namaeggg
2018-07-02 13:17:31
8815文字
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永遠なんて誓わない ①

犬のルビーがワイスとキスをすると人間になる頭のゆるいお話です(ネタバレ)。まだ犬。

 犬を拾った。拾ってしまった。
 ざあざあと驟雨が降りしきるさなかだというのに、その日は傘でも差してワイス・シュニーは一人で水浸しの外を散策したい気分だった。得も言われぬ焦燥感から急かされるように自室から出ると、廊下では父が誰かと口論する声が今日も屋敷中に響き渡っていた。父の機嫌を損ねるスイッチはそこかしこに点在していて、屋敷の中はさながら地雷原のようだった。ワイスは見えない地雷を踏み抜かないよう慎重に息を殺して歩を進めた。また会社が襲撃に遭ったのかもしれない。それでまた誰かが殺されたのかもしれない。広く寒々しい自室に閉じ籠っていても、そんな陰鬱なことばかりあぶくのように浮かんでしまう。雨が流れ伝う窓辺は外部の喧騒など何も知らぬ水槽の中のようで、用意された平穏に溺れそうになる。徹底的に水質管理され、美しく苔むした草原に優雅に立ち回ることを求められた熱帯魚のような感覚になって、とりとめもなく息苦しかった。水槽から出たいと思った。だからワイスは、一刻も早く外へ出たがった。
 十月末のアトラスは北部ではもう積雪を観測しているような時節で、這い寄る秋冷は刃物のように鋭利に頬を切った。ばらばらと傘を叩く音が無性に心を騒がせる。ワイスはただむやみに敷地内を回った。見渡す限り手入れの施された庭園は隅々までシュニーの目が行き届いている。歩けども歩けどもどこにも逃げ場がないように思えた。思考が行き止まり、徐々に繰り出す足が鉛のように重くなる。ついに常緑低木の近くで立ち止まり、そこでワイスは見つけた。植え込みの陰にうずくまった黒い毛玉が微かに動じるのを、視界の端っこで、ワイスは見つけてしまった。
 ざあざあと雨は降り止まない。人間に無責任に放棄された捨て犬だろうか。それとも衰弱して母親に捨てられた野良犬だろうか。いくつかの可能性をぼんやり巡らせて、彼女は一度その前を立ち去ろうとした。憐憫よりも体裁をワイスは選択しかけてしまった。
 父はこの子を見てきっとこう言うに違いない。「犬を飼うのは構わん。ただし血統書付きに限る。シュニー家たるもの薄汚れた雑種など言語道断だ」と。
 ワイスは犬が好きだった。犬だけでなくあらゆる動物が自分の友達だった。幼い頃は屋敷に様々なペットがいて、彼女はおしなべて可愛がった。思い返せばどの子もみな品のある高級そうな犬や猫達だった。そしてそれらはみな動物好きのワイスのご機嫌取りのために迎え入れられた。そのことを理解し始めた年頃から、断腸の思いで積極的に動物とかかわることをやめた。彼らを愛でるほどに不幸な生き物がまた増えてしまう。ワイスはそう考えた。一家の関係が急速に悪化していったのも同時期だった。最後の犬をぽつねんと看取ってから、ワイスはこの家を出るまで金輪際、ペットを飼うまいと決意した。そうだ。そのはずだった、のに。
 しとどに打ち付ける秋雨に掻き消されてしまいそうなほどの声量で、わんと、か細い鳴き声が響いた。耳に縋りつく声が、ワイスの感情を引き留めてしまった。鳴くことすら危うい命が「見捨てないで」と振り絞って訴えた錯覚さえもした。
 この子は自分に見捨てられてしまったらどうなるのだろう。空恐ろしい想像を露先に乗せたまま柄をぐるりと回してみて、ワイスは傘ごとその未来を投げ捨てた。遮るものがなくなると途端に彼女は雨を全身に浴びた。急速に体温が奪われ、指先から凍えていく。汚れることを厭わずしゃがみ込み、水たまりの泥の中からその子を掬い上げた。ひどく冷え切った小さい体が、それでもふるふると震えて掌の中で懸命に生きていた。ワイスはなんだか泣きたくなった。くぅんと、代わりに子犬がないた。

