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kaede
2024-01-20 03:47:51
9935文字
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プラネテスの還る場所(仮)
長期ロケの間は一彩くんが部屋にひとりになって寂しがるから様子を見に行ってあげてほしい、ってニキとひなたくんそれぞれから別経由で言われて、一彩が寂しがるとかねェだろ、と思いつつも様子を見に行く燐音くんのはなし
※内容は天城兄弟止まりですが将来的には燐一になります
用事も終わったことだし運試しにでも繰り出すか、と事務所を出たところで、悪戯好きの双子の片割れに捕まった。
「燐音先輩!」
まさに、これから悪戯を仕掛けますよ、と自己紹介しているような笑顔だったが、不思議と憎めないのは俺がこの双子のことを存外気に入っているからなんだろう。
とはいえ、面倒ごとに巻き込まれることを歓迎するかと言ったら、それは心底勘弁してほしい。内心訝しみはしたが、とりあえずは相手に向き直った。
「ンだよヒナ、俺っち忙しーんだけどォ?」
「どうせパチンコで有金全部むしり取られるだけでしょう? そんなことよりも、もっと有益な情報、聞きたくありません?」
俺に気安く接することができるからこその軽口のあと、ひなたが俺に顔を近づける。耳に入れたいことがある、というベタな表情と仕草をして。
身長差分はこっちからサービスで埋めてやった。
「金は払わねェかンな」
「やだなぁ。弟思いの燐音先輩にちょっとお願いしたいことがあるだけですよ」
「
……
おめェもかよ」
ひなたの言うことを間に受けていたわけではないが、それなりに面白い話でも聞けるのかと思っていたどころか話の見当がだいたいついてしまったことに俺はそれなりにはがっかりしたらしい。いや、話それ自体には特にがっかりする要素はないのだが。
怪訝な気持ちにはなった。
だが俺の事情など知るわけもないひなたは、短い驚きの声を上げた。
「え?」
「そういやヒナも長期ロケ入ってたもんなァ」
さっき事務所でスケジュールを確認した時のことを思い返しながら一人納得している俺を見て、ひなたからは今度は短い感嘆の声が出る。
「ってことは、椎名先輩も?」
察しの良い子だ。
まさにひなたの言う通り、午前中にあったレッスンの休憩時間に、おそらくひなたと同じことを、同じく長期ロケの仕事が入っているニキから聞いていた。というか、頼まれた。
その時は冗談とか思い違いの類だろうと思ってまともに取り合いはしなかったが、同じことを二人から言われるとさすがに、気に留めざるを得なくなる。
二人して俺を揶揄おうと共謀している、という可能性もなくはないが、どうにもそう言った策略めいた雰囲気は感じない。
つまり二人は各々が別どころで同じことを考えて、俺に白羽の矢を立てた、ということになる。
「まあ、椎名先輩も同じこと考えますよねぇ」
ひなたはうんうんと一人納得していたが、俺はあまり納得できない。胡乱になっているだろう顔を戻しもせずに、問うた。
「マジで言ってンのか?」
「大マジですよ。ていうかお兄ちゃんなのに知らなかったんですか?」
ひなたの声のトーンが高くなる。
単に驚いたのかそれとも煽りなのか。いずれにしろ、真正面から取り合っては主導権を奪われてしまうだけだ。こういう時はほんの少し、論点をずらすに限る。
「おめェだって、お兄ちゃんだからって弟のこと、何でも知ってるわけじゃねェだろ」
「何でも知ってますよ! って言いたいところですけど、まあ、難しい年頃ですしね」
同い年どころかほぼ同時に生まれているのだから大した差はないだろう。
喉まで出かかっていたツッコミは腹の底に押し戻して、ほらみろ、と呆れた声で返すと、ひなたはバツが悪いのを誤魔化すように、やや大仰な口ぶりで言った。
「俺たちだって意外でしたよ。一彩くんが実は寂しがり屋だったなんて」
そう。それだ。
