13+|AOS spirk|2021.2.17|ST2009のあと、ウーマナイザー起因の問題を起こすジムと、面倒を見るスポックの話。ジムの過去をフリ~~~ダムに捏造しています。
※ 軽度の暴力的表現、性的にセンシティブな内容を含みます。
ワープ航行中特有の、すべてが静止したかのような船窓をぼんやり眺めながら、カークはふと、こう思った。
「もしかして俺、1か月セックスしてない」
「おいジム」
「キャプテン」
「セクハラです」
途端に周囲から非難めいた声が飛んで、カークはくしゃっと顔をしかめる。もったいぶったようにぐるりとキャプテンチェアを回せば、きっつい真顔のウフーラと目が合った。ちなみに視界の半分を占めている、ごく至近距離のブルーシャツについては不問とする。
「なんだよ、独り言も許されないのか?」
「セクハラの定義はご存知ですよね、キャプテン」
「君のそのわざとらしいキャプテンって発音、大好き」
「
――キャプテン」
露骨にどすの効いた声がごく至近距離から発せられて、カークはぱくんと口を閉じた。心してそっと見上げれば、やべー真顔のスポックが、ガチの無表情で見下ろしている。
「こっわ」
「どうやら忠言が足りなかったようですので、地球に到着するまでの間、デブリーフィングの延長を提案します」
「待って待って、もういい、もう十分。君めちゃくちゃ怒るじゃん」
「すべてご自身の所業が原因だということをよくよくご理解ください」
「絶対にこいつ、丁寧に言ってる間は自分のこと冷静だと思ってるよな」
「それについては同意するが、お前は反省すべきだし、場所をわきまえて発言するべきだ」
恐ろしい副長を指差してマッコイに振れば、船医はしかめっ面でそう言って、先ほど甲斐甲斐しく保護テープを貼ってくれたはずの額をぺしっとはたいた。いでっ、と訴えても彼はどこ吹く風で、ポーチにトリコーダーをしまい込むことに気を取られている。
むう、とふてくされた顔を作って、カークは正面に座り直した。背後でどれだけごちゃごちゃやっていても、寛大なスールーはよほどのことがない限り見守ってくれるし
――クレバーに無視しているとも言う
――、チェコフは愉快そうに笑ってくれる。今も振り返った彼は初々しくにこっとしてくれて、嬉しくなったカークも同じように笑顔を返した。
「あと何分?」
「23分です」
「はあ、やっと帰れるな」
やれやれ、とくたびれたおじさんのような発言をするマッコイの声を聞きながら、カークはゆったりと頬杖をつく。初めての惑星探査は軽い怪我もしたけれど、最高に楽しかった。そのあと自主的に開催されたブリッジ内反省会は、ほぼ副長が無茶苦茶やった船長を比類なき論理でつるし上げる会と化したが、まあそれも含めて楽しかったと言えよう。こいつのこの謎の熱意はどこか別のところで活かされたほうがなんぼか社会貢献になるのでは、と考えるだけでじわじわとしたおかしみに包まれるからだ。
静かに流れる船窓の様子は変わらない。そのうちふっとこの運動が途切れて、目の前には青い母星が映るんだろう。
カークはゆっくりとまばたいた。
「こんなに長いことセックスしないなんて久しぶりだ」
「おいジム!」
「ドクター、あなたがそうやって構うから、うちのトンチキキャプテンが調子に乗ってこういう失言をするんじゃないの?」
「俺のせいだっていうのか!」
「酔っ払いには水が必要でしょ。よく冷やすのが一番」
つん、と澄ました様子のウフーラに、マッコイは少し考えるしぐさをする。カークはにやにやと笑って、無為に椅子を左右に揺らした。
「冷たいなあ、ウフーラ大尉は。なあ、ボーンズ」
「
………」
「おっ、君も冷たくする気だな。親友なのにつれないな」
「
………」
「まあどうしてもセックスしたくなったら、最悪ボーンズが付き合ってくれると思う」
「するか!!!! どんな自信だ!!!!」
言葉を選んでみたら、押し黙っていた親友はあっさりと食いついてくれる。あちゃあ、というように肩をすくめて自分の画面に戻ってしまうウフーラを横目に、カークは思いっきり破顔した。
「優しくするよ」
「お前のそれはフリだろどうせ! だったらスポックでもよくないか?!」
「スポックぅ? だめだめ、俺はこう見えて人のものには手を出さない主義なの」
「じゃあチェコフだな!」
「そこで真っ先に僕の名前を出されるの、ちょっとへこみます
……」
「んー
……、いや、だめだろ。こんな前途有望のかわいいティーンをただれた遊び人の手にかけるとか、お前正気か、最低だな」
「お前が言うか?!」
ぎりぎりのネタでマッコイをからかうのはとても楽しい。彼はいつだって元気に反応を返してくれるし、なんだかんだ言って、甘いのだ。適当なことを言って笑っていると、彼はそのうち諦めて、仕方ないなとひねくれた笑みを浮かべる。頭が痛そうに額を押さえているが、どうせあれもフリなのだ。
「
――――キャプテン」
完全に、このくそども、というルビが振られるような声だった。
聞こえてきた後方斜め上をちらっと見れば、文化遺産並みの厳格さで眉間に皺を寄せている副長がいる。
ろくでもないネタでスポックをからかうのも、カークは最近とても楽しい。に~っこりと笑ってやれば、このくそやろう、とテロップが入りそうな無表情で、彼は鋭い眼差しを据えてきた。
「倫理研修コースは3時間です」
「君、ジョークがうまくなったよな」
「あなたが口を慎まないのであれば、パイク提督に報告します」
「すぐ上官にチクるじゃん!」
友だち甲斐のないやつめ、などとぎゃあぎゃあ言っているうちに、あっという間に時間は過ぎる。
到着しました、というチェコフの声が割って入ったと同時、ふっとワープ航行が解けた。予定どおり、美しく青き星、我らが故郷の地球が真正面に映る。
嬉しそうな様子の面々を視界に入れて、カークは満足した笑みを浮かべる。
それから、終わってしまった、と思った。
帰還後は簡易のメディカルチェックを受けて、報告会、そのあとは地上勤務である。寄せ集められたクルーたちは一度解散し、それぞれの所属部門で、持ち帰ったデータをもとに、必要な仕事をすることになる。マッコイはメディカルセンターに出勤だし、スポックとスコットはそれぞれのラボ行きだ。チェコフやスールーとはすれ違うかもしれないが、ここでカークが主に接するのは、同じ大佐階級の者か、それより上長の士官になる。
艦隊の運用に関わる部分や、方針の検討はそれなりに面白い。パイクの執務室でいろいろ教えてもらうのも楽しいし、調査帰りの船長たちとする航宙の話は盛り上がる。エンタープライズによる別惑星の調査予定はすでに立っていて、少しずれ込むことはあっても、そのうちまた同じクルーたちと宇宙へ飛び出す用意もある。
けどたぶん、この1か月が楽しすぎたんだろうな、とカークは思った。
「さみしそうな顔してる」
ぼんやりと、窓に映る夜空の星たちを眺めていたら、いつの間にか戻ってきていた彼女がベッドを回って近づいてくる。カークはそっと微笑んで、その濡れた髪に手を伸ばした。
「君がいなかったからね」
帰還して、終業と共に放り出され、打ち上げと称してみんなで飲んだ夜はよかった。
次の夜は、ひとりでぽつんと放り出され、なんとなく、落ち着かなかった。だからとっておきのバーに入って、女の子をナンパした。
あれからずっと、毎晩、こうして誰かと過ごしている。
名前も知らない彼女は柔らかく微笑み返すと、よしよしと髪を撫でて抱きしめてくれた。カークは甘えてその柔らかい胸に顔をうずめ、ゆったりと息を吐きながら、あたたかい背中に指を這わせる。
こんなことをしていると知ったら、マッコイはものすごく渋い顔をするだろうな。
その鮮明に想像できる顔を思い浮かべて、カークは口元を緩ませた。あいつはアカデミー時代から、自分のこういう悪癖を嘆いては心配してくれる。もういい加減懲りただろうと思っても、しぶとく諦めないのが持ち味だ。彼はいつも、ちゃんとしろと口酸っぱく言うけれど、もし本当にちゃんとしたら、空の巣症候群になってしまうに違いない。だから、カークはだらしないまま、あいつに甘えてやっているのだ。必要だから、許している。なんて空論を、大真面目にぶったら本気で怒られそうだけど。
マッコイにはああ言ったが、抱くのは必ず女の子だ。
この衝動を、愛着障害なんて言葉で分析されたとき、父親がやり玉に挙げられるのは分かりきっていたし、それは絶対に許せなかったから。
