新品でぴかぴかだったエンタープライズは無事、場末のバーで喧嘩した翌朝みたいな姿になっていた。これはパイクが怒るかもしれないな、なんて思いながら、カークはたった今下船した機体を見上げる。シャトルの窓に映る景色は、彼女がひとりぼっちであることと、多少くたびれていること以外は、ほとんど来たときのままだった。まあ、あのときは今にも吐きそうな状態だったので、この記憶が確かかというとあまり自信はないけれど。ただ、今と同じように、あの船がなんだか輝いて見えたことは覚えている。
「吐くなよ」
隣に座っているマッコイは、そう言って皮肉げな笑みを浮かべた。同じことを思い出していたことが分かって、カークは軽く肘で小突く。
「吐いてやればよかった」
にやっと笑みを返すと、彼は顔をしかめて手を振った。前に座っているウフーラと目が合って、わざとらしく揶揄するように隣を指差せば、彼女はあきれたように息を吐く。けれど、最後には笑ってくれた。
「そういえばあなた、乗り込んだときは不自然に体調を崩してたけど。あれは何?」
「ボーンズに薬漬けにされたんだよ
……、俺の同意もなく」
「
……ええと?」
「待て、誤解だウフーラ大尉。あとその被害者づらを今すぐやめろジム」
「誤解じゃなくて事実だろ」
ウフーラの隣のスポックが、こちらを向いて器用にびよんと片眉を上げる。それが面白くて声を上げて笑いながら、カークはまあまあと言って適当にマッコイの肩を叩いた。
「キャプテン
――、ジム。つまりあなたは不正に有害な薬物を使用して」
「よしよし、分かったから説教は後だスポック。ほらしばらくは見納めだぞ、あの船が頑丈で良かったな」
興奮する馬をなだめるような顔でごまかせば、スポックはまだ何か言いたげにしながらも口をつぐんだ。その全身が不満と不服を訴えているように見えて、本当に面白い。最高にご機嫌な気持ちで再び窓へ視線を投げれば、外にはもう青空が広がっていた。
「エンタープライズが直ったら、また乗りたいです」
チェコフがときめくように空を見上げて、ぽつりとそんなことを言う。
「次はこんなぼろぼろになって帰るはめにならなければいいですね」
それを受けて、スールーも空を見上げたまま、苦笑を添える。
「いやぁ、でもほら、艦は船長に似るって言うから」
まぜっかえすようにスコットがそんなことを言うので、カークは大げさに顔をしかめて体をひねった。席から乗り出して彼を見やれば、お調子者がお調子者っぽい顔をして肩をすくめている。
「なんだよスコッティ、そりゃ犬とか猫とかの話だろ」
「あんたと知り合ったのはついさっきだけど、分かりますよ、あんたはだいたいぼろぼろになって帰ってくるたちだ」
「はっ、そいつは言えてるな」
「おいボーンズ、嫌味か」
「伝わったなら幸いだ」
「ああ、でも割と無茶苦茶な操縦をしても、驚くほど平然としているところとか、確かに似てますね」
「スールーまで! 嫌味か! だいたい俺は船長代理の代理だし、正式な船長代理はスポックだぞ!」
「あら。じゃあそのペットが飼い主に似るっていうのは、あながち間違いじゃないかも」
「
……大尉、航宙艦はペットではない」
「反論すんのそこ?!」
「というか、誰もパイク船長に言及しないんですね」
「パイク船長だからなあ
……」
誰からともなく笑い声が上がって、シャトルの一角はアカデミーの食堂のような雰囲気になる。カークはしこたま笑ってから、そんな風景をぐるりと見渡した。なんだか本当に不思議な気分だ。ほっとした楽しげなクルーたちのことを、もうずっと前から友だちだったように錯覚する。マッコイと目が合うと、彼もどことなく不思議そうな、満たされたような表情だった。シャトルの到着と同時にひょいと肩をすくめ、もうこれ以上飛ぶ乗り物はごめんだと言わんばかりに立ち上がる。
スポックは、最後まで座っていた。いや、正確に言えば、カークが最後だったので、彼は二番目だ。自分は何となく、みんなの顔を見送りたいというふんわりした動機で座っていたのだが、彼のほうはもしかしたら、船長代理として最後まで残るべきと考えていたのかもしれない。
「キャプテン」
そう呼ばれて、カークは立ち上がる。首を傾げて見つめれば、彼はなんだがばつが悪そうなそぶりで両手を後ろに組んだ。
「
――いえ、ジム」
数瞬の逡巡と共に、そう言い直されて、カークは吹き出す。
「まあ、確かに。今はキャプテンじゃないよな。君さっきも困ったように言い直しただろ」
「困ってはいません」
「ばかいえ。君のそのむっとした顔は、困ってます、そのものだよ」
「顔色を変えた自覚はありませんが」
「なあ、スポック」
空になったシャトルは静かだった。あと数秒もしないうちに、点検が入ってくるだろう。外はエンタープライズのクルーたちで賑わっていて、機関部と思しき職員たちが慌ただしそうに東奔西走している。
カークは唇を舐めた。呼び止めたものの、何を言うかはまったく考えていない。ただ、幸運と偶然と不運と意思が重なって、まるで奇跡のように得た〝もうずっと前から友だちだったような〟時間が、これで終わってしまうと思うと、何か言わなくてはいけないと思った。焦る自分に対して、スポックは静かに言葉を待っている。まるで当たり前のようにそうする彼に、一瞬、喉元が引き絞れるような心地がした。
たとえ、いつかちゃんとキャプテンと呼ばれる立場になれたとしても、周りに座るクルーたちが、今日と同じとは限らない。
そう思い至って、カークはにっこりと微笑む。なんてことはない、このひっかくように後を引く何かは、ただそれだけのことだ。
「ごめん。それから、ありがとうな」
ばしん、と彼の肩を叩いて、カークは踵を返した。もの言いたげにするスポックの顔はいつ見ても面白いので、にやにやしてしまうのは仕方ないだろう。ちょうど点検員が入ってきて、まだ降りてなかったのかと露骨な視線を向けてきたので、カークは笑って素通りする。
船長交代劇のため、わざと彼に売った喧嘩は、こんな軽い謝罪で済ませられるものではないけれど。
何の後腐れもなく、何も残さず、吹けば飛ぶような軽さで、終わらせてしまったほうがいいと思った。
本当に、なんとなく。これ以上は、ちょっと。
