namaeggg
2018-10-16 19:54:27
12701文字
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永遠なんて誓わない ⑤

後編その1です。まだ喧嘩。

 オーラとはレムナントに生息するすべての生物に宿る生命力であり、魂の力である。
 人やファウナスのみならず生きとし生ける動物が有するオーラの力は、我々を苦痛から遠ざけ、守護してくれる。オーラは潜在的であるが訓練を積むことにより顕現、誰もがオーラを扱うことができる。さらに、十分な研鑽を積んだハンターは他者に眠るオーラを解放させることも可能とされている。しかしながら創造物“グリム”は魂のない虚無の表れであり、レムナントで確認できる唯一の“持たざる者”である。
 オーラは道具や装備を媒介させることができるため、攻守において様々な用途がある。大別して「防御」「攻撃」「解放」「回復」の四種の運用が挙げられる。また、ダストを用いる上でも必要なスキルとなる。
 このように、いまだグリムと攻防する我々の生活に密接するオーラであるが、常に最大の出力を発揮するものではなく、戦闘中ダメージを受けたり絶えず使用し続けたりすると効果が低下する。最終的に枯渇してしまうと、回復するまでオーラによる加護は得られない。近年ではスクロールによるオーラの可視化も実用されており、オーラの残量を見極めながら戦うこともハンターの資質として求められている。
 そしてセンブランスとはそのオーラをより実態化させたものであり、個人の持つ特殊能力である。
 その能力は千差万別であり、個人によって大きく異なる。また例外的にセンブランスが遺伝するケースも確認されている。
 センブランスは力の源であるオーラを消費して発動するため、上述のようにむやみに使用を繰り返せば体力を消耗し、最後は枯渇してしまう。センブランスを上手く運用するためにも、まずはオーラの特性を発揮し精練することが肝要である。
 オーラの研究は昨今目覚ましい進展を遂げている。我がアトラス王国では科学的観点からその原理や用途などを日夜研究している。将来的には固有で実体のないオーラを捕捉することが可能になるのではないかという最新の研究結果も報告されている。――

   * * *

 使い込んだ参考書の冒頭を振り返っていたワイスはいったん背もたれに身を預け、一息入れた。ハンターを志す者ならば第一に学ぶ基礎中の基礎知識であり、よもやこれを知らずして最難関と謳われるビーコン・アカデミーに入学できる生徒は居るまい。
 暗誦できるくらい頭に叩き込んだ文言が一言一句正しいことに安堵しつつ、一方で些末な違和感が小骨のように喉に刺さったままチクチクと主張している。
 気がかりごと慎重に息を吐きながら、ワイスは長机を挟んだ向かい側を見遣った。対面には赤いパーカーを着た少女が座り、なにやら一心にペンを握った左手を動かしているところだった。
 吹き抜けになった階上から差し込める陽射しは一時期よりもしのぎやすく、木漏れ日のように柔らかく共用スペースを照らす。開放的な空間でありつつも物音が配慮され、ページを捲る擦れた音やノートの上を走るペン先の音が波間のように穏やかに佇んでいる。さざなみのように立つ微かな談笑やあちらこちらの足音も蓄積された書物の海原に飲まれ沈黙に伏す。王立図書館は今日も心地よく落ち着き払っていた。
 ぼんやりと頬杖をついていると、不意にブルネットがぴょこんと頭を上げた。目が合い、彼女がふにゃりと笑いかけてくる。ワイスはそこで、ルビーのことをまじまじ凝視していたことに気づき、やにわに恥じ入った。
「ねえねえワイス」
 合ってる? とルビーは小首を傾げて、一生懸命書き込んでいたノートを差し出してくる。