 濡れ雑巾を抱きかかえたまま屋敷へ戻ると、出迎えた使用人がぎょっとした。そして次に視線が右往左往と彷徨った。おそらくはワイスと同じく想像した種々の厄介事が猛スピードで駆け巡っている、そんな困惑が読み取れた。
 ワイスはそれらを一切無視し、子犬とともに浴場へ向かった。すぐに洗面器にぬるま湯を張り弱っている子犬の汚れを念入りに落としてやる。冷え切っていた体に徐々にぬくもりが戻ってくる。お湯に浸しすぎるのも良くないからと清潔なタオルで全身をくまなく拭いてあげると、きゃんきゃんと幾分張りのある鳴き声を発し始めた。その時ようやくワイスは子犬の特徴をまじまじと観察した。
 子犬の目はぱちりと開いていて、細い体毛に覆われていた。両手を少しはみ出る程度の体格で生後一ヵ月弱ぐらいだろうか。雑種だろうから大概に過ぎないが生まれたてでないことは確かのようだった。免疫力が少しでもあるうちで助かったと、ワイスはほっと胸をなでおろした。
 充分に乾いた子犬を脇から手を差し入れて持ち上げる。短い足がパタパタと宙を漕いだ。くりくりの瞳を見て、おやと思う。銀色に冴えた目は珍しかった。さらに単なる黒と思われた体毛は顔と腹部に白い模様が入っていて、毛先が赤みを帯びていた。
 シルバーかルビーか。一瞬悩み、子犬の下腹部についと視線を落とした。なるほどこれは雌だった。ワイスはこの子犬に、ルビーと名付けることにした。この瞬間、一時保護などという発想は毛頭、存在しなかった。
 厨房ではすでに調理師が夕食の準備に取り掛かっていた。そこに濡れたワイスが堂々と入ってきたものだからみな驚いた。奇異の視線に構わず、彼女は冷蔵庫を探る。
「犬ですか」タオルにくるまった正体に気づいた一人が尋ねた。「生憎、もう犬用のものはもう――
「今用意できるもので構いません。この子は弱っているのです」
 ワイスは苛立ちを隠さず指図する。
「餌はこちらで何とか致しましょう」チーフが代わりに提案した。「ですからワイス様どうかお着替えなさってください。風邪を引かれてしまいます」
 懇願するように諫められ、ワイスはようやく自分がみすぼらしい姿になっていることに気づき、恥じた。
 仕方なく子犬を預け、烏の行水をして着替えを済ませたのち足早に厨房へと戻った。待ち構えていた料理人曰く、歯が生え始めており離乳食の時期だが、今日はなるべくおなかを壊さなさそうな人用のミルクをぬるく温めて与えるとのことだった。口に合うことを祈りながら、浅い皿に用意されたミルクを子犬のもとに差し出す。初めはペロペロと赤い舌を控えめに伸ばしていたが、よほど空腹だったのか次第に警戒がほどけ彼女は一心不乱に皿の底まで舐め尽くした。きゅうきゅうと喉を鳴らしよてよてとワイスの掌に擦り寄ってくる。おかわりの催促だろうか、それとも甘えたいのだろうか。ぽんぽんとおなかをさすってあげると、彼女は満足そうに――おしっこをした。ワイスはぐるりと目を回した。
 これから彼女――ルビーには覚えさせなければならないことがたくさんある。そして自分も覚えなければならないことが、たくさんあった。

 その晩は大変な嵐だった。父が激怒したという意味だ。
 騒ぎを聞きつけた父に呼び出され、はたしてワイスの推理通り彼は一言一句同じ台詞を吐き捨てた。
 ワイスも折れずに説得した。雑種などシュニーの名が傷つくといえば屋敷から一歩も出さないと返し、汚らわしい畜生にくれてやる餌はないといえば使用人の施しは受けないと意地を張った。今まで動物を飼ったことはあるとはいえ世話はすべて使用人に一任され、当家が直接面倒など見るべきではないと父に冷たく言いつけられていた。あらゆる生き物は彼女の目を楽しませるだけの愛玩に過ぎなかった。だから世話などできるはずがないと、父は高を括っている。
 やれるものならやってみるがいいと、最後は鼻を鳴らすように父は嘲った。売り言葉に買い言葉で、ワイスは条件を呑んだ。
 これからどうしようかしら。追い出されるように書斎を後にし、自室に用意した籠の中で体を丸めてすやすやと眠っている子犬を眺めながら、ワイスは今更ながら事の重大さを痛感した。啖呵を切った手前、とうに賽は投げられてしまったわけだけど。
 それでも自分が守った命にすでに愛着が芽生えていたことは事実で、ワイスはひたすらルビーを優しく撫でつけた。

