遠くで警告音がする。
不安定な揺れに取られる足を必死に制御して、ただひたすらに走る。見慣れたエンタープライズの通路は、ところどころ破損していて、不穏な赤いランプが視界を刺した。
重力制御を失った彼女が、なすすべもなく傾いていく。床は壁に成り代わり、円盤部の直径分、奈落の底が出来上がる。
悲鳴が上がって、カークは顔を上げる。同時にクルーが落ちてきて、手を伸ばすが届かない。滑り落ちていく彼女は、絶望に染まった双眸をひたとこちらにつけている。伸ばした手は何も掴まない。
遠くでも悲鳴が上がる。反響して、何人いるのか分からない。ぐぐぐ、という重く低い音。これは彼女自身の悲鳴だ。だいじなエンタープライズの。
キャプテン!
突然そう叫ばれて、はっと意識が戻ってくる。天地があやふやになった機関部で、自分の手はぶら下がったスコットを掴んでいる。助けてくれ、と叫ぶ彼は、まるで懇願の眼差しだった。助ける。助けられる。助かったはずだ。カークがそう思った瞬間、彼は奈落に落ちていく。
キャプテン!
突然そう呼ばれて、はっと意識が戻ってくる。今度はチェコフだ。両腕でぶら下がった彼は、ほとんど泣きそうな表情だった。怖いです、キャプテン、怖い。ささやくような声が痛くて、カークは愕然と首を横に振る。これも嘘だ。これも違う。助けたんじゃない、助けられたはずだ。そう思った瞬間、彼は奈落に落ちていく。
キャプテン!
突然そう呼ばれて、振り向くとブリッジのフロントスクリーンが見える。自分は外にいて、手を伸ばしても届かない。あれほど美しかった船は、今やぼろぼろで黒煙を上げ、力なく落ちていくだけである。その中で、操縦桿に手を置いたままのスールーが、なんとかなりませんか、と必死に叫ぶ。周りにいるクルー全員が、どうして、と悲痛な声を上げる。キャプテンチェアに座るスポックは、黙したまま、ただこちらを見据えている。助けたはずだ。カークはぎゅっと目を閉じた。助けたはずだ、だから激高してはいけない。こんなのは悪い夢で、現実じゃない。
「君のお父さんは、12分で800人救った」
背後から穏やかな声がして、カークは振り返る。めちゃくちゃに破壊された会議室で、目の前にはパイクが立っていた。
彼はそっと、慈愛に満ちた優しい笑みを浮かべる。胸元には撃ち抜かれた弾痕があった。
「息子の君には、1分で400人死なせる才能がある」
目を開けると、白い部屋は薄明かりに包まれていた。ロールカーテンの向こうには夜が訪れていて、ずいぶんと長い昼寝をしてしまったようだと気づく。カークは小さく吐息して、隣に佇む主治医をベッドから見上げた。
「おはようジム、タイミングがいいな」
つながれたバイタルに目をやっていた彼は、視線に気づいてそんなことを言ってくる。少し血圧が上がっている画面が肩越しに見えて、カークはゆっくりと呼吸した。目を閉じて、頭を空にして、その状態に集中する。悪夢を見て飛び起きないように慣らした体を、今更ながらにありがたく思った。
「起きれなさそうか?」
そんな様子を心配したのだろう、マッコイは不安そうに尋ねてくる。平静を取り戻したカークは、その不安を払しょくするように、いたずらっぽく微笑んだ。
「まさか。口うるさい主治医の愚痴を言える唯一の相手を、俺が逃がすわけないだろ」
「キャプテン。入ります」
こちらの意図を汲んだマッコイが、コミカルにくしゃっと顔をしかめたタイミングで、外から平坦な声が飛んだ。はあい、と間延びした返事をすれば、いつもいつでも折り目正しい、びしっとした制服のスポックがやってくる。パッドを後ろ手に、ベッドの傍らまで来て直立した自分の副長は、じっとこちらを見下ろして自分の船長の様子を窺うと、少し首を傾げるようにしてこう言った。
「キャプテン」
「君は元気そうだな」
「あなたは少し疲れて見えます。ドクター?」
「問題ないからな。今までぐーすか寝てたからだろ」
船長が疲弊しているのに船医のお前は何をやっていた、と査問でも始めそうな視線を手で追い払って、マッコイは嫌そうな顔をする。そんなふたりの様子に笑って、カークは話しやすいように、ベッドのリクライニングを少し上げた。
「スポックは人の感情の機微にはうといけど、俺の体調については人一倍敏感だからな、今限定で」
「今限定、と断ずる根拠がありません」
「ずいぶんとなついたもんだなあ
……」
「ドクター。なついた、とは?」
「そのうち絶対スポックにもI miss youって言わせてやるつもり」
「勢いあまってI love youって言うんじゃないか、この調子だと」
スポックのぎょっとしたような顔がマッコイを見やって、カークはぶはっと派手に吹き出す。
一瞬だけ詰まった息をごまかすように、ごほごほと咳き込めば、主犯のマッコイがその神の手で優しく背中をさすってくれた。すごくありがたいけどお前のせいだぞ、とカークは思う。
「ドクター・マッコイ」
「吹いてむせたのはジムの自己責任だろ、なんで俺が怒られるんだ」
「はは。いや~、どうかな。俺はどちらかというと、I like youのlikeの前にたくさんreallyを重ねてほしいかな」
「なんだそれ、ティーンエイジャーか?」
「うん。そんなかわいいこと言うスポックとか、正直めちゃくちゃかわいいだろ」
「すまん、ジム。俺にそのかわいさは理解できん」
「なんだって。今週のトレンドだぞ」
そんな適当なことを言っている間、スポックは居心地が悪そうに佇んでいた。そういうところもすごくかわいい。
カークが入院してから、起き上がれるようになってしばらく、こうしてここで話すことが増えた。最初はこんなからかい方をすれば、彼は毅然と反論したり、反論し損ねたりしていたのだが、地球人ふたりの調子よさにだんだん慣れてきたのだろう、今ではこうして押し黙って、やり過ごしていることのほうが多い。そのほうが無益で理不尽なやり込めに遭わなくて済むと判断したのだろう、実にクレバーな科学士官である。かわいいな。
「ジム。私と話す気がないのであれば、退室します」
「あ、待った待った、超あるある。聞くよ、今日のみんなの様子はどうだった?」
そのうちに、この最後通牒が来て、カークは無条件降伏するわけである。面会者の制限されたこの病室で、スポックを逃す選択肢は今のカークには存在しなかった。
ときおりパッドを繰りながら、よどみなく紡がれる彼の業務報告は、真空パックにして落ち着きたいときに聞きたくなるほど心地よい。確かこんなことを、年老いたスポックのほうにも思った覚えがあるので、きっと自分はスポックというものが放つ音波に弱いんだろうと思う。
