kako1412
2021-08-26 13:13:09
14268文字
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9/4 五歌オンリー新刊 サンプル

1/3弱をサンプルで放出しますので良かったらご確認ください。

 その日はとにかく庵歌姫にとって酷い一日となった。
 出発時には小雨程度だった雨が、現地に到着した時には本降りとなり、呪霊を確認したところで雷雨となった。この時点でろくな一日にならない気はしていた。

 現場は東京高専から車で1時間ほど走った山間部にある集落である。きのこや山菜を求めて山に入った地元民および登山客の行方不明が一年間で十数件続き、呪霊の存在が疑われ調査が入った。結果は黒。
 本来ならば京都所属の歌姫にとって関東近郊は管轄外のエリアだが、たまたま東京高専への出張が入っていて、この日ぽっかり予定が空いていたこともありアサインされた。
 帳の下ろされた里山の細い登山道で、ずぶ濡れになりながら呪霊と対峙する。撥水効果のある白衣も緋袴も水を吸い始めるほどの雨量で、気を抜くと前が見えなくなりそうだ。
 こんな時アイツなら濡れもしないのだろうとムカつく後輩の顔が不意に過り舌打ちした。
「あぁもう、最悪。温泉があるからって期待してきたのに」
 何の呪霊だろうか。遭遇したのはナメクジに手と足を生やして目鼻口らしきものを取ってつけたような、とにかく気持ちの悪い造形。事前の調査どおり二級といったところか。
 いくつか攻撃を仕掛けられたのを避けて反撃したところで逃げられた。
 残穢を追いながら傾斜のきつい道なき道を駆け上がっていくと整備された尾根に出た。その先にある急階段の上へと逃げていく姿を目視する。後を追って階段を駆け上がった。その瞬間、石段が崩れるような感覚に陥り強すぎる呪力が足にまとわりついてきた。
 まずい──! 反射的に段から飛び降りるようにして離れ、再び登山道に着地すると階段を振り返った。
 生得領域に間違いない。気付くのが一歩遅れれば取り込まれていた。ということは、ナメクジではない別の呪霊があの上に存在するということだ。呪力量から一級あるいはそれ以上に相当するものが。
 歌姫は現場に背を向けると来た道を戻りながら、麓で待機中の補助監督に無線を繋いだ。
「こちら庵、報告にない一級以上の可能性を確認。応援呼べる? 一旦そっちに戻る」
『承知です、すぐ手配します』
「ありがとう。念のため2名は欲しい」
 不必要な危険を犯さないことは生徒たちにも散々指導していることだ。万年人手不足である呪術師がこれ以上、人員削減となれば世界の均衡が崩れる。
 一人で立ち向かう必要があれば迷わずそうするが、今は冷静に勝率を上げる算段を講じるときだ。
 一旦車両に退避して着替えたら今度はレインウェアも着用しよう。そして応援の人間と合流、作戦を立てて……そんなことを考えながら急ぎ足で戻っていた歌姫は、ふと違和感を覚えて足を止めた。
 ゆっくり顔を上げると、そこにはさっき呪霊を追った時に見たのと全く同じ階段がある。
……は?」
 どこかで分岐を誤って戻ってきてしまったのか?