 ワイスみたいにお勉強がしてみたい。と同じことを真似したがる子供のようにねだられてものは試しにペンを持たせたところ、読書家な彼女は不恰好な手つきながらもアルファベッドを即座に習得してしまった。さらに算数を教えれば答えが出るのが楽しいのか初等科レベルの問題集を猛烈な勢いでクリアしていく。今は、簡単な証明問題を解いているようだった。
「ここ、綴りが間違ってましてよ」
 容赦なく該当箇所に〇をつけると、ルビーは不服そうにむぅと唸った。
「でも答えは合ってます」
 大きくチェックマークを入れてノートを返す。
「やったー!」
「る、ルビー……!」
 無邪気な歓声が館内に響き、ワイスは慌てて口に指を当てしーっと注意する。はっとした表情でルビーは自分の口を両手で押さえた。
「図書館では静かにと教えたはずです」
「ごめんなさいワイス」
 しゅんと小さく首を窄める姿に心が痛くなったが、周囲から注がれる視線に針のむしろになる。咳払いを落としわざとらしく取り澄ましている間に、立ち直ったルビーの企みにワイスは気づくことができなかった。
「ね、ワイス」
 極端に声を落として、彼女がすっとノートの端っこで作った紙切れを寄越してくる。何気ない所作でその手紙を受け取りワイスがそれをひっくり返した。瞬間、
「ルビー!」
 大きな音を立てて勢いよく立ち上がり、思わずワイスは叫んでしまった。
 今度は全方位から一斉に衆目を集めてしまい、すぐ我に返ると赤面したままのろのろと着席した。穴があったら今すぐ入りたい。肩を震わせ机に突っ伏していると、ひひっと息を殺した笑い声が聞こえてきて憎たらしかった。ワイスは目だけを上げて彼女をねめつける。愉快犯は意に介した様子もなくにやにやと含み笑いを噛みながら、先程のお返しとばかりにしーっと指を当ててみせて主人を諌めた。
 たどたどしい筆致で『I LOVE YOU』と綴られた手紙。
 彼女は人になっても、いたずらが大好きだった。
 解き終わった問題集を閉じて「新しい本探してくる!」と元気に児童書コーナーへと向かっていく背中を恨めしく見送ることしかできない。
 一人取り残され肩身狭い思いをしながらワイスはペンを闇雲に指先で旋回させ、かき乱されたペースを取り戻そうとする。
 ルビー。愛犬だった彼女はシュニー家に所蔵された絵本を全て読み尽くし、近頃は文字の多い児童書にも手を付け始めた。拙かった口調もみるみる語彙が増え、ここ一ヶ月ですっかりワイスをからかうまでに板についてしまった。驚異的なスピードで知識を吸収している。優秀すぎるほどに彼女はますます人へと近づいていった。
 そんな彼女を伴って週に二三度市街地や図書館へ遊びに行くのがすっかり習慣となりつつある。相変わらず彼女を外へ連れ出すのは厄介事が付きまとうが、目的地が図書館であれば受験生という面目が保てる上、図書を返しに行くという名目もできる。“散歩”をするにはうってつけだった。
 指の上でくるくるとペンが器用に踊っていく。
 今まで自室に閉じ込めていたことへの罪滅ぼしの念もなかったわけではない。それでもたくさん本が読めて嬉しいと、ルビーはいつも素直な気持ちを向けてくれた。いつしか彼女の純粋さに感情が絆されていた。もしかしたら、一緒に出掛けることを心待ちにしているのは、自分のほうかもしれない。目を逸らしてきた事実に突き当たり、ワイスは途端に胸が苦しくなった。
 ワイスを縛り付ける跡取りとしてのしがらみからルビーといるこの時間だけは解放された。酸欠で息苦しい水槽の中から抜け出し、ルビーと手を繋いで街を歩いていると心の荷物が軽くなる。散歩の終わりに路地裏にこっそり身を寄せ合いキスを重ねるたび切ない痺れが理性を揺らした。そしてまだぬくもりが残る衣服を拾い上げている時、ルビーは目の前にいるのに、言い知れぬ虚しさが襲った。