「キャプテン」
弾むように足早に、シャトルを降りて喧騒に合流する。地に足をつけた瞬間に、そう呼ばれて振り返った。だからキャプテンじゃないっつの、とつい反応してしまった自分を戒める。降りてきたスポックは彼らしく、ひどく誠実な様子で、まっすぐにこちらを見つめていた。
呼び止めておいて何も言い出さない彼の横を、怪訝そうに点検員が通り過ぎていく。カークは彼女を目で追ったあと、再びスポックに視点を戻した。きゅっと結ばれた唇を見て、先を促すように頭を傾ける。
「なに」
「説教は後だと」
「は?」
「あなたがエンタープライズに乗船した経緯と詳細について、あなたは後で私の話を聞くと言いました」
「はあ? 待ってくれ、今それか?」
「あなたが言いました」
「いや、あれは言葉のあやっていうか、もう黙れって意味で」
「危険な薬物を無断で使用したのですか?」
「だーっから! それはボーンズが勝手にだな!」
まさかの問題を蒸し返されて、カークは素っ頓狂な声を上げた。スポックはまるっきり真面目に論及する構えで、逃げようとすればしれっと隣に並んでくる。冗談みたいなことを本気で言う半分ヴァルカン人が嘘みたいで、カークはそのうち笑い出した。涙が出るまで笑ったせいか、本部にたどり着く頃にはスポックによってせん妄か何かと判断され、問答無用でメディカルセンターへ連れていかれた。
地球に戻ってからは、ヘルスケアや事件の聴取、報告書の提出と立て込んだ日々が続いた。カークに限って言えば、停学の検討と規則違反の査問と功績による酌量と復学の承認というコントみたいなややこしい労務フローを経て、ようやく解放された、という具合である。
ひとつ、ずっと気になっていることがあった。
だから、晴れて自由の身になった今、ひゃっほうと叫びながらエントランスを飛び出したくらいである。そのまま急いでスコットに通信をつなげば、もう着いたから早く来い、と急かすような声が返ってきて、カークは地面を蹴る足に力を込めた。
息せき切って、シャトルの発着場へ駆け込む。伝えられた場所はひと気が少なく、まるでずっとそこで働いていた作業員のように、スコットとキーンザーはスパナ片手に何事かを言い合っていた。そしてその傍らにはひっそりと、氷の星で自分の命を救ってくれたほうのスポックが佇んでいる。カークは遠慮なく破顔して、目いっぱい手を振った。スポックと、こちらに気づいたキーンザーが、静かに手を挙げて応えてくれる。
ずっと、あの何もない場所に置き去りにしてしまったふたりのことを、迎えに行きたいと思っていた。スコットは気にしないそぶりをしながらも、なんだかんだ、置いていった相棒のことをぐちぐちと言い募りに来るものだから、思わず笑ってしまったくらいだ。結局、なかなか自由になれない自分に代わって、スコットが「仕方なく」「ジムが言うから」ふたりを地球まで送る手配をしてくれた。無人になるだろうあの前哨基地を艦隊がどうするのかは分からないが、とにかく一度会いたかったのだ。
「ジム」
こちらのスポックの声は、ひどく柔らかくて優しく響く。子供か孫でも見てる気持ちなんだろうなと思いつつ、けれどカークはすべてを後回しにした。
「いいから、こっちへ」
きょろきょろとあたりを確認して、姿勢を低くしながら彼を誘導する。スポックは怪訝そうにしながらも、おとなしくついてきてくれた。
「君は何を警戒している?」
「こっちのスポックに見つかったらやばいだろ。いったん本部は離れないと」
そう答えた途端、スポックの足がぱたりと止まった。見上げれば、彼はびよんと眉を跳ね上げていて、その隣でスコットとキーンザーがきょとんと立ち尽くしている。
「
……え?」
「いや、そういうことなら一度街へ出よう。ここまでありがとうキーンザー。スコットも、また機会があれば」
「は、はあ
……」
「さてジム。行こう」
「あ、うん
……、えっ?」
何か変だな、とは思ったものの、常にゆったりとした足取りで老人らしくしていたスポックが突然、さっさと歩き出してしまったので、驚いてそれどころではなくなってしまった。慌てて彼の後を追いながら、カークはかろうじて振り返り、スポックには内緒な! とふたりに言づけた。
アイオワの造船所で出来上がってく宇宙船を見るたびに、あれを景気よく爆破できたら気持ちいいだろうなと思ってた。
そう言うと、じいさんスポックは困ったな、という顔をした。それが、しばらく会っていないあのスポックと同じ顔に見えて、こんなに違うのに同一人物なんだなあ、という変な感慨を呼び起こす。
連れ出したのか連れ出されたのか分からないまま、街に出たふたりはとりあえず、そのへんのレストランに入った。少し夕食には早いけれど、カークには命を救われた恩がある。ちゃんと話して、感謝を伝えたかった。
やや堅めの店を選んだからだろう、客層は静かで落ち着いていた。発泡酒を食前に勧められて、一も二もなく頷いたカークだったが、スポックが頼んだのはただの水である。らしくて笑ってしまいながら、グラスを重ねようと杯を差し出した。目線で問われて少し考え、エンタープライズに、と言い添える。スポックはとことん無表情だったけれど、なんだか嬉しそうにしてくれたので、無性にこちらも嬉しくなってしまった。
そうして、とりとめのない話をした。
最初にありがとうを重ねて、それから無茶な作戦を振ってきたことを責め、これからどうするのかを聞いた。ヴァルカン評議会と合流すると言い出したときは、どうやってそれでスポックをごまかす気なのかと彼の正気を疑ったが、老成しているはずのスポックは純朴そうにぱちりとまばたいて、何故そんなことを問われるのか分からない、という顔をする。なんとなく、この話題はこれ以上続かない気がして、それからはスポックの友だちの話をした。つまり、この世界にならなかった向こうの世界の話だ。
別に、未来を知りたいわけじゃない。それはスポックも心得ているようで、他愛ない、ありふれた、かわいらしいエピソードを、彼は静かに語って聞かせた。語り口は冷静なのに、飛び出してくる話はあまりにトンチキで、カークは大声で笑ってしまわないよう何度も肩をすぼめるはめになる。
