racmon
2024-01-18 22:45:52
5013文字
Public
 

呆れながらも惚れりゃんせ

ささろ
⚠️盧笙の体調不良描写あり

 お手入れに関するお願い。乾いた布や、ペーパーなどで拭かない。詳しくは取扱説明書を──。
 こんな物の蓋の裏側など、じっくり読み込む機会なんて今くらいしかない。盧笙はよだれや、そのほか諸々で濡れた口端を拭いながら、日本が誇るトイレメーカーの問い合わせ電話番号を虚ろな目でなぞった。

 今日は職場の新年会があった。盧笙は毎年楽しみにしていて、その心持ちでいられること自体に喜びを感じていた。尊敬できる同僚らと酒を酌み交わし、今年一年の抱負を語り合う。なんて有意義な時間だろう。高まる感情で目頭が熱くなるほどだった。だからどんな状況でも欠席はあり得なかった。行かない選択肢など毛ほどもなかった。たとえそれが、病み上がりであろうと。

 新年初終電ダッシュはなんとか勝利を納めたものの、身体の具合は最悪だった。何気なく見た車窓に薄ら笑いの自分が映っており、盧笙は限界が近いことを悟る。頭から血の気が引いていく、感覚。
 会場となった飲み屋は普段利用しているJRの駅から少し遠かった。仕方なく乗り込んだ阪急の車両は、静かに盧笙を迎え入れてくれたが、ゴールデンオリーブのモケット生地を堪能する余裕はない。どうにかしっかりと気を保つため、盧笙はあらゆる広告に意識を向けた。六甲山のスキーに、百貨店の催事。弾丸フェリー旅の文字には参ってしまった。盧笙の想像力が胃の中に荒波を立てる。下世話な内容のものが目につかないだけありがたかったが、脂汗は止まらない。やけに光がまぶしい。唇が、冷たい。右側のドアがあいて、見慣れない景色がひらける。盧笙は這い出るように下車したのだった。

 いくらか楽になった体を動かし、改めて現在地を確かめた。すれ違うのもやっとのホーム。少ない街灯が照らすのは、二等辺ではない鈍角三角形の狭い墓地。盧笙は身震いをして、足早に改札へ向かった。一度も降りたことはないが、聞いたことはある駅名だ。自宅から一番近い阪急の駅の、一つ手前の場所だった。惜しかった、と独り言がこぼれる。無意識に取り出したICカードが残高不足のエラー音を鳴らした。日頃定期券内の往復しかしないため、残高はたったの144円だった。最後にチャージしたのはチームとして東都へ赴いたときだったか──。今振り返ることでもないのに、盧笙は端数の4を見て思い出したりした。
 財布の中に小銭はない。例年通りコース料理を予約し、事前に集金していたが、誰かが別途料金のものを頼んで会計に足が出てしまい──これもお決まりの流れだが──半分以上が酔っ払いになった場を世話していた盧笙はさっさと細かいのを出して支払った。端が折れた千円札を乗り越し精算機に入れるのに手間取りながら、さっきまでのシャンとした自分はどこへ行ったのかと額をおさえる。
「タクシー……
 へんぴな駅前の"大通り"で空車の光を待つ。しかしそもそもが、タクシー自体走っていない。ぼんやり立っていると冷たい風に背中がゾクゾクする。歩いて帰ったらどんなものだろうか。地図アプリは「少なくとも三十分は歩け」と、朦朧とした盧笙に現実を突きつけた。
 歩く? 今は相当酔っているからさすがに危ない? 盧笙はとりあえず自宅の方面へ進むことにした。
 一向に捕まらないタクシーを探すか、諦めるか、一歩進むごとに天秤が傾く。
「ンン……ムニャ……
 口の中の不快感が増してくる。都合よくすぐ先にコンビニが見えた。ここでミネラルウォーターを買わない手はない。盧笙は小走りで入店し、常温のペットボトルを素早く購入後、手洗い場へ。綺麗な水でうがいをして、泡立ちと濁りがなくなったのを確認し、顔を上げた。

 自動ドアを出た盧笙はいまだ血色は悪いが、頬には少しの笑みを湛えていた。右手には荷物が増えている。エコバッグの中身は冬季限定スイーツに、菓子パン。飲み会帰りでコンビニに寄った場合、水だけの購入で済む人間は余程自制のきく者だ──。これは盧笙の自論だった。
「まあ、全部出てもうたしな──んんっ?」
 爆買いの言い訳を夜風に乗せるなどしていると、向かいにある別のコンビニに何かを見つけた。