 認識がすり替わっていく。人としての彼女に対する執着心が徐々に大きく意識を占有していく。
 次第にぐらぐらと不穏にぐらついていたペンがとうとう落下して、その音でワイスは本心に返った。緩慢に拾い上げ、ぼんやりノートを一瞥する。考え事ばかり募って参考書は少しも進捗していなかった。深く溜息を吐き出したところで、ふと対面が空席のままであることにワイスは気づいた。
……ルビー?」
 ただの過保護だと自分に呆れつつ、机上に放置されたままの問題集を回収しワイスは児童書コーナーへと向かった。腰の低い書架をぐるりと一巡したところで、彼女の姿はどこにも見当たらない。彼女はいたずら好きだが勝手に居なくなったり本当に困らせたりするようなことはしない子だ。いよいよ胸騒ぎを覚えて、けれどすぐに懸念は晴れた。残暑が縁取る窓辺へ近づくと、見慣れた赤いフードが小さく視界によぎったからだ。

 ガラス張りのエントランスホールを抜け出し、荷物を抱えてワイスはなだらかな石造りの階段を下って隣接した公園へと向かった。外はまだしぶとく夏日が居残り、ワイスの白いシャツを叩く。整然と立ち並んだ背の高い常緑樹が手入れされた芝生と石畳の遊歩道に幾重もの木陰を落とし、その下に等間隔で設置されたベンチには腰を掛けた人々の談笑が軽やかに昼下がりに弾んでいる。
 ルビーを目撃した辺りで立ち止まり、ワイスは周囲を見渡した。爽快な風に紛れて、ガリガリと舗道を削るような耳障りな雑音が逸る気持ちを逆撫でるようにどこからか響いている。不快に眉をひそめそうになったところで、その声は飛んできた。
「ワイスー!」
 振り向けば声の主がのんきにぶんぶん手を振りながらこちらに走り寄ってくる。そして速度を下げないまま、まるでタックルするように勢いよくワイスに抱きついてきた。
「ルビー! もう、勝手に一人で外へ出て――!」
「ごめんねワイスぅぅぅ」
 声を荒げて叱咤するも、犬みたく甘えてくる彼女に押し切られてしまってそれ以上強く言えないのは我ながら重症だった。深い嘆息を吐き出す主人の気も知らず、すりすりと摺り寄せていた頭を上げて、ルビーはあのねあのねと忙しなく切り出す。
「私、友達ができたんだ!」
 そう言って嬉しそうに指さす方角から、遠目でもはっきりと視認できるほどド派手なオレンジ頭のツインテールの女性が例の雑音をまき散らして急接近してきた。まるで氷上を滑るように。公園内はローラースケート禁止だというのに!
 まさか、と唖然としているうちに、その女は軽快に蛇行し二人の元をぐるりと一周すると、鮮やかな身のこなしでぴたりと急停止してみせた。
「うぅー!」
 ルビーは拳を握って奇声を上げた。前髪に水色のメッシュを入れ露出の高い格好をした華美な少女はまんざらでもない様子で前髪をかき上げる。それからワイスの顔を不躾に眺め回した。
「ワァオ。ワンコちゃんの飼い主が誰かと思えば、本当にシュニー家のご令嬢じゃん。アンビリバボー!」
 わざとらしく驚嘆のポーズを作り、彼女は噛んでいたガムを膨らませた。風船はすぐに割れそこから薄い三日月が覗く。軽薄な態度にワイスはぴくりと眉頭を動かした。
「すごーい! その風船どうやって作るの?」
「ルビー」興味津々に近づこうとする彼女の首根っこを掴み、ぴしゃりと窘めた。
「それで、貴女は一体どなたでして?」
「“それで、貴女は一体どなたでして?”」
……はい?」
「あんたのモノマネ。どう、似てたっしょ?」
 露骨に嫌悪感を示せば、少女はワイスを指差しけらけらと笑った。
「そんなに邪険にしないでよ。怖い顔がもっとこわーくなっちゃう」眉に指を当てて、しかめ面を演出する。
「ルビー。本当に彼女は貴女の友達なんです?」
 話にならない。ワイスは早々に匙を投げ、代わりに質問の矛先をルビーに向けた。
「うん。ネオンっていうんだ! 図書館の窓から見つけたの」