マッコイがさりげなく同席しているのは、この報告を聞いて自分が不安定にならないかを観察するためだ。
「エンタープライズは?」
「いまだ凍結中です。街の復興を置いて、探査船の修理に生産コストは割けないと。乗っ取られていたとはいえ、墜落したのは艦隊の船ですから」
「まあ、そうだよな。まずは、人の暮らしからだ」
サンフランシスコの一角がこそぎ取られ、そこで何人死んだのかを聞いたときは胸が塞いだ。
エンタープライズから宇宙へ放り出されて行方不明になったメンバーと、エンタープライズによって船内で葬り去られてしまったメンバーと、負傷により退役を余儀なくされたメンバーの、数と名前を聞いたときは、さすがにひとりにしてもらった。
2週間、意識がなかったせいで、すでに殉職報告は済まされたあとだと知ったときも、無力感にさいなまれた。
ときどき、人が死ぬ夢を見る。助けられなかった遺恨が見せるものだろう。
すべて、取り返しのつかないことだ。人が死んだり、いなくなったり。そういうことは、自分こそ、よく知っていたはずなのに。浮かれて忘れていたのだろう。
結局のところ、毎日少しずつ、時間をかけて消化していくしかない。
そうやって、自分の中で折り合いをつけていくしかなかったことを、今では冷静に思い出している。
「そういえば、ヘアウッドさんちのキュートガールは?」
ふと、こちらを見下ろすふたりが思案顔になっていることに気づいて、カークはぱっと笑うと話題を変えた。マッコイは露骨に溜息をついて眉間の皺を揉んでくれやがったが、素直なスポックはぱちりとまばたいて顔色を戻す。
「息災と聞いています。何か連絡が必要でしょうか?」
「いや。元気ならいいよ。君たちがふたりでこそこそやってた血清の取り扱いについては、まだ俺に話す気はないんだろ?」
「ジム」
咎めてきたのはマッコイだった。カークは軽く肩をすくめて、彼の渋い顔に笑いかける。
彼らほどの学術知識はなくても、普通に考えれば分かることだ。〝人を生き返らせる血清〟を取り上げて周りが大騒ぎしていない今、彼らは自分たちのキャプテンだけにそれを使用して、すべてを葬り去る処理をしているのだろう。カルテの改ざんから始まって、情報操作もしているに違いない。ふたりがこの件でどれだけの規則違反をしているのか、考えるだけでめまいがしそうだった。
「話す気がないなら別にいい。でも、俺にできることがあればやらせてくれ」
「ジム、お前はまだ病人で」
「分かりました」
せめて共犯になりたい、という気持ちでそう伝えれば、目を吊り上げたマッコイに対して、まさかのスポックが承諾を口にする。
自分で言っておいて、思わずびっくりした顔を返してしまうと、スポックはごく冷静な眼差しで、小さく頷いた。
「それでは、あなたが回復したら、ヘアウッドさんと面会を」
「面会?」
「お子さんはあなたのことが好きだそうですから、遊んであげてください」
くそ真面目ぶって、重要な業務要綱でも読み上げるようにそんなことを言うもんだから、カークはなんだかもう、嬉しいんだかかわいいんだか、よく分からない気持ちになってぱちんと両手で顔を覆う。マッコイがわざとらしい溜息をついてきたが、もうこれは仕方なかった。
なんとか気持ちを汲もうと精いっぱい考えてくれるスポックが、すごく嬉しい。
「キャプテン?」
「する。いつでもロンドン行く」
「いつでも、は難しいかと」
「スコッティに俺専用のトランスワープ機作ってもらう」
「そんなものを作ったら、あなたはもっと無茶をしそうですからだめです」
「スポックの承認がないと動かないようにするから」
「
……そうですね」
「おいそこで考え込むのはやめろ。だめだだめだ! そんなもの!」
「ボーンズは絶対に承認してくれないから仲間外れにする」
「でも結局尻ぬぐいに俺を借り出すんだろうが、いつも?!」
「そこまで分かってるならもうよくない?」
「何ひとつよくない!!」
ははは、と笑いながら、ふやけた顔をぐいぐいと両手で拭ってふたりを見上げる。
申し訳ない気持ちは引きずるだろうけど、この件はふたりに任せよう。カークは素直にそう思えた。血清の存在を世に知られてほしくないと自分が願っていることを、ふたりが知っているとも思えないが、きっと自分たちは等しく同じ気持ちでいる。
彼らが〝万能薬〟だと分かれば、きっと彼と彼の家族たちは再び発掘されるだろう。最悪切り刻まれたり、生きたまま血を抜かれ続けたりするかもしれない。カーンは史上最悪の忌々しい敵だが、彼らが人権を取り上げられ、搾取されてよいとは決して思えなかった。
そう、思えない。きっと今、自分がこんなにも優しくあることができるのは、スポックと、マッコイと、みんながいてくれるおかげだ。
「なあ、君たちがいてよかったよ。本当に」
「reallyいっぱいつけるか?」
「はは、うんうん、つけるつける」
「お前は俺たちがついてないとすぐにころっと死ぬからな」
「じゃあずっとついてないとだな?」
「反省しろと言ってるんだ」
「すぐ怒るじゃん」
「ジム?」
「はあいはい」
マッコイは、そんなおざなりな返事にふくれっ面をする。けれど、カークがにこにこと笑顔を向けると、結局困ったような笑みを浮かべた。くしゃくしゃと髪をかき混ぜられて、背中を丸めながらスポックを見上げる。
彼は、いつもどおりの表情で、パッドを背中に収納した。どこか優しい眼差しは、温かくて心地よい。
幸せだと思った。ほんとのほんとのほんとうに。
一度、母親がやってきて、ただただ泣かれて困った、という事件はあったものの、カークは順調に回復した。体組織がずたぼろになったあとすべてが再構築された、と思うと、まともに動いていることすら不思議に思えるが、リハビリも順調に進んでいる。
杖をついて歩けるようになると、カークは主治医に退院を申し出た。
案の定、ひと悶着あったものの、今はこうして艦隊の制服を着て、本部の建物を仰いでいる。
あのとき破壊しつくされた会議室の窓は、今は修繕されている。何事もなかったかのように、平和に陽光を反射させるその場所を見て、自然と杖を握る手に力がこもった。上官と部下としてではなく、ただの頼れるナイスミドルと落ち着きのない悪ガキとして、普通の友人のように話をした、最後のバーを思い出す。クリストファー・パイクの期待に応えたいと思った。彼の信じた真実が、ほんとうだったと証明したい。強く、そう思う。
あと、なんかやたら杖さばきがかっこよかったんだよな。あれは絶対、格好つけてたよな。
まだ思い出すには少し痛い胸を撫でて、カークはそっとほくそ笑む。それからまっすぐ、自分のデスクへ向かった。
おかえりなさい、キャプテン!
