はるの
2022-08-08 22:17:58
23131文字
Public スタートレック
 

迷える船の北極星

全年齢|AOS spirk|2021.2.23|STIDのあと、サンフランシスコ復興チャリティパーティに出るジムと付き添うスポックの話。



「うわーっ赤いな!」
 ニビル星を目視した瞬間の、カークの発言はこのようであった。
 だが、大抵の場合、彼が直情的に第一印象を述べるのはいつものことであったので、スポックはただ黙して、キャプテンチェアの傍らに立っていた。どうあれ彼は、最終的には、正確な調査を実施し、学術的および政治的な見解を、機知に富んだ内容で艦隊へ報告すると知っているからだ。
 そうですね、と穏やかに同意するスールーも、いつものことと把握しているのだろう。どうしますか、と尋ねるように、わずかに振り返ってくる。
「このまま停止で。スポック、簡易スキャンを」
「承知しました」
「それから先発隊を送ろう。海はきれいな青だなあ……、ここまで2色にぱっきり分かれてるのも面白いな」
 チームに指示を出している間も、カークはそんなことを言ってうっとりとスクリーンを眺めていた。チェコフがそれに便乗して、きれいですねえ、と舌足らずな言葉を返す。そうしてにこにこと笑みを交わすふたりは、兄弟のようにも見えた。
「先発隊は予定のメンバーでよろしいですか」
「俺も行くよ」
……あなたは予定のメンバーに入っておりませんが」
 そしてこのやり取りもお決まりである。彼がうっとりと星を見つめた時点で、懸念された事項だった。スポックは咎めているということが明確に伝わるよう、努めて厳しい顔つきを彼に向けたが、この顔が実際に望んだ効果を発揮したことはほとんどない。おそらく、一縷の望み、という概念はこういった場面で生まれたのだろう。
 そんな益にもならないことを考えながら、スポックはカークのにんまりとした笑顔をなすすべもなく迎えた。
「俺の経験則からすると、赤い惑星に住んでるやつはたいがい頑固で厄介だ」
「そういった偏見の開示は非常に不適切です」
「そして俺はそういうやつを手玉に取るのが得意だ。よって俺こそが突撃にふさわしい」
 背後でぷっと吹き出す声がして、努めて険しい顔つきのまま、スポックは振り返った。ウフーラはまるで遠慮する様子もなく、くすくすと笑っている。それを受けたカークは、得意げな表情でキャプテンチェアに背を預けたまま、サムズアップを掲げてみせた。こうなったふたりには、もう何を言ってもかわされる。スポックは深々と溜息をつきたくなる衝動を抑えつつ、彼の提案を受ける検討を開始した。
「それに、なんか彩度が高いじゃん。もしかしたらすげー陽気な連中かもしんないし」
 だったらやっぱ、社交性においては抜きん出た才能を誇る俺が必要だろ? などと、適当なことをへらへらと言うカークに倣って、スポックは再びニビルに目を移す。確かに、この色の偏りは興味深い。鮮明な青に、鮮烈な赤。植物がクロロフィルaを持たないのか、植物自体が光合成をしないのか、それとも明瞭な赤色以外を吸収する、未知の色素を持っているのか。塩分濃度が高いのだろうか、けれど海の青さを考えるとH2Oの比重は。
「スポック」
 呼びかけられて、椅子を見下ろす。カークは面白そうな光を瞳にまとわりつかせて、挑発するようにぺろりと唇を舐めた。
 鮮明な青に、鮮烈な赤。
「楽しそうな顔してる」
 これからいたずらでも始めるかのような――実際、始めるつもりだろう。この船長はまったく――、そんな笑顔に、押し黙りそうになる喉元を叱咤して反論しようとした、そのタイミングを計ったかのように、専門チームから簡易スキャンデータが送られてきた。



 全員の手元に展開されたデータを、どこか焦ったような報告者の通信が説明する。知的生命体反応があり、彼らは社会を形成しているが、テクノロジーレベルは太古であること。惑星はややミネラル成分が多いものの、長期の滞在をしなければ防護服なしで上陸できそうなこと。
「ただ、彼らの集落にほど近い火山が、ほぼ活動臨界状態です」
「噴火するってこと?」
 眉をひそめてウフーラが問いかける。
「はい。類を見ない数値になっています。大規模な噴火と思われますので、上陸は危険です」
「分かった、ありがとう。こちらで対応を検討する」
 そう言って、カークは通信を切った。さっきまでへらへらしていたのが嘘のように、引き締まった顔つきだ。分かった、と言ったはずなのに、彼はスイッチに手を添えたまま、じっと床の1点を見据えて考え込んでいる。
 少し、嫌な予感がした。
「キャプテン」
 ブリッジの全員が固唾を呑んで見守るので、スポックは代表して声をかける。
「つまり、これからポンペイが起きるわけだ。転送技術もない、素朴な集落で」
 顔を上げないまま、彼はそう言った。ポンペイとは、噴火によって失われた、古代ローマの都市名だ。逃げ惑う人々が一瞬にして失われた様子を克明に残している史跡について、資料で見たことがある。
「助けられないかな?」
 強い視線をふいに崩して、顔を上げた彼は、ほとんど懇願するような上目遣いだった。どことなく覇気のない声は、今スポックの頭に瞬時に浮かんできた艦隊規則を、正しく彼も浮かべているからだろう。
 NOと言うべきだ、と断じた。
「キャプテン、それは」
「とりあえず、私は専門の地質学者を呼びます。詳しく調べてからでも遅くないでしょ、もしかしたら大丈夫かもしれないし」
 ぐっと眉間に皺を寄せた瞬間、背後からそんな声が飛んでくる。ウフーラは揃って振り返る上官たちに、かけらもひるむことなく、通信機に手を置いて許可を待った。
「では、こちらはぎりぎりまで接近します。近いほうが何かと正確でしょう」
 今度はスールーが口を挟む。そして言うなり、舵に手を置いて許可を待った。
 スポックは、隣を見下ろす。カークは放心した様子で、ふたりを熱心に見つめていた。そして突然、ぱっと立ち上がる。
「俺のクルーがまじ優秀。そうだな! よしウフーラ! つないでくれ」
「了解」
「スールー、ぎりぎりを攻めろ」
「はいキャプテン」
「それからスポック!」
「なんでしょう」
「君はオールラウンダーだろ、分かる範囲で計測データの分析を」
「はい」
「プログラム組んでる暇はないから、シミュレーションはチェコフがする。チェコフ!」
「アイ!」
「スポックが必要な計算をしてくれ。君の頭はどのメインフレームよりも早い」
 カークはめまぐるしい勢いでそう指示を出すと、今度はウフーラの席まで行って、地質学者と通話を始めた。
 彼がぱっと動き出すと、全体もぱっと動き出す。誰からともなく意見が寄せられ、多角的に正しい道筋を模索する。こういったことは、このエンタープライズでよく繰り広げられるやり取りである。ともすれば「自分でやったほうが早い」と結論しがちなスポックにとっては、これこそが彼のキャプテンたる資質のひとつだと思っていた。普段の態度は非常に不真面目だが、これでもアカデミー成績はダントツだったのだ。問題の取りかかりを掴むのがうまく、勘の良い彼の行動は、勘というものをうまく理解できないスポックにとっては、時にほとんど魔法のように見えた。