 嬉しそうに教えてくれる彼女にワイスは頭を抱えた。その様子を見てますます楽しげにネオンが肩を震わせていた。
「ワンコちゃん、めちゃくちゃ足速いの。追っ払ってもすぐ付いてきちゃうし。ホントの犬みたい」
「えへへ」
 何故か照れたようにルビーは後頭部を掻いている。突っ込む気力を手放したが、どうやら総括するとルビーが面白そうなおもちゃを見つけて一方的にネオンを追いかけ回したようだ。おおよそ友達とは言い難いが、彼女にとっては一緒に外で遊んでくれる人間は皆友人なのかもしれない。
 ルビーは屋敷の人間以外とほとんど接触したことがなかった。ましてや人間の姿では皆無だ。責任の一端は自分にある。そんな世間知らずのルビーの面倒をこの見ず知らずの奇抜な少女は相手にしてくれた――いや正確にはあしらっていたのかもしれないが。ともかく、人を小馬鹿にしたような振る舞いがどうにも癪だが、感謝こそすれぞんざいにすべきではないだろう。考えを改め謝意を伝えようとしたところで、ルビーが先に口を開いた。
「あのね、ネオンってすごいんだよ。タイヤがいっぱいついた靴でくるくる回るの。尻尾でバランスを取ってね……
「尻尾」
 その場でターンしネオンの真似をする陽気なルビーとは反対に、あからさまに声のトーンを落としてワイスは目を細めた。不穏な気配を察したネオンは猿の尻尾をこれ見よがしに揺らしてみせる。
「ワイス、どうしたの?」
 不安そうに尋ねてくるルビーの手を軽く引き寄せて、ワイスは居丈高にネオンを見据えた。
「ルビーを保護してくださって感謝しますわ。でも、友達になる必要はありません」
「どういうこと?」
「へぇ、SDCのご令嬢は差別主義者ってわけ?」
 この手の人種差別にネオンは慣れた様子で挑発的にワイスを牽制した。話の流れについていけないルビーが二人の間でおろおろと狼狽える。
「ルビー、参りますわよ。ファウナスなんかと一緒にいてはいけません」
「で、でも。ネオンは私に優しかったよ? 友達だよ……
 困惑したまま、ルビーは弱々しく訴えかける。それでもワイスは冷静ではいられなかった。苛立ちを隠さず、まくし立てるように言葉を続けた。
「いいえ。ファウナスはみな悪です。彼女のバカっぽい顔に騙されてはなりませんわ」
 へらへらとしていたネオンもさすがに不愉快そうに顔を歪め、口を挟もうとする。
「ちょっと、」
「ネオンは良いヒトだよ!」
 隣から鋭い怒声が飛んできて周囲は突然水を打ったようになった。
 その水を浴びせられた恰好でワイスは身動きが取れなくなる。握っていた手を振り解かれて、彼女はネオンを庇い立てするように正面へ回り込んできた。
「ワイス。ネオンに謝って」
 聞いたこともないような冷え切った声に思わず体が竦んだ。強い怒気に頬を打たれた気分でワイスは怯んでしまった。人懐っこく温厚な彼女がこれほど気性を荒げたことは、ただの一度もなかった。
 ワイス、と離した手を彼女はもう一度だけ求めるように伸ばしてくる。射抜く眼差しは、けれどもどこか懇願じみて切実に縋りついてきたために息が詰まった。言葉が喉の奥で貼りついて、強い視線から逃れるようにワイスは俯く。
……ワイスのバカ」
 頭上に落ちた言葉がぽつんと一滴、鼓膜に響いて波紋のように広がっていく。湿っぽく震え声音は、泣いているのかもしれなかった。しかしそれをワイスは確認することはできない。顔を上げるのと同時に、ルビーが背を向けて市街の方へと走り去ってしまった。
「ルビー!」
 すぐにワイスも後を追いかける。だけど彼女の足は速く、一方で気後れしたままのワイスは思うように走ることができない。揺り動かされた感情が迷わせ、前へ繰り出す気持ちを鈍らせる。目まぐるしく葛藤を繰り返しているうちに大通りの信号が赤になって、往来する車が彼女の行く手を阻んだ。車道が二人の間に決定的に横たわり、次に青信号になった時にはもうルビーの姿を完全に見失ってしまった。