そんな声で迎えられて、嬉しくないはずがない。通りかかる人たちにも、デスクの周りの人たちにも、おかえり、どうだった、体は大丈夫、無理しないで、と声を掛けられ、気づかわしげに寄り添われ、元気づけるように肩を叩かれれば、カークはもう満面の笑みだった。しかも自分の椅子のすぐ横に、いつ来たのかスポックが立っていて、まるで当たり前のように待機している。なんだかブリッジに戻ってきたみたいで、気持ちがくすぐったくて仕方なかった。
「キャプテン」
「スポック」
「出勤早々申し訳ありません。少しよろしいでしょうか」
「いや君自分の部門は? ほっといていいのか?」
「所属艦に関する連携はそれより優先されます」
そんなことを言いつつも、彼から大した話は出てこなかった。たぶん、出勤1日目の様子を心配して見に来たのだろう。そういうのもすごくくすぐったくて、カークはへらへら笑ってスポックの話を茶化し、いつもどおりに叱られた。
そんな副長が自席に戻ってしばらくすると、今度はチェコフが元気にやってくる。長期航行に関する新しい情報だと言って、今じゃなくていい話をしばらくしてから、また元気に帰っていった。
その次はスコットだ。騒々しくどたばたとやってきて、エンタープライズが傷ついたまま放置されていることについての抗議と嘆きを一気にまくしたてた。気持ちは分かるし俺も何とかしたいよ、と同調すれば、絶対だぞ! と念を押して、またどたばたと帰っていく。
そのあとも、ひっきりなしに人が訪れた。キャロルが来たときはしんみりとしてしまったが、あまり湿っぽくはしたくなくて、ハイレディース、のテンションで絡めば拒絶された上に鼻で笑われた。その様子をウフーラに見られ、ものすごく冷たい視線を受ける羽目にもなったが、最終的にふたりは機嫌よく帰ってくれたので及第点だろう。
もしかしたら400人は来るかもしれませんね、と笑って帰っていったスールーの言うとおり、エンタープライズのクルーたちが業務の合間を見てはやってくる。机の上にはちょっとしたお菓子だとかリラクゼーショングッズなどが溜まっていって、今や立派に雑貨店を開けそうな勢いだった。プリザーブドの薔薇のブーケをもらったときはさすがに戸惑ったが、気持ちですと言われればじんわりと嬉しさが浮かぶ。
「キャプテン」
再び呼ばれて顔を上げれば、はにかんだ笑みを浮かべる機関部の制服がいた。
「君は
……」
「エンタープライズのクルーです」
「いや、分かる。分かってる
……」
顔はもちろん覚えていた。名前も。彼は弟と一緒にエンタープライズに乗っていて、その弟はマーカスからの攻撃で宇宙へ放り投げられてしまった。だから、よく覚えている。
カークはとっさに、言えることが浮かばなかった。いったい何を言えるだろう。その答えを求めるように、机にすがってふらりと立ち上がれば、彼ははにかんだ顔をちょっと困ったようにして笑った。
「復帰おめでとうございます」
「
……ありがとう。君にはもっと早く、会いに行くべきだった」
「丁寧なお手紙をいただいています。母は感謝していました」
「それでも
……」
「キャプテン」
ふらふらになってしまっている上官をいたわるように、彼は優しく呼びかける。
「あのとき、全艦放送をしてくれたでしょう」
あのとき、という言葉に、肺が焼けるような心地になった。けれど目の前の彼は、冷静に、穏やかに、むしろこちらを慰めるように、そっと微笑んで首を傾げる。
「だから、あのとき、何が起こっていて、自分たちが何をしようとしているのか、よく分かりました。自分のすべきことがちゃんと分かった。それはすごく、あのときの俺を助けてくれました。あなたがすべてと引き換えに、クルーを守ろうとしてくれたことも」
「
……それは」
「そのあとすべてと引き換えに、クルーを守ってくれたことも。エンタープライズはまた飛びますよね? そのときはまた、俺も乗せてください。弟がここにいたら、あいつもきっとそう言うと思います」
ウフーラはあのあとすべての通信を全艦放送にしていたのか、と思った。ちょっとあとで詳しく話を聞かなければならない、とも。
それから、もうそろそろ昼どきで、休憩と称してどこかの会議室に避難できるのは本当によかった。たぶん、ひどい顔になりそうだったから。
泣き出してしまいそうな衝動を精いっぱいこらえて、彼の首に両腕で抱きつくと、彼は気丈にも柔らかく背中を叩いてくれた。
すべての人に認められなくてもいい。ただ、彼らにとってよき船長でありたい。心からそう思った。
「ビールだ~!!」
「1本だけだぞ」
「それもう5回聞いた。分かってるよ、うるさい主治医だな」
ざわざわとした心地よい喧騒に包まれて、カークは運ばれてきた瓶ビールを諸手挙げて歓迎した。このダイナーはレトロな雰囲気が売りである。つまりこの店を探してきたチェコフは、わざわざ主賓の嗜好に合わせてくれたのだろう。そう思うと、嬉しかった。
何人かは付き合って同じものを、他はそれぞれ好きな杯を受け取っている。エンタープライズのクルーでも特に親しい、と思っている面々の、気を許した楽しげな表情をぐるりと眺めて、カークはすでにおなかいっぱい満たされたような気持ちだった。それから全員で杯を掲げて、しばらく、お互いに目配せし合いながら沈黙を共有する。
最初に吹き出したのはカークだった。
「おいおーい、誰が音頭取るんだ?」
「こういうのはキャプテンがしてくれるかな~と」
「俺の快気祝いを俺が祝うとかどんなマッチポンプだよ」