だから、君はどうなんだ、と訊かれた頃には、ほとんどワインを1瓶飲み干していい気分になっていた。
「俺がアカデミーに入ったのも、あてつけなんだよ」
「あてつけ、とは」
「親父みたいなのをご所望でしたか? 残念でした~! って、舌を出して言いたかった。きれいな手段で死ぬことをあがめてる連中の前で、くそみたいに汚い手を使ってでも生き残ってやりたくて」
話し過ぎている、という自覚はあった。けれど、スポックの話はあまりにも、ささやかで、それなのにだいじにされていて、まるで隠しておいたとっておきの宝石を、そっと見せてもらうみたいだったから。
「俺を卒業させて、特進で船長にする、って話をもらったんだ」
「そうか。おめでとう、ジム」
「君は知ってたよな?」
「それは正しくない。君が船長であることは知っているが、君が船長になることは知らなかった」
「ややこしいじいさんだ」
「君もそのうち知ることになる」
「君のややこしさを? もう知ってるよ」
「それ以上に」
空の皿たちを前に、静かに水だけを飲む老人の姿は、面白がっているようでいて、けれど分かりやすくいたわりに満ちている。彼が言外に指しているのは、もうひとりのスポックのことだろう。カークは喉が渇くような心地がして、残りのワインを一気に飲み干す。
「ほんとうに」
本当に、それを知る機会はあるんだろうか。
船長になる、という人事を知ったとき、確かにざまあみろという充実感があった。見返してやったぞ、という、アイオワに置いてきたあらゆるものに対する影のような達成感だ。けれどそれとは別に、ただ単純に、なんだかすごく、驚いてしまった。自分の存在に社会的な価値が与えられるということを、自分の中でどう処理していいか分からないでいる。
目の前のスポックの手の中にある、たくさんのきらきらした宝石たちは、きっとそういう戸惑いをゆるしてくれるものなのだろう。
あの日、目の前にあるすべてを助けるために立ったブリッジで、疑いなく同じものを見てくれた、クルーのみんなのように。
「でもあれは、あのときだけだ。あのときたまたま、ボーンズがいて、ウフーラがいて、スコッティがいて、スールーがいて、チェコフがいて。スポックが、いてくれて、たまたま」
「ジム」
「だって君じゃない。君は、俺のスポックじゃないし、俺は君のジムじゃない。君の話に出てきたみんなは、俺のじゃない。だったら」
「ジム、一般的な艦隊のクルーというものは」
「だって、本当に嬉しかったんだ」
ひどい目に遭ったけど、あんなに完璧な時間はなかった。きっともうない。
すべてを持っているように見える目の前の老人が、まるでうらやましく見えた。少しだけ見開かれた目が無防備で、カークは投げやりに笑みを浮かべる。ずいぶんと甘えたものだなと思った。こんなふうに拗ねてみせるのは、どうせ〝ジェームズ・T・カーク〟がどんな人間かをすっかり分かっているだろう相手だからだ。きっと自分が何を取り繕っても、意味がないに違いない。そう、思いたがっている。今だけでも。
「君はずいぶんと、臆病だ」
「君のジムとは違って?」
からかうように笑えば、ひっそりと眉が寄る。心配がにじむその顔に、少しだけしまったなと思った。あのワイン、最後のひとくちを飲まなければよかった。
「
――君ふうに発言しても?」
ひととき、沈黙したスポックは、静かにそんなことを言った。いつかの彼に倣って片眉を上げれば、彼は少しだけ身を乗り出す。
「どうぞ?」
「何もかも大丈夫だから、たらふく食べて熱いシャワーを浴びて何も考えずにころっと寝なさい」
くそ真面目な顔からそんな非論理的解決方法が飛び出してきて、カークは今度こそ、遠慮なく笑った。はっはと笑っていると、フロアスタッフがちらっとこちらを見やってくる。なんでもない、という手ぶりをしながら、カークは腕で顔を覆った。口元を押さえないことにはどうしようもなかった。
「君は本当にいい性格してる」
「ありがとう」
「はは。俺なんかよりよっぽど口車がうまいよ。だいたい、君のせいで俺はずいぶんスポックを傷つけるはめになったし」
「その話を蒸し返すのか。もう十分愚痴は聞いたと思うが」
「家族の不幸をあげつらうのは俺が一番嫌なやつなんだ、分かるだろ」
「けれど、必要だった」
「君はちょっとどころじゃなく自分に冷たいと思うな」
「耐久性を熟知しているだけだ」
「ひどい言い方だ」
「そう思うなら、私の代わりに謝っておいてくれ」
「このじじい
……」
「侮辱だろうか?」
「それに、もう謝った。あんまりこういうのは何度も言うもんじゃないだろ。あんまり言ったら俺が許してほしいみたいじゃないか。謝ったって、やった過去が変わるわけじゃない。論理的に言って、俺にできることはもうないよ」
「ふむ。君が得意げに論理を語るときは、大抵ちょっと間違えている」
「おっ、侮辱かな?」
「何故嬉しそうなんだ」
「やり返せるかなって」
「何度試行しても変わらないことが、何も変えないとは限らない」
「
……なんだって? えっと、もう1回」
「君がその珍妙な生物を発見したような顔を引っ込めるなら考えよう」
そのあとは、ろくでもないからかいと冗談の言い合いをして、フロアスタッフの視線に追い立てられるように店を出た。
すっかり夜にのまれた空を見上げて、この老人はどこで眠るのだろうと思う。歩き出せばふわふわと足元がおぼつかず、そんな感覚が久しぶりで思わず笑った。隣から溜息のような音が聞こえてきて、遠慮なく肩を揺らす。スポックは見かねたのだろう、問答無用にカークの腕を取ると、ゆっくりと引いていって生垣の隅に座らせた。
「外でこんなに酔ったのは久しぶりだ」
「ジム。君の通信機を」
「君もひどい目に遭ったけど、でも俺は嬉しかったよ」
「聞こえているか?」
「君に会えてよかった。君は本当の本当に災難だったけど、本当の本当に、助けてくれてありがとう。君があそこにいてよかった」
「
――それは、何度も聞いたよ、ジム」
「君が言ったんだぞ、1回でも10回でも結果は変わらない、なら、何度言ったっていいはずだ」
「それは君が、いや、ちょっと待ってくれ」