 どこかほっとしたような気持ちを持て余しながら、着信のあったパッドを持ってチェコフの席へ移動する。
 リアルタイムの生データを彼と共有し、しばらく必要な方程式を模索した。演算を提案すれば、チェコフはこくんと頷いてぱっとシミュレートしてしまう。彼の暗算方法も、スポックにとっては未知の領域だ。この世には案外、魔法があふれているのかもしれない。
「今の聞いてたか、スポック」
 ウフーラの席からカークが走ってきて、肩に手を掛けられる。
「ああそんな、大きすぎる」
 同時に、自席画面のデータを見つめながら、チェコフが焦った声を上げた。カークと目を合わせたスポックは、何事かと彼の手元を覗き込む。
「副長、僕の計算が正しければ、これは噴火というより爆発です。全部火砕流に飲み込まれて、灰とガスが星を埋め尽くす――
 チェコフは不安そうな顔で、そう告げながら振り向いた。
 年若い士官の表情に、スポックは強烈なデジャヴを覚える。
「星が死んじゃいます」
 ――残された時間は、と追憶の自分が彼に尋ねた。呆然と、その言葉を受けてしまう。一瞬、何も考えられない瞬間が来て、この星はヴァルカンじゃない、と切り返す。母が死んだ、あのヴァルカンじゃない――
 ぐ、と肩に負荷がかかって、スポックは我に返った。
 反射的に隣を見る。置いていた手でこちらを掴んできたカークは、あらゆる感情を封じ込めたような目をしていた。
 彼は手を緩めるとこちらの肩を軽く撫で、それからすぐに考え込むようなそぶりをする。心ここにあらずといったていで、ゆっくりとチェアまで戻り、そして実にシームレスに、眉を吊り上げて精悍な表情を作った。
「俺にいい考えがある」
 その言葉に、全員がぱっと顔を上げる。まるで真夜中に閃光が差して、皆の目を射たようだった。
 カークはにやりと勝気な笑みを浮かべると、どすっと座り込んで通信をつなぐ。
「スコッティ! いるか!」
「いますよ。なんです?」
「エンタープライズは真空を泳ぐよな?」
「はい?」
「てことは、たぶん海中も泳げるよな?」
「はい????? あ、いや待った、あんたまた無茶苦茶言う気だな! こちら機関部、なーんも聞こえませーん!」
 そうして提案された、彼の無茶苦茶な作戦には、もちろん全員が反論した。危険だとか、規則違反だとか、とにかく危険だとか、現実的じゃないとか。けれどカークはそのすべてに、成功する、と返答する。大丈夫、必ず成功するから。何の根拠もない自信だけが裏打ちするこの輝きを、自分はすでに見たことがある。あのヴァルカン科学アカデミー最新鋭の宇宙船に乗ったとき、彼は確かにそう言って、確かに成功させたのだ。
「人が死ぬのを見るに任せるなんて俺は嫌だ。そんなことを俺のクルーにもさせたくない」
 カークはだだをこねるようにそう言って、おそらく最も苛烈に反論されると踏んだのだろう、くるりとスポックに向き直ると、挑戦的な眼差しを向けて、こう結んだ。
「観測されなきゃ存在しない。そうだろ? つまり、論理的に言って――『ばれなきゃセーフ』だ」






 ニビル作戦は、カークの独断とわがままに皆が付き合った、という形だった。
 でもあれは本当に、それだけのことだったのだろうか、とスポックは思う。
 今、こうして無力感にさいなまれ、死の淵から戻らない自分の船長を見下ろしていると、それは違うような気がしてくるのだ。






マーカスとカーンによる事件の爪痕から復帰したカークは、いつにも増して元気だった。身体能力は追いついていない部分もあるが、態度はおおよそ精力的である。艦隊内の広報に大きく取り上げられたからか、いつも以上に周りから声を掛けられていて、士官学生には握手や写真をねだられているようなこともあった。そしてカークはそのすべてに対し、好意的な対処をする。つまり、ハイ、と声を返し、名乗られた名前を丁寧に繰り返し、笑顔で握手を交わし、肩を組んでセルフィを撮るのだ。無事を喜ばれれば礼を述べ、エンタープライズへの搭乗を待ってるよ、と言い添えた。正直、スポックとしては、まったく正気には思えない行為である。まだ杖をついているというのに、そんな無防備に他者に体を明け渡すなど、言語道断だと思っていた。
 思っていただけで言わなかったのは、カークが非常に楽しそうだったからだ。スポックにとって、彼を幸福な状態に置いておくことは、おおむね優先順位の高い事項である。彼はこの世の最も悪いことを経験したのだ、それだけの保証があってしかるべきだった。
「ロンドンで悲劇を起こし、逃亡したテロリストを、カーク大佐は見事に逮捕した。それだけでも彼の功績は讃えられるべきだろう。しかし、もちろんそれでは不十分だ。テロリストが撃墜した2機の航宙艦のうち、なんと彼はそのうちの1機、我々が誇る最新鋭のエンタープライズを、見事救い上げたのだ。これが落ちていれば――、言い換えれば、彼がいなければ、サンフランシスコはより多くの死傷者であふれかえっていたことだろう」
 世間には、そのような報道がされている。艦隊組織から〝テロリスト〟としてジョン・ハリソンを切り離し、まるで不運に見舞われたかのように演出して、それでも〝街を傷つけなかった船〟こそが我々であると印象付け、最後にジム・カークの輝かしい美談で目くらましをする。その伝達は、嘘ではないがすべてでもなく、市井の混乱を最小限に抑えるためとはいえ、非常に不快だった。その報道を一緒に見ていたマッコイは、寝不足も手伝ってすさまじい顔つきになったほどだ。もちろん、それもそのはずである。あのときはまだ、カークは目覚めていなかったのだから。
 そのあとふたりで病院の周りを全力疾走する、という謎の行動を取ったが、あれは興味深かった。そんな思い出を繰りながら、スポックは目の前の現実に視線を戻す。
 カークはソースでべたべたのスパゲッティを、一生懸命頬張っていた。なんだかどっと疲れたような、安堵したような感覚がやってきて、スポックは静かに水を飲む。
 彼が退院して、杖もなく歩行できるようになった頃から、こうして彼と外食をする機会が増えた。
 もともと、知り合った頃から、突っかかる割に接触の機会は多く持とうとしていた彼だ。親しくなってからは、ほかのクルーも交えて食事をするようなこともあった。けれど最近は、突然メッセージを寄こすか、突然デスクまでやってきて、突然連れ出されることが多い。それは、まるで彼がマッコイに対して行うような遠慮のなさで、そう気づいたとき、スポックは彼を友人だと言ったことを思い出した。