ニキが言ったこととひなたが言おうとしていたことが同じだと推測するなら
……
というかほぼ確定だろうが。
二人が言うには、自分たちが長期ロケの間は一彩が部屋に一人になって寂しい思いをするだろうから、少し気にしてやってほしい、時間のある時にでも様子を見に行ってやってほしい、らしい。
そんなの別に、俺でなくても良かっただろう。一彩には気にかけてくれる友達がたくさんいるのだから、そいつらでも。いくら実の兄だからとはいえ、弟に対して過干渉なのもどうなんだ。
と思う一方で、自分だけが蚊帳の外というのは面白くない、とは正直思うし、一彩の普段の俺に対しての言動を知っているからこそのこいつらなりの気遣い、というのも理解している。
まあ何にしろ、こういう時、真偽はどうあれ弟を思い遣ってくれる気持ちを無下にはできないのは、兄として生まれた者の宿命みたいなものなのだろう。
「弟くんが寂しがりとかイマイチ納得できねェんだけどよ。まァ、暇な時にでも相手してやりゃいいンだろ?」
適当にとりあえずの了承をすると、ひなたは妙に生温く笑った。そんなことを言いながら結局、弟のところに顔を出すんだろう、とでも言いたげな顔をして。
暇な時にでも、って言っただろ。
まァ、その通りなんだけどよ。
ロケ初日から様子を見に行くのはあまりにも過保護だろう、と思って一日目を見送り、二日目もまだ早いかと廊下を途中で引き返し、三日目。
これなら不自然が多少は拭えただろう、と自分以外には何の意味もない言い訳を重ねてようやく、一彩の部屋の前に立った。
あの弟くんが、ガキの頃ならともかく、一時期は公園で寝泊まりしていたくらいに肝の据わったあの子が、一人を寂しがるなんてあり得るのか?
何度も繰り返した疑問の答えは未だに、出ない。
だがまあ、せっかくお膳立てされた大義名分だ。存分に使わなければもったいない。俺だって、かわいい弟と語らいの時間を持つのはやぶさかでないのだから。
軽いノックを二回。
はい、と張りの良い簡潔な返事から数秒して開いたドアの先にいたのは、一彩だった。当たり前だ。
だが一彩はまさか、俺がいるとは予想していなかったのだろう。俺を見上げて驚いている目の丸さが幼い頃とまるで変わらなくて、うっかり感慨に耽りそうになってしまった。
「
……
よォ弟くん。お兄ちゃんが遊びに来てやったぜェ」
軽く手を挙げる。我ながら、いささかわざとらしい、とは思ったが、一彩に気づかれるほどの違和感は表には出ていないはずだ。
一彩はうまく事態が飲み込めていないのか、俺を見て固まったまま。
「おーい、聞こえてるかァ? 弟くん」
「
……
う、ウム! いらっしゃい兄さん!」
「もしかしてタイミング悪かったか?」
普段ならうるさいくらいにテンション高く喜びそうなものなのに、意識の焦点が俺の前に戻ってきても、一彩は控えめに微笑んだだけだった。だから仕事の台本を読むなり学校の勉強なり、集中して何かしらをしている最中だったのなら、出直そうと思ったのだ。二人に頼まれはしたが、邪魔をしてまで居座る気も理由もない。
「そんなことはないよ。ちょうど学校の予習が終わったところで、お茶でも淹れようかなって思ってたんだ」
さすが兄さんはタイミングが良いね。
と本人的には称賛しているつもりなんだろうが、俺からすれば単なる偶然でしかないことで褒められてもな、と釈然としない気持ちにしかならないことを言って、一彩が部屋の中へ入るよう促す。
いやまあ、弟のその無邪気さそれ自体はかわいらしいから別に、何の問題もないんだが。
「予習しないと授業についていけねェのか?」
昔から勤勉な子だとはいえ。
夢ノ咲の学力レベルは低くはなく、かと言って高すぎることもない、その程度のはずだ。賢い弟がついていけない、なんてことがあるのか。苦手な科目でもあるのか。と考えていると、一彩が控えめにはにかんだ。
「予習というより、僕が勝手に先の単元の勉強をしているだけだよ。楽しくて」
世界には僕の知らないことがまだまだたくさんあるのも、それを少しずつ知っていけるのも、とても楽しいよ。
そう続けて、陽だまりのように笑う。