 立ち尽くすワイスを、同じく信号待ちをしていた人々がどんどん追い抜いていく。
 いつも通りと約束した迎えの時刻までそれほど猶予はない。このままむやみに市街地を探し回ってもいたずらに時間を浪費していくばかり――いや、違う。そんなことは単なる言い訳だった。横断歩道を渡ることができずに立ち往生している自分。焦燥を煽り立てるように信号が再び明滅し始め、ワイスは元来た道を引き返し公園の空いたベンチへ力なく座り込んだ。思いつめた顔つきで地面を見つめていると、ざりと砂を噛む音が耳孔にざらついてタイヤが視界に滑り込んできた。
「あーあ。飼い犬に噛まれちゃった」
 彼女の冷やかすような態度にも言い返す気分になれず、ワイスはむっつりと口を噤む。
「追いかけなくていいの? ワンコちゃんのこと」
……見失ってしまいましたわ」
 先ほど彼女を扱き下ろした手前、ばつ悪く目を伏せながらワイスは歯切れ悪く答えた。特段気に留めた様子もなくネオンはふぅんと鼻を鳴らした。
 公園内は平穏を取り戻している。園内を東西に細く分断する人工の川が絶え間なく循環し、作られたせせらぎがそれでも清涼感をもたらしている。そこで子供達が靴を脱いで水を蹴り上げたりばしゃばしゃと手で掬って掛け合ったりして遊んでいるのを見ていると、ルビーの姿と重なって、一層焦りが募った。その隣でネオンは暇を持て余すように“8”の字の軌跡をゆったりと描いていた。
「貴女、先ほどから犬だとかワンコだとか仰ってますけど、」
 ぶつけそうになる苛立ちを飲み込み、疑問に思っていたことを今更問い質せば、ああとネオンが合点する。
「アンタのワンコちゃん――ルビー? だっけ。自分で言ってたけど? “私はワイスの犬なんだ”って」
 ワイスはぐるりと目を回しながら天を仰いだ。
 ルビーの回答は確かに間違っていない。ただ、そのタイミングを大いに誤っただけだ。これまで彼女には人間らしい作法をたくさん身につけさせてきたが、人の姿のまま誰かと交流することをまだ想定していなかったために、もっともらしい自己紹介の仕方をワイスは教えていなかったのだ。
……なんだかよっぽどワケありみたい」
 押し黙っていると、ネオンが立ち止まりワイスは視線を向けた。彼女は膨らませていた風船ガムを引っ込ませ、企み顔で口の端を持ち上げる。
「ね、アタシが見つけてきてあげようか。アンタの犬」
「なんですって?」
 瞠目するワイスをよそに彼女は周囲を滑り出して、徐々に加速度を付け虹色のスピンを鮮やかに決めてみせた。顕現した虹はすぐに砕けて、七色の残滓が辺り一面にきらきらと福音みたいに舞い落ちる。
「オーラ……いえセンブランス……
「アンタのことは大っ嫌いだけど、」
 猿の尻尾をワイスに差し向けて、眼前でくねくねと自在に動かし見せつけてくる。思わず仰け反ってしまうとネオンはけらけらと笑った。
「友達になっちゃったみたいだからね、アタシ。あの子とね」
 勿体付けるように肩を竦めて、それに、と彼女は続ける。
「どんくさいお嬢様なんかよりもめちゃ速く走れるし?」
「ちょっと!」
 ワイスが立ち上がるよりも早くネオンは踵を回らし、振り向きざまに翠緑のウインクを投げて颯爽と人込みの中へ紛れてしまった。
 行き場のなくなった左手が中空を彷徨い、虚しさを掴む。一人取り残されたワイスは途方に暮れた。居たたまれなくなって市街地に向かって歩き出すも、どこにも行き場がない。ルビーの行きそうな場所、と思案を巡らせ、ぽつぽつと心当たりが温かく灯るたび彼女の不在をいやが上でも思い知らされる。
 ルビーと喧嘩をしたのは初めてだった。思った以上にワイスは動揺していた。