物おじせず、チェコフがぽかんとそんなことを言うので、誘発されるように笑い声が広がった。じゃあ君がしろよ、あなたがやれば、もう飲んでいいか、いいわけあるか、船長の代理なら副長では、私はあなたたちが揉めている理由がよく分かりません。途端にわいわいと会話を始める仲間たちを、カークはうっとりと眺める。仕方ない、いくらマッチポンプだろうが、クルーが困っているなら助けるのがキャプテンというものだ。
「分かった、分かった。ほら君たち、杯を掲げて。俺の健康に!」
自分でもひっどい音頭だと思う掛け声を上げると、自作自演だの自意識過剰だのという心無いヤジを嬉しそうに飛ばしながら、みんな笑って杯を寄せた。フルートグラスなんかじゃない、かちんごちんと不揃いな音を立てるものだったけれど、そのほうが自分たちによく似合っていると思う。
「キャプテン・カークに!」
本部勤務を始めて数日、みんなでごはんを食べたい、というチェコフのささやかな願いをスコットが聞きとめたところから、あれよあれよとこの食事会が企画された。みんなの予定を合わせるのに1週間ほどかかったが、無事にこうしてダイナーのテーブル席を陣取って、気ままなディナーを楽しめている。
そして久しぶりのアルコールだ。仕事上がりのビールである。気分は最高だった。
「
……で、最高な気分の俺に、お前は何を掲げてる?」
「一応、念のため」
「なんだよドクター、酒は心置きなく飲むもんだろ」
「俺もそう思うよスコッティ」
「キャプテンも随分慣れたものですね」
「慣らされた。これはこいつの発作か何かだと思ってる」
「あらら。発作じゃ仕方ないわ」
「お前らなあ」
すい、と慣れたようにトリコーダーを仕舞って、マッコイは渋い顔をする。彼が心配をする気持ちは分かるし、そういった心配を隠していつもどおりにふるまう彼らの気持ちもよく分かった。それなら自分は中立でいようと、何にも気づいていないそぶりで笑い、メニュー表を手繰り寄せる。美味しそうな肉がディスプレイで焼かれていて、カークはぱっと顔を上げた。
「これうまそうじゃ」
「キャプテン。あなたには消化のよいものが必要です」
じゅうじゅうと音さえしそうな欲望が、自分の手から奪われる。その窃盗犯を睨めば、スポックはすました顔でメニュー表を繰っていた。
「タンパク質は豆から摂取できます。復調したとはいえ、消化器官は万全ではありませんから、煮てあるものを中心に選んでください。麺類や植物系の加工食品が最適です」
「俺の両隣がまじ病院」
口をへの字に曲げて前を見ると、キーンザーのつぶらな瞳と、スールーの気の毒そうな笑みが迎えてくれる。カークは大げさに目をくるりと回して、年季の入ったテーブルに突っ伏した。その様子を見て、スコットとウフーラが笑う。
「なんだかんだ言って、科学士官っつーのは理屈の塊だからなあ」
「おっとスコット少佐。それはブルーシャツに対する誉め言葉か?」
「ドクター・マッコイが理屈の塊という説には同意できません」
「突然の個人批判。おい尖り耳、今はレッドVSブルーの構図だったろ」
「争いは見苦しいですよ」
「スールーの言うとおりだぞ、ボーンズ。我らが賢者の言葉に耳を傾けろ」
「賢者かどうかは知らんが、よっぽどお前より命令を聞きたくなるパイロットなのは分かるぞ」
「おっと。それはつまり、キャプテンに対する誉め言葉か?」
「なに、今度は親友同士で喧嘩? 忙しいことこの上ないわ」
そんなろくでもない会話をしている間に、カーク以外の手にメニューが渡り、皆それぞれに好きな注文をしたようだった。やがて配膳されてきたのは豆腐と温野菜の盛り合わせで、それが目の前にどーんと置かれたカークは、この世の終わりが来たかのように天を仰ぐ。
「わあ~い、嬉しいな、豆腐サラダ」
「どういたしまして」
「皮肉が通じてんのか皮肉で返されてんのか微妙だな
……」
「どちらに取っていただいても結構です」
「そうか。では現時点をもって明確な嫌がらせと判断する。スポック!」
「消化にいいですよ」
「だろうともよ!」
目の前で骨付き肉にかぶりつくチェコフをじっとりと見つめていると、彼は気まずそうにそれを両手で隠して背中を丸める。そんなかわいらしい行動にうっかり笑ってしまいながらも、カークはほかほかしたブロッコリーにフォークを突き刺した。
しばらく、飲んで、食べて、好きに語らった。いや、語らう、というほど実りのある会話はなくて、大体がじゃれつくような、中身のない馬鹿話である。けれど、そうであることが妙に嬉しかった。特別でない日常、ごく普通に仲間がそばにいて、楽しく笑っていることが、こんなに嬉しいと思ったことはない。
「本当に、またこんなふうに過ごせてよかった。本当によかった、キャプテン」
かたくなに水だけを飲むスポックと、ビール1本以上の酒を止められているカーク以外は、みんな順調にいい気分になっているようだった。中でもスコットは早々にウイスキーに手を出し、立派に酒の弱さを体現している。弱いくせにがばがば飲むんだもんな、と苦笑すれば、彼はくだを巻くように身を乗り出した。
「あのなあ! 俺は本当にどうなることかと
……、あんたが本当にどうなることかと」
それだけの言葉で、彼がカークの死亡について言っていると理解できる。何となく、みんなが配慮して、さりげなく避けていた話題だった。カークとしてはなんてことないのだが、その気持ちもよく分かる。もしこれが、ニビルの火山で半分死んで、2週間後に目を覚ました男を囲う会ならば、自分だって切り出すことを躊躇するだろう。
けれど、今自分は生きていて、こんなに楽しくなっている。君たちのおかげで。それを伝えたかった。
「君にはひどいことをしたな、スコッティ。ぶん殴って悪かった」
「そんなこと! そんな
