自室の配置換えや動線の確保がようやく終わり、埃と汗に塗れながら廊下に出てみれば外は殆ど夜だった。闇を吸った窓に映る僕は疲労の色を全身に纏わせてはいるけれど、明らかにどこもかしこも浮かれている。当然だ、影片がこちらへ本格的に腰を据える用意が今日やっと整ったのだから。以前の失態を踏まえて何度も渡米と同棲の意志を確認したから、今回こそは抜かりや驕りは一つも無い。一度は手放した家具類をどうにか集め直し、食器も寝具も適当で良いと笑う彼を黙らせて糸目をつけずに僕がこの手で買い揃えた。勿論、これから生活していけば足りない物や不要な品は必ず出てくるだろうが、二人でああでもないこうでもないと費やす時間もきっと悪くはないだろう。そこまで考えて、流石に浮かれ過ぎでは無いかとふと我に返る。自然と弧を描いていた口元を掌で揉むように隠して何時もの顔を思い出そうとするが、なかなか上手く出来ない。たかだか「久しぶり」と「またね」が無くなっただけの関係に、初日からこんな振り回されてどうする。そう自分に言い聞かせて、夜を背景に心と表情が完璧に仕上がるまで何度も深く息を吐く。今日が特別じゃなくなっても営みは止まらない、共に生きる日々が当たり前に成り下がっても絶えず紡ぎ続ける慈しみを人は生活と呼ぶのだ。
火照った頬がやっと平温に近づいた頃、静かに手を離して己と久しぶりに向き合えば、何とか人目に耐え得る程度の仏頂面にはなっていた。ついでに全身を軽く整えてから、まだ段ボールが好き勝手積まれたままの廊下を抜けて影片の部屋へと向かう。淡い檸檬色の扉を一度手の甲で叩けば、二拍遅れで随分気の抜けた返事が飛んでくる。飛行機であまり寝られなかったと言っていたから、疲れも眠気もそろそろ限界かもしれない。そんなことを思い出しながら、出来るだけ丁寧に今日から影片の城となる床を踏む。
「影片、片付けは進んだ‥足の踏み場だけは出来たようだね」
「これでも目一杯頑張ったんやけど。やっぱり一日でこの量は無理やったわ」
いずれも中途半端に開いた段ボールに囲まれながら、小さく膝を抱えた影片が力無く笑う。衣服と今夜使う分の必需品に占領されたベッドと、配置しか決まっていない本棚やテーブル。迂闊な君が直接座っても大丈夫なように厚手で肌触りが良いものをと選んだラグは、山のような段ボールに埋め尽くされてちょうど一人分の毛並みしか見えない。あらかじめ好みを聞いて僕が買い設えておいたカーテンが、今のこの部屋唯一のインテリアだ。だが、それも黄昏を覆う余裕も無いまま、留め具も解かれず夜の始まりに沈んでいる。元々、凝り性な癖に整理整頓が得意な子では無い。長く使うと決めた部屋で拘りと理想にかまけている内に一日の時間配分を誤ったのだろう。
「荷解きは一旦諦めてリビングにおいで。温かい紅茶を用意するよ」
「お昼から何も口にしてへんわぁ。外も暗いし、そろそろ夕ごはんの時間やろか」
まだ時計の無い部屋で窓の向こうの闇に驚く声に思わず息が止まる。夕食、確かに影片はそう言った。全身の血がざあっと嫌な音を立てて潮のように引いていく。今日は朝から各自部屋作りで忙しく、昼も僅かにあった買い置きのパンを齧って済ませただけだ。だけど、せめて夜は影片の好きなものを。そう思って材料だけは前日からしっかり買い揃えておいたのだ。偏食と粗食が過ぎる彼が美味しいと笑う顔が見たい、ただそれだけの願いが今の僕の行動理由だったりする。だから、毎回手の込んだ歓迎を考えていた筈だったのに。
「お師さん?おれがプリティ5で猫耳付けた時と同じ顔しとるで?あれ、めっちゃ恥ずかしかったんよなぁ」
「‥その写真は後で見せてもらうけれど。すまない、夕食の準備が何も出来ていないんだ」
「えっ」
絞り出した謝罪に弾けるような感嘆符が飛び出して、束の間の沈黙が部屋を満たす。ぽかんと無防備に目も口も丸くした姿に、罪悪感と自己嫌悪が一気に押し寄せて鳩尾の辺りが鈍く痛む。思わず覚えた立ち眩みに右手で顔を押さえれば、触れた眉間の皺があまりに深くて自分でも軽く驚いた。何たる失態、何時だって初日位は完璧にエスコートしていたかったのに。出来ることなら朝から、いや、むしろ空港で手を繋いだ時からやり直したい。
黙り合うだけでは弁解も挽回も進まないことは分かっているが、上手い二の句が見つからない。このままでは居たたまれなさで顔を握り潰してしまいそうだ。力の抜き方を忘れた指が更に強張る間際、不意に花が綻ぶような音が鳴る。