まあ、そんなことを考えている時点で、語るに落ちてはいるのだが。救いようがないな、と自分を鼻で笑えば、彼女は優しくキスしてくれた。
「楽しそうな顔してる」
「君がいてくれるからね」
軽い言葉で遊びながら、そっと身を横たえる。集中しよう、とカークは思考を切り替えた。それが礼儀というものだ。
幾晩かはうまいこといっていた。けれどまあ、そう続くものでもないのが気軽な肉体関係というものである。
真正面から3発、殴られてカークはぶっ倒れた。この感覚久しぶりだな、と思うとなんだか楽しくなる。くらくらする頭を振って顔を上げれば、憤怒の形相の男が血のついた拳を振りかざしていた。うん、これは鼻血が出た。折れてはいないようだが困ったな、と鼻をすする。
「へらへらしてんじゃねぇよ!」
「どこのチンピラも言うことは同じだな」
はは、と笑えば、今度はボディに来た。人を殴り慣れてるなと思う。顔をやられたということは、今日はもう女の子とベッドインするのは難しいだろう。カークはそう判断して、ろくな抵抗をせず拳を受け入れた。致命傷にはならないように、少し体をずらすのは得意だ。
しばらく、路地裏でそんなことをやっていた。やがて希代のイケメンを殴ってスッキリしたのだろう、二度とそのツラ見せんなよ、とこれまた定型文を吐いて男は去っていく。カークは仰向けにごろんと寝転がり、建物に四角く切り取られた夜空を見上げた。壁についている照明がまぶしくて、星の見えない、ただ暗いだけの宇宙である。なんだかそれが愉快に思えて、カークは笑って身を起こした。たぶん、アドレナリンのせいだろう。
のろのろと立ち上がり、すぐ前の、先ほど喧嘩を売られたバーに戻る。言い合いになる前に外へ出たので、カウンターには飲みさしが残っていた。残したままにしておいてくれたバーテンダーに肩をすくめれば、彼は仕方がなさそうに微笑んで奥へ戻っていく。だらりと垂れてきた鼻血を手の甲で拭って、ペーパースタンドがないかと顔を巡らせた。なんだかあの日みたいだな、と思う。アイオワの片田舎で、やり手の宇宙艦隊士官に出会ったあの日。
「あなた、よっぽどそういう化粧が好きみたい」
「そうそう、で、こういう美女がいたんだよ」
「
……頭は大丈夫、よね?」
さらりと隣に座ったウフーラは、あきれた顔で眉間を寄せた。寄ってきたバーテンダーに1杯注文して、バッグからペーパーを差し出してくれる。
「優しいね」
「ほっとこうか迷ったけど、曲がりなりにも上官ですから」
「優しすぎて涙が出そう」
「いったい今度は何をしたの。路地裏からぼろぼろで出てくるなんて」
「ただの喧嘩だよ、よくあるやつさ」
「それは〝よく〟あってはいけないやつじゃない?」
「ちょうど今、君が座ってる席に、さっきまで女の子が楽しそうに座ってたんだけど」
「あなた」
「ちょっと乱暴で嫉妬深い彼氏がいただけ。君のその表情、君の彼氏にそっくりだな」
もの言いたげにひょいと眉を持ち上げたウフーラを指差して笑うと、彼女はむっとしたように顔をそむける。出された1杯をぐっと呷って、不機嫌そうにしている様子もどことなく彼氏を髣髴とさせた。一緒にいると似てくるんだろうか。そんなことを考えると、ものすごく愉快な気分になる。
「今日は君のカップケーキちゃんたちはいないの?」
「カップケーキちゃん?」
「ほら、保安部の」
「アイオワでの一件のことを言っているんだったら、彼らは田舎のクソガキに絡まれてた同窓を助けてくれただけよ」
「なるほど、クソガキね。その同窓は、君のことが大好きみたいだけど」
「あなたも、人のものには手を出さないんじゃなかったの?」
「ヒューマンエラーだよウフーラ大尉。俺ほどの俺にだって、時には間違えることもある」
「あきれた」
「フリーだっていう嘘はいつも見抜けるはずなんだけどな。なんか今日は、だめだったなあ
……」
急いては事を仕損じるとは、金言だね。そんなことを言いながら、カークはだらしなくカウンターに突っ伏した。腕の中でちらりと横を向けば、ウフーラはやや驚いたような表情で、じっとこちらを見つめている。殴られた箇所が熱を持ったせいだろう、なんだかぽかぽかして頭が回らなかった。彼女がここにいる、というのも良くない。きっと彼女も、なんだかんだ言って、自分を見捨てることはないだろうから。
「なに、もしかして本当に節操がないと思ってる?」
「
……そうね、節操という言葉の相互理解に、致命的な深い溝は感じるけど」
「君、まじで理屈っぽいぞ」
「いちいちスポックと絡めないでよ。私は言語学専攻の学士です、キャプテン」
「そうだった」
ぱっと笑えば、ウフーラは何とも言えない変な顔をする。くっくと笑みを抑えながら、カークは飲みさしのスコッチを呷った。横着な飲み方をしたせいで、こぼれて切れた唇が痛い。
「安心してくれ。君がどんなに魅力的な女性でも、キスしちゃいたいなんて思わないから」
「もっと他に言い方はなかった?」
「1か月、船に乗って思ったんだ。俺はどうもおかしなことに、クルーの子には手を出さないなって」
「だから、それはちっともおかしくないからね。あなたの常識どうなってるの」
「そう? 俺はちょっと、感動的だったな」
「どうかと思うわ」
「俺の〝まとも〟も、思ったより息してんだなって」
ウフーラは、また変な顔をした。いや、真面目な話をしたはずだけど、と伺うように首を傾げると、彼女は徹夜明けのマッコイみたいな表情で、眉間をぎゅっと指でつまむ。
「誤解があるような気がするから、補足するけど」
「うん」
「たとえクルー相手でも、あなたが本気で真面目に恋愛をするなら、私はどうこう言わないし、それはとても普通のことよ」
「ああ、うん。そうだね」
「『ああうんそうだね』?」
「なあその怖いオウム返しもさあ
……、あ、いいです。なんでもないです」
「なんでそんな嬉しそうに馬鹿みたいなことを言うの」
「馬鹿って。じゃあ論理的に言うけど、これはつまりインセストタブーの話で」
背中を起こして一席ぶとうとした途端、問答無用でクソデカ溜息に遮られた。ぱちくりと隣を見つめれば、それを発したウフーラは、ひたと視線を合わせ、残りの杯を呷り、カークの飲み残しまで空にしたあと、強く叩いてグラスをコースターに戻す。
「
……ウフーラ?」
「ああもう、ほんとやだ。こうしてみんなマッコイになっていくのね」
「は?」
そうしてポケットから私用の端末を取り出して少し操作すると、こちらの腕を取って立ち上がった。わけの分からないカークとしては、まごまごと従うしかない。発作でも起こしたかのように迅速に店を出る彼女は、まごつく上官には一切構わず、そつなく車を捕まえた。
相当あきれ返って家に叩き帰されるのかな、と思いながら、カークはおとなしく座席に乗り込む。まあ確かに、場末の路地裏で痴話喧嘩をするただれた遊び人が自分の上官、というのは、彼女のような普通の人にはちょっとないことだろう。ささやかなアハ体験を提供できたかもしれない、と思うとおかしくて、にやにやしていたら厳しく睨まれた。怒った顔も美しいが、少しは優しくしてほしい。わざとらしくしょんぼりしてみると、なんとウフーラは吊り上げた眉を、少しだけ下げてくれた。同時に落とされるやや緩んだ溜息は、マッコイが説教の末に投下するタイプのそれで、なるほどマッコイ化はしているのかもしれない、とカークは思う。意図は不明だが。
自分の部屋の住所を告げようとして、彼女に先を越された。
はい? と思って隣を見ても、ウフーラはまるで気にしていないように、シートにゆったりと身を預ける。
「えっと、君にキスはしないけど、さすがに部屋に招くのは」
「安心して。私は困らないから」
「いや、まあ、俺も困らないけど
……、えっ? でもだめだろ」
「どうして」
「えっ。だって、俺を部屋に連れ込むんだろ? だめだろ、スポックに殺されちゃう」
「スポックに殺されちゃうのは私かも」
「んぅん?? いやいや、それはないだろ。というか、なんで?」
「あなた、今夜はどうする気だったの?」
「へ? あ、これからってこと? ええっと
……、この顔でキャンディちゃんと遊ぶことはできないし、まあ、そうだなあ
……」
「そこですぐ、家に帰って寝るって発言ができない時点でだめ。まるっきりだめ」
「えぇえ」
そんなことを言い合っている間に、車は滑らかに空中を旋回し、本部にほど近いマンションに到着する。なんかすげーとこに住んでんな、と内心思いつつ、車から降りてぽかんと見上げていると、再びウフーラは問答無用でこちらの腕を引っ張った。