 されど、相手はファウナスだ。これまで何度も彼らのイデオロギーによって会社を、家族を標的にされ命すらも平然と奪い生活を脅かしてきた、許されざる悪の人種だ。どれだけ立派な大義を掲げ人類平等を謳っても、暴力に訴え恐怖体制によって人を抑圧しようとする彼らを決して容認できない。たとえホワイトファングの一員でなくても、彼らと同じ血が流れている限り、朱に染まれば必ずや彼らと同じ悪路を辿る。そうに決まっている。
 ワイスは歯を食いしばり、ファウナスに抱く憎しみを必死に肯定しようとした。今までだったら揺るぎなく自分が正しいと断言できた。なのにワイスは今、迷いが生じている。ルビーの張り手のような怒声が何度も脳裏にこだましてそのたびワイスを糾弾する。
 ワイスはルビーと歩いたことのある道を通り、一緒に寄ったテナントを手当たり次第に覗いていった。店員に声をかけ目撃情報を聞いて回るも、全く収穫は得られない。徒労感ばかりが積聚し、いよいよ臍を噬んだ。
 ワイスにも、友人がいた。幼少期より誰彼もシュニーの名前に媚び諂いあるいは疎外し、ワイス個人をみてくれる者は居なかった。自身も名家としての振る舞いを厳しく求められ、毅然とした態度は一層クラスで孤立していった。それでも、勇敢にもワイスにコンタクトし交友を結ぼうとした奇特な同級生がいた。世間知らずで恐れ知らずのクラスメイトは、今振り返ればルビーのような子だったかもしれない。初めはワイスにまとわりつく彼女を鬱陶しく思い、または同情を厭い冷たく突き放していたが、それでも懲りずに下心なく接してくる彼女の熱心さに少しずつ心を許し、やがて「普通」の友人として対等に彼女を受け入れ始めた。その矢先、彼らはワイスのささやかなそれを無情にも略奪した。
 次第に激化していくホワイトファングの行動はシュニー家のみならず、関係者をもターゲットにした。ワイスの友人として彼女が拉致され、ジャックに切願し要求通り身代金を支払って戻ってきた時には、彼女はすっかりワイスに怯えるようになってしまった。あどけなかった笑顔は二度とワイスに向けられることはなく、ワイスを再び孤独の淵へ突き落した。今より幼い時分にとってあまりに惨い仕打ちで、深く心に傷を負った。
 その日、ワイスは決意したのだ。決して邪悪な彼らを許さないと。そして彼らになり得るファウナス全般を危険因子と位置づけ対立する一方で、彼らを暴力的行動へと走らせてしまった一因であるSDCの跡目として、父の経営方針を是正していくことを。
 憎悪と使命感とで雁字搦めになって、固く封じていた感情がぐちゃぐちゃになっていく。大して走ってもいないのにひどく息が上がって嫌な脂汗がじっとりと滲んだ。
 最後に、赤いパーカーを購入した店を訪れた。でもルビーはここにも来ていないようだった。店外でスクロール画面を呼び起こせばデジタルな時刻盤が迎えまで三十分切っていることを無機質に示した。念のためクラインに少し遅れることをメールで伝え、返事を待たずにポケットにねじ込んだ。もう宛てなどないと諦めて図書館へ引き返している最中、あとひとつだけ心当たりがぽっと浮かんでワイスは急いで引き返した。
 どうしたら、彼女にファウナスのことを伝えられるだろうかと考えていた。だけど、きっとその考え自体が間違っていた。
 アスファルトを強く蹴って人波を掻き分けていく。
 過去にファウナスによって友人を奪われた。しかし今、ルビーから友人を奪おうとしているのは、いったい誰だろう。
 息を整える余裕もなく、はぁはぁと呼吸が乱れた。無理矢理飲み下そうとして噎せてしまう。それでもワイスは走るのを止めなかった。
 ファウナスにも人にも分け隔てなく接し対等な友人関係を作ろうとしたルビーの純然な気持ちを、自己本位な主義によって踏みにじってしまい、彼女を悲しませてしまった。そしてファウナスを一括りにして、個人の本質を知ろうとしてこなかった。それはシュニーという家名だけで判断され、ワイス自身を誰も見てくれなかったように。
