うららかな陽気に誘われて緑が柔らかく芽吹く庭園の中をルビーが自由に駆け巡る。まだつんと凍えた空気が綻びかけた花弁に触れて、ルビーはそこで草花に鼻を近づけたり芝生の上を転がり回ったりして自然の新しい便りを全身で読み解いていく。彼女はまだ春を知らない。
「拾い食いはいけませんわ、ルビー」
無邪気にぴょんぴょんと跳ねていた彼女は、ワイスの呼びかけに耳聡く反応してすぐさま駆け寄ってくる。屈んで両手を広げ待ち構えていると全力で喜色を振りまいて突進してきた。愛犬の体を受け止めきれず、地面に仰向けになってもろとも倒れ込む。泥汚れが父に見つかったらと思うと少々気が重い。だからワイスは自分の上で何も知らずへっへっと舌を出してぺろぺろと頬を舐めてくる極悪犬をわしゃわしゃの刑にしてやった。
「ルビー、大きくなりましたわね……」
満足したところでしなだれかかるぬくもりを今度は抱き寄せる。すると子犬だったはずの背中がみるみる大きくなっていく。ゆさゆさと肩を揺さぶられて水面に浮かぶ小舟の上みたいに、夢の淵がさざなんで感覚が揺蕩う。
「わ、ワイスちゃんと起きて。もう朝だよ。遅刻しちゃうよ」
「んぅ……ルビー……」
遅刻という単語に意識がぼんやりと覚醒し、ワイスは重たい目蓋をやっと擡げた。腕の力を緩めると、もぞもぞと片肘をついてルビーが見下ろしてくる。至近距離で目が合えば彼女は何故か気まずそうに視線を逸らしてしまった。
「ルビー、そろそろ服を着ないと風邪を引きますわ……」
寝ぼけ眼で常套句と化した朝の挨拶を投げかけたところで、掌が違和感を掠め取る。
「お、おはようワイス」
「ええ、おはよう……」
ワイスはおもむろに体を起こした。そして目をぱちくりと疑り深く瞬きさせながら、ぎこちなく笑う彼女を見遣る。
きちんと寝巻を身に着けたルビーが隣に座っていた。
あれほど指導してきた側ではあるけれど、急な変化には面食らってしまう。それでもどうにか気を取り直し、居心地悪そうにもじもじしているブルネットの髪を撫でた。
「偉いですわね、ルビー」
そう誉めてもルビーは控えめにはにかんでうんと頷くばかり。快活な彼女らしからぬしおらしい態度にすっかりペースが乱されてしまう。ワイスは首を捻りながら、それでも容赦なく過ぎていく朝の支度を着々とこなしていく。
脱衣所で制服に着替えいったん自室へ戻ると、ベッドの上にちんまり座ってぼんやりと本を開いていたルビーがワイスの姿を見るなり大げさに慌てふためいた。取り乱した拍子に本が落ちる。ゆうべ読み聞かせてもらった絵本を一人で再読していたらしい。それを拾い上げるついでにワイスは単刀直入に問い質す。
「ルビー、一体どうかしまして?」
「えっ! な、なんのこと?」
急所を突かれたようにルビーは動揺した。目を泳がせる彼女に不審な眼差しを注ぐ。
「今朝から様子が変ですわ。……何か企んでまして?」
ルビーはぶんぶんと無言で首を振る。そっと気色を窺うように上目遣いをしてくる彼女の頬にはほんのりと朱が差していた。
「もしかして具合でも悪いのかしら」
熱があるのかもしれない。ワイスは険を解き、代わりに愁眉を浮かべた。柔らかい前髪を掻き分けて額に掌を当てようとすると、彼女は咄嗟に顔を背けて仰け反った。
「わ、ワイス! 顔近い……!」
――今更、この子は何を言い出すのだろう。
行き場をなくした左手を空しく宙に彷徨わせながら、ワイスは困惑した。
隙あらば擦り寄ってきてスキンシップを図ってきた愛犬と同一とはまるで思えない。それに、これ以上に顔が近いことをこれからするというのに。
ますます紅潮したようにみえる顔色に気がかりが拭いきれないが、折悪しく登校時間も差し迫っていた。手早く髪を結い、身なりを整えたところでワイスはドレッサーを立つ。コートを小脇に抱えドアへと向かうワイスの後を、ぺたぺたという薄っぺらいスリッパの足音がついてくる。
「それでは、わたくしは行ってまいりますけど……」
振り返り、従順に見送りをしてくれるルビーから通学鞄を受け取る。普段よりよそよそしい態度だが、頭を撫でられて嬉しい素振りを隠しきれていない。今は耳や尻尾がないのが少々残念だと内心抱きつつも、そのまま掌を滑らせ頰をもちもちと抓り、最後に頤に触れた。一歩距離を詰めわずかに目線を上げたところで、ルビーは戸惑うように眦を落とした。