「‥影片?」
「んあっ、あかん笑ってもうた、お師さんめっちゃ落ち込んでんのに‥ふふ」
両手で口元を隠しても堪え切れずに漏れる言葉と笑いが、星の煌めきを真似て部屋中に溢れていく。小刻みに揺れる薄い肩と忍ぶにはあまりに甘い息継ぎを指の間から見る限り、僕の失態に呆れたり怒った訳では無さそうだ。一応保たれた体面に現金でも少し呼吸が楽になるのを感じる。慎重に掌を顔から剥がし、未だ笑い続ける影片の元へ情緒の整理も兼ねてゆっくりと近付いていく。一人分の隙間の隣に段ボールやぬいぐるみを少し寄せてしゃがむ分の場所だけ確保すれば、僕を捉えた星の瞳が潤んだままに音も無く綺麗な三日月となる。
「‥せっかくの夜に悪いことをした。夕食は外に食べに行こう」
「あっ、ちょっと謝らんでや。責めたりなんてせぇへんし。むしろ、ちょっと嬉しかったし」
「嬉しかった?」
思わぬ言葉に疑問符塗れで復唱する僕に、三日月は更に光と深みを増して輝く。瞬きの度に笑いの余韻が目尻まで鋭く流れ、星影と見紛う程に彩度を上げる。掌の奥の唇はきっと満足気に満ちていることは分かっていた。それでも、今この瞬間に目を離すことは決して出来ない。
「おれがこっちに泊まりに来ると、お師さん何時も豪華でお洒落なごはん作ってくれたやん。おれ、あれ大好きだった。特別な日、って感じがして」
「‥事実、その通りだったからね」
「特別は、嬉しい。それは間違いないんやけど、‥ちょっとだけ寂しくもあったんよ。この時間はいつか終わるから特別なんだって、言われてるみたいで」
満ち足りた瞳のまま聞き慣れない本音を語る声を静かに聞く。視線はお互いに逸らさない。二人の間に隠すべき言葉や揺らぎなどは無い、そんな甘ったるい時期はとうの昔に済ませてある。その証拠に語尾まで完全に響き終わるのを待って、影片はまた軽やかに笑い出す。
「だけど。用意されてないごはんも、時間を気にしないお師さんも、全然特別じゃないけど嬉しかった。もうお泊りって言わんでええんやと思ったら、もう楽しくて嬉しくて笑うの我慢出来んかったわ」
堪忍やで、なんて形だけの謝罪も吹き出しながら影片は僕の方へ身を寄せる。重なった二つの熱があっという間に溶け合って、一つの温度になるのが布越しでもすぐに分かる。くつくつと含み笑いが溢れる度に触れた肩や腕が揺れて擽ったい。ほんのささやかな日常の変化によくそこまで笑えるなとは思うが、こちらに目を遣る暇が無いのは良いことだ。先程とはまた違った理由で右手を顔に当てれば、はしたない程に頬や額や鼻先が痛くて熱い。何故だか少しでも気を抜けば声が上擦って湿りそうな気がしたから、影片にはばれないように深呼吸を繰り返してから口を開いた。
「‥明日は僕が作ろう。二日続けて外食は体に悪い」
「おれ、野菜の皮剥き出来るようになったで。きっと役立つからって椎名先輩に色々教えてもろたの」
「それは楽しみだ。こちらも色々と報告があるし、お互い積もる話が沢山あるね」
「今日くらいは夜更ししてもええやろ。そういえば、久しぶりにお師さんのお布団で寝たいわぁ」
「‥‥僕の?」
「おれのベッドまだ物置やもん。先に寝たり話題が尽きたら負けやで。ふふ、なんや笑ったらお腹空いてきたなぁ。腹が減ってはなんちゃららやし、いっぱい食べようなぁ」
ころころ変わる話題と展開について行かれず固まる僕には気付かず、影片は無邪気にはしゃぎ続ける。恥じらっていた手はいつの間にか僕の腕をきっちりと両手で握り、明け透けな唇が歌うように未来を語る。猫より愛らしく懐く横顔を見下ろす僕は、恐らく中途半端に引き攣った情けない顔をしているだろう。変に達観している割に時々飛び抜けて夢見がちなところは、間違いなく君の美点だ。だけど、たまには一人先走って夢見る前に振り回されて理性を擦り減らす僕の身にもなって欲しい。可愛い無邪気も大概にしておくれ、これからの長く賢い日々の為にも。
「お師さんは何食べたい?おれはがっつり中華かなぁ」
「‥君と一緒なら何でも良いよ」
「それただの口説き文句やん!」
精一杯の答えも派手に笑い飛ばされて、もう返す言葉は何も無い。また涙を浮かべて転げる声に明日からの生活を案じつつ、既に落として落とされた手をせめて強く握っておいた。
If you make a mistake, you can cancel it by pressing the reaction.