namaeggg
2019-07-03 18:44:32
1656文字
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Coffee

V4辺りのワイスのお話。甘くない。

 部屋の中にいくつも数え切れないほど落とした溜息をぱんぱんに詰め込んだ色をした空が、今日も窓の向こう側へ続いている。一年の内大半は雪に覆われてずっしり重たい曇天が毎日横たわり続けるのが普通だと思っていたけれど、それが当たり前ではないと気づいたのはアトラスを出てしばらく経ってのことだ。
「お嬢様、」
 コンコンと控えめなノック音が響いて、くぐもったいつもの声が聞こえてくる。どうぞ、と決まりきった許可をすれば、凝り固まった空気を解きほぐす焙煎の香りが、続く執事の言葉よりも先に私の知覚を揺らした。
「コーヒーをお持ちしましたよ」
 いつもと同じ柔和な笑みを浮かべたクラインがデスクまでやってきて、目が合うと彼はトレイを携えたまま陽気に片眉を持ち上げる。自室に籠もるようになってだんだんと時間の感覚が曖昧になってきたけれど、彼がコーヒーを持ってくる時間はいつも決まって同じ時間だった。頼んだわけでもないのに午後になると毎日差し出されるコーヒーは慣れ親しんだ味で、とても素朴で混じりけがなく、まるで人柄そのものみたいだった。
 湯気がしなやかに立ち上がるマグカップを受け取ろうとして、それは閃きのように私は一瞬、静止する。わずかに目を丸くしているクラインに、私は頬の筋肉をぴくりと動かしてみせる。
「砂糖を頂けるかしら。それと、ミルクをたっぷり。」

「たとえばね、」
 角砂糖ひとつ指でつまんで、甘ったるい例え話を苦い液体にくべるのが彼女だった。
「砂糖とミルクはこの世界を救ってくれるんだよ」
 ぽたん。ぽたん。
 彼女がそうしていたように、角砂糖を二個、三個と投入すると黒い飛沫が小さく跳ねる。
 もったいぶった口ぶりで切り出す彼女はいつも得意そうに口角をきゅっと上げて、砂糖菓子でできた物語をまるで真実のように語っていた。夜中にカロリーが高いものを摂取するのはできれば控えたかったのに、いつしかこうして肩を並べてコーヒーを飲むのが一日の終わりの当たり前になっていて、そのたび綿菓子めいた空想が彼女の口からぷかぷかと浮かんで、それが金平糖となって、薄暗い小さな寮の天井にきらきらと星屑のように瞬いた。初めは幼稚な御伽噺だと鼻であしらっていたけれど、いつのまにか飴玉みたく丸くて透明な瞳に真剣になっていたのは自分の方だった。
 たっぷりのミルクをとくとくと注いでいくと、深黒に白いラインがはっきりと浮き出る。それをスプーンで躊躇いもなくかき混ぜると、白と黒の境界がみるみる不明瞭になって、キャラメルのように明るく変色していく。
「それからミルクを入れると世界がほんの少しだけ優しくなるの」
 ぽたん。ぽたん。
 角砂糖をさらに二つ追加する彼女が、隣で苦みばしった顔を見つけて、ケラケラと子供みたいに笑った。
「貴女のそれはもはやコーヒーではありませんわ」
「いいんだよ、それでも」
 私がコーヒーを飲む時、隣で彼女も決まってコーヒーもどきを口にする。口を付ける瞬間、毎回おっかなびっくり緊張して、いつもと同じ味だと分かるとほっと安心したように胸をなでおろしていた。
 苦い物が得意でないならジュースを飲めばいいのにと、何気なく一度だけそんなことを言ったことがある。すると彼女は途端にしぼんだ顔になって、私はなぜだかとても残酷なことを言い放ってしまったように感じた。
 たぶんふにゃふにゃに甘いコーヒーでなければならなかったのだ。その理由に気づいたのは、今度はアトラスに戻ってからのことだったけど。
「たとえ苦くて飲めないコーヒーでも、ほんのちょっぴり優しくしてくれるの。砂糖とミルクはね」
 そう言って美味しそうに笑う彼女は、まるで世界を救うスーパーマンのように誇らしくて、きっとそんなちゃちな世界に救われてみたかったのだ、私は。

 口をつけられずに少しぬるまっこくなってしまったコーヒーは甘い欠片が溶けきらずにガリガリといつまでも耳にこびりついて、私は今日も窓辺でキャラメルに染まった夢を見続けている。