「いてて、ちょ、そこ痛い。逃げないから引っ張んなって」
そう訴えてみるものの、かたくなに無視だ。そろそろ泣いてもいいんじゃないだろうか、そう思いながらずるずると引きずられて、やっと立ち止まったのはエントランスのインターフォン前だった。部屋番号を問い合わせるウフーラに、カークはきょとんとまばたきをする。数秒後、玄関が自動で開いて、カークは中に連れ込まれた。インターフォンに見えたあれは、パスコード認証装置だったのだろうか。そんなことをぼんやり考えている間に、リフトが目的階に到着する。
ウフーラの足取りは確かだった。通路を少し歩いて、とあるドアの前で停止する。
そうして、彼女は鍵を取り出すのではなく、再度インターフォンを押した。
「
……いっこ確認なんだけど」
「私もひとつ確認するけど」
「ここ、君の部屋だよね?」
「あなた、逃げないって言ったよね?」
ひくり、と息をのんだと同時、カチャ、と静かにドアが開く。
その向こうに、くそ不機嫌そうなスポックが仁王立ちで現れて、カークはとりあえずぎゃーっと言った。
とっさに逃げを打ったカークにしがみついたのはもちろんウフーラだったし、ウフーラが苦労していると見るやスポックに首根っこを押さえられた。じたばたともがいている間に、ふたりは意思疎通を交わし、ウフーラは早々に退場してしまう。いやだ待ってふたりにしないで絶対怒られるやだ待って
――、そんな悲痛な上官の叫びを、優秀な通信士は聞かなかったことにしたらしい。耳がいいんじゃないのかよ! という捨てゼリフは、彼女のかわいらしい小さなバイバイと共に廊下の先へ消えてしまった。
カークをガン無視してなされたふたりのやり取りとしては、こうだ。
ウフーラは、シェアメイトに迷惑がかかるからうちには連れて帰れない、と訴えた。けれど、このあほ船長をほっておくと、確実に問題行動を起こしそうである。よって最も信頼のおける同僚に、このあほ船長の見張りを頼みたい。なるほど見事な三段論法である、このやろう。
対してスポックは、真っ先に、ドクター・マッコイは? と言った。早々に厄介ごとをたらい回しにする気である、このやろう。そしてウフーラはというと、端的にして完璧に、今日ドクターは夜勤で無理、と論破した。たぶん彼女こそ、うちの艦が誇る最強のクルーであろう。
「
……キャプテン」
それ以上の反論を許されなかったスポックは、どこか途方に暮れたように、そう言った。詳しいことがまったく分からないせいで、おそらく何を叱っていいのかも分からないのだろう。カークはしめたと口元を上げた。このままうやむやにしてしまおう。
「うん、君も困るよな、こんな夜中に。帰るよ、ウフーラには適当に言っといてくれ」
ひらひらと手を振って、迅速に踵を返す。
が、直後、カークは後ろ向きにつんのめった。
「あなたを預かると約束しました。今夜は帰しません」
「
……お前、そういうセリフは彼女に言えよ
……」
ぼすっと後頭部が突撃したスポックの胸板を振り返りながら、あきれてものが言えない顔をする。けれどそんなアピールなど意に介さず、優秀な副長は折り目正しく相対し、こちらを招き入れるように玄関から1歩引いた。
「状況報告を。いったい何があったのですか。その傷は?」
「プライベートの内容を報告する義務はないと思います」
「ではニヨータに訊きます」
「あーっ、もーっ! ただの喧嘩だよ、喧嘩。分かったよ、帰らないでやるから、お前絶対怒んなよ?」
「喧嘩? まさか艦を預かる船長が、一般人を相手に喧嘩を?」
「もうすでに顔が怖いんだよな。入りたくない
……」
「詳しくお聞きします」
「査問会思い出すんだけど
……」
結局のところ、こうなった時点でカークに選択肢はなかった。恐る恐るドアをくぐれば、背後でカチャと施錠音がする。なんだか実刑を受けるような気分になって、殊更慎重に息を吐き、カークは何かよく分からない覚悟をした。
何でもないようにずんずんと進んでいくスポックの背中を追って、おっかなびっくり踏み入れば、靴の裏を柔らかいカーペットが受け止めてカークはぴゃっと跳び上がる。想像どおりというかなんというか、部屋は隅々まできれいにしてあって、あらゆるものが整然と配置され、シンプルで機能的な箱の中に、異星の種族文化が程よいアクセントで織り込まれているようだった。天使も踏むを恐れるところ、とカークは口の中で舌を転がす。広いリビングダイニングの照明が間接を残して落とされているのは、彼がその向こうの寝室と思しき扉の中にいたからだろう。ライト、と歯切れのよい発音で、スポックは部屋中を明るくする。
「座っていてください」
彼はそう言って、明かりが差していた寝室へ引っ込んでいった。カークはスポックが目線で示した先、窓際の肘掛け椅子に目を向ける。テーブルを挟んで2脚あるそのチェアは、完璧な角度で向かい合っていた。張られている濃紺の布は、繊細な織り込みで不思議な幾何学模様を描いており、清楚で神秘的で、なるほどスポックが選びそうな逸品である。ぴかぴかした原色の派手なクッションでも置いてやれば、さぞ浮かれたうさぎみたいにあいつは眉を跳ねさせるだろうな、と想像するだけで笑ってしまった。
触り心地がよさそうな肘置きを撫でようとして、自分の指先が目に入る。鼻血をすすった手は、爪の輪郭で血が凝固していた。慌ててひょっと手を引っ込め、改めて己を見下ろしてみる。路地裏で殴られて転がっていたのだ、そりゃあもう、ジャケットからズボンから、薄汚いありさまだった。どっかの誰かの吐瀉物にまみれてないだけましだったが、乗ってきたエアカーには悪いことをしたな、と今更ながらに憂慮する。
カークはきょろきょろとあたりを見渡し、どこが一番ましかを考えて、フローリングが見えている玄関からの導線上に腰を下ろした。
「
……何をしているのですか」
膝を抱えて前後に1回揺れたところで、スポックが戻ってくる。手にメディカルケースを持っているところを見ると、優しいことに貸してくれるつもりなのだろう。けれど彼は、床に座り込んでいるカークを一瞥、この世の不条理をすべて詰め込んで蒸留した酒でも引っかけられたような顔で固まってしまった。カークはわざとらしくもう一度前後に揺れ、拗ねたように唇を尖らせる。
「座れって言うから」
「そこの椅子が見えませんか?」
「あのなあ、君には路地裏で喧嘩するっていうのがどういうことか想像もつかないんだろうけど」
「本来想像する必要もありません」
「あのきれいなのが汚れちゃうだろ」
くい、と顎をやって、素敵なチェアを指し示せば、スポックは素直にそちらを見た。それからすぐに、静かな視線を戻してくる。どうも分かってないなと悟って、カークは分かりやすく血だらけの両手を広げてやった。笑っておどけて肩をすくめて、やっぱり出ていくべきかもしれないと思う。たくさん怒られたっていいから、もっと踏むを恐れるべきだった。そんな気がする。
「
……キャプテン」
「なあスポック、俺やっぱり」
「バスルームをお貸しします」
ぎゅ、と眉間に皺を寄せたスポックは、突然そんな宣言をした。
言われたことがうまく飲み込めず、カークはぽかんとそんな彼を見上げる。戸惑っている間にも、まるで非難するような視線が突き刺さり、そのうち焦れたのか、ぬっと手を差し出された。打撲して痛い腕をわざわざ掴んで、四の五の言わずに立たせてくる。
「いだだ!」
「っ、失礼。いえ、こんなところも負傷したのですか、あなたはどこまで浅慮なのです?」
「えっ、おふろ貸してくれるの?」
「聞いてください」
「あー、待った、汚れるから離れて」
「今すぐその愚昧に満ちた傷口をすべて丸洗いしてください。でないとキットが使えません」
「愚昧なんて言葉10年ぶりくらいに聞いたな~。いやすみません、分かっ、分かったから離れて、いだだ!」
スポックの、なんだか身ぎれいな部屋着を汚したくなくて、カークはじたばたと身をよじった。けれどまあ、よくよく上官命令を聞かないこの部下である。抵抗するほど押さえつけられ、そのうちほぼ逮捕された容疑者の様相になるに至って、カークは諦めた。
もたもたと押し込まれたバスルームは、案の定、清潔感でいっぱいで、何となく背中を丸めてしまう。
「では、お待ちしています」
「え、待って待って」
