あの脳筋クンが大怪我をしたのだと言う。神妙な面持ちで端末を見詰めていた弟子は、教官大丈夫ですかね、と細く呟きオレの顔を見た。まあ大丈夫だろ、骨の髄まで丈夫な素材でできてる野郎なんだし。そう笑ってみせれば、弟子はカチカチに張っていた肩の力を緩めホッと息を吐いた。
そうは言ってみたものの、実際のところヤツの容態がどうなのかは分からねえ。もしかすればベッドの上でウンウン唸っているかも知れないし、脚の一本や二本吹っ飛んでる可能性だってある。んん、と咳払いをして頭上を見上げる。そこには満月が煌々と輝きながら、夜に賑わう紅虎門を見守っていた。
仕方ねえ、一丁確かめに行ってやるか。弟子と別れた後バックラー社まで足を伸ばせば、ヤツはギラギラと目を尖らせひとりサンドバッグに向かっていた。しゅうしゅうと湯気が立つ程に筋肉を盛り上がらせる身体には怒りの感情が満ちていて、こりゃ相当キレてやがるな、と扉を開けた瞬間一目で理解した。
利き腕が無事なのは不幸中の幸いだろうが、パンチ主体のコイツのバトルスタイルでは、腕の負傷というのは何とも歯痒く苛立たしいものだろう。右拳を繰り出しても続く左手を伸ばすことすらできず、苛々と歯噛みするその男の荒々しさにヒュウと口笛を吹く。ギロリ、と視線を寄こしたヤツはオレの姿を認めると幾度か瞬き、そして血走った青い目を一瞬にして驚きの色に塗り替えた。
「よお」
「どうしたんだよこんな時間に」
「さっき弟子から聞いたぜ、派遣先でボッコボコにやられたんだってなあ」
「あれは保護対象が…あーいや、なんでもねえ」
ぷい、と不貞腐れたように視線を外したヤツは、そのままギプスで固められた左腕を見下ろした。真白い塊からピョンと飛び出す五本の指はきちんと動くようだが、手首まで固定されているせいで大層不便そうだ。むぐ、と斜めに引き結んだ口の形から、言葉にはできない致し方ない事情があったのだと見て取れる。守秘義務ってのはこれまたストレスが溜まりそうだな、とその姿を見守っていると、のっそりと顔を上げた脳筋クンは薄い唇を尖らせたまま口を開いた。
「で、何しに来たんだよ」
「あー」
何しに来たのかと問われれば、お前の顔を見に来た、ってのが答えになるんだが、そう口にしてしまうと何かしら誤解が生じてしまいそうだ。くねくねと天井に張り巡らされた配管をうんと見上げて、再度ルークの顔へと視線を戻す。ヤツはオレの言葉を待って、じっとそこに佇んでいた。
「メシでも食いに行かね?」
小首を傾げてみせると、青い瞳が弾けるようにパチパチと瞬いた。そして名を呼ばれた大型犬のように顔を輝かせたかと思えば、すぐにムッと眉を顰め、行かねえ、と不機嫌の色を隠そうともせずひとつ吐き捨てた。
「ンだよ、帰ってメシ準備すんのも骨が折れんだろ」
「そうだけど」
「ならいいじゃねえか」
「…だって、お前のツラ見てると闘りたくなるし」
なのに闘れねえなんて、腹が立って仕方ねェんだよ。だから行かねえ。
そうモソモソと続けるその言葉は、教え子たちを前にした溌剌とした声色と打って変わり、なんとも小さく不明瞭だ。オレはそんな台詞に額を弾かれたかのように驚いて、ええ?と聞き返しながら、胸の内に広がる温かさに笑みが深まるのを自覚した。
「え、なに。お前オレの顔見るとファイトしたくなんの」
「なるだろ普通。ンだよ、お前はならねえのかよ」
オレに揶揄われていると思ったのか、更に不機嫌を増すその目元がじんわりと赤らんでいる。あはは!違ェって、オレは喜んでんの。お前と闘えない寂しさを感じているのはオレひとりじゃないってことに、オレは今しっかりと舞い上がっている。
「にゃっははは!あーそうだな、オレもお前と同じだわ。でもその腕じゃあ、オレとの喧嘩も暫くお預けだなぁ」
「分かってるっつの」
くるりと背を向けたルークは、ぶらりとぶら下がるサンドバッグをげしげしと足蹴にして揺らし始めた。とても技とは呼べないそのヘナチョコな蹴りは、どうやらヤツの拗ねきった心から溢れ出るものらしい。
え、なに、なんかちょっと、いや大分かわいいなコイツ。口角をくすぐるようなむず痒さは一向に消えることなく、ニマニマとオレの頬を綻ばせ続ける。オレが訪れる前のコイツはきっと、任務を完璧に遂行できなかった口惜しさにひとり自分を責め立てていたのだろう。ただの脳筋に見えて、コイツは誰よりも責任感の強い男だ。だから様々な後悔と反省に苛まれ、視界は狭まり対峙する黒い塊しか見えていなかった筈だ。
それが今やあんなにも頭をいっぱいにしていた悩みを忘れ、ただただオレと闘り合えないことにヘソを曲げてしまっている。その姿はまるで、癇癪を起こし泣き喚き、抱き上げられたその肩に鼻水を擦り付ける子どものようだと思った。自分が腹を立てていた理由を見失い、慰められる現状に気恥ずかしさを覚えつつも、顔を上げるタイミングが分からずじっと押し黙るしかないハナタレ小僧。
そんな姿を見せ付けられてしまったら、オレの中のもうひとつの欲望にムラムラと火がついてしまった。汗の浮かぶ背をベチッ!と引っ叩くと、ルークは思い切り仰け反った後に、何しやがる!と白い歯を剥いた。
「なあ!右手だけでできるゲームってねえの?」
「へ?あー、そりゃあるっちゃあるけどよ。…何、お前ゲームしねえじゃん」
「へへっ、そりゃ普段はやんねえけどよ。まあ片手の脳筋クンに負けるワケねえだろ」
「…ええ?」
眉を寄せキョトンと目を丸くするその顔に、にんまりと笑みを見せてやる。もう決めた、今日はとことんお前を甘やかしてやる。
「おら、さっさと荷物まとめて来い!早くしねえとスーパーが締まっちまうだろ!」
「え、ちょ、もしかしてウチ来るっつーのかよ!?」
「ああそうだ!あーもう早くしろって、どうせお前ン家大した食材ねえんだろ?このジェイミー様が作ってやるって言ってんだよ!夕飯食いっぱぐれたくなかったら、今すぐ全力ダッシュで準備してこい!!」
ゲシ、と四角い筋肉質なケツを蹴り上げると、ルークは弾き出されたように慌ただしく更衣室へ消えていった。壁に掛けられた時計を見上げながら、ヤツが再度現れるまでの時間を数えていく。イー、アル、サン、スー。ガチャン、ドタバタ、と派手な物音が壁の向こうから響いてくる。ウー、リュー、チー、パー。きっとすぐにでも慌てたアイツの、あの間の抜けた顔が現れるんだろう。
さあさあ、もう時間がねえぞ、何事も楽しまねえともったいないだろ。お前が拳を力いっぱい握り締められるようになるまでの、この僅かな休戦をふたり一緒に味わおうぜ。
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