頭をふらつかせながら目を閉じると、寝てしまうと思ったのだろう、途端に焦った声がして愉快だった。カークはふわふわとした心地よさの中で、すべてを投げ出してしまいたい誘惑にかられる。たぶん、ここで馬鹿みたいに眠ってしまっても、スポックならなんとかしてくれるだろう。なんたって、自分は彼の大切な友人の、そのまた別の似た何かなんだから。なんだか急に、並んでブリッジに立ったほうのスポックが脳裏に浮かぶ。ネロに最終勧告をしたときの、彼の様子は面白かった。
「あれは、かわいかったなあ
……」
「ジム。少しだけ待っていなさい」
「ふぁい」
うとうとしながら、おざなりに返事をする。彼はぽんぽんと肩を叩くと、しばらくその場に佇んでいた。それからふいに、どこかへ歩いていってしまう。水でも持ってきてくれるのかな、とカークはのんきに思っていた。見捨てるはずがないのだ、あのスポックが。こんなふうになったジェームズ・T・カークを。
戻ってきたらしいスポックはやや早足だった。何かあったのかと、カークはぼんやり顔を上げる。
「つまり、あなたは酔った勢いで、あんな無言の通話を?」
こちらを見下ろすスポックは、怪訝さを隠しもせず、不穏さは申し分程度に隠して、厳しい顔つきでそう言った。
「
……えっと。この一瞬で一気に若返った、とかじゃなく?」
「あなたが何を言っているのか分かりません」
「つまり?」
「自分で何をしたのかも分からないのですか。あなたから無言通話がありました」
「それで?」
「そのあと、位置情報も送られてきました」
「なるほど」
「こちらからの通話には出なかった」
「そりゃ、何かあったと思うなあ」
つまり、どう考えても、これはスポックだというわけだ。いや、こっちのスポックと言い直したほうがいいだろうか。いや
……。
あのじじい、とカークは思う。優しく腕を取りながら、こちらのポケットをかすめたわけか。よほど悪い船長に毒されているようだ。
穏やかな顔をしたご老体にしてやられたことがおかしくて笑っていると、あなたは、と憤慨するような声が上がる。カークははいはいと手を挙げて、なんとか自力で立ち上がった。ヴァルカン人が冷静だというのは、たぶん教科書の中だけの話だろう。
びっくりするほど足に来て、思わず目を剥いてしまう。とっさに近くの腕を掴めば、それはさっき掴まれた腕より、ずっとうんとあたたかかった。きょとんとして目を向けると、しっかりしてください、と冷たい声にたしなめられる。その声につられて視線を上げて、それからスポックの全身を眺めて、カークは思わず顔を覆った。
「上着もなしにここまで走ってきたんだとしたら、君はものすごくひどいことを俺にしている」
「お言葉ですが。感謝の言葉ならまだしも、非難されるいわれはないはずです」
「ほっておけばよかったんだ」
「あなたが私によこした通話でしょう」
「俺じゃない」
「
――なら、誰が?」
「いや俺だ。ちくしょう、どうなってやがる」
「その質問をしたいのは確実に私のほうだと思います」
こんなの、まるで〝向こうの〟みたいじゃないか。自分の手の中にはまだひとつだって、宝石を隠し込めていないのに。
そう思ったら、なんだか本当に、ひどい気持ちになってきた。いったい何が狙いなんだと手当たり次第に問い詰めたい気分になる。
そんなふうに、ひとりでうーうー唸っていると、ふっと短く息が吐かれた。あきれて帰るのかな、と思ってちらっと覗けば、変わらず厳しい表情のスポックが、ぐいと腕を引いてくる。
「帰ります。できれば自力で歩いてください」
カークは、ひときわうーっと唸り声を上げた。スポックがそんな自分を至極面倒くさそうに見てくるのが、やっぱりすごく、面白かった。
宿舎まで戻る頃には、おおむねのところで落ち着きを取り戻した。すぐに自力で歩けたし、ふわふわした感覚はあるものの、走ろうと思えばまともにまっすぐ走れるだろう。もともと、そこまで酒に弱いほうでもないのだ。どちらかというと、今日は気が抜けていたと言っていい。
本部の敷地内に入れば、この時間は照明もまばらだ。開けた空間に、海から引き上げられたままの巨大ドリルが横たわっている。どう見ても厄介な廃棄物だが、どうやら一部を持ち帰って、仕組みを調査しているらしい。同じ脅威にさらされたときのために、という理屈は分かるが、個人的にはあまり見たいものじゃない。隣のハーフヴァルカン人ならなおさらだろう。
「ジム。自分の面倒を見きれないのなら、奔放な振る舞いは自制してください。これは地球人であっても、まともな大人なら普通に考える理屈です」
いや、前言撤回、隣のハーフヴァルカン人は情けない地球人を叱りつけることに夢中だ。カークは笑ってドリルから目を離した。
「俺がいてよかったな、スポック」
「失礼、どういった根拠でもってその判断がなされたのでしょうか?」
びよんと跳ね上がった片眉に、気分も合わせて跳ね上がる。まあ、こいつが悲しんでなきゃいいか、と思った。
どんな馬鹿をやっても、こいつが悲しんでないなら、それで。
「本当に、ごめんな」
「それは反省したということですか?」
「いや、反省はしてないけど」
「反省はしていない」
「こわっ。ゆっくり言い直すのやめろよ怖いな」
「私が迎えに行かなかったら、あなたは路上で朝を迎えていたはずです。このことについて何か弁明は?」
「でも、君は来ただろ」
いたずらっぽく笑ってぽんと肩を叩けば、スポックは嫌そうな表情で立ち止まる。それを追い抜いて、カークは彼の真正面に立った。もう横は宿舎の入り口だ。暗がりに浮かぶようなその顔を見つめていると、言いあぐねた様子のスポックは、反論を探して視線を落とす。
かわいいなあ、と思った。たぶん、酔っているからだ。
「君はほんと、感情豊かで繊細なやつだと思うよ」
「侮辱ですか」
のんびりと、そんな馬鹿なことを言うと、スポックの顔がぱっと上がる。その不審そうな眉を見て、カークはゆるっと頬を緩めた。
「その逆かな」
「逆とは」
「逆は逆だ」
「非論理的です」
「んなわけあるか。逆裏対偶はハイスクールで習う」
「いえ、あなたの発言は決して数学的なものではなく
――」
「嬉しかったよ」
「は?」
「来てくれて、ありがとう」