そんな心細い船長を置き去りに、早々に退場しようとする副長に驚いて、カークは思わず背筋を伸ばした。何か? とでも言いそうな真顔が振り返って、何かじゃねえよと叫んでやみくもに揺さぶってやりたくなる。
「タオルとか、そういう。あのへんの戸棚に入ってる?」
頭上の棚を指差して問うと、スポックはなんだかものすごく珍妙な顔をした。
いや、もちろんのごとく、無表情である。けれど、鉛の塊でも飲み込んだような、ぐっと押し黙ってまばたきを忘れる様子は、彼が確実に動転している合図だ。
「
――はい。ここにありますので、好きにお使いください」
スポックは何秒かの間に心を落ち着けると、まるで冷静な声音でそう言って、戸棚からふかふかのタオルを取り出してくれる。
ははぁん、とカークは思った。
「さては君、友だちを泊めるのが初めてだな」
「なにを」
にんまりとほくそ笑みながら、腰をかがめて顔を覗き込めば、スポックは磁石が反発するように体を引く。その反応に気をよくして、カークは大げさに両手を自分の頬に当て、取ってつけたようにぱちぱちとまつげを揺らしてみせた。
「君が手抜かりをするって、つまりそういうことだろ。想像がつかないんだ。ウフーラは苦労しただろうなあ」
「詮索は結構です。あなたは早くやるべきことを」
「なあスポック、俺は別に困らないんだけど」
「私は現時点で困っています」
「汚れた服また着たくないから、俺は君の部屋を全裸で歩き回ることになるぞ」
「
……ガウンをお持ちします」
「ぱんつもな」
「ぱ
――、あなた用の下着は用意がありません」
「君のでいいよ」
「は?」
「君のぱんつ。それとも君、普段ぱんつは穿かないタイプ? であれば俺も、その流儀に従うけど」
「常にぱんつは穿いています! いえ、そうではなく、下着は」
「とっておきのやつでもいいぞ!」
うろたえるスポックに笑いが止まらなくなって、カークはそれだけを言うと、勢いよくジャケットを脱いでバスルームに放り込んだ。洗い流せるなら掃除も楽だろうと思ったからだ。その間にも、スポックは横からごちゃごちゃと訴えてきたけれど、カークは頬を緩めたまま、すべてを聞き流してシャツも脱ぎ去る。ズボンも脱いだところで、やっと、その屁理屈生成器は口をつぐんだ。
ちらと見やれば、スポックはじっとこちらの腹を見ている。たぶん、受けたブローが青あざになっているのだろう。
「ジム、早めに出てください」
それから静かにそう言って、噛んで含めるようにひたりと視線を重ね、素直にバスルームを出ていった。カークはなんだかむずむずとした気持ちで、口角を持ち上げてしまう。ものすごく不器用に、心配されている。そう思うと有頂天になりそうだった。本当に、本当にかわいいやつだと思う。
カークはうっとりと、目を閉じた。ゆっくりと、舌先で確かめるように、天使も踏むを恐れるところ、と唱える。窓辺にあった、あの濃紺の椅子を思い浮かべながら、忍び足でバスタブに入った。
天使も踏むを恐れるところ、愚か者こそ勇んで踏み抜く。浮かれてあのきれいな椅子を、汚してしまいたくはなかった。
ドア脇にそっと置かれたなんの面白みもないぱんつを見て、カークはそっと微笑む。彼の大勇断を汲んで、素っ裸で出ていくことは取りやめにした。併せて置かれていた清潔なシャツは、なんだかもったいなかったのでそのままに、滑らかな手触りのするガウンだけを羽織ってリビングへ戻る。
「何故」
「俺はぱんつは穿くけど服は着ないタイプなんだ」
肘掛け椅子から振り返ったスポックが、ぐっと眉を寄せるにかぶせて、カークはシンプルな言い訳を述べた。ひょうひょうとした顔でぴらぴらと手を振れば、スポックはあらゆる言葉を飲み込んで、メディカルケースを手に立ち上がる。
「
……座ってください」
「不服そうだな」
「これ以上議論を重ねてあなたの傷を放置するのは無益と判断しました」
「君んちの洗顔、めちゃくちゃ肌によかったよ。赤ちゃんも洗えそう」
「座りなさい」
「とうとう命令形じゃん
……」
しぶしぶ、といったていで、指し示された濃紺の肘掛け椅子に腰を下ろす。物怖じしているのが悟られないように、わざとらしく背もたれを贅沢に使い、でかい態度で足を組んだ。もちろんスポックはいい顔をしなかったが、同じくしぶしぶといったていで、ケースを差し出してくる。カークはそつなく受け取って、慣れた手つきで道具を取り出した。
「顔はやります」
ごくそばに佇むスポックがそんなことを言うので、目を細めて彼を見上げる。
「できるからいいよ。それより今何時だ?」
「23時42分です」
「適当にやっとくから、君は寝ろよ」
「見えないのでは?」
「じゃあバスルームまた借りるから。これくらいなんてことない」
「なんてことない、ですか」
スポックが不満そうに言葉を繰り返すときは、承服しかねるので反論したいがうまい言葉が見つからない、というようなときだ。マッコイが言いそうな文句が飛び出してくる予感がして、カークはとびきりの笑顔でそれ以上の追及を押し止める。しばらく、無言で攻防していたが、そのうち根負けしたスポックが視線を外した。
「では、それが終わったら寝室に案内します」
「なんて??」
一瞬、ぎょっとして、めくった保護テープを指にべったり貼りつけてしまいながら、カークは再び副長を見上げる。
スポックは、何もおかしなことなどない、という絶対の自信と共に、取り澄ました表情を返してきた。
「寝室に案内します」
「あー、えっと、俺はスポックのこと気に入ってるけど、そういうお誘いはちょっと
……」
「お誘い、とは? あなたは怪我をしているのですから当然です、ベッドで寝てください。私はこちらで仮眠します」
「冗談すら通じてない、っていうのはなかなかに切ないな」
「何の話ですか」
「何の話でもない。別に風邪ひいてるわけでもないし、いいよ、そもそも押しかけたのはこっちだし」
「押しかけたのはニヨータです」
「うんまあそれを言われてしまえば、そうですねとしか言いようがないんだけども。気にすんなよ、俺はどこでも寝られるタイプだし」
「タイプの話ではありません。あなたの健康状態を順当に考慮しています」
「いいってば」
「
――床で寝られたら、困ります」
うっすらと眉をひそめて、スポックはフローリングに視線を這わせる。床に座り込んださきほどの行動が、彼にとってはよほど奇想天外だったのだろう。カークは吹き出してしまいそうになりながら、妥協点を模索した。
「寝ないって。なんなら今からでも出てくし」
「私がニヨータに怒られます」
「君でもニヨータが怖いんだな、分かるよ」
「論点を外さないでください。あなたには休息が必要です、これは譲れません」
「そもそも予備のマットとかないの? あ、ないよな、友だちが来るの初めてだもんな」
「
……キャプテン」
「わ~かったって。うん。でもなあ。じゃあ、たとえばシュラフとか持ってる?」
「それならありますが
……、あくまで防災用で、快適さは保証しかねます」
「もうここが妥協点だぜスポック、俺は君のベッドでは寝ない。君がどうしても俺を横にしたいなら、今すぐ押し入れからそれを引っ張り出してくるべきだな」
ぴしゃりと言って、カークはガウンの前をほどいた。青あざを触診して、炎症を抑えるパッドを貼りつける。黙々とそんな作業をして、スポックからの無言の訴えを却下すると、しばらくの間を置いて、彼はやっと動き出してくれた。それにほっとして、カークも立ち上がって再びバスルームへ向かう。
ハンサムな顔を鏡に映せば、口元もあざになっていた。にっこりと笑顔を作ってみる。なんだか本当に嬉しそうな、おやつを前にした馬鹿犬みたいな顔つきになって、自分で自分を鼻で笑った。薬を塗布してから、じっと己の双眸を見つめる。
「ジム」
リビングから呼ばれてすぐに戻れば、スポックが所在なさげに立っていた。笑いかけて彼の腕を叩き、持ったままのシュラフを抜き取る。スポックは一瞬、口を開きかけたが、視線が重なると、押し黙った。
「じゃあ、一晩お世話になるよ。ありがとう」
「私は」
「十分だよ、スポック。おやすみ」
にこりと笑うと、スポックは唇を引き結ぶ。数秒、じっと見つめ合ったあと、彼は静かにまばたいた。
「
――何かあれば、呼んでください」
どことなく肩を落とした背中を向けて、スポックは寝室に引っ込んでいく。カークは晴れやかにそんな彼を見送り、手を振って、ひとりになった。