――、ああほんとだよ! しばらく頭がくらくらした!」
絡まる呂律を振りほどくように言って、スコットは両手で机を叩いてみせる。その抗議然とした態度に、カークは柔らかく微笑んだ。
「本当に、心配をかけたと思う」
それぞれの顔を見つめ、ゆっくりと、真実の言葉に聞こえるように訴える。
みんなもそれぞれ、彼ららしい表情で、それを受けてくれた。この嬉しさがちゃんと伝わっていればいいのに、とカークは思う。
そうして最後にスポックの神妙な顔を見つめて、にやっとした笑みを浮かべてやった。
「そしてこれからも俺はできることは全部やっていくスタイルで行くから、みんなよろしくな! 振り落されんなよ!」
「反省しろ!!!!!!」
ふてぶてしい態度で胸を張れば、全方位からド叱られて、カークは弾けるようにして笑う。マッコイには小突かれて、スコットからは丸めたペーパーが飛んできた。スポックからは論理的思考の重要性を説く呪詛が延々と響いているし、スールーとチェコフはだめだこりゃ、とでも言いそうな、遠い目をしたアルカイックスマイルだ。そしてキーンザーがドン引きする様子を自分は初めて目撃した。
「死ぬことは許さないけど」
さら、とポニーテールを揺らして、ウフーラはスポックの向こうから身を乗り出す。
「私、あなたの無茶に巻き込まれなければ、きっと今ここにはいなかった。地球も滅んで、艦隊は壊滅して、路頭に迷っていたかもね」
「見ろ、諸君。実に建設的な意見が大尉から出たぞ」
「死ぬことは絶対に許さないから調子に乗らないで」
びし、と鋭い声で断じられて、カークはぴゃっと肩をすくめた。その様子に少し笑って、ウフーラは静かにカークを見つめる。まるでいたわるような、慈悲深い眼差しだった。彼女は元から、愛情深い性質を持っているのだと実感する。
「ひどいこともたくさん起こったけど、悪いことばかりじゃない。私も、あなたがここにいてよかったって思ってる。忘れないでね」
死ぬことは許さないけどね、と3度目の念押しをして、いたずらっぽい笑みを浮かべる彼女に、カークは少し胸が詰まった。ごまかすように、抱きしめてもいい? と問いかければ、あっさり顔をしかめられて笑う。
「まあ、でも、そうだな。なんだかんだで生きてるし」
「慢心するなよ」
「ボーンズ。いいから。悪いことばかりじゃなかったな。こうしてみんなにかわいがってもらってるし」
「自分でかわいがられてるって言ったぞ」
「僕にはとても真似できないです」
「おいそこうるせーぞ!」
途端に茶化すスコットとチェコフに声を荒げると、テーブルは笑いに包まれる。
ふと脳裏に、この事件で死んだ人々の顔がずらっと浮かんできた。悪いことばかりじゃなかった、なんて到底言えない気持ちもある。
けれどこの先、ずっと船長をやっていくのであれば、こういうものの背負い方を、きちんと学ばなければならない。
少しずつ、やっていくしかない。何度も自分に言い聞かせているその言葉を繰り返す。未熟であることを、恥には思わない。自覚して、前に進むのだ。
「あ、あとひとつ、いいことがあった」
ぽむ、と手のひらを拳で叩いて、カークはぽかんと口を開ける。
「なあに?」
「聞いてくれウフーラ。スポックが、俺を友人だと言ってくれた
……!」
死にかけてやっとだよ! と訴えかければ、視界のすみで理知的な片眉がびよんと持ち上がる。対してウフーラは、まあ
……! と感嘆詞を上げて口元に手を当てた。そのわざとらしく感動するしぐさに、カークも悪乗りして感動的な表情を浮かべる。
「冷徹なヴァルカン人にとっては小さな1歩でも、けなげな地球人にとっては大きな飛躍じゃないか?!」
「まあジム、よく頑張ったわね
……! こんなに情緒を育てて!」
そのまま、冷徹なヴァルカン人の膝を挟んで、ふたりでひっしとハグをする。頭同士を合わせたウフーラは愉快そうに笑っていたので、彼女もそれなりに酔っているのだろう。ヒューヒュー、とおざなりなヤジが飛んで、カークは彼女を離し、何やってんだこいつら、というあきれた表情たちに意気揚々と手のひらを振る。
「いや~、長かったな」
「手がかかるわ、ヴァルカン人は」
「失礼、それは侮辱ですか?」
ちらっと横を見れば、むっつりとした表情のスポックが、眉をひそめながら発言している。それがどこか拗ねているように見えて、カークは機嫌よくスポックの体に背を向けると、一切の遠慮なくもたれかかった。
スコットが完全につぶれる前に、会はお開きになった。マッコイはまた発作を起こしていたが、もうこの際好きにさせておこうと思う。なんたっていい気分だ。アルコールが回ったわけではないはずなのに、世界がふわふわと気持ちいい。
「はしゃぎすぎたな」
簡易な健康診断を終えたマッコイは、そう言って苦笑を寄こしてきた。なんとなく、自覚はあったので、カークも似たような笑みを返す。退院してから、こんなにも誰かとはしゃいだのは初めてだった。きっとこのふわつきは疲労感だろう。プールで泳いだあとに昼寝する夏の午後みたいな、ゆるやかなまどろみを近くに感じた。
立ち上がろうとして、後頭部が温かい肩にこすれる。あれからずっと勝手に背もたれにしていた副長は、意外にも文句を言わなかった。ふらつけば左右から腕が伸びてきて、過保護な病院だなあとカークは頬を緩める。まるで介護するように座席から引っ張り出してくれたのはマッコイで、スポックは杖を持ってきてくれた。普通に立てるし歩けそうだが、今日は部屋にたどり着いた瞬間ベッドに撃沈するだろうと思う。