「ルビー?」
「あー……ワイス。今日は私大人しくしてるから……ううん、いつも大人しくしてるけど、いつも以上に! だから、ね。今日はずっと、ヒトのままでいちゃ、ダメ、かな?」
「……はい?」
真意を図りかねて露骨に眉をひそめると、ルビーはしどろもどろに弁解をし始める。
「あのね、ちゃんと人が来たら隠れるし……そ、そうだ! 私お勉強がしたいなー昼間でも!」
「お手洗いや食事はどうするんです?」
呆れたように眇めれば、
「我慢する! 大丈夫だよ。たぶん、うん……」
渇いた笑いを浮かべているが、自信がないのか次第に消沈していく。
これまでも外出の際に寂しそうな眼差しが背中を追いかけてくることはあった。それでも彼女は不満を言わず聞き分けて、毎日笑顔で送り出してくれた。なのに、どうして今になってこんなわがままを言い出すのだろう。
「――ルビー。」
ワイスが静かに呼ぶと、ぴくんと小さく肩を震わせた。しょんぼりとこうべを垂れたルビーがおそるおそる上目で媚びてくる。
「うう……どうしてもキスしなきゃダメ……?」
「当然です。もう時間がありませんわ」
心を鬼にしてワイスはきっぱりと答える。さらに顔を近づけじっと銀色の瞳を見つめると、ルビーはまるで被食者のごとく怯えた。
「ま、待って! まだ心の準備が――!」
両手で遠ざけようとするのを払いのけて、ワイスはすかさず唇を寄せた。“朝の大仕事”もさすがに数か月もこなせば馴染まざるを得ない。それでも甘く脳幹が痺れてしまうような触感はいつまで経っても慣れそうになかった。固く目を瞑ることで意識を逸らすことに努めながら、この甘ったるい時間を毎回やり過ごしてきた。心の準備は、いつだってワイスが求めてきたものだったというのに。
人の気配が消え失せるとワイスはそっと目蓋を開いた。地べたに散乱した衣服を回収していくと下からぺしゃんと伏せた黒い毛むくじゃらが発掘される。抗議するようにきゅうきゅうとか細く唸り、大きくなった体を器用に丸めて顔を隠してしまった。
「ごめんなさいルビー。早く帰ってまいりますから、どうか良い子にしててください」
優しく胴体をさすっても彼女は不貞腐れたように尻尾をぺしりと一度あげたきりだった。
ルビーはずっと人でいたいのだろうか。
確かに近頃はワイスが初等科で使っていた理科の教科書を熟読していた。そこで己の身体にまつわる異様さを理解し、犬に戻るのを拒んだのかもしれない。あるいは、やはり単純に体調が優れなかっただけかもしれない。普段から体温が高めの子とはいえ、今朝は妙に血色が良かったのも気がかりだ。彼女の言い分も聞かず無理矢理犬にさせてしまった後ろめたさが時間を経るごとにちくちくと針で刺すごとく胸を咎める。様々な懸念が脳裏をよぎり、授業に全く身が入らなかった。そわそわしたまま一日を過ごし、放課するや否や脱兎のごとく家路についた。
しかしルビーは、人にもなりたがらなかった。
帰宅するなり自室にすぐ戻ったワイスは、よそよそしくも尻尾を振り出迎えてくれるルビーにすぐさま駆け寄った。だが彼女はするりとワイスの腕をすり抜け、広い室内をぐるぐると逃げ回ってしまう。愕然とした。
「る、ルビー……!」
あれほど可愛がった愛犬にあからさまに避けられることがこれほどショックだとは想像だにもせず、よろよろと力なく床に膝をついた。するとルビーがたったっと小走りでワイスのもとにやってきて体を擦り寄せてくる。くぅんと悲しそうな鳴き声を上げて彼女は項垂れるワイスを見上げた。
「ルビー、わたくしのことが嫌いになりまして?」
ぶんぶんとルビーは頭を振る。うるうると潤んだ瞳で見つめられて、おそるおそる額辺りを親指でさすれば彼女は拒否することなくワイスを受け入れた。
「では、どうしてなんです?」
そのまま輪郭を辿り顎にそっと指を添えて、銀の宝石をじっと見据えた。はじめは戸惑うように視線を泳がせていたが、そのうちルビーは観念したようにワイスに口づけた。
「――ごめんなさいワイス」悄然と俯いたまま、ルビーが抱きついてくる。