ぱたん、と閉じたドアを見つめる。ライトダウン、と告げれば、リビングの照明はすべて落ちた。窓のスモークを切ると、深夜の街並みがガラスに映る。この時間になっても車の通りが多いサンフランシスコは、夜中でもどこか明るかった。夜空はうっすらと幕が張られたようで、まばらにある星は飛んだペンキの点のようだ。キャンバスの空、ボール紙の海、あれはただの紙の月。
奪い取ったシュラフをテーブルに置いて、カークは先ほど座らされた、濃紺の肘掛け椅子を見つめる。そっと指を差し出して、肘置きを撫でてみた。そのまま手を滑らせて、ゆっくりと腰かける。背中を預けて深呼吸すれば、どことなく、落ち着いた香りがした。
顔を傾ければ、窓の向こうに天上の星と地上の星が見える。両足を持ち上げて抱え込んでから、それをまぶたに映すように目を閉じた。
初めてセックスをしたのは学校の女の子だった。
さぼってちゃらちゃらしてたら告白されて、かわいい子だったしOKした。そんなありふれた始まりだったけど、誰かひとりの特別になって、誰かひとりが特別になる、なんていう関係は、思いのほかカークの胸を躍らせた。浮かれ気分でデートして、大はしゃぎでキスをした。もしかしたらこうやって、本当に何気ないことが少しずつ続いていって、そのうち家庭を持ったりするのかな、なんて、ティーンの自分は考えていたわけだ。
そんな浮ついた頭でいたからだろう、避妊に失敗して、彼女に泣かれた。
ベッドの上で責める彼女を抱きしめて、なだめて、でも、それでもいいとカークは思った。本当に、はっきりとそう考えていたのだ。もし妊娠したのなら、自分がちゃんと責任を取る。まともな暮らしをして、彼女と子供と3人で生きていくのだ。ささやかな家で、それでも幸せな、きっとそうなるだろうって。何故なら自分は宇宙へ行ったりしないし、あの人たちとは違って家族は大切にするタイプだからって。
彼女は信じられないものを見るような顔をして、カークを叱りつけた。そのときは、何故あんな剣幕で拒絶されるのか分からなかったけれど、今になって考えるとよく分かる。本当に、浅はかで、杜撰なセックスだった。
結局、その失敗が大ごとになることはなかったけれど、彼女との一連のやりとりで、カークはひどく打ちのめされた気分になった。みじめで、哀れで、どうしようもなかった。それはたぶん、自分の身の内でずっと飼っているろくでもないさみしさを、〝特別な関係〟が少しだけ、なだめてくれていたからだ。人生で初めて手に入れたはずのそれを、無慈悲に取り上げられてしまったようで、子供みたいにぐずっていた。
ダイナーで働く女の子に誘われたとき、どう断っていいか分からなかった。
自分をいいもののように言って、優しく触れて慰めてくれるのを、どう振り払っていいか分からなくて、結局カークはセックスした。そのあとはもう、泥沼だった。
ダイナーの子とは何度か遊んだし、彼女に連れられて行ったクラブでほかの女の子とも楽しんだ。ずるずるやって、のらりくらり、問題を先送りにしていたけれど、やはりできる人間とは違うものである。
女の子は怒ると平手打ちをするものだ、なんて思っていたけれど、それは浅はかな妄想だった。本気の喧嘩なら性別問わずに血が出る、ということを、その日カークは思い知ったのである。最初の彼女との別れ話は、内容からするとあっさり、すっぱりだ。切った唇を舐めながら、笑顔で元気にお別れをした。それからカークは取って返して、いかがわしい地区でも随一の、1日のうち30時間はトイレがセックス会場に使われているようなクラブに突っ込んだ。
引っかけた女の子とトイレでセックス、その最中にドアをこじ開けられ、酔っぱらった男に背中からしょんべんを引っかけられる、なんてことがこの世にあるなんて、きっと艦隊にいるみんなは想像もつかないだろうと思う。どっと笑うこの世のくそどもと、どっかで誰かが吐いている音、喧嘩を買ったら悲鳴が上がって、いつの間にか女の子には逃げられている。外の水道を勝手に拝借して体を洗っていたら、好色そうなおじさんに声を掛けられる、なんてことも知らずに生きていってほしいと思う。
メスに逃げられた中途半端なオスを持て余していたので、もうこの際おじさんでもいいか、とカークは血迷った。ずぶぬれで寒かったし、とにかくめちゃくちゃな気分だった。けれど、のこのことついて行った先にチンピラがたむろっているのを見て、さすがに慌てて逃げ出すくらいの理性は持ち合わせていた。罵詈雑言に追い立てられながら、カークは死に物狂いで走って、一番近いバーに飛び込んだわけである。
「ちょっと、未成年はお断りよ」
戸口の近くにいた妙齢の女性が、そう言って非難する。カークは構わず彼女に抱きついて、助けて、と叫んだ。今にも放り出されそうな雰囲気に、四の五の言っていられなかった。
なんでもするから、たすけて。
豊満な体にしがみついて、ただそれだけを繰り返していると、背後で扉が大きな音を立てる。びくりとわなないた体に、思うところがあったのだろう、彼女はカークを死角に隠すと、そのままカウンターまで連れていった。
奥に押し込まれたカークは、しゃがみ込んで身を隠す。その肩になんだか派手なジャケットを投げつけられ、驚いていると、今度はぼさぼさした赤毛のかつらが飛んできた。かぽっと頭に引っかけられたそれは、視界を長い巻き毛で覆う。
「なぁに?」
「そいつは?」
「その子はちょっと今日ブルーなの。構わないで」
どかどかと外からやってきた固そうな靴音に対し、彼女の落ち着いたハスキーボイスが答える。そのうちに、舌打ちを残して、男たちは去っていった。
そろそろと顔を上げれば、あきれた顔をした救世主が、カウンターに頬杖をつきながらこちらを見下ろしている。
「子犬ちゃん、何があったかは知らないけど、そんな簡単に『なんでもする』なんて言っちゃだめよ」
価値のないものほど値を吊り上げるの。そう言った彼女は、ガールズバーのママだった。
何があったか話して、とカウンター席に座らされたカークは、『なんでもする』の言葉どおり、洗いざらいを彼女に話した。一緒に働いているのは若い女の子で、カウンターに酒を作りに来ては、小耳に挟んだエピソードに対して親切にコメントを寄せてくれる。たとえば、顔はかわいいけどくそ以下、だとか、セックスが下手すぎてつらい、だとか、大人ぶってるお子さまほどイタい、だとか。しまいには罵倒されるのも気持ちよくなってきて、カークはいかに自分が最低かを懇切丁寧に語り尽くした。
「本当に、あの子のことが好きだったんだけどな」
ぽつりとそう言ったら、通りかかった女の子が優しく髪を撫でてくれる。その胸に顔をうずめようとしたら、さっとどこかへ行ってしまったけれど。
ママはそんなカークの様子を眺めて、馬鹿な犬をかわいがるような、慈愛のこもった微笑みを浮かべた。
「だめよジム。今のあなたじゃ恋なんてしたら、あなたも周りもだめにするわ」
「俺には恋人を作る資格がないって?」
「ねえジム、生まれてきた以上、あなたは神さまに愛されてる」
「おっと、ここって教会だっけ。そんな言葉を聞くとは思わなかったな」
「十分愛されてるのに、私たちみたいな生き物は、もっともっとと欲しがっちゃうのね」
「
―――」
「だから、何もかもをだめにしたくなかったら、恋なんてしちゃだめよ」
ママはそれから、女の子との遊び方を教えてくれた。相手の体をいたわることや、相手の心もいたわること。必ず守らなければならない一線と、一夜の相手の選び方。
「もしも彼女がI love youなんて言ってしまったら、言わせたあなたが悪いのよ。彼女を自由にしてあげて」
そのうち閉店の時間になって、すぐさま追い出されてしまったけれど、カークは翌晩も店に足を運んだ。ママはあきれたように、でも豊満な両腕でハグをしてくれたし、店の女の子はみんな気さくだった。いかがわしい一角に構えているのに、客層もそこまでひどくはない。それはママがとても上手にバランスを取っているおかげで、成り立っている秩序に見えた。
未成年だからとジュースしか出されないことも、なんだかとてもくすぐったかった。ある日、ママはカウンターの隅に置いていたチープな厚紙の箱を引き寄せて、いそいそと座ったカークに中を見せてくれたことがある。これまたチープなロリポップが詰まった、カラフルなキャンディボックスだった。
「あなたにはこれくらいがちょうどいいわ」
「目移りしちゃうな。どの子を舐めちゃおっかな」
猥雑なジョークを言って挑戦的に口角を上げれば、彼女はよしよしと頭を撫でてくれる。
「無償でもらえるものしかだめよ。夢中になってもだめ」