もたもたしている間に、みんなはスマートにおやすみを告げて散っていった。さよなら、じゃなくて、おやすみ、と挨拶できることが、本当に嬉しいな、と何度でも思う。ふわふわにこにこしている患者にマッコイは気が気じゃなさそうだったが、楽しい、と一言素直に告げれば、ぐっと言葉に詰まってくれた。つくづく、ジム・カークに甘い男だ。
「ふらふらじゃない。大丈夫?」
「じゃあ君の部屋へ連れていってよ」
「スポック、送ってあげたら?」
「さらっと無視するじゃん
……」
ウフーラに心配そうに覗き込まれて、へらっと笑えばこの扱いだ。突然話を振られたスポックは、ぱちり、とまばたいて彼女を見つめる。
「私、ですか?」
「友だちなんでしょ」
きゅっと口角を上げて試すような笑みをするウフーラは魅力的だった。揶揄されていることが分かったのだろう、スポックは何かを言いかけて、結局口を閉じる。
「それに、論理的に考えて、180センチを超える大男がふらふらになってたら、それを担ぎ上げるくらい造作もない人員が、付き添いには最適だと思います」
「担ぎ上げられるのはごめんだな
……」
「すっころんで額にたんこぶでも作って明日現れたら、そろそろドクターが発狂するでしょ」
「君の中で俺はどんな人物になってるんだ
……?」
「そういう人物」
ウフーラの発言はいつも端的である。ごちゃごちゃ言うカークとマッコイにぴしゃりと放つと、最後にスポックを見上げて彼女は言った。
「言いたいことがあるなら伝えて。それが真摯というものよ、地球人にとってはね」
じゃあ、よろしくね、また明日! そう言って颯爽と歩き始める凛とした背中を、スポックは戸惑ったように見つめている。言いたいこと? と首を傾げそうになったが、どうもふたりの間の話のようなので、追及するのはやめておいた。取り残された男3人、ただ呆然と突っ立っていることに徹するしかない。
「
……じゃあ、まあ、俺も帰るわ」
最初に沈黙を破ったのはマッコイだった。何か考えているような顔つきで、じっとスポックを見据えている。その視線を彼が返すと、マッコイは短く嘆息し、軽くスポックの腕を叩いた。
「何かあったら連絡を」
「
……分かりました」
「ジム。帰ったらはしゃがないですぐ寝ろよ」
「子供かよ」
「子供だよ」
おやすみ、と言い残して、親友も帰ってしまう。どうも彼なりに何か思いがあってそうしたようだったが、カークにはよく分からなかった。そもそも、自分が寝ている間に、ふたりはずいぶんとつるんでいろいろしていたようである。なんだか前よりもずっと距離が近くなっているようで、嬉しいやら寂しいやら、ちょっと不思議な心境だった。
隣を見ると、やや遅れて双眸がかち合う。
「
……じゃあ、まあ、よろしく?」
「ええ。友人なので付き添います」
真顔でしれっとそんな当てこすりをしてきた友人に、カークは思わず吹き出した。
エアカーの中で少しうとうとしてしまったので、付き添いが必要と判断したウフーラは実に正しかったと言っていい。眠い目をこすりながらキー認証をして、カークはなんとか自室までたどり着いた。ライト、と告げながら部屋へ入れば、スポックものっそりとついてくる。
「シャワー浴びたい
……」
「倒れるかと。今日のところはそのままお休みください」
立ち止まってバスルームを見やれば、背後からそんな無慈悲な声がかかった。振り向けばスポックは遠慮がちに、でも容赦なく室内を検分している。カークは緩やかに笑って、定位置に杖を立てかけた。
「監査かよ」
「監査とは?」
「そんな珍しいか? この部屋」
「中央に独り暮らしには過分なサイズのベッドを置いている、というのは珍しくありませんか?」
「嫌味がうまくなったなスポック、これは行動理論に則した設計だ」
「今日のように、酔ったあなたがそのまま就寝するには最適でしょうね」
「今日は酔ってないしそういう意味でもないんだけど
……、まあいいや」
玄関入って5秒でメイクラブするため、という発想はスポックにはないらしい。不思議そうに古いレコードを眺めている表情がなんだか子供みたいで、カークは事実を封印した。こんなピュアな存在には、知らなくていいことがたくさんある。できれば世界中のそういったものから、この生真面目な副長を守ってやりたかった。
「気になるなら聴く? レコード」
「
……ドクターは、すぐに寝ろと」
「そんな興味津々な顔してよく言うよな」
カークはひょこひょこと歩いていって、レコードを詰め込んだ棚を前にする。足元がおぼつかないからだろう、スポックはすぐさま、滑り込むようにして隣にやってきた。それがおかしくて笑っていると、何か? と咎めるような視線が返ってくる。
「君の気に入りそうなものか。何がいいかな」
「ヒーリング曲はないのですか?」
「俺の友人はどうしても俺を寝かせたいらしい」
にやっとした顔を向ければ、当てこすりと分かったスポックはむっと唇を引き結んだ。かわいいなあと思いつつ、カークは古めかしいシックなシャンソンを取り出す。基本的にアップテンポな曲が好きなので、静かな曲のレコードというとほとんど限られていた。かつて興味本位で手に入れ、そのまま肥やしになっているものだ。
モノクロームのジャケットを抱え、踵を返してひょこひょこと歩いていく。スポックはまるでひな鳥のように、そのあとをくっついて追いかけてきた。なんだか楽しくなってくる。上機嫌で座り込み、針を跳ね上げて円盤を取り出せば、すぐ近くで膝をついたスポックは、きょとんとした様子で、その丸さと、ささやかな凹凸を熱心に見つめていた。
唐突に、頭をくしゃくしゃにして撫でてやりたい衝動にかられる。