  ◇   ◇   ◇
 
 年が終わり、そしてまた明けた実感もロクにないまま、簓は今夜もテッペンをタクシー車内で迎えようとしていた。行き先は自宅ではない。もう辛抱ならんと、運転手に伝えたのは盧笙のアパート近く。年末年始の忙しさに、日付も時間もこんがらがっている簓の頭の中で、寸分の狂いもなくカウントされているのは盧笙と会えていない時間だけだった。
「もう今! いま、すぐ顔見な、俺、無理!」
 バックミラー越しに何か言いたげな視線を感じつつ、簓は鼻先を窓に押し付け、外を見る。ぽつぽつとともる街灯が照らすものはなにもいない。
 息で霞んだガラスに、赤青黄色が流れていく。ふとコンビニの白い光が差した。その中に、長身の影がふわふわと揺れている。
「おぉん?」
 簓はコートの袖でサッと窓を拭いた。すると、くっきり見えたのは、ここにいるはずもない──むしろいるべきでない──盧笙の姿だった。目をこらすと、深夜とは思えない量を買い込んでいる。簓には一瞬スローモーションで映ったものの、法律を遵守した速度で無情に通り越してしまう。
「すんません! ちょっと行ったとこでええから停めて!」
 盧笙へメッセージを送り、また後ろを振り返る。しばらく待てば傍らを通るだろうとわかっていても、簓の気持ちは急く。
「新年会、あいつ行きよったな……
 簓とて、分別のつく立派な大人だ。なにも盧笙に対し、他人との食事の一切を禁止しているわけではない。飲み会の予定を知らされて駄々をこねるのは、交際スタートからわずか三ヶ月ほどで卒業した。今回の忠告に関しては、盧笙の体を気遣ってのことだった。三日三晩熱にうなされ、ようやく処方された薬も飲み終えた頃なのだ。大事を取って欠席しても、責める者は誰もいない。それでも己の体力を過信し、その結果、顔面蒼白の千鳥足になるのが盧笙だった。
 まだ既読はつかない。歩きスマホをしないのはよいことだが、このままでは簓の存在さえ無視して通りすぎかねない。焦れた簓は通話画面を開き、視線を上げ──眼前の光景に吠えた。
「あっ、コラ! コンビニハシゴすな!」
 盧笙はさきほどよりやや早足気味に信号を渡り、反対車線にあるソフトクリームの旗を掲げた方へ吸い寄せられていったのだ。
「ちょっと歩いたら冷たいモン食べたなったナァ、ちゃうねん!」
 メッセージ画面には『応答なし』の表示が連なっていく。その間にも盧笙は黄色に青字の看板をめがけてずんずんと歩いていく。
「おいおい待てって──」
 簓はついに窓を下げた。

  ◇   ◇   ◇

「もう遅いから、帰りなさい」
「は?」
 盧笙はコンビニにたむろする若者たちの前に立っていた。あきらかに未成年であろう少年少女三名を、車道を挟んだ距離から発見していたのだ。こうなるとただの酔っ払いではいられなかった。毅然とした態度でもう一度口を開く。
「もう遅いから、あぶないから、帰りなさい」
「いや、なんなん?」
「盧笙──」
 彼らは互いに顔を見合わせたり、あたりを見回したりしている。
「お前の知り合い?」
「いやオレしらん」
「盧笙ー──」
「あれ? よう見たらウィズダムちゃう?」
 どこかの制服のスカートの下に、ピューマのシルエットロゴが入ったジャージズボンを履いた少女が盧笙の顔を覗き込んだ。
「てことはガッコのセンセーやん」
「暁進やっけ?」
「オレ、幼馴染たぶんギョーシンや」
「盧笙──!」
 口々に喋り出す10代のスピード感にやや置き去りにされつつも、盧笙は「ヨソの生徒でも、関係ナイ」と、酒気帯び特有のゆったりとした口調で諭した。
「てか、ずっとなんか聞こえへん?」
「話をすり替えるんじゃ、ない」
「いや呼ばれてるって、ずっと」
「まだ他に友達がいるのか」
「ちゃうって、あたしらじゃなくて──」
 「ンッ!」と指をさされ、盧笙は首を傾げる。
「ほなオレら帰るし」
「ウィズダムもはよ帰れよ、家近いん?」
「足フラフラやん。気ぃつけやぁ」
 走り去っていく三台の自転車を見送り、使命を果たした盧笙はひとつうなずいた。ふたたびアルコール混じりの呼気が気になりはじめる。スイーツの山に埋もれたウコンドリンクを握り締めたとき、亀のような速度のタクシーが向かってくるのが見えた。車線はあちら側だが、高く手を伸ばせば見つけてもらえるだろうと、盧笙は踵を上げた。
「すんません、止まって──」
 空車と表示されているはずの後部座席に、人影が見える。盧笙の挙手はうなだれかけた。
「あ」
 半分開けた窓からじとりとこちらを見る目があった。簓だった。スマホの画面を見せつけたまま、すれ違って行く。
「──うわ」
 団子状態になったいくつものメッセージ通知が、盧笙に冷や汗をかかせる。そこにまた新たな一件が追加された。
『そこ渡ってきて』
 盧笙は慌てて来た道を戻るが、青信号は点滅していた。右、左、右、と車道を安全確認して駆け出そうとすると「ええから次待ちぃ!」と声が飛んできた。赤色の点灯の元、盧笙は大人しく仁王立ちで待つことにした。