「だめなことが多くない?」
「まあジム、よく聞いて。大切なものを守りたいなら、多くの制約が必要なの」
店の女の子たちは、ほとんど年下の弟を構うようなものだった。さみしくてどうしようもない日には、優しくキスをしてくれるし、それ以上をしてくれるときもあった。カウンター裏に捨てられている巻き毛のかつらをカークにかぶせて、ジャクリーンなんて呼びつける日もあった。楽しかった。彼女たちは〝かわいそうな男の子〟を適切に楽しんでいて、なんだかそれが本当に、あの頃の自分には心地よかったのだ。
ママとは一度だけセックスをした。ほとんど慰めるだけのセックスだった。
「もしママにI love youって言ったら、俺は追い出される?」
「まあジム、よほどさみしいのね」
子孫繁栄のためだとか、真実の愛を確かめるためだとか。
セックスは、だいたいのところ、このふたつのために存在していて、それ以外は不道徳でふしだらだとされるけれど。
この優しく撫でる手を、柔らかな接触を、慰めいたわる精神を、悪いものだとするならば、それこそよほど冷酷で残忍だ。カークは心からそう思った。きっとこういうものこそが、この世で最も崇高なセックスだろう。無償で、無垢で、満たされていて。両親が自分を作るときにヤっただろうセックスとはまるで違う、これこそが。
「いつかあなたがうんと生きて、何もかも分かるようになることを祈ってる」
「そんなにたくさん生きるかな」
「生きるわよ。素敵なパートナーを見つけて、かわいいおうちで暮らすのよ」
「恋なんてしちゃだめだって言うくせに?」
「あなたがロリポップに夢中なうちは、そうね」
ママはある日、そのへんのごろつきに銃で撃たれてあっけなく死んだ。
夢のような時間だった。ママがいなくなって店も潰れたけど、ろくでもない町のろくでもない一角で、ろくでもない女が死んでも誰も気に留めることはない。たぶん、自分も死ぬときは、こんなふうに死ぬのだろうと思った。別に不幸とは感じない。
俺たちにとっては普通のことだからだ。
肌に触れる感覚に、カークは目を開けた。
視界に映る窓には、夜に沈むサンフランシスコの街並みが見える。そっと目線を上げると、暗がりでフリーズするスポックが立っていた。
自分の状態を確認して、ふっと笑みを浮かべてしまう。肘掛け椅子の上で丸まって寝ている船長に、優しい副長がブランケットをかけているところだった。
「
……起きたのであれば、ベッドへ移動してください」
笑っていると、再起動したスポックはとげとげしい声音でそんな要求をする。カークはブランケットを掴んで引っ張り、もぞもぞと椅子の上で体を動かした。なんだかやたら触り心地のいい布地に顔をうずめ、てこでも動かない、と無言の意思表示をする。
「あなたはシュラフを使うと言いました」
「そうだったかな」
「あなたは
――、いえ、もういいです。本当にあなたはわけが分からない」
「褒めてくれてるのかな、それとも」
寝起きで喉がかすれていて、うまく言葉が続かなかった。からかう文句が喉元でちぎれて、カークはこほこほと軽くせき込む。
スポックはそれを見て、言葉を飲み、なんだか愕然とした様子になった。それから大股でキッチンへ向かい、ごく控えめな照明をつける。
「すみません。お茶も出さずに」
少しだけ焦ったようなその声に、カークはふかふかした笑みを浮かべた。
「今更? 友だちの接待がバージンすぎるぞ副長」
「その言葉には言いたいことがいくつかありますが、水分補給は肝要です。ただでさえあなたは怪我をして」
「ああ、そんな急がなくていいよ。おふろ借りたときシャワーの水飲んだし」
「シャ
……」
「でも、君の出すお茶は飲んでみたいな。論理的な味がしそうだ」
にこにこしながら頭をずらして、キッチンのほうへ向き直る。スポックはもの言いたげな視線を遠慮なく突き刺してきたが、カークは構わず彼を観察した。キッチンで、戸棚を開けて、お茶っ葉なんかを出している。出来合いじゃなく手ずから淹れてくれるようで、湯を用意する手つきに迷いはなさそうだった。
「なんか、不思議な感じだ」
「何がですか?」
「スポックが生活してる
……」
「普段から生活していますが」
「まあ、そうなんだけど。そうじゃなくてさ。感覚の話」
「理解しかねます」
「知ってるよ」
にやにやと笑えば、眉を寄せられる。このやり取りはいつも楽しくて、カークはとてもいい気分になる。ごろごろとなつく猫のように、もう一度体勢を変えて窓を向いた。早朝4時くらいだろうか、さすがの大都会も静まり返っている。キッチンからはこぽこぽという水のあったかい音がして、カークは椅子の背にこめかみをこすりつけた。ブランケットの中は足がむき出しになっているけれど、部屋の温度が高く、冷えている様子はない。もしかしたらこの温度設定も、たどたどしい副長のささやかないたわりかもしれない、と思うとむず痒い。
キッチンから戻ってきたスポックは、両手にマグカップを持っていた。湯気の立つそれをテーブルに置いて、彼も対の椅子に腰かける。
カークは興味津々に身を起こして、マグカップを手に取った。吹き冷まして、そろそろと、あつあつの液体に口をつける。
「どうですか?」
「土食ってるみてぇ」
どこか期待するような眼差しのスポックはかわいかった。だから、とびっきりの素直さで、カークはそう真実を伝えた。途端に不機嫌そうになる副長がおかしくて、無性に肩を揺らしてしまう。
「お気に召さないようでしたら、無理に飲まずとも結構です」
「もしかして君のお気に入り? 相当自然志向なんだな」
「私が代わりに飲みますので」
「分かった分かった、そんなに怒るなよ。俺のなんだから、君にはやらないよ」
「怒ってはいません。ですが、不味いのでしょう?」
「不味いとは言ってない。宇宙一食いたい土の味だ」
癖になる味だな、とフォローすれば、スポックは押し黙る。留飲を下げたのかは分からないが、二口三口と呷るこちらを見て、それ以上は追及を取りやめたらしい。彼も静かにカップを傾け、穏やかな沈黙が訪れた。
ふたりでちびちびとお茶を飲みながら、ぼんやりと夜を眺める。
暗闇に浮かぶぽつぽつとした明かりは、どこかエンタープライズの船窓を思わせた。キャプテンチェアを思い出しながら、外に散らばる常夜灯をたどって頭の中で星図にしてみる。ここからここまで移動して、と想像上のチェコフが気持ちのいい笑顔をした。それからこの星まで行きましょう、キャプテン。
「子供向けの天体図鑑ってあるだろ」
残り少なくなったカップを手のひらに包んだまま、背もたれになついて身じろぎする。
「めくってもめくっても、赤だとか、青だとか、マーブルとか、カラフルな球体が現れる。宇宙ってこんなちかちかしたロリポップでいっぱいの、すっごく楽しいキャンディボックスなんだなって思ってた」
「飴玉、と思ったことはありませんが」
スポックは、真意を問うように首を傾げた。それを横目にふっと笑って、そのまんまの意味だよ、と思う。大した含意なんてない。
「君んちの図鑑は、元素組成で埋め尽くされてそうだもんな」
「写真や映像もありました」
からかうような口調で言えば、ささやかに反発されて、むずむずと口元を揺らしてしまう。声を出してしまわないように、カークは残りのお茶を飲み干した。そしてそのほのあたたかい、シンプルなマグカップを、ブランケットの中に仕舞い込んで両手に包んで抱きしめる。
「大人向けの図鑑には、もっと素敵なことが書いてあると思ったけど」
「書いてありましたか?」
「君の好きな事実がね。宇宙はキャンディボックスなんかじゃなくて、もっとすかすかで、冷たくて、何もない。広くて、寒くて、地上から見れば隣り合ってぴかぴかしちゃってる仲よさそうな星でも、実はうんと何光年も離れてる。詐欺だなと思ったよ、俺は吹っ飛んだあの船と同じ、ケルビンって名前の単位を知ったとき、自分まで冷凍された気分だった」
「
……それは、非常に情緒的です」
「君のそれは嫌味に聞こえるから気をつけろよ」
「いえ、そうではなく私は」
「さすが俺の生まれた場所だと思ったよ。でも
――」
カークは再び窓の外に目を向ける。正しくは、想像上のブリッジの、そのまた向こうの光景に。
言葉を失ったスポックは、自分の船長をじっと見つめている。その強い視線を感じながら、少し口が滑ったなと思った。
「早く、宇宙に戻りたい」
「
……ジム」
「5年でも10年でも、みんなで旅ができたらいいのに」