あの頃、俺と郷のためだけに自分の時間を費やすことに何の疑問も持とうとしなかった小さな弟の姿が重なって見えた気がして、つい。つい、頭に手を置いて撫でるような動きをしてしまうと、大きな弟はぱちぱちと星が散るような瞬きを二回したあと、今にも溶けてしまいそうなくらいにふにゃりと顔をほころばせた。
俺の感傷が伝わった、なんてミリも思わないから、弟のそれは俺の心が反射したものにはなり得ない。
それでも、かつての俺が少しは救われたような気がしたのは、確かだった。
「熱いから気をつけてね」
「サンキュ」
顔には出さなかったが。
一彩が俺のために手ずから飲食物を用意してくれた、ということに地味に感動してしまった。故郷にいた頃にも何度か、何かしらを用意してくれたことはあったが、滋養強壮に良いという怪しげな漢方の類ばかりで、丁寧に言うなら嗜好品、乱暴に言うなら何の益にもならないものを出してもらえる日が来るなんて、想像したことはあっても、叶う日が来るなんて、少し前の俺は考えもしなかった。
君主補佐が君主に奉仕するのではなく、弟が兄をもてなそうとしてくれているその気持ちが、口にしようものなら多分顔色がおかしくなる程度には嬉しい。
「この間、椎名さんにコーヒーを美味しく淹れるコツを教わったんだ」
「へェ。そりゃ楽しみだ」
「もちろん、椎名さんとは比較にならないけど、学んだことはしっかり実践したつもりだよ」
「そんな小難しく考えなくていいンだよ。
……
ちゃんとうめェんだから」
長年、ニキの料理で生きてきて舌がそれなりに肥えてしまっているとは言え、良し悪しを一端に語れるほどコーヒーに精通しているわけでもない。
そのレベルの味覚で味わう弟のコーヒーには、お世辞なんて必要なかった。
一口飲んで笑ってみせた俺に、一彩は唇の端を控えめに持ち上げて応える。
意外だった。一彩が、わかりやすい表情をしなかったことが。だがそれは、弟が細やかな感情を獲得している証左とも言える。
だからこの場合は、嬉しい『意外』だ。
「このチョコはひなたくんが、おいしいよ、って分けてくれたんだ。ちょうど二つ残っててよかったよ」
小皿に仲良く並んだ双子のチョコレートへ視線を向けて、それから律儀に俺の顔を見て、一彩が笑う。
「弟くんのだろ。俺は良いからお前が食えよ」
「兄さんと一緒に食べたいから」
また。
また、嬉しい『意外』だ。
昔の一彩なら、自分は必要ないから、と全部俺に差し出そうとして、俺が言いくるめて折半することで妥協点へと導くことがほとんどだった。
そんな弟が自ら、一緒に、と。折半を提案
……
この場合は求めたのだ。これが嬉しくないのなら、俺は世界中の何もかもが嬉しくない。
「そっか。じゃ、遠慮なくもらうわ」
「ウム!」
口に放り込んだ甘い塊をゆっくり溶かしながら。確かにうめェな、と頷くと、一彩はいっとう甘く微笑んだ。
もっと早く、こうすればよかった。
と思ったということは、俺は今まで積極的にではないにしろ、消極的には一彩と二人きりになることを避けていた。ということなのだろう。
それは何故だ?
それは、多分、怖かったからだ。
過去、俺がこの子にした仕打ちを、否が応でも意識の最前面に引きずり出されて罪悪感に苛まれるのが
……
いや。
俺はこの子に、責められも許されもしない、とわかっているから。それが、怖い。
当時の俺の思惑の正誤の如何に関わらず、結果的にはこの子をおぞましい場所へ置き去りにしてしまった、という一生重いままの事実が、この子にとっては取るに足らない、通り過ぎた過去の一事象に過ぎないのだと、俺は知っている。
一彩は俺の、次期君主としての不誠実は理解していても。
この子の中に、兄としての俺の罪は、存在する余地すら与えられていない。
隣にいるのに、酷く遠く、薄い膜で隔たれた別の世界にいるようにすら感じる
……
……
?
ぽすん、とでも擬音をつければいいのか。
不意に左腕が、温かな重さに包まれる。見ると、一彩が俺にもたれかかっていた。くっついていた。擦り寄っていた。
…………
うん?