 //

 うちの子は、とんでもなくかわいいのかもしれない。
 まるで親バカ(犬バカ)の発言だが、これをシュニー家のご令嬢は――一分ほど冗談だとしても――九割九分本気で自負している。
 右も左もわからぬ子犬との同居生活が唐突にして幕を開けたが、拾った翌日から飼育教本やら餌やら消耗品やらを独自に入手し、以前飼っていた犬のお下がりを屋敷中からかき集めワイスなりにルビーと真摯に接した。
 登校している時間以外は、ルビーの世話はほとんどすべて一人で行った。言いつけ通り基本的に部屋から出さず、父のいないタイミングを見計らって敷地内を散歩させる日々だった。なかなか吠え癖が治らなかったり突然粗相をしたりした時は匙を投げそうになったが、ぬいぐるみのようにころころと転がりまわる姿を見ると自然と目尻が下がり切って何もかも許してしまいそうになる、大変凶悪な毛玉だった。父の差し金で何度か使用人に捨てられかけたが、そのたびワイスは必死に阻止しルビーを取り戻した。そうして娘の熱心さに、とうとう父は折れた。「勝手にしろ」と終息宣言を得、ここに平和条約が締結された。戦争に勝ったのだ。
 ルビーはすくすくと成長した。体格もそれなりにしっかりしだした頃から徐々に彼女をしつけ始めた。子犬のしつけがこれほど大変なものだとは知らなんだが、根気強く教え込めばルビーは大抵のことを覚えた。耳がピンと立ち赤みがかった黒い体毛に白い模様がはっきりと出てきて、一見するとボーダーコリーのような風体をしているが、ひょっとするとうちの子の知能はそれ以上かもしれない。ワイスはそう訝しんでいる。
 そしてルビーは――とんでもなくお転婆だった。カーペットを噛みちぎられたことは一度や二度ではないし、室内を走り回り家具をしっちゃかめっちゃか倒して困らせることも日常茶飯事だった。そのたびワイスは心を鬼にして叱った。リーダーシップを発揮し彼女と良いパートナー関係を作ろうと心に決めた。
 その代わり、ルビーのストレスが溜まらぬよう外で思い切り遊ばせた。皮肉なことに私有地はやたらと広いため、父の懸念する人目につく恐れは杞憂に済みそうだった。体力が有り余っているのか、ぶんぶん振り回されてワイスはへとへとになってしまうけれど、そんなやんちゃなところも目に入れても痛くない。はぐはぐとお気に入りのボールを噛んでいるさまなど度し難いほどにかわいい。

 凍てついた大地が徐々に融けてアトラスに遅い春がやってくる。ルビーはますます成長した。体つきも四十センチくらいまで大きくなり、抱きかかえるのは困難になった。時々わっとじゃれつかれると押し倒されるくらいには力持ちとなった。
 ブラッシングも毎日欠かさずしてあげた。出会った時は濡れ雑巾のように毛羽立ちぺしゃんこだったというのに今ではつやつやと輝く美しい毛並みとなり、どんな血統書にも負けない気品があると、ワイスは大真面目に自矜している。
 学校から帰宅すると、いつもワイスの足音を察知して扉の前で待っていてくれた。部屋に入るなり千切れんばかりにしっぽをぶんぶん振っていつでもワイスを出迎えてくれる。ごろんと白いおなかを見せてきた時にはお望み通り撫で回してやると、きゃいきゃいと本当に嬉しそうに甘えてくれた。ワイスの帰りをこれほど喜んでくれるのは、ルビーしかいないだろうと思う。彼女は良き理解者であり、良き友人だった。
 ワイスはますます、ルビーを可愛がった。彼女を愛するあまり、人間にならないかしらとすら夢想した。どれだけ大切に育てていても、彼女のほうが確実に早く迎えてしまう永遠の眠りも、人間であればもう少し長く共に過ごせるのにと、本気で願ってしまうほどには。
 ワイスが勉強机に齧りついていると、足元から物音がして参考書から意識を逸らした。ルビーが足に擦り寄り、くぅんと甘えるように喉を鳴らしている。
「ごめんなさいね、ルビー」
 そう謝罪し、寂しそうに首を垂れている彼女の頭を何度か撫でた。この頃はあまり構ってあげられなかったかもしれない。愛情が薄れたせいだと思ってほしくなくて、ワイスは椅子から下りると目の高さを合わせ、彼女の銀色の瞳をしっかり見つめた。
「わたくしは、ハンター学校に行きたいのです」
 ルビーは首を小さく傾げた。その仕草はまるで注意深く言葉の意味を洞察しようとしているようだった。
「ルビーを飼ったからといって成績が下がったと思われたくないですもの」
 ルビーの耳の後ろに手を回してわしゃわしゃと両方から撫でた。とろんと目を細めてされるがまま気持ちよさげにしている。彼女のお気に入りのスキンシップだった。満足すると鼻の頭をワイスの顔にくっつけた。
 愛してるわ、ルビー。彼女の体をぎゅっと抱き寄せると、ぺろりと頬を舐められた。
 私もだよ、ワイス。と少女の甘い声が聞こえた気がした。
 彼女は人の心に入るのが上手かった。こんなふうに人の声を幻聴してしまうほどには――ルビーのことを愛してしまっていたのだ。