スポックは、ぽかん、と口を開けたまま固まった。それが本当に面白くて、どうしたってにやにやしてしまう。わざとらしく顔を覗き込むようにして近づくと、彼ははっとして不快そうに半歩だけ後ずさった。そういうのもすごく、ほんと、面白い生き物だなあと思う。この厳しくてままならない世の中で、こんなに繊細で大丈夫なんだろうか。
「何を」
「何を? 説明しようか、たった数時間だけの上官だった俺から不審な通信があったってだけで、慌てて走ってきてくれるのとか」
「ジム、表現に誤謬があります」
「君にとてつもなくひどいことを言ったのに、それでも一緒に走ってくれたこととか」
「ジム、それは」
「たった数時間だけの上官だったのに」
「それでもあなたは私のキャプテンでした」
ごちゃごちゃと言葉で遊んでいると、やたらきっぱりとした声音が凛と遮る。カークは思わず息をのんで、それからゆっくりと、笑みを刷いた。にっこりと笑いかければ、スポックは生真面目な顔つきでじっとこちらを見つめてくる。全力で、目を逸らしてしまいたい。そんな焦燥感を懸命になだめる。
「あなたは私のキャプテンでした」
「ちょ、何度も言わなくても聞こえてる」
「あなたはどうも分かっていないようですが」
「分かってる、何もかも、完璧に」
「あなたは私の」
「なんで何回も言うんだよ! 分かったって言ってるだろ!」
結局、耐えきれなくなって叫ぶと、スポックは心得たように軽く頷いた。お前のその訳知り顔はなんだと胸ぐら掴んで揺さぶりたい。まるで当たり前のように言わないでほしい、自分たちは〝あの人たち〟ではないのだ、どうせ手に入る保証もないのに、適当なことを言わないでほしい、下手すると眠れなくなるから。
「一度言えば分かることを、何度も繰り返すのは非論理的ですね」
「なあ、お前が今それ言う?」
「ですが、その行為によってあなたが思い知るなら必要な冪等性です」
「思い知
――」
「あなたは、私たちのキャプテンでした」
スポックはまっすぐと目を合わせたまま、静かに正しく、言葉を紡ぐ。
そのまじりっけのない視線は、ただひたすらにカークの肌を焼いた。たぶんこれは、生き物の至近距離で暴露してはいけない類の電磁波だと思う。真面目な話。だからもう、カークとしては、再び顔を覆うしかない。力任せにぴったりと両手のひらを顔中に押しつけて、一時、呼吸を忘れた。
「なんてひどいことを言うんだ、このデリカシーインポ」
いろいろ考えてから、そう言い放ってみたものの、スポックからの返答はない。またたぶん、びよんと片眉上げてんだろうなと思うと、泣けてきそうでたまらなかった。
結局のところ、大佐に昇格したカークに与えられた船はエンタープライズだったし、クルーに大幅な変更はなかった。手続きのため授与式より先んじて申し渡されたその内容に、カークは気が抜けてひっくり返るかと思ったほどだ。
食堂で会えばスールーやチェコフと一緒に飯を食ったし、スコットからはすでにキャプテンと呼びつけられて資材の手配を強いられる始末だった。見かけたウフーラをからかいに行っても前より無下にされることはないし、マッコイに至っては何も変わらない。
「あなたは感情的になると、意図の不明な無根拠の非難を行います」
「それが感情的ってやつだスポック、ひとつかしこくなったな」
スポックは、いまだ教官を続けている。
廊下で目が合って何となくそばに寄っていけば、彼も特に大げさなことはなく、けれどスムーズに寄ってきていつの間にか並んでいる。口を開けば小言ばかりだと分かっているのに、たびたびそんなことがあった。スポックもスポックで、口を開けば適当なことばかり言う自分にうかうか近寄るとはとんだ酔狂だなと思うのだが、ものすごいブーメランが自分の額に突き刺さる予感しかしないので深くは考えないでおいた。
ただ、スポックはずっと教官を続けている、ということだ。
「せめて適切な言葉遣いをお願いします」
「おや、私の発言に何か問題でも? ミスター・スポック」
「ジム。ふざけているわけではありません」
「俺はふざけてるつもりだよ」
「あなたはこれから400人超の人材を預かる立場になる。それを理解していますか」
君は来ないけどな、と言いかけて、にっこりと口をつぐむ。
「もちろん。念願のキャプテンだ」
ぽんぽん、と気軽に肩を叩いて、カークは口うるさい教官から逃げるように駆け出した。走らない、と背後から声が飛んでくるけれど、構うもんかと速度を上げる。
人事の締め切りはもうすぐだ。それまでに、エンタープライズの役職リストを埋める必要があった。
やり手の老獪スポックから連絡があったのは、そんな時だ。あれ以来、彼がどこで何をしているのかは分からず、なんてことをしてくれたんだという言葉を持て余していたカークとしては、願ったり叶ったりでアポイントを了承した。
あの日と同じ店の前に駆け込んでいけば、ゆったりと佇んでいる老人はまるで余裕そうに片手を挙げる。やあジム、とでも言いそうなその姿に、カークは当初の予定どおり、走る勢いのまま飛びつき、両腕を背中に回してぎゅっと抱きしめ、くるくるとその場で回ってやった。
十分に人目を集めたのち、カークはぱっと顔を上げる。呆然としたスポックは、ほとんど異世界に迷い込んだような様子だった。
「俺は君たちと知り合ったあと、もちろん、ヴァルカン人についてちゃんと調べた。君は知らないかもしれないが、俺は結構勤勉なんだ」
「君が勤勉なことは知っているが、それとこの熱烈な歓迎とはどういう関連が?」
「ヴァルカン人は、あまり接触を好まない」
「なるほど。つまりこれは嫌がらせだと」
「ちょっとは嫌そうな顔をしろよな。君の仕打ちはなかなかだったぞスポック」
「仕打ちとは、黙っていなくなったことだろうか」
「それもそうだけど、いやあらゆる意味でそうだな。そうだよ!」
「ヴァルカン評議会と話をしていたのだよ、込み入った話だから長くなった」
「
……は、待った、君ヴァルカン評議会にカチコミしたのか?!」
「カチコミはしていないよ、ジム」