カークは慎重にレコードをセットし、苦心して針を正確な位置に落とした。味のある、かすかな雑音がして、それからゆったりと演奏が始まる。するすると回る円盤に見入るスポックに笑って、勝手に彼の肩を借り、カークは立ち上がった。
合わせて膝を伸ばすスポックに手を挙げ、ベッドへ行くだけと分かるよう、すぐさまぽふんと座り込む。脱いだジャケットを適当に投げると、途端に眉を寄せたスポックは、丁寧にそれを拾い上げた。ぽいぽいと靴を脱げば、揃えてベッド脇に並べられる。甲斐甲斐しいなあと笑みをこぼしながら、引き抜いたベルトは直接彼に手渡した。不服そうながらもしぶしぶと受け取ったスポックに、にっこりと微笑んで棚を指差す。彼は非難の言葉もなく、上着を畳んでその上に安置してくれた。
感傷的な女性の歌声が、柔らかく、痛切に流れていく。
ベッドの真ん中で大の字になって倒れ込むと、まるで病院での日々が戻ってきたかのように、スポックは傍らに佇んだ。
「標準語ではありませんね」
「フランス語だったかな」
「明かりを消しましょうか」
「君が帰ったらそうする」
「ここは
……、景観がいいですね」
「それも気に入って決めた」
「チェスをするのですか?」
「ときどき」
「あなたは」
背中で手を組んだまま、滔々とつづられる益もない会話に、とうとうカークは吹き出した。あなたは、と言って、続きの言葉を探すスポックなんてめったにない。ふいに、話がある、というウフーラの発言は、彼から自分に対しての何かなのかもしれない、と気づいた。思えば彼は、毎日のように面会には来てくれていたけれど、事件の核心について話すことはほとんどなかった。きっとこちらの精神状態に配慮してのことだろうが、あの事件では彼にもいろいろあった、と聞いている。
カークはぽんぽんとベッドを叩いた。所在なさげに立っている副長を、優しく見上げる。
「座れよ」
話があるんだろう、とは言わずに微笑めば、スポックは寸刻逡巡したのち、おとなしく腰を下ろした。
しばらく、そのまま静かにシャンソンを聴いていた。ジャケットにL'AMOURとあるくらいだから、愛の歌には違いないのだが、自分にはフランス語を聞き取ることはできない。スポックは座ったまま、じっと動きもしなかった。向けられた背中がなんだかかたくなに見えて、無性に手を伸ばしたくなる。
古い古い名曲は、1曲がとても短い。やがて余韻を残して終曲したレコードは、かすかに空回りしたあと次の曲を始めた。
「スポック」
諭すように、小さな声で呼べば、彼は突如、憤然と立ち上がり、レコードのスイッチを切って戻ってくる。こちらを向いた双眸はどこか切実で、彼はまるですがるように目を合わせたまま、スプリングを跳ねさせて再びベッドに座り込んだ。
「あなたを失う夢を、ときどき見ます」
そうして告げられた言葉に、カークは息をのむ。
「あの経験によって脳に負荷がかかっており、いち早く情報を整理して識別された長期記憶にするべく、何度も演算をしていると思われます」
けれど言い方は、なんというか。彼らしいなと思った。
「あの夢を見ると、強い不安を感じます」
「スポック。俺も、夢を見るよ」
なんだかとてつもない悪行を告白しているような、ほとんど迷子になったようなスポックを安心させたくて、カークは柔らかくそう告げる。口元をほころばせて見上げれば、スポックは少し身じろいだ。
「ときどき、あのときの夢を見る。死んでいくみんなを助けられない夢だ」
「キャプテン、それは」
「俺のせいじゃないって?」
「
――いえ」
「お前は正直だな。俺の脳みそも、ごちゃごちゃになった中身を今、一生懸命演算してるんだろうな」
「いえ、ジム。あなたのせい、を正しく分類すべきです。あなたは責任を負うべきですが、その罪まで負う必要はありません。それはマーカスとカーンの仕事であって、あなたが持ち去っていいものではない」
ちょっと、思ってもみなかったことを言われてびっくりする。思わず目を丸くしていると、静かにこちらを見下ろすスポックは、小さく頷いて生真面目そうに顎を引いた。
「あなたは、キャプテンの仕事をすればいい」
「いや
――、うん
……、まさか君にそんなことを言われるなんて」
「事実です」
「むっとすんなよ。俺がお前を励ますつもりだったのに」
「それはあなたが私に励まされたということですか?」
今度はスポックが、思ってもみなかった、という顔をするので、カークはゆるゆると目を閉じて笑う。
励まされた、というより、やっぱり嬉しい気持ちが強かった。大切にされている、という夢みたいな実感だ。
目を開ければ、伺うように小首を傾げられる。こんな彼が自分のせいで悪夢を見ているのなら、少しでも力になりたいと思った。
「なあスポック。それでも俺は、少しずつ見なくなってる。それは君たちがこうやって、俺を幸せにしてくれるからだ。恐ろしい記憶はなくならないけど、折り合いはついていく。毎日、少しずつ、なんとなく、明るくなるんだ。君はどうだ? 言っておくけど、君だって、相当みんなに愛されてるんだからな」
からかうように笑っても、スポックは無表情だ。けれど、彼の思慮深い眼差しは、こちらの言葉を聞き取り、理解しようと懸命であることがこんなにも雄弁だ。ヴァルカン人は無感情だと言うし、実際彼の父や、評議会の面々に関しては、何を考えているのかよく分からなかったけれど、スポックのことはよく分かる。
スポックのことならよく分かるのが、嬉しかった。
「あなたは
……」
「うん」
「あのとき、私を見て、笑いました」
「うん?」
「私が、あなたを友人だと言ったら」
「ああ、うん」
「何故ですか? あなたは確かに、怖いと」
「はあ。まだそんなかわいい質問する? 君の情緒の伸びしろは果てしないな」