言葉が出ない。
じっと、見つめることしかできない。
何を言えばいいのか、わからない。
それは、口を開いて空気中の分子に振動を与えた途端、この絶妙に組み上げられた末に成立している奇跡にも似た均衡は崩壊してしまう、と瞬きよりも早く理解できていたからだし、また単に、驚きすぎて俺自身の思考が緊急停止してしまった、というだけの話だったのかもしれない。
いっそこのまま、五分、いや三分
……
やっぱり十分でいいから時が止まればいいとすら思った。
が、俺は致命的な失敗を犯していた。
一彩を見つめすぎた。
俺の視線に気づいた一彩が、慌てた様子で俺からゆっくり離れていく。この速度ならまだ取り返しがつくんじゃないか、と思うのに指先が動いたのは一彩が完全に離れたあと、ようやくだった。当たり前だ。時間の速さは幸運にも残酷にも誰にも平等だ。俺の脳の処理速度が一時的に遅延したせいで、ゆっくりに見えていただけだ。
そのままでいい。と言えば良かった。
いや、言えるわけがない。臆病で意気地のない俺に。
「ごめんね!」
見るからに慌てた様子の一彩が、かわいらしいが、切なくもなる。
俺たちは兄弟なのだから、謝る必要なんてどこにもない。だがそう思っているのは俺だけで、弟には必要があった。それを、まざまざと見せつけられているのだから。
俺は一度も文句なんて言ったこと
……
あった。それも、何度か。愛してる、と大声で叫び抱きついてくる一彩に、やめろやら馬鹿やら、何やら。
公衆の面前でやるのは勘弁してほしかっただけで、本心からの言葉では決してなかったが、人の言葉を疑うことなく正面から受け止めてしまいがちな一彩にとってそれは、拒絶以外の何ものでもない。
そんなことも忘れて、俺は。
わかってくれると勝手に期待して。
違うんだ、一彩。あれは。
ただ、恥ずかしかっただけで
……
「ついいつものクセで」
「クセ?」
バツが悪そうに笑う一彩のそれで、思考が急カーブ。
クセ?
とは、何だ?
一彩は珍しく視線をうろうろとさまよわせ、俺とは目を合わせず、やや早口で言った。
「その、ひなたくんや椎名さんと一緒にいると、何だろう、嬉しくなって? ちょっと違うな
……
いや、嬉しいには違いないんだけれど、充足感を感じて
……
欲しくて? その、ついくっついてしまうというか」
「ヒナはともかくニキに?」
「ともかく?」
「いや
……
」
余計なことを言った。
いや、実際どうしてこんなことを口走ったんだ?
そんなの、同い年のひなたならともかく、年上のニキに甘えるなんて面白くないからに決まっている。
甘えたいのなら、正真正銘お兄ちゃんの俺がいるだろう。
……
甘えている?
そうか。
本人はうまく自覚できていないようだが、二人が言っていた『寂しがり屋』の本質は、甘えたがり、ということだったのか。
……
一彩が?