 つまり、カークはそれまで、友人のような振る舞いを遠慮していた、ということだ。あれでか、とあきれるほどスキンシップの多い男なので、彼の考える『友人のような振る舞い』には疑問の余地があるものの、ジム・カークの持つ、こうした意外な繊細さは、いつでもスポックを驚かせてくれる。
 カークが寄こすメッセージは、常に端的だった。大抵の場合、飯行こ、の一言である。
 そのシンプルで、伺いを立てながらも半ば強制的なデザインは、明晰に彼の声音を連想させた。舌の動きまで思い描けそうなクオリティはさすがである。
「美味しいですか?」
 あまり美味しそうには見えないスパゲッティが気になって、とうとうスポックはそう尋ねた。
 正面に座っているカークは、むぐ、と口をすぼめる。と同時に、フォークからミートボールが転げ落ちて、彼は目を丸めてそれを追った。まるで稚拙だとスポックは思うが、そこに悪感情は生まれない。制御しているから、というわけではなく、どうもこれが彼の日常であると分かってくると、途端に受け入れてしまったのだ。心証とは単純なものである。
 カークはテーブルまで転がったミートボールを、ひょいとつまんで口に入れた。汚いし、横着だ。それはいかがなものか、と眉を跳ね上げると、カークは指を舐めとってから、ぱっと明るく笑った。
「美味しいよ」
 潤沢に、満たされた、安心しきった、そんな笑みを見てしまえば、もうスポックに言えることは何もない、ということである。



 店を出る間際、ほかの客に声を掛けられた。呼び止められたのはカークで、彼らの目的もカークであるようだ。
「あの、キャプテン・カークですよね?」
 そんな出だしで始まり、驚いた顔をしたカークは、それでも直ちに状況を把握したようだった。
「そうだよ、エンタープライズの船長だ。君たちは?」
 そう言って、お得意の人好きがしすぎる笑みを浮かべると、喜んだ若い男女はそれぞれに名前を告げる。そして、カークはまるで大切なものに触れるように、彼らの名前を繰り返した。艦隊本部でもたまに見かける光景だ。報道に顔は出ているから、興味を持って見ていた者なら、一般人であっても彼のことを知り、覚えているのだろう。
 一通り、感謝や健康を祈る言葉を告げられて、カークは照れくさいような顔をし、はにかんで微笑み、要望に応じて写真を撮った。背の高い彼は、いつもこういった人々に合わせるため、ひどく縮こまってカメラ目線をする。フレームに収まるように、顔を寄せたり、肩を寄せたりするのだ。そのことについて、カークはやはり、何も考えていないようだった。
 礼を言うふたりに手を挙げて、彼はやっと解放される。スポックの隣に戻ってきたとき、すでに5分は経過していた。
「おまたせ」
「街でも、よくあるのですか」
 えへへ、とでも言い出しそうな、にやけた顔で並ばれて、スポックはやや大股で歩き出す。
 それに難なくついてくるカークは、きょとんと首を傾げてこちらを見た。
「よく?」
「本部でもしばしば声を掛けられているでしょう」
「ああ」
 スポックはそつなく車を捕まえた。合点がいったらしいカークは、にっこり笑って肩をすくめる。
「車とか転送で移動しちゃうから、外ではほとんどないかな。だからちょっとびっくりした」
「ずいぶんと楽しそうでした」
「そりゃ、褒められたら嬉しいだろ。それに、〝キャプテン〟をいいものだと思ってくれるのはありがたい」
「ありがたい?」
「睨まれるようなことは言ってないつもりだぞ。ものすごく冤罪を感じる」
 いつもなら、ここで別れてそれぞれに乗り込み、それぞれの家へ帰るところである。じゃあまた、と会話を切ってしまいそうなカークに、スポックは無言で後に続いた。彼を奥に押し込めて、自分の体をシートの隣に滑り込ませれば、カークは何事かと瞠目する。
「いえ。ただ、キャプテンはそもそも〝いいもの〟ですので。ありがたい、という感謝は不可解です」
 スポックはごく冷静に、彼の住所を告げた。車は滑らかに走り始める。
 しばらくしても反応がなく、隣を見ると、彼は何故か靴を脱いで膝を抱え込み、縮こまって顔を伏せていた。
「は?」
「なんだ、その『は?』は」
「あなたの行動が意味不明すぎて」
「うるせーな。ヴァルカン人のデレ期恐ろしすぎんだろ。お前はまじでいい加減にしろ」
「デレ期、とは」
 いい加減にしろと叱られるいわれもないはずだ、と口を引き結んで、強い視線を突き刺してみたものの、彼は反応を返さない。仕方なく、スポックは彼の金髪をじっと見つめた。車窓から差す街の明かりが、ちかちかと鈍く反射している。むき出しのうなじは、やはり少し細くなったままのような気がした。
「あなたはまだ病み上がりなのですから」
 そう言うと、カークはちらっと顔を上げる。ようやく見えた彼の表情に、スポックは安堵して言葉をつなげた。
「無理をする必要はありません」
「俺っていつまで病み上がりなんだろうなあ君たちの中で。無理をしてるつもりはないんだけど」
「ずいぶんと気を遣っています。あなたのハグや、サインや、写真や、手のひらを求めて話しかける人たちに」
「あー、それか。そんなのは無理じゃない。みんなかわいいもんだろ?」
「ですが、あなたは万全ではありません」
「うーんと、スポックが何を気にしてるのかよく分かんないけど。これくらいのサービスは必要だと思う」
「それは、艦隊のイメージアップのためにですか? あなたがそのために労力を割く必要はない」
「と、いうか、俺のイメージアップかな。まあいいだろ、減るもんでもないし」
 この期に及んで自分のイメージアップ、と言い出したカークに、スポックはちりりとしたものを感じる。これは怒りだ。そう考えて、怒り専用のボックスに仕舞い込んだ。こうした精神のやりとりを、彼は出会いから現在に至るまで、ずいぶんと自分に強いてきたものである。おかげで取り扱いには長けてきたが、どこか皮肉めいたものも感じる。
 彼の言っている意味が、もしワンナイトスタンドを伴う、彼の悪癖に類することを指しているのであれば、今すぐ止めなくてはならない、と思った。
「減る、という定義が理解できかねますが、あなたに実害が出る可能性もある」
「実害? 突然殴られるとか?」
……隠し撮りなどもされています」
 伝えるつもりはなかったことを彼に告げると、カークはぱちぱち、とまばたいてみせる。驚かせただろうか、精神的な負担を感じていないだろうか、何かストレスの兆候は、と考えながら、スポックはそんな彼を注意深く観察した。カークは数瞬、思案するように視線を外し、それからくったりと、両ひざの上で組んだ腕に片頬をくっつける。いたずらっぽい、ひそやかな笑みだった。まるで秘密を共有するように。
「見えないところじゃもっとえげつない情報も回ってるだろうな」
「は?」
「なあ、それってつまり、俺のことを守ってくれたわけ? その、隠し撮りをした馬鹿から」
「捕らえて突き出しました。肖像の保護は当然です」
「うわーそれ、超見たかったな」