「ジム。私は真剣です。茶化さないでください」
「本心なんだけど。そうだなあ」
嬉しかったんだよ言わせんな、という一言で終わらせてもいいような小さなことを、恐る恐る尋ねてくるスポックがかわいくて、そうだなあ、とカークは考える。どう言ったら、伝わるだろう。体中がちぎれていくような痛みと虚脱感の中で、顔を上げたらスポックがいたときの、喜びと、悲しみと、愛おしさを。情熱にゆらゆらと揺れる瞳から、まるで奇跡のしずくのように落ちた何か美しいものが、まるっきり自分を作り変えてしまいそうな衝動を。
「ただ、お前がさみしそうだったから」
カークはあのときのことを思い出して、片手を上げる。ガラス板を思い出しながら、架空のそれに手を置いて、指先に重なった記憶を脳裏でたどった。
「大丈夫だって言ってやりたくて」
「
……何ひとつ、大丈夫ではありませんでした」
「それでもさ。泣いてたら、頭を撫でて、大丈夫だって笑ってやりたいだろ。だって君は、俺の」
「友人だから」
即答したスポックに顔を上げれば、彼は敬虔な教徒のような眼差しだった。清廉さと、どこか熾火のような熱さをはらんだ、濃い色の双眸が、宙に浮かんだ指先を見つめている。それに少しだけうろたえて、彼の視界から手を引っこめようとしたとき、ふいに彼の手が伸びてきた。
「違いますか?」
ゆっくりと、確かめるように、触れようとしている彼を、カークは結局待ってしまう。
覚悟はしていたはずなのに、スポックの指先が触れたとき、ひどく大げさに震えてしまった。だってものすごく熱かったのだ。まるで火がついたようだった。良くないところに着火して、全身火だるまになりそうなくらい。
「俺は」
ひとつまみの戸惑いと、かけらほどの自信を溶かした、まっすぐな瞳がこちらを見つめる。
今すぐ水が飲みたい、と思った。
「そうだよ。君がだいじだから、そうしたいんだ」
なんとか、かろうじて、笑みを浮かべてそう伝える。するとスポックは安心したように息をついて、あろうことかそのままぎゅっと手を握ってきた。勘弁してほしい。
「私もあなたがだいじです。もう死なないでください」
「それは、まあ、努力します」
「努力」
「
……突然めちゃくちゃ怖い声出すじゃん
……」
あえぎあえぎ、冗談をかませば、スポックは首肯しかねる様子で眉間に皺を寄せる。けれど握った手を、そっとカークの胸元に戻すしぐさは、ひどく繊細で丁寧だった。それからめくれ上がった布団を引っ張ってきて、丁寧に肩まで包み込んでくれる。帰る気だ、と悟って、カークは無性に焦った。なんとなく、こんなふうな気持ちのまま置いていかれたら、大変なことになる気がする。何かからっと笑える話で雰囲気を払しょくしなければ、といつもなら無駄に回る頭を全力で回してみるものの、曲の終わったレコードのようにからからと鳴るだけだ。
「そ、そういえばさ」
「なんでしょう」
なんだか血圧も上がってきた気がする、と絶望的な気持ちで、スポックを呼び止めた。上官を快適な就寝環境に押し込むことに成功したスポックは、どこか満足げな様子で振り返る。
「君、あのとき、ヴァルカンのいつものあれしただろ。死にそうな友人に向かって長寿と繁栄はひどくないか? それとも君たちにとってのあれは、イタリアの女の子と遊ぶときに使う『チャオ』みたいな、万能の意味が込められてる?」
あー、ろくでもないことを言った。口に出したそばから頭を抱えたくなったが、あいにく出たものは引っ込められない。なけなしのにんまり顔を浮かべてひやひやしていると、スポックは片眉を跳ね上げて、案の定、じろりと見据えてきた。
「あれは敬愛を示す挨拶です」
「け、けいあい」
「あなた方も握手をするでしょう」
「そ、そうですね」
「私が本当に、皮肉であれをしたとでも?」
「すみませんでした」
「あなたが今、どんな支離滅裂な思考回路に陥っているのかは分かりませんが
――」
カークのしどろもどろさにあきれたのか、そこで一旦言葉を切り、スポックは強い視線を寄こす。
「私は常に、あなたが長く生き、強く成長して、大成することを望んでいます。ジム、死なないと約束したことを、決して忘れないように」
そして、彼はそれだけを強く言い放つと、毅然とした態度でまっすぐに部屋を出ていった。
「約束は、してないぞ
……」
かろうじて、それだけは言えたものの、返ってくるのはオートロックの施錠音だけである。カークは盛大に溜息をついて、ぐるりと仰向けに転がった。
なんだか、異様に疲れた。
嵐にでも揉まれた気分だった。眠気は吹き飛んでしまったが、体はぐったりとしている。仕方なく、ライトオフを命じれば、よし寝ろ、と言わんばかりに室内は夜に包まれた。
目を閉じると、先ほどのスポックが思い浮かぶ。触れた指の熱さを思い出して、濃い色の双眸を思い出した。もぞもぞと落ち着きなく手を動かして、なんとなく、そう、なんとなくだ。本当に特に何も考えず、指先を唇に押し当てる。その感触を思い出して、カークはそのまま手を握り込み、両目に押し当てて布団にもぐり込んだ。
頭に入っている、ヴァルカン人の習性についての項目を、索引しようとする意識を必死に押し留める。
まるで手の中に燃える星を飼っているようだった。詰めていた息をほっと吐くと、とても熱くて湿っている。
だいじな人だ、とカークは思う。彼は本当に、だいじな人だ。だから、このちかちかした強烈な光を、肋骨の奥にぎゅうぎゅうに詰めて、だいじに仕舞っておかなければならない。
そうしていつの日か、触れても無害な宝石になったら、そっと取り出して眺めるのだ。
そうしたい、と心から願った。敬虔な教徒のように。