 嫌な予感がする。ゆっくりと再びそれに背を向け、元来た道を慎重に進んでいくが、だんだん周囲に見覚えがなくなっていく。やがて人間の踏み跡のない藪の生い茂る獣道へと誘われ──やはりだ。正面に同じ階段が現れた。
 無線機のスイッチを入れたが案の定、反応はない。葉を叩く雨音が響き渡るのみだ。
 恐らく例の呪霊がここ一体に何かしらの術式をかけているのかもしれない。大きく舌打ちをして最上段を睨みつけてみるが、この山林に入った時以上の気配は感じない。呪力をこれだけコントロールできているとなると、やはりそれなりの等級──特級である可能性を考えて背筋が冷えた。
 追加人員はどんなに早くてもあと30分後の到着だ。それまでこの迷いの森を1人で彷徨うのは得策ではない。幸い雷の音は遠のき、雨足も弱まってきた。ただ、9月に入ったばかりとはいえこれだけ長時間、雨に当たっていれば体温は確実に奪われていく。
「情けないわね……
 死ぬことは怖くない。ただ、無駄に命を捨てるのだけはゴメンだ。体力を温存するために待機できる場所を探す。尾根を少し下った斜面に枝ぶりの良いブナの巨木を見つけた歌姫は、それを目指した。
 大きな岩を抱くように張り巡らされた根の一部分に辿り着き、腰を下ろしはしたが、呪霊を下手に刺激せず、しかし応援の術師が感知できるであろう呪力量に調整し続けるので気を抜くことはできない。
 降り続く雨が枯葉の上で跳ねる音に耳を傾けながらひたすらに時が過ぎるのを待つ。
 いつの間にか小雨になった。もうそろそろ、応援が麓に着く頃かもしれない。
 とその時だった。歌姫の足元に違和感が走り、即座に立ち上がりながら目線を下に向けた。
……やられた!」
 地を這う無数の根っこがうじゃうじゃと蠢き、その一つが歌姫のブーツに絡みついてくる。
 まとわりつく根に掴みかかると勢いよく引きちぎり、傾斜のきつい斜面に足を滑らせながら何とか駆け上がっていく。根っこは速度を増して歌姫を追って伸びてくる。
 蛇のようなが畝りがブーツを巻き込んで袴の中まで侵入してきた。素肌を這う気持ち悪さに込み上げる吐き気を押し殺し、呪力でそれ以上の侵入を押し止めながら術式の準備にかかる。が、想像以上に雨によって奪われた体力が、呪力の出力を阻む。
「やれ、やるんだよ!」
 己を奮い立たせ、歌姫を谷へ誘いこもうと足を引く根っこを祓いながら、斜面を少しずつ、しかし確実に登っていく。
 ようやく辿り着いた尾根に飛び出すと、そこにあった景色は明らかに元の登山道ではなかった
「生得領域……!」
 折れた鳥居の先には廃れた境内と朽ちた社。その中にトグロを巻く大蛇のような呪霊が歌姫を狙い定めている。禍々しい強力な呪力がビリビリと肌を刺激する。行方不明事件の原因はこいつに間違いないと確信した。
 こうなったらやれることをやるしかない。確実に格上と分かっていても、何もせずにただやられるのを待つようなプライドの低い術師をやってきてはいない。
 最大限のことはやる。応戦中に同志が駆けつけてくれると信じて、それまでに削れるだけ削ってやる。
「やってやろうじゃないの」
 誰に言うでもなくそう言葉にすると、歌姫は息を大きく吸い込んだ。腹に力を込め、正面を見据え、真っ直ぐ喉を開き、声帯を震わせ、己の持つ力を音に乗せて放吟する。