いくら俺が一彩の実の兄だからと言って、離れて暮らした数年の空白を、たった数ヶ月で埋めるなんて土台無理な話だ。再会してから一緒に過ごした時間なんてたかが知れているのだから、なおさら。
対してニキとひなたは、一緒に暮らすことで、俺が知らない一彩を、新しい世界に触れて少しずつ変化していく一彩を目の当たりにしてきた。だから俺が知らなくて、あいつらが知っている一彩がいるのは、何の不思議もない。むしろ、故郷にはない価値観を持つ二人が見守ってくれたおかげで、一彩に欠けていた情緒、情動が育まれた、という面もあるのだろう。
それについては、素直に嬉しい。弟に好意を持ち、愛してくれた証なのだから。
だが、それはそれとして、俺には何年かけてもできなかったことを、たった数ヶ月で成してしまった二人に正直、嫉妬のような感情は湧いてしまう。
一彩を育むのは俺でありたかった。
弟と二人きりになることを意識的ではないにしろ避けていた俺に言えた義理はないが。
「
……
もういいのか?」
しっかり一彩の目を見ながら控えめに笑いかけると、一彩は明らかに何かしらの感情を動かした。
もっと甘えていい、とストレートに言えば良いとわかっている。だが、甘える、という言い方は多分弟は好まないし、否定するだろう。そして、この夢の入り口はそれで完全に閉じられる。だいたい、冗談で上塗りしないままのそれをこちらから口にするのも気恥ずかしい。
いつから弟に、思ったことをそのまま言えなくなってしまったのか。
昔はもっと、真っ直ぐに言えていたのに。
一度捻くれてしまった性根は、伝えたいことまで捻じ曲げてしまう。
俺はもう。
もっと俺に頼ってくれていい。
なんて、一彩に言って納得させられるような兄ではない。
蒼穹を封じ込めたような一彩の目が、感情の風に流されるように泳ぐ。珍しいものを見ている、と他人事のように思いながら、空が海になって、海原をゆらゆら漂う魚と、広い世界でまるで迷子になっているようなその目を、一彩のことを思って無意識に伸ばそうとしていた手を躊躇いが止めた時。
左腕に、温かな重さが寄り添った。
一瞬、息が止まって、それから、慎重に息を吐き出した。不用意な反応をしてしまえば一彩はまた、離れていってしまいかねない。
心臓がざわめく。こんなことくらいで。
仕方ないだろう。
嬉しかった。
嬉しかったんだ。
照れくささは否めなくとも確かに、嬉しかったんだ。
俺はちゃんと、かわいい弟の兄でいられているのだと、認められたようで。
「兄さんはあったかいね」
「弟くんのがあったけェっしょ」
俺の返事を、少なくとも受容や許容の類と受け取ったのだろう。俺に寄りかかる一彩の重さに、いくらか遠慮がなくなる。
少し。
時間にすれば数秒にも満たない、だが感覚的には海よりも深い時間を悩んで、結局俺は動かないし、動けない。
そのくせ、俺の今の気持ちをわかってほしくて、顔だけを寄せる。
口にしなければ何も伝わらないとわかっているのに、この賢いのにいささか察しの悪い弟に、愛しているのだと、俺がお前に向ける愛はお前が生まれてから今日この瞬間まで一度だって色褪せたことはないのだとわかってほしくて。
「
……
わかったよ、兄さん」
「何が」
「ひとりは、寂しいんだね」
自分の中で持て余していた感情に名前がついたからか。
いつの間にか俺の腕に絡んでいた一彩の重さが、いっそう、強くなる。
ひんやりとした寂しさを誰かの温もりで温めて気化させようとするように。
「あの時」
ぽつりとこぼれた一彩のそれは多分、外に出るはずのなかった音だったんだろう。それきり、一彩は黙り込んでしまう。
いや、迷っている。
言うべきか、言わざるべきか。
それはつまり、言いたい、聞いてほしい、そういうことだ。
「言いたいことがあるなら言えよ」
許容を込めて言ったつもりではあったが、もっと一彩の気持ちを汲んだ言い方をすればよかった。
と思いはしても、上手いやり方なんて、今の俺にはわからない。
昔の俺ならもう少し、うまくやれたのかもしれないが。昔の一彩には伝わらなくても、今の一彩になら、あるいは。
それでも、弟の幸いを願い、寄り添いたい気持ちだけは、今も昔も変わらない。
その気持ちの幾許かだけでも、伝わってくれたことを祈る。
数秒の間を置いて、一彩が言った。常よりも細々とした声で。
「聞いたら兄さんはきっとあまりいい気持ちはしないと思うよ」
幼い頃の一彩が、一瞬、頭をよぎる。
「いいから」
俺は今、あの頃の俺みたいに、優しく促せているだろうか。