 カークがはしゃぐようにそう言っている間に、彼の住所に到着した。今度こそ、じゃあまた、と言ってカークは帰っていく。いろいろと聞きそびれたことや、聞き捨てならないことをこぼされた気もするが、これ以上は彼の睡眠時間を阻害する。スポックはそう判断して、おとなしく引き下がった。車窓越しに小さく手を振るカークに、スポックはそっと手を挙げる。にこりと笑う彼は、車が視認できなくなるまで、ずっとこちらを見送ってくれた。






 こそぎ取られたサンフランシスコの一角を復興する試みは、即座に各所で実施された。もちろん、艦隊がすべての責任を担っていたが、そこに自治体も加わり、地域の産業母体からは当たり前のように賛同の手が挙がっている。
「チャリティパーティ?」
「そう」
……公益を保守したければ、現地の復旧活動に参加すべきでは」
「言うと思った」
 突然、デスクまでやってきてそんなことを言い出したカークは、なんだか嬉しそうにそう言った。
 復興に関わる複数団体を集め、一度カンファレンスを実施する。その話を聞いたときは、もちろんスポックにも理解できた。なるほど、誰が何を担うかの情報共有は肝要である。
 そして、その後にはバンケットが催され、チャリティと名付けられたそのパーティにカークも参加するよう広報部から要請があった、あたりでスポックは思考停止した。何がどうしたらそう展開するのか理屈がまったく分からない。
「何故、パーティを」
「こういう大きな事業は、信用の売り買いが大事だろ? 飯食って親睦を深めるんだよ」
「何故、あなたが」
「そりゃ、なんたって艦隊の英雄だし。カンファには不要でも、目立つとこには飾っておきたいんじゃね?」
……あなたがそのような要請を受ける必要はないと考えます」
「でも、俺は行くって言っちゃったんだよな」
――は?」
「ただし、スポックも連れていく、っていう条件付きで」
 にんまり、と得意そうに頬を持ち上げる彼は、何故かとてつもなく自信に満ちていた。広報部から使役されるような仕事を受けたにしては、ごく単純に浮かれている様子である。艦隊にジム・カークの取り扱いについて意見書を出すべきかという思考をいったん取り下げ、スポックは急ぎ、現時点での懸念事項を解決することにした。
「その条件はクリアされましたか?」
「渋られたけど、なんとか。だからそのうちお前のスケジュールに登録されると思う」
「そうですか。通常であれば広報部がつくものと推察しますが」
 パーティの趣旨から察するに、チャリティに必要なのは『救国のキャプテン』であって、そのために科学士官を業務から抜くのはいささか強引に見えるだろう。実際、事件直後には、ラボをおろそかにしすぎるなというやんわりとした忠告を、科学部から受けたこともある。いったいどんなごね方をしたのだ、と不思議に思ってカークを見上げると、彼はにやっと、こましゃくれた笑みで返してきた。
「あのときキャプテンチェアに座っていたのは君だ。俺が船長として行くのであれば、当然スポックも必要だと言った」
……その心は?」
「君、そんな返し方もするんだな」
 艦隊への正式な回答にしてはやや雑な理由づけにそう問えば、カークはなんだかくすぐったそうに笑う。くりんと動く虹彩がこちらを見て、やたら楽しそうにまたたいた。
「別に。ただ、〝エンタープライズのクルー〟として踊らされるなら、ふたりがいいなって思っただけ」
「いずれにせよ、そのような会にあなたが行くのであれば、広報部の指示があろうとなかろうと私も同行します。問題ありません」
 もちろん、スポックとしては当然である。彼が行きたいと希望するなら阻止する理由はないが、人が多く集まる会場に病み上がりの船長をひとりで行かせるわけにはいかない。マッコイにも報告すべきだろうし、万全な体制が必要だ。
 そのような計算を脳裏で進めていると、カークは首を傾げて、なんだか馬鹿にした顔つきになった。
「招待者限定のVIPパーティだぞ、艦隊の許可なしにどうやって同行するんだ」
「我々はどのような困難に直面しようとも、常に打開を模索し、それを成功させてきました」
「突然話が壮大」
「滑り込む方法くらい、いくらでもあるでしょう。もちろん、合法の範囲で」
……なんか、すごく、優等生をたぶらかしちゃった気分だ」
 カークはどこか恥じ入るような、剝きたてのゆで卵のような照れた顔をする。スポックが心外だと眉を跳ねると、彼は笑ってこちらの肩をばしばしと叩いた。






 カークから指定されたドレスコードは、礼装ではなかった。普段着ていて皆も見慣れている、地上勤務用の制服である。そのほうが宇宙船に乗ってる人って感じがするだろ、というカークの直情あふれる主張はよく分からなかったが、十分に儀礼的なデザインも兼ね備えている万能の衣装なので、スポックは何も言わずに従った。
 立食形式のパーティは、一般的な地球のスタイルである。ホテルの大きなホールで開催されたそれは、大げさなショーやパフォーマンスこそ含まれなかったが、贅沢にも弦楽の生演奏が奏でられていた。食事を甲斐甲斐しくサーブし、グラスが空いたとみるや静かにやってくるスタッフのホスピタリティはやや正気を疑うほどで、最初、まるで慣れたように余裕そうな表情で、堂々と会場のドアをくぐったはずのカークも、今や若干引き気味である。さすがに肝が据わっている、と感嘆したのもつかの間、どうやらただの虚勢だったようだ。
「こいつらは俺がいなきゃ死んでた、と自分に言い聞かせることで何とか平静を保つのは倫理的にアウトか?」
「そのように口に出さなければセーフかと」
 小声でそんなことを言うカークは、どう考えても気をなごませる冗談の選択に失敗している。自分の発言に自分で渋い顔をしている無防備な姿を見て、スポックはさりげなく体をずらし、彼を背中に隠した。
 ウェルカムドリンクは、一度断ると二度は勧められない。きっとインカムで「今来たヴァルカン人に酒はNG」というような情報共有が瞬時になされているのだろう。対して、にこにことシャンパンを受け取ったカークは、半分も飲まないうちにグラスをうろうろと持て余し、ホールの端のほうで所在なさげに立っている。
 本来であれば、あなたこそが主役であるのに。スポックはそう思った。
「このようなパーティが苦手なのであれば、どうしてこの話を受けたのです」
「必要かと思って……、いや、別に苦手なわけじゃないぞ。今すぐあの提督を囲んでるハイソサエティな円陣に、明るく割って入って談笑したいと思ってる。横のブロンドのレディ、めちゃくちゃゴージャスだよな」
――キャプテン」
 彼のあまりの言いように、咎めるように振り向けば、カークは上目遣いでぺろっと唇を舐める。彼のこういった、調子に乗った、愉快そうな、いたずらに口角を上げる表情を見ると、彼がいつもの調子であると安心する半面、非常に気もそぞろになった。おそらく、この顔の彼がする無茶に、体が慣らされてしまったのだろう。
「冗談だよ。ま、そうだな。ちょっと、世界が違いすぎてめまいが」