「どこか具合が悪いのですか? それとも気分が優れないですとか……」肩を抱き留めてワイスは真剣に尋ねた。
「ううん大丈夫だよ、ワイス。あっでも、」
微笑みかけたルビーが何かを思い出したように瞬時に沸騰して、彼女は慌ててワイスの首に顔を埋めた。背中に腕を回し受け止めたところで、やけになまめかしい感触がワイスの手に吸い付いた。
「お、お洋服が着たい……」
裸体のまま、彼女は弱々しく訴えた。
ベッドの端でそわそわしながら彼女が着替え終わるのを待っていると、しばらくしてルビーがとぼとぼとした足取りで戻ってきた。夏の初めに一緒に買いに行った赤いパーカーは七分袖のように詰まり、ファスナーももう上がり切らなくなっている。不格好な出で立ちに彼女の急成長を突き付けられる。最近一回り大きい新品のそれを買い与えたが、彼女は時々大切な宝物のようにあえて窮屈なパーカーを選んだ。
ワイスの前で立ち尽くすルビーに、とんとんとマットレスを叩いて隣に座るように促す。彼女は躊躇いながらもようやく腰をかける。遠慮がちに体半分ほど開いた距離がもどかしくてワイスの方から詰め寄った。
「ねぇ、ワイス」
「なんです、ルビー」
「……ぎゅってしてもいい?」
今まであんなに無遠慮にべたべたと抱きついてきたのに、急にそんなふうにしおらしく確認されるとまごついてしまう。昨夜までは、と考えてワイスはひとつ心当たりを拾った。ルビーの様子がおかしくなったのは、正確には眠る直前だったことを。
黙って思案していると、彼女は再びしょんぼりと俯いてしまう。背丈はとうに自分を追い越したというのにこうべを垂らす姿は子犬のようで、ワイスは慰めるように彼女の背中をさすった。
「いいわ。ですがその前に、何があったか聞かせてくださらない?」
できるだけ優しい声音で問いかけて、ルビーの言葉を辛抱強く待った。しばらくの間もじもじと収まり悪く手慰みをしていたが、小さく息を吐いてから彼女はおもむろに口を開いた。
「ね、ワイス……。抱きついたりキスしたりするのって、好きな人同士じゃないとダメなんだよね? ワイスはいつも許してくれたけど、本当は良くなかったんだよね」
ルビーの声が何かから赦しを乞うように震えている。それは人の原罪に。
「貴女は犬だから、その、仕方ありません」
「私は、人間だよ」
西日に染められた力強い双眸には意思が宿っていた。
まるで知恵の実を口にした原初の人類のように、恥じらうルビーはもう完全に人間になってしまったみたいだった。
ワイスは一度深く息を吸い、細く吐き出した。覚悟を整えてルビーに向き直れば、彼女は身を竦めて小さく怯えた。
「ルビー、貴女はまだ犬ですわ。少なくともその体は。けれど、人にもなれる。その意味を貴女は考えたことがありまして?」
意図が飲み込めない様子でルビーは首を傾げた。少し長くなりますが、と前置きした上で、ワイスは夏から密かに編んでいた仮説を唱え始めた。
「このレムナントに生きとし生ける者はすべて“オーラ”を有しています。貴女も見たことがあるでしょう、わたくしの魔法陣やネオンの虹を。あれはオーラをより実体化させた“センブランス”と呼ばれるものです。そして貴女だってもちろん例外ではありません」
「私にも?」
斜めに滑り落ちる疑問符に、ワイスは短く首肯した。
彼女を抱き締めたりキスを重ねたりした時、体温だけではなく体の中心でオーラに包み込まれるような温かな感覚があった。あれは恐らく、彼女の持つオーラの温度だ。仮に彼女の変身能力がオーラの作用によるものであれば、今はキスによって偶発的に発動してしまう魂の力を自意識下でコントロールさせることができるかもしれない。
突拍子もない発想かもしれなかった。それでも、彼女の存在自体が突飛でもない。
「この推論が正しければ、貴女は好きな時に人にも犬にもなることができますわ。わたくしからの施しを受けずとも、貴女はもう自由です」
ルビーのオーラが解放されれば、彼女はこれから自由自在に変身することができるだろう。もしかするとオーラの制御によってルビーが人の姿で過ごす間は、ワイスの願い通り、同じ時間の流れの中で共に生きていけるかもしれない。他者のオーラの解放を自分の今の力量で行えるか一抹の不安は残るが、思春期のように思い悩むルビーをキスという呪縛からも解放させてあげられるかもしれなかった。