たった一人の大切な弟が、兄よりも自分の感情を大切にできるように。
それは正しいことなのだと、今のお前を安心させられているだろうか。
「
……
兄さんが故郷を出て行ったあとのことなんだけど」
「うん」
極めて冷静に相槌を打つ。
俺の感情通りに動こうとする表情筋に逆らいながら。
いや、多分、俺は屈してしまっている。
一彩の、ほっと緩んだ目元が、それを雄弁に物語っていた。
「兄さんがいない毎日がね、なんだか変というか、僕の中身が空気になってしまって、ただ毎日ふわふわ空に浮いているだけ、水面にたゆたっているだけ、みたいな、そんな不思議な感じだったんだけど
……
」
そこで一彩は言葉を止めて、俺を見る。
それだけで俺はどういうわけか、一彩が何を求めているのがわかって、少しも迷うことなく一彩の背中に手を置く。
一彩は笑っているようにも、少し泣きそうになっているようにも見えるような。彩りの定まることがない万華鏡のような顔をして、それから、俺の肩口にその顔をうずめた。
「あの時の僕は、寂しかったんだね、きっと」
俺は、咄嗟に出かかった息を、強引にねじ伏せた。
ごめんな。
と。謝るのは簡単だ。言葉は言葉でしかない。誠なのか嘘なのか、方便なのか言い訳なのか、どんな意味なのかを決められるのは口にする本人とそれを向けられた相手だけだ。
俺はあの日、自分の心に従った幼い俺を、恥じてはいない。だが、弟を残して行ってしまったことは今でも、これから先も、一生、後悔し続ける。
だが、もしあの時に還れたとしても俺はきっと、同じことをする。
何度も、一彩を傷つける。
そんな俺が謝って、一体何が許されるというんだ。
謝るくらいなら最初から、夢なんて見ないで弟の人生を食い潰して生きればよかったのだから。
ごめんな、一彩。
でも、ありがとう。
兄としての俺の罪を、お前の中に住まわせてくれて。後悔する意味を与えてくれて。
俺を、兄でいさせてくれて。
腕の中で、小さなぬくもりがもぞもぞと動く。兄さん、と困ったような声が胸元を温める。
どうやら、いつの間にか弟を強く抱きしめてしまっていたらしい。
「悪ィ」
「ごめんね」
軽く離れた身体の隙間で重なった謝罪の言葉。その続きが明瞭になったのは、一彩の方が先だった。
「兄さんを困らせるつもりはなかったんだ」
「おめェが謝ることじゃねェだろ」
謝るべきは俺なのだ。今この瞬間のことではなく、お前をひとりぼっちにしてしまったかつての事実について。それなのにこの期に及んでなお謝罪の言葉の一つも出せない情けない自分を誤魔化すように、弟の背中をぽんぽんとあやすことしかできないでいる。
優しい弟は、その手をただ素直に受け入れてくれていた。
「
……
困ってねェから」
「え?」
「俺はお前のお兄ちゃんなんだから、寂しくなったらいつでも俺を呼べばいいし、頼ってくれていい」
一彩より長く生きてきた時間で得た処世術がまったく役に立っていない、我ながら下手くそな切り出し方だ。
そう思いはしたが、一度開いた口を止めることはもう、できなかった。タイミングなんて計っていたら、きっと俺はこの情動を枯らしてしまって、二度と、弟に伝えることができなくなる。自分がそういう臆病な人間だということは、目を閉じてもはっきりとわかっている。
言わなければ一生後悔することも。
「もう二度と、お前を置いてどこにも行かないから。いつでも、好きなだけ、甘えていいんだ」
引きずり続ける後悔なんて、たった一つで充分だ。
「
……
じゃあ、その」
珍しく歯切れ悪くこぼした一彩は意を決したように俺を真っ直ぐ見据えたくせに、俺との視線の間に引力が発生しかけた途端、逃れるように俯いてしまう。
俺の推測が正しければ
……
間違う方が難しいと思うが。
これから言おうとしていることが相当、恥ずかしかったらしい。
一彩が恥ずかしいという感情を獲得してくれて、その感情に正直でいてくれてよかった。
今の俺のこんな顔。人並みに恥じらう弟がかわいくて愛しくてたまらなくて感情の制御が壊れているこんな顔を弟に見られては、兄としての沽券に関わる。
それからたっぷり一分は待って、一彩はようやく、続きを口にした。
「今日はずっと一緒にいて。兄さん」
相変わらず顔は上げないまま、だが俺から離れないまま。
軽い了承とともに抱きしめた弟の匂いは、あの頃と何一つ変わらない。
そんなことに今さら気づいて、笑ってしまった。
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