「めまい? 体調が悪いのですか?」
「ばか。言葉のあやだよ」
……またそれですか。あなた方の文化に口を挟むつもりはありませんが、そういった身体に関わることは事実のみを述べてください」
「マッコイ病が深刻だな……、そのうち回復すると思ってたけど、楽観しすぎたか?」
「何のことです? マッコイ病とは?」
「いや。ただ俺は、社交マナーみたいなのとは無縁の世界で生きてきたから。正しくできるかどうか」
 そんなふうに言葉を切って口をつぐむカークを、スポックは半ば新鮮な心境で見つめた。彼は未知のものに対しても臆することなく突っ込んでいくタイプだが、やはり地球人とは単純なつくりをしていないものである。やや気負ったようなその表情に、スポックは彼の肩を叩いてやりたくなった。いつも彼が気安くするように。
「あなたのことですから、一通り予習はしてきたのでしょう」
 代わりにそう告げると、カークは驚いたように目を丸めた。口を半分開いてこちらを見る表情は、とても幼げだ。
「でしたら、基本的には問題ありません。それに、多少の粗相を働いても、あなたには人が抗いがたい魅力がある。それは自分でもよくご存知でしょう」
……さすがに、お偉いさんに甘えて許してもらうのは、難しいと思うぞ」
「でしたら、私を呼んでください。あなたが困ったときに助けるのは、私の仕事です」
「スポック」
 すぐさま名前を呼んだカークは、ゆっくりと笑みを作った。声はひそやかに、今にも壊れそうな微笑みは、コアルームのことを思い出させ、一瞬、思考を白い閃光が焼き切る。思わず、スポックは彼の肩に触れた。思わず、などという表現を使わなければならない状態に、一気に肝が冷えていく。
 カークはきょとんと、触れられた肩を見下ろした。そして今度は、じわりと満面の笑みを浮かべる。人が抗いがたい、という、先ほど自分で論じた彼の特性が、再び脳裏に浮かんで消えた。スポックは慎重に手を離し、服装を正して顎を引く。努めて冷静であることを心掛けた。
「早速、お困りですか」
「お前のことについてはだいたいいつも困ってるよ」
「それはいったい」
「悪い意味じゃないから気にすんな。つーか、そうだな、よく考えれば君、ヴァルカン大使の息子だもんな。セレブじゃん。もしかしてこういうの慣れてる?」
「ヴァルカンではこのようなパーティは行いません」
「ま、そりゃそーか」
 カークはひとりで何かに納得し、腕を組んでうんうんと頷く。そうしてぐっと胸を張り、軽くストレッチをすると、ぱっと明るい表情をひるがえして手を挙げた。
「じゃ、ちょっと行ってくる」
「同行します」
「あ、そう? いいけど、君も好きなように過ごしていいからな」
 カークはいつもどおり、ぱすぱすと音を立ててスポックの肩に拳を当てる。弾むようにホールの中央へ歩く彼の胸元で、ちゃらちゃらと勲章が音を立てていた。



 結局のところ、カークは実に賢明だった。礼を失さず、けれど彼らしい強引さも持ち、それを適切なバランスで保っていた。参加者には艦隊の将官クラスも多く、彼らはほとんどの場合、カークが現れると自分の傍らに置き、彼の素晴らしさを関係者外に話して聞かせていた。自治体の運営者たちは、おおむね彼の武勇伝を聞きたがり、カークが大げさに話して聞かせるエピソードを笑いながら聞いている。地域産業の重役たちは、社交マナーに沿って単に彼との話を楽しんでいるようだった。全体の平均年齢からすれば、という範囲ではあるが、比較的彼の世代に近い若者もおり、カークも少しは安心して話しているように見える。
 もちろん、付き添うスポックにも、ごく等しく声を掛けられた。エンタープライズのファーストオフィサー、私の副長です。そのようにカークが紹介すれば、おお、という感嘆と共に迎えられるのだが、スポック側には特に話すべきことはない。短い返答を繰り返していたらそのうちカークの独壇場になる、というのが談話の定型になりつつあった。
 そういった社交を繰り返す中で、ひとつ分かったことがある。
 彼は必ず、自分を「エンタープライズの船長」だと紹介するのだ。
 そうして、皆に乞われて話をする中で、彼はエンタープライズで成した業績や、彼女がいかに素晴らしく、働き者で、何よりも秀でているかを、巧みに織り込んで表現した。相手を見極めて、詩的な表現を添えたり、学術的な論証を交えたりしつつだ。
「未知の宇宙を開拓し、新たな文明と出会うことで、連邦をより豊かにし、人々の生活に貢献する。そのような艦隊の理念を、私は何よりも尊重しています」
 彼がまっすぐとその双眸を開き、凛とした佇まいでそう宣言する姿は、まるで光をまとっているようだった。
「あなたのような若者が、そうおっしゃるとは心強い」
「そういえば、艦隊では新しい宇宙開拓計画を立てていましたよね?」
 みずみずしい若木を仰ぐような表情で聞いていた参加者が、そのように艦隊関係者に話を振る。中将たる彼は、やや苦笑するように話を継いだ。
「ファイブ・イヤー・ミッションか。もちろん、できることなら進めたいと思っています。けれど、やはり街の復興が第一だ」
「人々が苦しんでいる中で、のんきに宇宙探検はしていられない、ということですか」
「君はずいぶんとひどいことを言いますね。文明発展への投資は無論必要不可欠だが、目の前の生きている人間を優先するのは当たり前でしょう」
「けれど、人々の生活も落ち着きつつある。夢のある計画を発表することで、人々の希望にもなるのでは?」
 希望、と聞いた複数の視線が、さりげなさを装ってカークに集まる。
 カークは、待ってましたとばかりに笑顔を見せた。落ち着いた、けれど活力のある、いつまでも見ていたいような表情。
「ぜひ、立候補したいですね。それに、エンタープライズなら10年だって働きますよ。必ず良い成果を持ち帰ります」
「頼もしい部下をお持ちですね」
「君ほど活きのいい船長はいないと実感するよ、カーク大佐」
「それが私の持ち味ですから」
 嫌味なくにこりと笑う彼に、場の雰囲気がふんわりとなごむ。それを、ひどく感心したような、どこか呆然としたような、そんな心境でスポックは眺めた。
「そういえば、公式ショップにあるエンタープライズのグッズが、今は品切れと聞きました」
「グッズ? プラモデルとか、ぬいぐるみとかですか?」
「ええ、そういうちょっとしたものを置いています。ハンカチとか、タンブラーとかですね」
「それ、私も手に入れ損ねました」
「船長も? それはいけないな」
「もう少し大規模に、企業と提携して展開しては? ライセンス事業の専門家をご紹介できますよ」
 そのまま、話は横滑りしていったが、彼らの中ではもうほとんど、エンタープライズは出航していて、自由に宇宙を飛び回っているようだった。ともすれば、もうすでに5年探査から帰ってきている勢いである。
 カークはにこにことシャンパンに口をつけながら、そんな話をおとなしく聞いていた。