 //

 短い夏が訪れようとしている。固い土地にたくましく緑が芽吹き、色とりどりの花がシュニー家の庭園にも咲き始めた。ルビーと散歩をしていると、彼女はたくさんの草花に興味を持った。秋の終わりにやってきた命はまだ鮮やかな季節を知らない。どれも彼女の銀色の瞳には眩しく輝いているのだろうか。鋭敏な嗅覚には刺激的な芳香がするのだろうか。庭師が丹精込めて整えた花園を家族の誰もが顧みない中、新鮮な反応がワイスの眠っていた感性を揺すった。
 ワイスが微笑ましく見守っていると、ルビーは薔薇が咲き誇る花壇の前で立ち止まった。家紋を意識して植えられたのか、ここでは白い花弁が慎ましやかに綻んだ。犬の視界は白黒に映るという。そんな瞳であってもこの薔薇であったならばきっと冴え冴えと遜色なく映り込んでいるに違いない。ルビーはしばらくの間、薔薇園をじいっと興味深く眺めていた。
「あんまり鼻を近づけては危ないですわ」
 わう? とルビーは首を傾げた。
「美しい薔薇には棘があるのです」
 そう窘めて彼女の頭を撫でた。わかっているのかいないのか、彼女は嬉しそうにへっへっと舌を出していた。ローズと名付けてもよかったかもしれないと思いながら、ワイスは遥か遠雷にゆったり耳を澄ませた。

 果たして激しい雷雨に見舞われた。雷親父という意味だ。
 もともとハンター学校へ通わせることに消極的だった父は、娘が国外のビーコン・アカデミーを受験しようとしているのを知って、一方的に平和条約を破棄した。
「お前もウィンターのようにこの家から出て行こうというのか」
 机を強く拳打する音が、ひどく冷え切った書斎に鈍く響いた。
「いいえ、お父様」とワイスは静かに首を振った。「わたくしは必ずやアトラスに帰って参りますわ」
 ジャックは片眉を持ち上げて先を促した。
「戦う力に目覚めた以上、シュニー家の名誉を守るのは使命です。しかしわたくしはまだ完璧ではありません。ゆえに最高のハンターとして力を養い、世界の見識を広げることこそがSDCの後継者として正しい道だと考えています」
 正しいという単語を密かに強めながら、ワイスは理路整然として言い切った。
「確かに筋は通っているように聞こえる」
 威嚇にも怯むことなく毅然たる彼女の態度に、ジャックは品定めをするように顎髭をしゃくらせた。
「しかし、それはビーコンに入学できたらの話だ。お前にその実力があるか、まずは私を説得させてみろ」