 過去に受けた仕打ちを、今度は自分が繰り返そうとしている。その事実に突き当たり、ワイスは愕然となった。
「っ!」
 脇道へと入ったところでヒールのかかとがぽっきりと折れ、そのまま前方へ大きく転げてしまった。左膝を強打し、擦りむいた左手から血が滲んでいる。傷口がじくじくと痛む。だがこの程度の傷はオーラの力でじきに塞がるだろう。今手当てせねばならないのは、もっと大きな傷痕だ。
「ルビー!」
 いてもたってもいられなくなってワイスは叫んだ。
 彼女との散歩の終わりに必ず立ち寄る場所があった。左側を跛行しながらほとんど祈るような気持ちでそこへ向かえば、先にネオンが路地の前で待ち構えていた。
「遅いよ、のろまなお嬢様!」
 腰に手を当て、ワイスを形だけで非難する。息を切らし膝に手をついてネオンを見上げていると、彼女の後ろからルビーが俯きながら現れた。
「ルビー……!」
「ワイス、ワイス、私、」
 彼女が何か言う前に体を跳ね起こし、駆け寄ってワイスはルビーを強く抱き締めた。
「ワイス、足が」
「平気ですこれくらい……
 強く抱き締めているとヒューと冷やかすような口笛を吹かれて、ワイスは慌てて体を離した。
「ごめんなさい、ルビー。貴女は悪くなかったですわ」
「ワイス……
 居直し、涙をいっぱい蓄えた彼女の眦を人差し指の甲で拭ってやる。それから、ワイスは隣にいるネオンに顔を向けた。わずかに目を丸くさせているネオンに数瞬尻込みするも、一度大きく深呼吸をして覚悟を決めてから口を開いた。
「ネオン。……その」
「なぁに、お嬢様」
「わたくしの一方的な私怨で貴女のことを侮辱してしまいましたわ。確かにわたくしはファウナスが苦手です。ですが貴女は、彼らとは違う……」伏せていた睫毛を起こして、ワイスは続けた。「ただのファウナスではなく、ルビーの友人です」
 決然と言い切ったワイスに、ネオンはへぇ? と感嘆の声を上げた。見直したとでも言いたげに。
「アンタ、見所あるじゃん」
「ネオン、貴女には酷いことを――
 謝罪を繰り返そうとするワイスの言葉を遮り、ネオンは右手を差し出した。その手を不思議そうに見つめるワイスに、あーやだやだ。と嘆かわしく頭を振った。
「アタシ重たーい空気、苦手なの。社交ダンスは肩が凝っちゃう。ここはストリート、喧嘩したらお互い「ごめんなさい」ってハンドシェイクして、はいっおしまい! ね、単純明快っしょ?」
「そういうもの、何ですの?」
「そういうものよ。もう、早く」
 戸惑っている間に急かされて、目をぱちくり瞬かせつつも彼女に倣ってワイスはおずおずと握手を交わした。
「ごめんなさい、ネオン」
「アタシもアンタのことちょっとからかいすぎちゃったし。ゴメンね。そうだ、今度仲直りのパーティしましょ! 超イケてる友達とマジヤバなクラブ紹介してあげる。もちろん、ワンコちゃんもね!」
「行こうよワイス!」ルビーも一緒になって勧誘しだす。
「か、考えておきますわ」
 あれよあれよという間に次の約束まで取り付けられそうになって、ワイスは目が回りそうになった。
 だがネオンの言う通りにしてみると、思いつめてなかなか出てこなかった言葉もするりと口にすることができて、ワイスはほんの少し心の荷が解ける感覚を覚えた。無意識に口元を緩く上げたワイスに、ネオンは言った。
「アタシ、ぶっちゃけ差別とかあんま気にしてないの。だってアタシはアタシだから。そのために今修行してるの」
「貴女、ハンターを目指していまして?」
「そ、アトラスのね。来年から学生予定」
 見てて。と彼女は注意を引いた。ローラースケートで二人の周りをぐるぐると旋回し次第にスピードを上げる。ルビーと顔を見合わせ、自然と手を引き寄せてからネオンの描く虹色の軌道を眺めた。