 スポックは黙して彼を見つめ、考える。
 彼が「必要」だと言ったこと。
 このパーティに参加することや、もしかしたら丁寧なファンサービスも。
 見つめ続ける視線が気になったのか、カークは不意にこちらを向いた。口元を引き絞っていると、彼は静かに目を細める。誰にも気づかれないように、ちかりと密かなウィンクを残して、カークは再び会話の中に膨らむ夢を投資した。






 このパーティは立食形式なので、基本的には立ちっぱなしである。経過時間を鑑み、そろそろ食事をすべきでは、とスポックが提案すると、カークは素直に承諾してくれた。
 おなかすいた? とからかう彼に、どうしたものかと思っていると、彼はビュッフェテーブルを指し示す。
「俺の分も取ってどっかのテーブル確保しといてくれ。俺はあとちょっと挨拶するから」
「では、同行します」
「いいよ、大丈夫。慣れてきたし、ちょっとだけだ」
 カークはそう言って、ぴらぴらと手を振って行ってしまった。まだ足取りはしっかりしているし、彼の高尚かつ貪欲なやり口を目いっぱいに浴びて、そもそもの彼のバイタリティを実感していた矢先である。スポックは数秒、彼の姿を見送ると、問題なしと判断して彼の指示に従った。常に意識は自分の船長に向けておきながら、健康に良さそうな、かつ、カークが興味を持ちそうな、惣菜を選んで取り分けを頼む。お茶を注文すれば、10種類以上の案内が繰り出されてきて、相変わらずこの過剰すぎるホスピタリティは謎だと思いつつ、スポックは最も刺激が少ないと思われる茶葉を選択した。
 ――ヴァルカン星の出来事は、本当に残念でした。
 ふいにそんな声が耳をついて、スポックは顔を上げる。カークが突撃していった先には、地球人に交じってふたりのヴァルカン人が談話に加わっていた。彼らは一律、無表情に必要な会話だけを交わしているようだったが――内心は不可解の嵐だろう、おそらく――、カークが参加したことで、ヴァルカン星に対してエンタープライズが行ったこと、つまり評議会を救出し、かの星の最期を看取ったことに言及されたのだろう。
 ちら、とヴァルカン人のうちのひとりが、こちらに視線を向ける。スポックはごく冷静にそれを受け止めたが、ふいにその視線を、カークの頭が遮った。ごく自然に、重心を変えただけのように、何事もなかったようにして。
 スタッフから飲料が給仕されてきて、スポックは視線を戻した。どうぞにどうもを返し、置かれた砂時計がさらさらと落ちていくのを見つめる。ずいぶんと、アナログな装置だ。地球人はときどき、こういったものを尊ぶ習性がある。
 この砂が落ちる前に、とスポックは思った。この砂が落ちる前に、彼が戻ってきたらいいのに。
 少なくともヴァルカン星の消失には触れることになるだろうと察した彼が、器用なのだか不器用なのだか分からないやり方で、自分を守ってくれようとするように。彼のためを思って選んだものを、この目の前の椅子に座って、文句を言ったり、目を輝かせたりながら、口に入れるカークを早く見たい、とスポックは思った。



「スポック中佐」
 そう声を掛けられて、思考を中断する。
 顔を上げれば、サッシュなしの礼装をした、理知的な表情の男性がそばで立ち止まった。カークと同じ大佐の階級だ。
「少しお話を」
「構いません」
 申し出られて、承諾する。艦隊の人間であれば、そこまで困るような話題は振ってこないだろう、という判断だ。カークを気にかけながらでも、誠実に応対をすることは可能だろう。
 彼はちらりとテーブルを見下ろし、対面に取り皿とカトラリーが丁寧に並べられているのを見て、こちらに視線を戻した。
「ニビル星での失態を、カーク大佐はどう考えているのだろうか」
 そして突然、予想だにしなかったことを問われ、スポックは一瞬フリーズする。
 艦隊のインシデント報告は、少佐以上のレイヤーに一律周知されるものである。確かに、彼が知っていてもおかしくないことであり、彼が懸念する事項としても妥当な案件だった。けれど、何故それを今になって、しかも自分に尋ねるのかが理解できない。
「それは、どういった趣旨による質問でしょうか」
「彼は今回の事件で、ほとんどどさくさに紛れて、降格を解消している。降格の意図は、教育のためとされていた」
「存じています」
「先ほど、ほかの者に聞いたのだが、どうも彼はこのまま大佐を続け、ミッションにも参加したいと申し出ているようだ」
「大佐職への復帰は、艦隊も承認しているものです」
「そうだ。しかし、私が懸念しているのは、規則を破って得た栄光を是とすることだ。それは規則自体の存在意義を瓦解させ、無意味たらしめる。彼は、その脆弱性を理解しているのだろうか?」
 若いカークへの評価に対する難癖だろうか、と最初は思った。ときおりあるのだとカークは言っていたし、実際自分も目撃したことがある。
 けれど、彼の主張は、そうと取るにはずいぶんと実直に思われた。確かに、彼の言わんとしていることも分かる。
 簡単な言葉で、地球人的に表現すれば、「ズルしてうまくやったことを評価すると、ズルを容認することになる」だろう。それはもちろん、そのとおりだ。規則にはそれぞれに意味があり、正しく守られてこそその効力を発揮する。破ることを容認するなら、規則の存在が守っている、生命や、尊厳や、自由を、蹂躙するのと同じことだ。
「何故、それを私に。直接尋ねられてもよろしいのでは」
「私は彼の自己評価より、あなたの評価を信じる」
 眉を跳ね上げようかと思ったが、やめた。大佐は姿勢よく直立したまま、静かに返答を待っている。真面目そうで、頑固そうだ。秀眉は凛々しく直線を描き、引き結んだ口に引いた顎。科学士官の出かもしれない、とスポックは思う。だからきっと、彼は論理的な回答を求めているのだ。不条理な採択に対して、この世で最も正しい答えを。
「私見の回答であることを前提とします。艦隊の公式見解ではありません」
 スポックは少し考えて、そう返した。視界の隅で、カークがこちらを見ているのが分かる。どうやらヴァルカン人サークルでの会話は終わったようだ。砂時計もすでに落ち切っていた。
 首肯を返す大佐を見上げ、スポックは立ち上がる。居住まいを正して、真摯に相対した。
「あなたの懸念はもっともです。そして、今のカーク大佐は、あなたの懸念を正しく理解している」
 得られた返答に、大佐はゆっくりとまばたく。逡巡するように視線を落とすので、スポックは補足を加えた。
「現場にいなかったからそのようなことが言えるのだ、とあなたの発言を切り捨てることも可能です。ですが、私の船長は、そのようなことはしないでしょう」
「確かに、現場では、いろいろとあるが」
「大佐、我々の艦隊規則は、決して正義を守るものではありません。正義がどちらにあるかを断じるものでもありません。規則は、追い詰められた誰かや何かを保護するためのものです。私は――