彼女を安心させようとワイスは笑顔を作った。口角を持ち上げると左目の傷痕が引き攣れる。さんざん自分を悩ませてきたルビーの生態であるはずなのに、いざ自分の手から離れようとすると身勝手な寂寥感が押し寄せた。
斜陽が格子の窓枠に縁取られベッドサイドに無数の十字架を切り落とす。その影の下でルビーは次第に敬虔な信徒のように俯き、息を詰めた。
「私はずっと、ワイスの傍にいるって約束したよ。だから、自由にならなくたっていい」
「ルビー……」
「それとも、ワイスはずっと私の傍にいてくれないの?」
顔を上げた彼女の面立ちに憂色が翳る。それからワイスの手をそっと掴んできた。まるで親とはぐれそうになっている幼子のように。
潮時だと、思った。
「――ルビー。お話があります」
胸が張り裂けそうになりながら、ワイスは切り出す。
「わたくしは来年、ハンター養成学校へ進学します。アトラスから遠く離れた、国外の」
「こくがい?」
単語がルビーの舌先を転がって咀嚼されないまま地面に落下していく。
いずれ打ち明けねばならない事実だった。告白が長引けば長引くほど離れ難くなるとわかっていた。夏の間から今までずっとこの機会を窺っていた。なのに口に出そうとするたび罪悪感が募って、執心が日増しに自分で決めた将来を遠ざけていった。
この家に未練など残すつもりはなかった。大切なものが取り返しつかないほど胸中に大きく膨らんで、判断を鈍らせては良からぬ考えがワイスを幻惑させた。
雪解けの後に必ず春がやってくるように季節はちっぽけなワイスの逡巡を待ってくれない。だからせめて心が揺らがないうちにワイスは一息に伝えた。
「残念ながら、貴女を寮に連れていくことはできません。その間、ルビーにはクラインの家族の元で過ごしてほしいのです。大丈夫、クラインは貴女にとても優しいわ。きっと良くしてもらえます。長期休暇になったらすぐにルビーに会いに行きますし、卒業するまで――」
「嘘。」目を見開いたまま絶句していたルビーがたった一語、遮った。
「ワイスも、私のこと置いて行くの?」
掠れた声が二人の間に張り詰めた空気を震わせる。掴まれていた手の甲に点々と温かい雫が数滴当たっては脆く砕けていく。自分が泣いていることに、ルビーは気づいていない。
「わたくしだって、できることならルビーとずっと一緒に居たいですわ。卒業したら、必ずルビーのことを迎えに行きます。ですから、」
手を掴み返そうとすると、すれ違い、ひらりとルビーの手がすり抜ける。交錯し、代わりに強く抱きすくめられた。女性らしい柔らかな肉付きとしなやかな腕の力に、甘やかな陶酔感がじわじわと伝播していく。
「ワイス、好きだよ」
剥き出しの台詞が耳孔にぶつかって、血脈に沿って循環し、最後に知覚を切なく揺らした。
「……わたくしもです」
「ちゃんと言ってよ」
間髪入れず言い募って、ルビーはわずかに体を引き離した。
いつかのやり取りが繰り返される。だけど、あの日の純真無垢な響きとは違う、熱っぽく潤んだ瞳がワイスをまっすぐに射抜く。
あらゆる可能性を浮べては、そうではない理由ばかりを探した。その代償が今、喉元を塞いでだんだん呼吸の仕方がよくわからなくなる。
抱きしめ返すことも言葉をかけることもできないまま、積もっていく沈黙の欠片をかき集めたルビーが何かを悟ったようにくしゃりと表情を歪めた。
「昔はたくさん言ってくれたのに、犬じゃなくなったら言ってくれないんだね」
袖に縋りついていた指の力が徐々に弱まって、ぽすんと寂しくマットレスに落ちた。口の端に諦念を寄せて、ルビーはつぎはぎの顔で笑う。その時はっきりと、ワイスはすべてが手遅れになってしまったことに気がついた。
ワイス、と名前を呼ばれた。触れ合う直前、ごめんねと唇が象ったように見えた。
人になってごめんね。
懺悔が耳に届く前に、熱い舌が口に押し当てられて、深く差し込まれそうになって。
ぬくもりが掌から零れ落ちた。
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