目を閉じて、今スポックがどんな顔をしているか考える。それから、ここまで自分を引っ張ってきたウフーラのことを思った。そうして順々に自分のクルーの顔を思い浮かべて、最後に今、ドッグでぴかぴかに整備されているはずの、エンタープライズのことを考える。宇宙一かわいい俺のピザカッター。そんなキャプションを勝手につけたら、きっとパイクは困った顔して笑ってくれるだろう。ニュー・ヴァルカンにいるスポックは、ひょいと眉毛を持ち上げるかもしれない。
「ジム」
ひっそりとした、落ち着いた声が呼びかけてくる。カークは、そのまま寝たふりをした。しばらく、衣擦れの音もなく待機していたスポックは、やがて無言で立ち上がる。そのまま近くへ来るので、どうしたんだろうと思っていると、彼は口元のブランケットを少しめくり、カークがしっかりと包み込んでいた使用済みのマグカップをそっと取り上げた。
丁寧に、今度は口を覆わないように、きっちりと肩までブランケットを戻して、スポックはキッチンへ向かう。水の音がして、それから彼は寝室へ向かったようだった。
寝直すのかな、と思った矢先、彼はすぐに戻ってくる。そうして再び椅子に座り、今度はぱたぱたとかすかな音を立て始めた。薄目を開ければ、タブレットを操作しているスポックが見える。艦隊のものではなく私用のもので、突然仕事を始めたわけでもなさそうだった。彼は根っこが勤勉なので、もしかしたら科学誌でも読んでいるのかもしれない。
本当に寝てしまうつもりはなかった。それをするには少し交感神経が元気すぎると感じたし、引きずられてまた昔の夢を見たいわけでもない。けれど、居心地の良い椅子と、ふかふかのブランケットと、スポックの指が画面を叩く音と、そんなふうな、彼の作り出す小さな優しい夜の中で、カークの体からはいつの間にか力が抜け落ちていた。
「ジム」
その声と共にぱっと周りが明るくなって、カークはううんと顔をしかめた。かぴかぴした双眸を苦労して開ければ、まぶしい朝の日差しを浴びて、艦隊の制服を身にまとったスポックが立っている。
「なに、おまえ
……」
「そろそろ起きてください。あなたは本日休日のようですが、私は出ねばなりません」
「嘘だろ
……」
「ヴァルカン人は嘘をつきません」
「そうじゃなくて、今日出勤なのに俺に付き合ってくれてたのかよってこと。ウフーラも鬼だな」
「あなたがここに1泊しても、出勤に支障はありません」
スポックは、まじで何に驚いているのか分かりません、という理論整然とした顔だった。付き合わせて悪いな、と言おうとしたものの、カークはにこりと笑って口をつぐむ。まあ、そういうやつだよな。そんなことを思いながら、椅子の上で伸びをした。ずるりとブランケットが落ちて、スポックがそれを拾う。
「ねむい」
「起きてください」
眠い、というより、名残惜しいんだ、きっと。
ぐだついた言葉をこぼしながら、カークは体を反転させる。器用に椅子の上に乗り上げて、ぐりぐりと額を背もたれにすりつけた。白い日差しを浴びた濃紺の、触り心地のいい幾何学模様。きっとまっすぐ切り揃えられた持ち主の前髪みたいに、すみまで行動学に基づいた計算がなされているに違いない。
「この椅子好き。ちょうだい?」
「まだ寝ぼけておいでですか?」
完全に、手のかかる船長をたしなめるときの副長の声が降ってきて、カークは笑った。この穏やかな心地よさを諦めるために、胸いっぱいに息を吸って、ゆっくりと吐き出す。気持ちを切り替えれば、あっという間に体は動き出した。
「おはよう、スポックくん」
「おはようございます。あなたの服は洗濯済みです。今着ているものはランドリーに入れてください。それから朝食は」
「いいよ。いつも食べないんだ、知ってるだろ。それより人質に取った君のぱんつを返却しよう」
「ぱ
――、人質だったのですか?」
「寝てる間に洗ってくれたのか? 友だちバージンなんて言ってごめんな、俺は今、君の優しさに打ち震えてるよ」
「私にはいつものにやにや笑いにしか見えませんが」
「君、賢いな」
言われるがまま、着替えて、顔を洗って、その間にスポックは、栄養調整食を口に入れたようである。ちゃんと食べろと言いたいところだったが、言える口を持ち合わせていないカークは、黙って傷の確認に徹した。さすが、いい薬を使っているだけのことはあって、肌の色味は戻ってきている。
「どうですか」
「大丈夫」
「本当に?」
「疑り深いな。君が常備している薬の性能を思い浮かべてみろよ」
「そうですね。なら、よかったです」
口元を指でこすっていると、スポックは身支度を整える手を止めて、心配そうな顔をする。とはいっても、まったく顔には出ていないので、これはこちらが勝手に解釈している彼の感情だ。けれど、それをおよそパターン化できる程度には、彼とは親しくなったと思う。
よかった、と彼の舌の上で転がされた言葉が、安堵でまろやかになる程度には、彼も親しさを感じてくれている、と信じている。
「君は本当にいい友だちだよ」
満面の笑みでそう告げれば、スポックは少しまぶしそうにして、返す言葉にまごついた。
そういうところが本当にかわいいと思う。ときどき死んじゃいそうになるくらいに。
カークは機嫌よくにんまりと唇をU字にして、彼の肩をぽんと叩いた。
朝食分の時間が浮いたことを理由に、カークが歩いていくことを提案すると、スポックは奇異の眼差しを寄こしてきた。
そのあと、彼の中でどんな処理が行われたのかは分からないが、早々に歩き出したカークに追いつき、いいでしょう、と肩を並べてくれる。素直についてくるヴァルカン人に、ご機嫌極まる勢いだった。道行く人たち全員に、おはようと言って回りたい。
「あなたも本部へ?」
「うーん、どうしようかな」
特に何も考えていなかった。ただ、このまま家に帰る気分でもなかった。
本部に着いたら、スポックとはさよならだ。ひとりになったら、自分に何ができるだろう。
ふいにふと、宇宙のかけらみたいな空虚が肺をすく錯覚に陥る。大人になった今ならもう、〝これ〟がろくでもないさみしさと甘えでできていることくらい分かっていた。どれだけ恰好つけても、虚勢を張っても、結局自分は欲しがってだだをこねている、ちっぽけな子供でしかないのだ。
そんな自分がけなげなんだか馬鹿なんだかどうしようもないんだか、そう思って自嘲よりはずいぶんと手を抜いた笑みを浮かべていると、向かう先からカラフルな色合いが飛び込んできた。ほとんど歩くことのない街角で、そのキャンディストアは店先にかごいっぱいの飴玉を並べている。奥にはレトロなパッケージのガムの箱が所狭しと並んでいて、カークは順調に足を止めた。
1歩先で振り返ったスポックは、声には出さず「うわっ
……」と明言する。
「すげーな。ノスタルジックじゃん」
「ジム、まさか」
「ちょっと見ようぜ」
「
……あまり近寄りたくないのですが。出勤前ですし」
「大丈夫だって。ほら見ろよ、チョコシロップがバケツいっぱい」
「料理に使うにしては大きくないですか」
「飲むからだろ」
「の」
「地球人にはなあ、スポック。ときどきショ糖をアドホックに導入したくなる衝動、ってのがあるんだよ」
「初耳です」
適当なことを言いながら、カークは首を伸ばして店を覗いた。真面目に返答するスポックがかわいくて笑っていると、店のおじさんに変な顔をされてしまう。それも笑ってごまかしながら、自分の唇を指で触れてみた。うん、口さみしい。本当にさみしいのはそこではないんだろうけど。そうと分かれば、カークに買わない道理はなかった。
小分けのかごを取ろうとしたところで、ふと、顔を上げる。
店のすみにひっそりと、原色の箱が積まれていた。一抱えある、厚紙でできた、チープなつくりのキャンディボックス。
「ジム、どうしました」
ぱたりと動かなくなった上官が気になったのだろう、スポックが近くまでやってくる。斜め後ろ、ほんの背中の先に、感じるはずのない体温が触れたような気がした。
「スポック」
「はい」
「あれ買って」
「
……は?」
それから、カークは盛大にだだをこねた。上陸調査で無茶な行動を提案するときもかくやという勢いで、あらゆる手法を用いてプリーズという言葉を表現し、不審顔のスポックにかわいいロリポップを買ってもらう、というミッションを無事成功させた。にこにこと箱を抱えてスキップする勢いのカークを、半ば途方に暮れたように見つめるスポックは、駄菓子を手ずから上官に与える必然性について思いをめぐらせているのだろう。なんとなくそれがいいと思ったから、という動機が使えない種族は大変だな、とカークは思う。