レストランに入ってエンタープライズに乾杯し、前回は食べなかった気になる料理をピックアップする。それから姿勢を正して聞き役に徹する意向を示すと、スポックは静かに、けれど明瞭に、今のヴァルカン情勢を話してくれた。以前聞いた小さな面白エピソードとはかけ離れた内容だったが、あのときと同じ、悲愴さも緊迫感もない穏やかな語り口は、その内容に動揺するこちらの心身をうまくなだめてくれる効果がある。眠れない夜にベッドタイムストーリーを聞かせてほしい、と思う程度には。
「つまり、まじのスポックだって説明したうえで、向こうから理解が得られたってことか?」
「ああ、まじのスポックだと理解された」
こちらの言い方をまねて、少し口調を緩めるスポックに、カークはほっとした思いで口元をほころばせた。
「親父さんも複雑だろうな、それは」
「直感で正しいと思える解答と論理的に正しい解答が異なる命題を見つけたような顔をしていたよ」
「認知心理学がはかどりそうだ」
「私は彼らとともに新しい母星へ行き、ヴァルカンの復興に努めるつもりだ」
「そっか
……。その母星は遠いのか?」
「地球からという意味なら、それなりに」
「なんだ。どうせならうんと近所に住めばよかったのに」
「似た星があれば、そうしただろう」
一度口を閉じて、息をのんでから、さみしくなるな、と素直にこぼした。きっとこんなふうに会うことも、なかなかできなくなるだろう。自分だって、そのうち宇宙探査に出るようになる。そうしたら、きっと想像するより、実際の距離より、ずっとうんとヴァルカンは遠くなるはずだ。
「私もさみしいよジム。至らぬところばかりだが、君のスポックを頼んだよ」
「俺の? いやスポック、君の願いは叶えたいけど、俺に頼まれても困る」
「困る、とは」
「というか、こちらこそだよ。俺の、じゃ、ないけど
……、あのくそ真面目で度し難いスポックを、どうぞよろしく」
あいつ、君たちと一緒にその母星に行くんだろ? 艦隊辞めるって聞いたから、噂でだけど。
なんとなく言葉にしてしまいたくなくて、なんでもないふうを装いたくて、皿の隅にかき集めた香草を無駄にフォークでつついた。ぼそり、とそう付け加えれば、せっかく持ち上げた口元がすぐにでも重力に屈しそうになる。カークはさくさくと草を銀色で貫いて、食べるつもりのなかったそれを口の中に突っ込んだ。
うわこれ牧草地食ってるみたい、と茶化して言うためにぱあっと顔を上げて、カークは頬筋をこわばらせる。
なんとなく、分からないが、殺される、と思った。たぶん、目の前のスポックの雰囲気が、ブリッジで首を絞めてきたあのスポックを思い出させたからだろう。
「あー
……、なんか、怒ってる?」
「ジム。ヴァルカン人は怒りを制御する。君の教科書にもそう書かれていただろう」
「同じようなことを言ってたやつに俺は殺されかけたんだけど。つーか、怒ってることは否定しないんだな」
「あのくそ真面目で度し難いスポックは、君の船に乗らないと言ったのか?」
「こわ
……。の、乗らないとは言ってないけど
……」
「クルーの申請は?」
「まだ、だけど。だけど待ってくれ、だってあいつ、アカデミーの教官をやめる素振りなんて一度も」
「昨日の朝まではそうだったろうが、今は違う。あのくそ真面目で度し難いスポックは、君に会いにも行かなかったのか?」
「なっ、何の話か分からないけど! 本当に待ってくれ、いいかスポック、あいつは君じゃない」
「ジム」
「君がスポックを船に乗せようとするのは、きっと何か意味があるんだろう。でも、あいつは君じゃないんだ。あいつの人生はあいつ自身が決める。いくら君でも、あいつに何かを強要して、人生を捻じ曲げるって言うなら、俺は絶対に認めないからな」
きっぱりと、まっすぐ目を見て告げると、スポックはやや瞠目したように口をつぐんだ。
これだけは譲れないボーダーラインだ。いくらでも、自分の腹の中だけなら、ないものねだりをこねくり回すことは許している。けれど、それを口に出すのは自分の矜持が許さなかった。同じことを、誰にもしてほしくない。静かな夜の中、宿舎の前でこちらの身を焼いた、あのまっすぐな視線を思い出す。彼がそのままであることだけは、確実に保守したい。
「
……分かりました、キャプテン」
「ほんと怖いんだけど
……、何? 比較的まともなこと言ってるつもりだぞ俺は」
しばらくの間、睨み合うようにしていたら、やがて目の前のスポックが折れた。小さく息を吐き、けれど揶揄するように、殊更に丁寧な物言いをされてたじろぐ。やられてもやられっぱなしにはしない男だ、本当に。
「それなら、副長はどうするんです? あなたのファーストオフィサーは?」
「怖いからその言い方やめてくれ。まだ、その、今のところ白紙」
「では、スポックと書いて出してしまうことをお勧めします」
「おーい待ってくれ話を聞いて、俺の優しいスポックおじいちゃんを返して」
「来なければその時点で除隊とし、パイロットに任せればいい。スールーは全方面において優秀だ」
「俺に除隊権限はないです、サー」
こわごわと発言すれば、スポックはびよんと眉を跳ね上げる。どこまでが本気か分からない会話になってきたので、カークはとりあえず、あらかたを冗談と判断することにした。雰囲気をまぜっかえそうと、ここ一番とびっきりの笑顔を作る。スポックはそんな自分に倣うように、さらりと少しだけ頭を傾けた。
ごちそうさまでした、と店を出て、カークは大声を上げた。
「うわーっ!!」
「君のキャプテンは預かった、というメッセージはあまりに稚拙が過ぎませんか。知性のかけらも見られません」
「巧遅拙速という言葉は覚えておいたほうがいい、ミスター・スポック」
「うわーっ?!」
「声が大きいです、ジム。公共スペースであることを考えてください」
「だっ、はぁあ?! ちょ、スポック!」
「なんですか」
「君じゃない!!」
スポック問題が平行線をたどったあとは、他愛のない楽しいだけの会話をして、上機嫌に出てきたところである。その通りのど真ん中に、くそでかい威圧感のあるヴァルカン人が仁王立ちしてたらそりゃ叫ぶだろ、とカークは半ばやけになって訴えた。ばっと音が出るくらいの勢いで未来のスポックを見やれば、老人はしれっとした表情で、何か問題でも、というように眉を上げる。問題しかないだろうなんだその顔お茶目さんか!