 そうして後日用意された、ワイスにとっては晴れの舞台で、左目に渡った傷と引き換えに自らの力で進路を勝ち得た。けれども気持ちは晴れず暗澹たる思いだった。
 処置を施した左半面にガーゼをあてがい重たい足取りで自室へと戻ると、いつものようにワイスの帰りを待っていたルビーが小走りで近寄ってきた。しかしいつもと様子が違うことを察してかじゃれつこうとせず、間合いを保っている。従順な彼女を快く思い、同時に彼女の目敏さに胸が軋んだ。ルビーの頭を撫でてベッドに向かうと、彼女もぺたぺたと後をついてくる。こんな平穏な生活も、いつまで続くのだろう。
 ワイスは自分の将来を掴もうとしている。ビーコン・アカデミーに合格すればようやくこの水槽から抜け出すことができる。それはルビーとの離別を静かに予感させていた。寮生活のアカデミーにルビーを連れていくことはできないし、ルビーを「薄汚い野良犬」と軽蔑する父のいる実家に一匹置き去りにすることもできない。在学中は信頼のおける使用人の伝手を頼り、預かってもらうことが現実的だろうと考えている。しかし在学期間の四年間は犬の生涯においてはあまりに長い時間に思えた。ただルビーと穏やかに暮らしたいだけなのに、使命を追求したいだけなのに、迫りくる将来はワイスの逡巡を待ってくれない。
 ベッドの上で膝を抱えていたワイスは、ルビーのひと吠えで本心に返った。
「いたいの?」とルビーが尋ねたような気がした。くりくりとした銀色の瞳が気遣わしそうにベッドの下から覗き込んでいる。すべて都合のいい幻聴だということはわかっていた。
 ワイスの左目を縦断した切り傷はじくじくと脈に合わせて疼いた。この傷跡は恐らく一生残るだろう。ワイスはそれでも構わないと思った。それ以上に心の奥がしくしくと痛んで仕方がなかった。
「痛いですわ、とても」
 誤魔化すべきかどうか悩んだが、ワイスは結局ルビーには打ち明けた。口が利けなくて良かったと安堵した。余計な詮索をされずに済むからだ。
 くぅんと喉を鳴らして悲しそうに耳を倒したルビーは本当に人の言葉がわかるようだった。
「慰めてくださるのね、優しい子」
 身を乗り出して眉間辺りをさすってやると、短毛が指のひらを転がって心地よかった。ルビーも気持ちよさそうに目を瞑っていた。思う存分撫で回してから、ワイスはベッドに入った。
 照明を落とすと暗がりの中で、きゅっきゅっと肉球の踏む音が密やかに回り込んでくる。今晩はベッドに上げてもいい気分になってワイスはシーツを捲った。ルビー、と呼びかけると彼女はすぐに応じた。ベッドに飛び乗り、嬉しそうに長い尾っぽをぶんぶんと左右に振っている。言葉が話せないのにルビーはこの屋敷にいる誰よりも感情表現が豊かに思えた。
「もうルビー……寝ますわよ」
 小さく嘆息をして、ワイスは気を解いた。体温の高い彼女には無用だろうけど、それでも同じようにシーツをかけてやった。思い返せばこうやってベッドに入れてあげたのもまだうんと体が小さかった頃以来だったかもしれない。まだ一年弱という短い月日の中で、部屋のいたるところにルビーとの思い出ばかりが積もっていた。
「おやすみなさい、ルビー……
 片側だけの不自由な視界が湿っぽく歪みそうになって、ワイスは押し隠すようにルビーにキスをした。大人しくなった気配がして、やがてワイスも目を閉じる。
 ワイスがこれほどに心を打ち明けられるのは、家にも、学校にも、どこにも――ルビーしか、いなかった。

 白んだ空気に揺すられてワイスは目覚ましが鳴るよりも早く覚醒した。眉根を寄せると左半面にずきりと鈍い痛みが走って昨晩の出来事が夢でないことを知らせてくる。寝起きから憂鬱さが去来し、それを振り払うように隣にいるはずのルビーを抱き寄せようとした。
 ――ん?
 働かない頭で違和感を掴んだ。寝ぼけていたせいだろうと今度は慎重に、入念に手を這わせる。
「あっ……ん」
 んんん? とワイスは唸った。
 バカな。おかしい。五感と理解が全くちぐはぐになってしまったみたいだった。
 ワイスは順序立てて状況を飲み込もうと試みた。
 第一前提として、ルビーは犬だ。わんと鳴く。あんとは、鳴かない。
 そして第二に、ルビーはどちらかというと短毛種であるところの犬だ。換毛期も落ち着きようやく抜け毛との戦いも小休止が打たれたところとはいえ、全身ふさふさの体毛で覆われており、すべすべときめ細かい柔肌が掌に吸い付くなどということは、あるはずがない。
 そして第三に、ルビーは雌犬だ。確かに胸はある。しかしこれほど、ましてや人の乳房のように張り出してはいない。
 順序を辿るごとに不可解さがどろりと思考に粘着し、正体を明かそうと理性が目蓋を無理矢理こじ開けようとする。冷や汗をぐっしょりと掻きながら、ワイスは必死に抵抗した。決して目を開けてはいけない。そう強く念じるほど喉がからからに渇いて上手く呼吸ができなくなっていく。いっそもう一度眠ってしまおうかとも考えた。でもそれも叶わなかった。
 あらゆる疑惑の食指がワイスの耳たぶに直接、絡みついてきた。ぞわりと粟立つ感覚が背筋を高速で駆け上がっていく。ひゃあと素っ頓狂な声を上げて、ワイスはうっかり、目を開けた。開けてしまった。
 途端に濁流のごとく視覚に押し寄せてくる。
 ワイスを覗き込む、長い睫毛を称えた深い銀色の瞳を。
――おはよう」
 するりと頬に細い指が伸び赤みがかった黒髪がはらりと、少女の顔にかかるのを。
 ――少女?

「ワイス。」

 疑問が浮かぶのと同時に甘い声に名前を呼ばれた。はっと気づいた時にはもう、目の前に人の顔があった。そしてぽかんと開いたままの口に、柔らかい触覚が、襲った。

「きゃあああああああああああ!」