 一定の距離を取って立ち止まったカークは、神妙な表情でこちらを窺っている。そのどこか遠慮するようなしぐさに、少しだけ腹が立って、スポックは彼に目を移した。ぴくり、と自分の船長が肩を揺らす。
「正しくなくとも、緊急で危険なほうを優先する場面があることを知っています。私は、それを選択する余地を許容したい。その都度、その場面において本当に正しいことを、考え、検討し、覚悟を持って責任を取りたいのです。正しさに誠実であるということは、そういうことと考えます。そして、それは彼の元でなら、行えることです」
 大佐はスポックの視線の先に気づき、ためらいなく振り返る。カークはなんだか情けなさそうな笑みを浮かべて、おざなりに手を挙げた。おそるおそる近寄ってくる彼に厳しい眼差しを向ければ、わざとらしく驚いた顔を見せてくれる。話が終わったのなら早く戻ってください、という含意は、一切伝わっていないに違いない。
「カーク大佐」
「俺のせいで不安にさせたってのは、分かります。ごめんなさい」
「いや……
 自分たちより少し小さな肩は、カークの謝罪にしゅんとした。そんな様子をカークは笑って、励ますようにぽんぽんと彼の腕を叩く。
「前から思ってたけど、あなたはすごく真面目なんだな。自分が同じことになったら、とか考えちゃったんじゃないですか?」
「大佐、私はもう少し真剣に」
「大丈夫ですよ、そういうとき、クルーがついててくれるもんだから。違いますか?」
……反省しているのか?」
「してます。ほんとに!」
 カークはにかっと明るく笑い、不審そうな大佐に取り入った。そのまま彼の背中を押して、ホールの中央へと進んでいく。
「でも俺これから飯だから。また次の機会に話しましょう、大佐!」
「君のその調子のよさが私は非常に不安で」
「はいはーい」
 そのまま、カークはぽんと手を離して、彼をフロアへ放流した。バイバイ、と手を振るカークに、彼はしぶしぶ立ち去っていく。
 その仕事が終わると、カークはぐんと伸びをしてから、ゆっくりとこちらに向き直った。
「飯行こ」
 微笑みを浮かべる彼は、なんだかとても嬉しそうだ。じわりと染み出した幸福が、彼以外の景色をにじませているようだった。薄く火照った頬を見て、アルコールを何杯飲んだのだろうと思案する。小さく頷けば、彼はぱっと踵を返し、用意していたテーブルに着席した。
 スポックもそれに倣って、座っていた席に戻る。
「野菜ばっか」
 彼用に並べたカトラリーからフォークを取って、カークは愉快そうに言った。
「厳選しました」
「厳選だって。もっと言い方あるんじゃね? 質素なお茶も揃ってるし」
「どうぞ」
……すごいにがいんだけど」
「あなたのお戻りが遅かったので」
「俺のせいか? お前だって大佐と話し込んでたじゃないか」
「それでも戻ればよかったのです。あなたがここに座していても話は続けられました」
「いやそれは無理だろ……、あの空気に飛び込むのはさすがに蛮勇というものだぜ、ミスター・スポック」
「彼とは親しいのですか?」
「ん?」
「彼とは」
「ああ。別に。でも同じ階級だからな、ちょっと話したりもする。理屈っぽいだろ? 君みたいだ」
「理屈っぽければ気に入るのですか?」
「何の話??? あっ、これ美味い! ほらスポック食ってみ」
――いえ、なんでもありません」
 頭の回転が速く、ぽんぽんと会話をつなげる軽妙なカークの話に付き合っていると、ときどき自分でも何を話しているのか分からなくなることがある。ぱっと顔を輝かせながら、かぼちゃのマッシュを寄こしてくるカークに、スポックは溜息をつきたい気持ちを整理した。ぬるい温度を伝えるカップに口をつけると、確かに、茶葉の良さをすべて殺した完璧な苦さだ。
「君が言ってくれたこと、嬉しかったよ。俺もちゃんと正しさに誠実でありたい。ありがとうな、スポック」
 そういうときばかりは、まつげを伏せて控えめに言うものだから、本当にこの船長は困ったものだ、とスポックは思った。






 一通りの挨拶を終え、カークの疲労がちらちらと見えてきたところで、退出を促そうとしたら先を越された。そろそろ帰ろう、と言ってきたカークに言葉を失っていると、自分の管理くらいちゃんとできる、と彼はふてくされたものである。脳裏でマッコイがものすごい顔つきをしたが、余計なことを言って帰宅が遅くなると本末転倒なため、スポックは黙って彼に付き従うことにした。
 その割に、少し歩こう、と誘ってくるものだから、いかんともしがたい。
「お疲れでは?」
「気を遣って疲れたから、少しすっきりしたいんだ」
 首を傾けて筋を伸ばしながらそう言う彼に、スポックは合点する。たぶん、マッコイと病院の周りを走り回ったようなストレス解消方法が必要なのだろう。
「疲れたときは言ってください。それでなくとも、短距離の散歩を提案します」
「はいマッコイ病~」
 カークはそんなことを言って楽しそうにはしゃぐ。友人にさんざんネタにされているとは知らないマッコイは、今頃どうしているだろうか。少なくとも明日になれば、健康診断だと言ってカークを追いかけ回すことになるだろう。それを希望したのはスポックなので、協力することはやぶさかではなかった。どうやってこの、若い鹿のようにあちこちと飛び回るみずみずしい体を、捕獲し収容するべきか。そんなことを考え始めると、調子よく頭が回転していくのを感じる。
……なんか不穏なこと考えてないか?」
 隣を歩くカークは、憮然とした表情だ。この野生動物のような勘の良さは、本当にどこから来るのだろう。スポックは心底不思議に思う。
「いえ、正当なことと判断します。ところでキャプテン、ひとつ確認を」
「なに?」
「あなたはエンタープライズの復帰と、ファイブ・イヤー・ミッション参加のために、このようなことを?」
 目を合わせて真面目に問いかければ、カークはぱちりとまばたきする。
 それからゆっくりと笑みを作り、彼は向かう先の夜空を見上げた。
「このようなことでも必要だろ?」
 優しく発言される言葉は、まるで誰かに宛てた詩のようだ。
 見つめる眼差しは奥深く、まぶたに撫でられた瞳には、街の明かりが映っている。口元に浮かんでいる微笑はまるで優美で、彼の存在のすべてが慈しみに満ちていた。
「めんどくせぇなって思うよ、そりゃあね。でもスコッティがうるさいし、何より俺が。俺が何かしたいんだ。俺はまたエンタープライズに乗りたいし、エンタープライズで深宇宙まで旅したい。俺、エンタープライズのためだったら何でもできるよ」
――ジム」
「あ、いや、死ぬことはしないけど。しないですすみませんその怖い顔仕舞って!」
 じろりと見やれば、カークは焦ったように飛び上がる。その様子に溜飲を下げると、彼は唇を尖らせたあと、我慢しきれなかったようにふっと笑い出した。
「でも、君にも分かるはずだ」
「死ぬことは理解しません」
「できませんじゃなくて積極的にしないつもりかこいつ。まあいいや。でも、分かるだろ?」