「君が席を立っている間に、彼に連絡をした」
「俺は手段が聞きたいんじゃなくて!! 出会ったらだめなんだろ?!」
スポックとスポックが! と、ほぼ地団駄を踏むように言って、びしっとふたりに人差し指を向ける。
当のスポックたちは、ともすればきょとんとした顔で、お互いを見やった。しばしの沈黙。
「誤解を解いていないのですか」
「必要がなかった、この瞬間までは」
「それは屁理屈では? あなたはずいぶんと悪い地球人に毒されているようですが、ジムに怒られるのが嫌だった、などとは言わせませんよ」
「なるほど。自分のことはよく分かるものだな」
「いやいや待って待って!!」
そうして突如、仲良くキャッチボールを始めたふたりに、慌ててカークは割って入る。なんとなく、今の会話で自分が担がれたらしいことは理解したが、放たれるボールが軒並み場外ホームランだ。耳を疑う発言が多すぎて、気持ちがまったく追いつかない。
はあ、と興奮に上がった息を吐き出せば、スポックたちはスッと胸を張り、自然と後ろに手を組んだ。言われたとおりにしています、というスンとした表情で、じっとこちらを見つめて待機している。
カークはぽかんと口を開け、それからぱちんと自身のまぶたを手のひらで叩いた。
「もう!」
「もう、とは」
「憤慨だな」
「そのようなことは分かっています」
「おいうるさいぞ! 君らのその『まるで当たり前のことをしています』ムーブはまじでどうしようもねぇな!」
「まじでどうしようもねぇ、とは」
「まじでどうしようもねぇ、のだろうな」
「君ら面白がってないか?!」
大の仲良しかよ! と叫べば、ふたりは再びきょとんと目を合わせる。こっちはいろいろありすぎて心が大嵐だというのに、そのやたらのんびりした様子はべらぼうに鼻についた。ヴァルカンにはヴァルカンタイムでもあるのだろうか。待ち合わせ時間に家を出て会議にのんびり遅刻してくるヴァルカン人はなかなか愉快なものがある。知らんけど。
「混乱しているところ悪いがジム」
「誰のせいで混乱してるんだろうな?」
「副長の欄には勝手にスポックと書いて出しなさい。これは先ほど発言された君の希望を損なわないものだ」
「うわーっ待った、ちょ、第三者がいるところでその話は」
「第三者とは私のことですか? どう解釈しても私が当事者のようですが」
「だからお前は黙ってろってスポック!」
「黙る理由がありません」
「うるせー!」
びよ、と伸びた眉毛は無視して、カークはとにかく、トンデモ発言を平気でしやがったじいさんに取りすがった。ぐいぐいと引っ張って、これ以上余計なことが伝わらないよう、なんとかスポックと距離を取ろうとしたのだが、不服そうな顔のスポックがきっちりと追ってくるのでまるで意味を成す様子がない。どうもこれは自分の思考回路が完全に停止していると気づき、カークはいったん仕切り直すことにした。はー、ふー、と深呼吸をすれば、そんなこちらをふたりは興味深そうに観察している。るっせえな、これが100%ピュア地球人の持つ精一杯の理性だよ。ほとんど喧嘩を売るような目線で睨み据えると、ふたりは器用に片眉を持ち上げた。仲良しか。
「あのな、俺は別に」
「スポックは要請されたら断らない。まごまごブリッジに現れたブルーシャツに、君は後ろに座れと命じるだけでいい」
「ぐいぐい来るじゃん?! さっきからどうしたんだよこのハッスルじいさんは!」
「私はそろそろ出発しなければならないのだ、ジム。それなのにこのような中途半端な状態で問題を捨て置けない」
「そっ
……、か
……、ってしみじみ言いたいところだけど、あらゆる手段が強引すぎる
……」
「悪い地球人に毒されているものでね」
げんなりと彼を見つめれば、スポック大使は、どこか誇らしげにそんなことを言う。
なんだかもう笑ってしまって、カークは肩の力を抜いた。つまり、こいつが悲しんでなきゃいいか、と思う。
いつの時代でも、彼が悲しんでいないなら、もうそれでいいような気がした。
「ジム」
皺の寄った穏やかな声に顔を上げれば、ゆっくりとヴァルカン・サリュートが掲げられる。彼が定型文を言う前に、カークはにやっと笑みを浮かべた。それから強く地面を蹴る。
もちろん、真正面から飛びついて、両腕で彼にしがみつき、くるくるその場で回ってやった。
まあ、なんとかするから、安心して。
こっそりと耳元でそう告げる。すると、彼はひそりとこう言った。
まあ、だいたい、君はいつもそうだ。
もう十分、というところまでカルーセルを演じたあと、ふらつく彼から体を離せば、まるで名状しがたい未知との遭遇でも果たしたみたいなスポックが呆然と立ち尽くしていて、カークは声を上げて笑った。
「理解に苦しみます」
「だろうな」
残された若者たちは、またこの前と同じように、とぼとぼと本部までの帰路を歩いている。ぽかんとしていたスポックを現実に戻すのはいかにも苦労しそうだったけれど、あっさりと去っていく未来人に虚を突かれたことで、割とすぐ我に返ってくれた。
人ごみに紛れていく老人の背中をぽつんと見つめるスポックの様子はまるで子供みたいで、カークはぽんぽんとその背を叩く。それから腕を引いて歩き出して、しばらく経ってのことだった。
ド真顔で訴えかけられたその言葉を、もちろん、ド真顔で訴え返す。何故なら友だちとの大はしゃぎというのは、だいたいそういうものだからだ。意味はないし、なくていい。
返答が不満だったのか、じろりと重い視線が横から突き刺さってくる。まじで「ヴァルカン人は無感情」などと書いたテキストは、すべて編纂されるべきだと思った。
黙々と、足を進める。
困ったじいさんと約束した手前、〝なんとか〟しなければならない、というのは分かっているのだが、正直二の足を踏んでいる。結局、自分は根っこの部分で、こういったことには臆病なんだろう。彼の分析したとおりだ。
「キャプテン」
ふいにそう呼ばれて、カークはびくりと体を跳ねさせた。
ぎょっとしたような気持ちで、思わず隣を振り仰ぐ。
「ずいぶんと、親しくしているようで」
スポックは、くそ真面目な顔つきで、でもどこか不満そうに、ちらりとこちらを見やってきた。
冷静で理知的な眼差し。目元が涼やかなのは、彼特有の雰囲気だと思う。他の世界にもないだろう。
「失礼、なんだって?」
「ですから、ミスター・スポックと。念のため確認ですが、もしかしてこの前酔っていたときも、ご一緒されていたのですか?」
ぱちり、と光がまたたく瞳はこんなにもきれいなのに、言っていることはとんだ素っ頓狂だ。何なんだこのトンチキは、という素の声を、カークはぎりぎりで喉に押し込める。
「別に俺がたぶらかしたわけじゃないぞ。君はいろいろ複雑だろうけど」
「あの人はキャプテンが酔っぱらっていたのに、そのまま放置したのですか?」
スポックは、信じられない、という表現を、微妙な眉の動きでやってみせる。そんなしゃらくさい機微を必死に守るくらいなら、もっと分かりやい表現をしろよ、という言葉も、なんとか喉に押し込んだ。
「なあ、スポック」
「はい」
ふと、あんなにハッスルしていたじいさんが、結論を待たないまま去っていった理由を考える。
突然立ち止まった大男ふたりに、通行人はやや面倒そうな顔を向けて通り過ぎていった。
ひとつ息をのんで、唇を舐める。
「俺は、俺の副長欄に、君の名前を書いてもいいんだろうか」
エアカーが起こす風が額を撫でた。
夜のとばりが降り始めた街は、いくつかの光の粒をまとっている。
見上げれば、遠い星があるだろう。
「書いても良いですし、書かなくても良いです」
スポックの顔を確認できそうもない、と震えていたのはそこまでだった。
「は??」
「どちらでも構いません」
とんだ発言をかましてきた無表情をぎゅんと睨めば、スポックはひたとこちらの視線を受けたあと、さらりと流してきびきびと歩き出す。
カークははらわたが煮えくり返るような思いで、その背中を追った。
「おい、喧嘩売ってんのか」
「売っていません」
「俺は、お前、俺は本当に真剣に言ってるんだ! それをそんな」
「あなたはご存じないかと思いますが、私は帰還後、除隊を申し出ました」
「知ってるよ! お前からじゃなくて噂でな!」
「そうでしたか。ですが、私が除隊の相談をしたのはパイク大佐です」
「パイクだからなんだ! 何も変わらないだろ」
「その相談を撤回した際、彼は私をエンタープライズの副長にと言いました」
「
……は」
「つまり、事実上の内定です。ですので、あなたがその欄に何を書いたとしても、私は構いません。何を何度入力しても、得られる結果は同じです」
「は」
「いずれにせよ、あなたのファーストオフィサーは私になりますので。キャプテン」
スポックは目を合わせることもなく、ずんずんと歩いていってしまう。驚きすぎてふらついた船長の足取りを、非情な副長は決して待ってはくれなかった。
えっと。
つまり?
