで、まだ知らない明日が隣で、待っている。


 end.