早速箱をめくって1本取り出し、包装紙をひん剥くと、赤とピンクのかわいらしいマーブルだった。迷わず口に入れて、スポックにいい笑顔を向けてやる。
「
……ごみを、箱に戻すなど」
「捨てるとこないから。君はほんとに細かいなあ」
「その、美味しいんですか?」
チープな代物だからだろう、やや言いにくそうに、けれどはっきりと疑いの眼差しで、スポックは視線を返してきた。もごもごさせながら喋っていたカークは、口の中からキャンディを取り出して、その口元に差し出してみる。
スポックは、ものすごく嫌そうに、ぷいと顔を背けた。カークは声を上げて笑う。
「美味しいよ」
向かいから歩いてくる女の子たちはすごくよさそうだった。彼女たちも休日だろうか、装いがそんな感じだ。ハイレディース、とにこやかに声を掛ければ、驚いた顔をしたあとに、ぱっと破顔して立ち止まってくれる。その向こうで振り向いたスポックが、まるで目を剥くようにフリーズしていた。
「じゃあなスポック、また!」
そんな彼を置き去りにして、カークはくるりと踵を返す。今日はどこ行くの、と気さくに話しかければ、港まで、と彼女たちは答えた。もちろん答えは一択だ、ワオ、偶然、俺も行きたかったところなんだ。腕の中で箱に詰め込まれた飴が、ごそごそと揺れている。結局ふたりと食事して、片方の女の子とセックスした。けれど彼女は残念ながら、仕事が夜勤だと言って、これから夜が更ける頃に、部屋から出ていってしまった。
照明をぎりぎりまで落とした部屋で、カークはぽつんと座っている。
ベッドに座ったまま、部屋に帰るなり机に投げ出したキャンディボックスを、しばらく静かに見つめていた。
今までなら、どうしようもない気持ちになったかもしれない。けれど、カークは立ち上がると、そのボックスを回収がてら、机からタブレットを拾ってきた。それからベッドをぐるりと回って、窓を前にして床に座り込む。背中をベッドの縁に預けて、傍らに置いたボックスから、そっとロリポップを取り出した。丁寧に包装をめくれば、今度は青と黄色のマーブルである。くすっと小さく笑って、カークはそれを口に入れた。飾り立てられたような作り物の甘さが口元から沁みてくる。
タブレットを開き、少しだけ考えた。最も信用のおける科学誌を検索して、ざっと目を通す。植物地理学の論文が目に留まって、キャプションを読んでから、その全文を展開した。
自室の窓からは、ゴールデンゲートブリッジの照明が見える。ちかちかと並べられた光の粒たちは、宇宙と呼ぶには整然としすぎていた。
球体を舌で転がすと、カランと歯に当たる音がする。カークは次の宇宙探査までの日数を数えて、タブレットに目を落とした。スポックが好きそうな論題だ。もしかしたら昨日、こうして隣で読んでいたのはこれだったかもしれない。ほんの少し、指先が熱くなるような感じを持て余しながら、現地調査に役立ちそうな情報を拾うことに集中した。
艦隊の食堂に現れた美人と、それに付き従う唐変木を確認して、マッコイはそつなく目を逸らした。が、そつがないと信じていたのは自分だけだったようで、数分後、まるで当たり前のように目の前の椅子を引かれて溜息をつく。
「会って早々溜息? それって失礼じゃない?」
「ウフーラ、君だけなら笑顔で歓迎したよ」
「ちょっとあなたと一緒に食べたくなって。スポックはついで」
ついで、と言われてしまった艦隊きっての秀才のひとりは、むっつりと押し黙ったままフォークを手に取った。なんとなく、彼らの間のパワーバランスを垣間見てしまったようで、うすぼんやりと自分が骨だけになる前のことを思い出してしまう。マッコイは努めて関わり合いにならないよう、いち同僚の立場を意識しながら彼女に向き直った。
「何か話か?」
「あなたの船長のことなんだけど」
「俺は医者であって船長の保護者じゃない。それに補足をすれば、君の船長でもある」
「まあ、そうね」
ウフーラは肩をすくめて天を仰ぎながら、持っていたフォークで虚空をかき混ぜる。なんだか珍しいそのしぐさに、顔をしかめたマッコイは、一度静かにスプーンを置いた。どうもこの様子だと深刻な話ではなさそうだが、こと親友についてなら、話の規模が予想どおりであったためしがない。
「ジムに何かあったのか」
「あの人はいつもあんなに危なっかしいの?」
少しだけ真剣に尋ねると、ウフーラは強い眼差しで見据えてくる。得られた返答に、それはいつものことでは? とマッコイが怪訝に思えば、彼女は違うと補足して、少しだけ身を乗り出してきた。
「船を降りたら、迷子になったみたい」
「ああ
……」
彼女の言わんとするところを察して、マッコイは溜息をつく。どっと椅子の背に身を預ければ、むすっとしたままのスポックがこちらを見つめてきた。サラダをフォークで突いたまま、先ほどからまったく動かしていない。それで自分と彼女を交互に観察しているところを見ると、こいつはらしくもなく気もそぞろなのではないか、と馬鹿げた想像が浮かんで消えた。
「まあ」
「ボーンズ~!!!」
あいつには悪い癖があって、と真剣に心配している仲間に助言をしようとしたところで、横から相当に浮かれた大声が割って入ってきた。
言わずもがな、カークである。
彼はぶんぶんと手を振ると、明るく笑ってこちらに駆け寄ってくる。片手に同じくらい浮かれたパッケージの箱を持っていて、はずみで蓋が開かないようにだろう、大事に囲って抱きしめていた。とりあえずのポーズとして、マッコイはしかめっ面を作って寄こす。今度はどんな厄介ごとだ? そんな無言の訴えは、すっかりポーズだと分かっているカークによってきれいに黙殺されて久しい。
「ふたりと一緒? 珍しいな」
「元気そうね、キャプテン」
「この前はありがとうな、ウフーラ」
「この前?」
「おっと。詮索はなしだぞボーンズ。これはふたりのシークレット・ラブアフェアだ」
「ラブアフェアに『馬鹿をする上官をたしなめる』って意味があるとは知らなかったわ」
「そりゃ俺も知らなかった。スポックも、ありがとう」
「
……ええ」
楽しそうに軽口を侍らせるカークは、ほとんどいつもどおりだった。どうもこのカップルと何かあったらしいが、懸念することではないだろう。むしろいつも以上に元気なくらいだ、とマッコイは思う。けれど、小気味よく返すウフーラに反して、スポックは珍しく歯切れが悪かった。そちらのほうが気になって彼を見れば、スポックはカークの腕の中をじっと見つめている。
「それは?」
自分も気になったので、指差してカラフルな箱に話を振ってみた。
「これ? ロリポップ」
カークはきょとんと視線を受けたあと、にんまりと笑って自分の顔の横に箱を掲げる。
「ロリポップ?」
「うん。お前にもやるよ」
また変なものを職場に持ち込んでるな、という顔を作ったはずのこちらには構わず、カークはうきうきと箱の中に手を突っ込むと、棒付き飴を1本取り出した。ご機嫌な様子で包装紙の上からキスすると、それをずいと目の前に持ってくる。安そうな印刷の、安そうな飴だ。きっと歯が溶けるほど甘いに違いない。
絶対に断ってもごねられる、と確信して、マッコイはその棒を受け取った。
「ふたりにも」
しぶしぶ受け取った親友に最高の笑顔を送って、カークはウフーラとスポックにも同じように飴を渡す。ちゅっちゅっとわざとらしいキスをつけて、ウフーラには追加でウィンクまで上乗せして。もはや彼女はあきれて笑っていたし、スポックは硬直していた。
マッコイはなんとなく、元気すぎるな、と思う。
彼はほとんど落ち込む顔を見せないが、同じ動機でテンションを振り切ることがある。そこはかとない不安を覚えて彼を見上げると、カークは「んじゃ!」と言って陽気にテーブルから離れてしまった。
そしてその先で、ハイレディース、なんて言って職員に絡み始める。彼女たちも彼女たちで、キャア、なんて言ってはしゃぐものだから、カークは飴玉を大盤振る舞いした。キス付きの飴を求めてやってくるノリのいい連中に囲まれて、カークは楽しそうに笑っている。
「
……ドクター」
「うん」
「うちの船長、早く宇宙に連れていきましょう」
「うん」
「同意します」
そんな彼の様子をしばらく見つめていたウフーラは、ゆっくりとそう言った。
マッコイは迷いなく頷いたし、我らが副長の言葉にも、一切の迷いはなかった。