ええっと。
……は?
「スポック!!」
ぶわっと、何か大きな感情の波が来て、思わず、カークはそう叫んだ。ぴたりと足を止めた副長は、何か数瞬、逡巡するように硬直して、それから無駄なく回れ右をする。落ち着いた双眸で、ぴしりと姿勢よく直立して。
「君は本当にひどいやつだ!」
「ですから、根拠のない誹謗中傷は」
「君の名前なんて書いてやらないからな! 白紙だ白紙! 俺に副長なんかいらない、キャプテンひとりで事足りる! なんたって俺は、優秀で、ハンサムで、将来有望で!」
スポックの眉はびよんと、賛同しかねます、と言った。なんだか酸素が足りなくなって、あえぐように呼吸する。そんなこちらの様子に構わず、彼は器用な無表情で、やたら勝ち誇ったようなオーラを出した。まるで挑戦を受ける余裕でもって、少しだけ首を傾げてくる。
「では、そのように」
「このやろう!!」
カークは全身のばねを行使した。彼との間に空いた距離を一気に詰めると、何かを言おうとしたその肩に、頭から全力でタックルした。
「茶番なんだよなあ
……」
「何か言ったか、ボーンズ」
「いや。ただ、こういう人事は先に承認フローを通るはずだよなあ~、と」
「そういう無粋なことは胸に秘めておくものよ」
「ほら、ウフーラはいつもいいことを言う」
とっておきの笑顔でバチンとウィンクすれば、ウフーラはあきれたように椅子を回してしまう。けれど、嬉しそうにしているのは分かって、カークもなんだかやたらと嬉しくなってしまった。近くにいるボーンズの腿をばしばしと意味なく叩けば、やめろとはたき返される。
「いったい何の話でしょうか」
分かっているのかいないのか、取り澄ました顔のスポックが間に入った。その発言に、チェコフの椅子が小刻みに2回振り向く。
「お前だよ、お前」
「ひとつ助言を。メディカルドクターは現在ブリッジで待機する必要はありません、以上」
「なあジム、こいつ放り出そうぜ」
操縦桿を見つめるスールーの肩が不自然に揺れるのを見て、カークはつられて吹き出した。
「仲良くしろよ」
「お前が言うか?」
「うん? 俺はこいつのこと気に入ってるけど?」
いつかの査問会での会話をなぞるように言ってやると、マッコイはふてくされたように顔をしかめる。
キャプテンチェアからちらりと見上げれば、器用に眉を上げた副長が見えた。そんな反応がおかしくて、カークはスポックにもとっておきのウィンクをお見舞いする。嫌そうな顔が最高にかわいい。
「さて諸君。そろそろ着く頃だと思うが」
「あと15分ほどです」
「ありがとう、チェコフくん。対象はすでに調査済みの惑星で、今回は文化進行度を測るのが狙いだ」
「突然のキャプテン」
「おいうるさいぞマッコイくん。俺はずっとキャプテンだ」
「機嫌がよさそうね」
「今日も君がきれいだからね、ウフーラくん」
「その一言がなきゃ最高なんだけど」
「ごほん、おほん。聞いてくれ」
「聞いていますので早く」
「うん、君の彼女を少しからかったくらいで、ちょっと圧が強すぎないかスポック」
「あなたが無為な時間を浪費しているという当然の指摘をしています」
「分かった、分かった。つまり俺が言いたいのはだな」
「まさか、攻略済みのダンジョンなんてつまらないとか言って、居住区以外の危険地帯に降りる気じゃないだろうな」
「ボーンズが全部言っちゃうじゃん」
「アホか!!!!!」
「なんだよ、これがフロンティア精神だろ!」
「お前の思考回路が未知なるフロンティアだこの馬鹿!!」
「あの、副長、あと12分で到着してしまいます
……」
「ここから自動航行を手動に変えての回避行為は無理ですね
……」
「黙らせたいなら保安部からフェイザー借りてきましょうか?」
「
……大尉、それは最終手段だ」
「はい副長」
「待った、最終でもだめだろ?! なに普通に銃火器繰り出そうとしてんだキャプテンを撃つやつがあるか!」
「お言葉ですが、キャプテン。麻痺モードを使用しますので問題ありません」
「俺はそういう論理的帰結が聞きたいわけじゃないんだよな~! 頭がいいはずなんだけどな~科学士官は! お言葉すぎるだろよく考えてものを言えスポック!」
「お前が無茶苦茶言うからだろ」
そうこうしているうちに、ぱっと正面の景色が切り替わる。広い宇宙にぽつんと浮かぶ、不思議な色合いの未開の惑星。
わいわい言い合っていた全員の視線がそちらに吸い込まれた様子を見て、カークはにんまりと笑みを浮かべた。なんだかんだいって、結局は、探査船を選んで乗り込んだ面々なのだ。フロンティアと聞いて胸が躍らないはずはない。
さっとウフーラに視線を投げる。受けた彼女は、仕方がないなというふりをして、艦内へのチャンネルを全開した。
さて、もう諦めたかな、と隣を見上げる。スポックは短く息を吐いて、こちらを向いた。小さな頷きを返されて、俄然気持ちが高ぶっていく。
その熱さを胸に、心でカウントを取る。目を閉じて息を吸い、満面の笑みを画面に映した。
「こちらキャプテン、ジム・カークだ」