「わたくしもです。別のアカデミーですが」
 疾走する彼女に向かってワイスは少し声を張り上げた。
「へぇ、じゃあ来年も会えるかもね。ヴァイタル・フェスティバルで」
 半捻りを入れて二人の背後に回り込み、彼女は華麗に着地してみせた。ルビーが歓声を上げ、ネオンがワイスに向かって拳を突き出してくる。やれやれと呆れたポーズをしながら、ワイスは拳を突き合わせた。ルビーも嬉しそうに彼女とハイタッチをする。別れの時が迫っていた。
「バイバイ、ネオン!」
「じゃあね、ワンコちゃん。それと、ワイス。もう二度とリードを手放しちゃダメよ?」
 ずっと手を繋いだままだったことを目で指摘され、ワイスは俄然顔が熱くなった。ルビーに強く握られたまま今更手を解くこともできず、かたや隣人はぶんぶんと大手を振って友人との別れを惜しんでいた。
 二人に見送られながら、ネオンが市街地の方へと滑らかに漕いでいく。その途中、数十メートル先まで進んだ辺りで彼女が急に立ち止まって振り向いた。
「そうだ、ワイス。ワンコちゃんと仲良しなのは結構だけど、あんまり特殊なプレイはしないほうがいいかもね」
「なっ!?」
 思わぬ不意打ちに硬直してしまうワイスに、ネオンはいたずらっぽくウインクを投げた。
「特殊なプレイってなぁに、ワイス」
「る、ルビーは知らなくても良いことです!」
 きょとんとしているルビーに赤い顔でとやかく言い聞かせているうちに、騒々しさだけ残してネオンは風のように去ってしまった。
 微かな斜陽に反射した虹の切れ端が音もなく舞い上がり、いつまでも二人のもとを照らしている。
 ファウナスとこんなふうに気を置かずに会話できる日がくるとは微塵も思っていなかった。きっとこれからもファウナスに対する警戒心は続くし、ホワイトファングに対する憎悪もまだ消えてはいない。それでも彼らとは違うこともあるとワイスは知った。これもネオンの陽気な性格と、何にも染まっていない無垢なルビーによって教えられたことだ。わずかばかり胸のすく思いがして、ワイスはルビーの頭を優しく撫でつけた。
「そろそろわたくし達も参りましょう。ルビー……
 今から急いで支度をすれば、ぎりぎり約束の時刻に間に合うだろう。スクロールをポケットに戻し彼女の手を引こうとした矢先、不慮に体がよろめいた。
「ワイス!」
 慌ててルビーがワイスの体を抱き留める。
「ワイス、大丈夫!?」
 安堵で一気に緊張が解けたのか、力が入らない。それでも彼女を安心させようとワイスは薄く微笑んだ。
「ええ、ちょっと、ほっとしただけですわ」
 すると背中に腕を回されて強く抱きすくめられた。肩に頭を乗せられ、耳朶にぐずぐずと啜る音と湿っぽい吐息が掠めていく。
「勝手に逃げ出したりしてごめんなさい、ワイス……
「本当です、おバカ……
 人通りがまばらな脇道とはいえ、公然と抱き合っていたらどう思われるのだろう。ワイスは内心気が気でなかった。けれどもそれ以上に彼女の温かい体温に絆されて、ルビーの背中にそっと腕を回した。
「でもね、ワイスならここに来てくれるって思ったの」
「わたくしが来なかったらどうしてたんです」ワイスは苦笑した。
「それでもワイスは来てくれたよ」
 わずかに体を離し、ルビーは泣き笑いを浮かべて答えた。
 脱げたヒールの高さで見つめ合うと潤んだ灰黒色が自分よりも上にあることに気づく。
「もう勝手に離れたりしない」
 背中をさすられながら、ルビーが耳元で囁いた。そうしてください、とは言えずにワイスは黙って大きくなった背中にしがみついた。
「ずっとワイスのそばにいる」
 胸の奥がきしりと軋んだ。季節を攫う風が二人の間をすり抜けて、
 まもなく夏が終わる。



(to be continued.)