 路肩に停まったタクシーのすぐそばまで近づくと、待ってましたとばかりにドアが開く。
「こんな時間まで見回りでっか?」
 ヌッと顔を出した簓に、盧笙はぴたりと足を止めた。弁解の余地もなく、ただ真っ直ぐに遠くを見つめるしかない。ヤレヤレと招き入れられ、ようやく乗車した。
「行くな言うたやろ俺ぇ〜」
「いけるおもてんもん」
 盧笙がウコンドリンクを握り込んでいるのを見た簓が「行きに飲め飲め、帰りは遅い」と歌った。
「なんでこんなとこおるん。この辺で飲んでたわけちゃうやろ?」
 とん、と肩が触れ合った。
……もうあかん、顔を上げたら、知らん駅」
「うん」
「途中下車して、結局吐いた」
「そら可哀想に──五七五、七七?」
 安心しきった盧笙の瞼はもうほとんど閉じていた。頭が振り子のように揺れる。
「さっきなぁ、俺の生徒くらいの子らに注意したら、バレたわ」
 俺めっちゃ呼んどってんけど、と簓が尖らせた口に、盧笙が気づくことはない。
「なあ。タチの悪いのんに絡まれたらどないするつもりやったん。──なぁて」
 ドリンク缶で手遊びする盧笙から、簓はそれを取り上げ、エコバッグに戻した。
「シラフやったらこの拳を信じてるけどもやな」
「アホか! 俺ぁいつでもやれるッ!」
 盧笙は人差し指を鉤の形にして腕を振り上げたが、あっけなく簓に絡め取られる。
「ヘェヘェ。ベロベロでも戦えんのは、お前かジャッキーくらいのもんですワ」
 ファイティングポーズを簓の手のひらにいなされ、ゆっくり下ろされていくのを盧笙は薄目で追った。
「でもなぁ、盧笙? 信号待ってるときなんか、まるで亡霊みたいやったで!」
「亡霊」
「お前のその青い顔が、赤信号の光で紫なっとったもんな!」
「ほんまか」
 真顔で振り向いた盧笙に「こらあかんわ」と簓が首を振った。
「焼酎挟んだんが、あかんかったかな……
「アホか。病み上がりがすべてです」
 盧笙は頭を引き寄せられ、そのまま素直に簓の肩口に収まった。ラジオの音より近くに簓の呼吸を感じる。しばらくの沈黙の中、盧笙はとあることに気がついた。
「お前、また俺んち来る気やったんか」
「ギクゥ」
「飲み会行ってなかったら、俺もう、寝てる時間やったで」
「そこを『寝かすわけないやろ』っちゅうたる予定やったんやんかー」 
「ははっ、そらすまんかったな……
 擦り寄り、囁いて、安く許しを乞う。
「言うてくれたら、はよ、かえったったのに──」
「んはっ! 俺のせいかーい!」
 優しい簓に、盧笙は夢の中で「ありがとう」と言った。本当の唇はパクパクと動くだけで、ただそれだけでも、簓は大切に盧笙の髪を梳いた。
「惚れた弱みっちゅうやっちゃなぁ」
 酔っ払いの世話をしながら出た呆れ声。それは意外にも簓自身に向けられていた。かゆみを伴うほどのせっかくのその音は、盧笙にはしばしおあずけとなった。