 カークはくるんと挑発的な笑みを浮かべ、挑戦するように見上げてくる。その自信に満ちた表情を、大事にしたいとスポックは思った。
 永続すればいいと思った。エンタープライズで未開の宇宙を探査する、その夢を等しく共有し、ふたりはまったく同じものを見ていると根拠もなく信じている彼を、そのように信じられている今を、永遠に保存できたらいい。
 彼は何に納得したのか、こちらを見たままにこりと笑うと、夢見るような顔つきで、再び空に吸い寄せられる。
「俺は彼女の、迷える船の北極星になりたいんだ」
……シェイクスピアですか?」
 あなたが? という露骨な表情をしてしまったかもしれない。カークといるといろいろと緩くなってしまう最近の傾向は由々しき事態である、とスポックは考えるものの、彼は特に気にした様子もなく、にやっとした笑い方をするだけである。
「レディ受けする便利ワードは覚えるさ」
……あなたは」
「それより君、シェイクスピアなんか読むのか? ヴァルカン人からしたらあんなの、全員『なんだこいつ』だろ」
「地球の文学としての価値は理解しているつもりです」
「教科書かあ~」
 カークはのんびりとそんなことを言って、指を組んだ手を自分の頭に乗せた。
 彼が引用した言葉は、本物の愛とは何かを歌い上げるソネットだ。
 愛は嵐の中の灯台。迷える船の北極星。そうして、不変であり、最期まで貫かれるものこそが、本物の愛であると綴る。否定形の連なりは、ほとんど絶望しているようにも見え、それでもきっと、思い描く本物の愛はきっとこの世に存在すると、まるで懇願するような構成になっている。
 ――観測されなきゃ存在しない。そうだろ? つまり、論理的に言って――
 ふいに、くるりとスポックに向き直り、挑戦的な眼差しを向けてきた、あのときの彼を思い出した。
 そうやってきっと、ただならぬ嵐から、何度も彼に救い出されるのだ。今までも、これからも。
 あの船も、自分自身も。
「あなたは本当に、エンタープライズが大好きですね」
 スポックは夜空を見上げながらそう言った。カークの視界でものを見て、カークと意識を共有したかった。マインドメルドのような干渉ではなく、もっと自然な形でそうありたいと思った。
 ふふっと柔らかい声がして、弾んだ息をこぼす隣を見る。カークは本当に嬉しそうに、満たされたように笑っていた。
 それがあんまり嬉しそうだったから、彼をもっと喜ばせたくなる。
「あなたのその愛が間違いであるというのなら、きっとこの世に愛は存在しません」
 だから、ソネットを引用してそう告げた。最大の賛辞だと思ったのだ。
 けれど、それを聞いたカークは何故か、途端に泣き出しそうな表情になってしまった。



「あの、キャプテン・カークですか?」
 思わず――また思わずだ――、足を止めたところで、そんな声が飛んできた。ぱっと見やれば道端で、若い女性の3人組がそわそわとこちらを窺っている。こちら、というか、もちろん対象はキャプテン・カークだ。
「ハイ! エンタープライズの船長をお探し?」
 カークは驚きの変わり身の早さで、女性に声を掛けるとき用の笑みを浮かべると、ひょこひょこと彼女たちに近寄った。やっぱり! と声を上げて自らも距離を詰めた彼女たちは、案の定、話をして、握手をして、写真を求め始める。
 スポックは、カークが馬鹿をやって怪我をしたときなどにマッコイが放つ、深々とした苦渋の溜息を思い出した。今この瞬間だけでもマッコイになれないか、とやや錯乱したことを考える。こういう対応に疲れたから、パーティを辞したのではなかったか。彼の腕を引いてそう訴えたくもなったが、ごく楽しそうに会話を交わすカークを見ていると、その勢いもしぼんでしまった。いっそあの紅顔のこめかみに指を置いて、心をすべて暴いてしまえたらいいのに。舌の根も乾かないうちに、そんな身勝手なことを考えてしまう。
 一度、指先で彼に触れたことがある。
 服の上からでも、気絶させるためでもない、ひどく繊細なやり方で。
 努めて伝達を遮断していたので感覚でしか分からないが、彼の心はほとんど散らかっていて、類を見ないほどだった。焚きつけて、わめき立て、めまぐるしく変化しながら、にっこり笑って舌を出す。彼の感情はそのようにできていて、まるでそれを意識して行っているようだった。どこかに1本、冷静な琴線があって、それ以外の大半は常にやかましくあるよう、厳密に制御しているような。
 ヴァルカン人は、常に感情をオフにするよう、訓練されている。
 ジム・カークは、常に感情がオンであるよう、訓練されているようだ。
 それは、斬新な衝撃だった。読み取った感情を解釈し、整理し、得られたその仮説に、いてもたってもいられなくなったほどだ。だから、自分はこうして彼を目で追ってしまうのだろうとスポックは考える。彼の複雑さを、感覚が理解しているのだ。彼の心が平穏無事に保たれているかどうか、どうしても気になってしまう。
「はい、チーズ!」
 まあ、当の本人は、デレデレとした顔で女性に囲まれているのだが。
 なんだか急に馬鹿らしくなって、スポックは彼の腕を引いた。
「うわっ、ちょ、なんだよスポック!」
「あなたは疲れています。休眠が必要です」
「あとちょっと、わーっ! ごめんなみんな、よかったら艦隊に来て! 一緒に宇宙行こう!」
 馬鹿みたいなことを叫びながら、カークは彼女たちに手を振った。特に気を悪くもしなかったらしい彼女たちは、楽しそうに手を振り返している。もつれそうになったカークの足元を悟って、一度運ぶようにしてまっすぐ立たせれば、彼は頬を膨らませてスポックに楯突いた。
「せっかくかわいい子だったのに」
………
「うん、その顔、独創的な怖さがあるな。新技か? 分かったよ、帰る帰る、帰ります」
 特に意識したつもりはなかったが、無言で彼を見据えていると、カークは勝手に何かを読み取って、しぶしぶといったていで歩き出す。それを追って肩を並べれば、彼はこっそりと、分かりづらく、ほっとした吐息をこぼして隠した。
「あなたを戸棚の奥に隠しておきたい」
 やはり疲れていたのではないか、自分に連れ去られて安心するくらい。
 そう思ったら勢いで、そんな言葉が口をついた。言ったあとに、何を言っているのだ自分は、と思う。正直意味が分からない。
 そしてそれはカークも同じ気持ちだったようだ。怪訝そうに眉を寄せて、露骨に『何言ってんだこいつ』という顔を向けてくる。
「何言ってんだこいつ」
「確か何かの詩の1節です、たぶん」
「はあ? ふわふわしてんなスポックのくせに」
「重力の設定が甘いのでは?」
「地球が? おーい酔ってんのか」
 いつものカークに倣って、支離滅裂な返答をすると、そのうち愉快になってきたのか、彼はおかしそうに笑ってこちらの腕を叩いてくる。
 スポックはつきたい溜息を閉じ込めて、静かに夜空を見上げた。少し探してみたけれど、北極星は見当たらなかった。