 生きている方が苦しい。いっそ死ねば苦しみや恐れすら無になる。それでも私は術師として生きる。生きてやる。だって、明日はメットライフドームのプレミアムシートでナイター観戦する予定なんだよ。
 死んだら観れねーじゃねーかクソが!
 
***



 歌姫が酒の味を覚えたのは二〇歳を超えたその日だった。憧れだったビールは苦くて変な匂いがして顔を顰めた。しかし日本酒が美味しいと思った彼女は、同席した先輩術師たちに止められるのも聞かずお猪口を煽り続け、記憶を飛ばした。目覚めた時には自室のベッドの上で、いきなり酷い二日酔いになり任務に出られず夜蛾にしこたま怒られた。
 酒は魔物だ、二度と飲むまい、と思った翌月にはビールの味を覚えた。そして月に何度かは前後不覚になるような飲み方をするようになった。ただ単に酔うのが楽しかったからだ。
 記憶を飛ばしても、必ず自分の家に帰ってきていた。だから酒癖悪い女にありがちとされる『朝起きたら男と寝ていた』なんて失敗はない。それは酒を覚えたあの日から十一年、一度も無かった。
 だからこそいま、何が起きているか分からずに、目の前の光景を無言で見つめるしかなかった。
「あ、歌姫。気付いた?」
 狭い部屋。ビジネスホテルのような。硬いベッドの上に寝かされていると判断する。
 ここはどこ。
 そしてすぐそばに立って、バスタオルで髪をぐしゃぐしゃと拭いている、薄っぺらい浴衣を雑に羽織った姿の男。
 お前は誰──いやわかってはいるが、脳が認めるのを拒絶する。
 歌姫は意識を自分に戻した。感覚をとぎすまし、そして結果に絶望した。
 服を着ていない。
 表情を変えず目をかっ開いたままの歌姫に男の手が伸びてくる。身体は動かなかった。額にゴツッとした指が押しつけられた。
「熱はないね」
 そう言って男──五条悟は歌姫が横たわるベッドに腰掛けた。
「ハ? なにこれ」
 ようやく発した言葉はそれだった。掠れた声であることに自分で驚く。五条はクツクツと笑いながら歌姫の横髪を指で掬って耳にかけた。
「覚えてないの? ひどーい歌姫。あんなに激しく僕を求めてくれたのに」
……は?」
「ぐしょぐしょに濡れながら、声が枯れるほど叫んだの、忘れた?」
 靄がかかっていた意識が徐々に晴れてきた。五条が何を言っているのか見当がついた歌姫は、思いきり表情で嫌悪感を露わにし、目の前の腰をゲンコツで叩いた。
「気持ち悪い言い方すんな! 雨んなかで術式使ってただけだろ!」
「だからー、その話してるだけじゃん。何? ナニ想像したの歌姫。僕、全然わかんない」
 腰を叩いた手は逆に掴み上げられてしまった。
「ほんっと、アンタってムカつくわね」
歌姫が腕を振り解こうとするが力の差は歴然でビクともしない。諦めた瞬間、胸の内にある種の敗北感が込み上げてきた。
 そんな彼女を見抜いてかどうかは解らないが、五条は勝ち誇った顔を見舞った。
「言うね、歌姫。僕が来なかったら死んでたくせに」
 そう口にして手の力を緩めた。彼の半分の太さもなさそうな腕が、力なくぽすんとベッドに放られた。
 さらりと吐かれた言葉が歌姫に重くのしかかる。否応なく、記憶が巻き戻っていく。

 大蛇の呪霊と対峙したあの瞬間、最初に発動した術式は効いた。襲いかかってくる奴の動きを止め、ダメージも確実に与えたようだった。手応えから、一級程度だと判断した。それなら玉砕覚悟なんて無茶な真似はせず、確実に祓うべく、今は守りにまわって応援の術師を待つ方がいい。
 攻撃を呪力でブロックしながら時間が過ぎるのを待つ作戦に出たはいいが、味方は一向に姿を見せなかった。このままでは、防戦一方で呪力が枯渇してしまう。
 次第に焦りが生じてくる。
 判断を鈍らせるな……落ち着いて考えろ……今、すべきことは。
 は、と顔を上げたときには、目の前に大きく口を開けた蛇の喉があった。
「くあっ……‼︎」
 一気に呪力を上げて間一髪のところで避けるも、顎が背中に当たり突き飛ばされ、泥だらけの地面を勢いよく肩で滑っていき、大木に全身を打ちつけた。
 まずい、相手が予想より消耗していない。
 こちらはもう、後がない。
 あと一回、術式を使う。それに賭ける。歌姫は大木の後ろに隠れた。
 蛇は視力が弱いという。それが呪霊に当てはまるかどうかはわからないが、もしそうなら奴は「呪力」で対象を判断している。まるで、アイツみたいだ、と青い瞳が脳にチラついたのを頭を振って消しやった。
 敵に気取られることなく、呪力の出力を抑えて時間を稼ぐ作戦は成功した。術式の準備が整った。
 一回で、決めてやる。
 木の影から飛び出し、背後を取る。ありったけの力で尻尾に掴みかかり、喉が破れて血が出るくらいに強力な歌声で空間を支配した。
 爆音が収まって間もなく、生得領域が解除された。戦いの衝撃で地割れを起こしてはいるが、ただの山に戻っている。ただ、勝ったような手応えがなかった。最後の最後で、逃げられた感触が手の中に残っており、それは草陰から現れた大蛇の姿を見たことで確信となる。
 歌姫にはもう、攻撃を仕掛けることはおろか、防戦する呪力すら残っていなかった。
 あと、少しなのに──。
 見送った仲間たちのことを想う。こんなふうに、道半ばで逝ってしまった多くの術師を見送ってきた自分が、見送られる側になる。
 歌姫はただそこに立っていた。
 彼女自身のこれまでの人生を表すかのように、背筋を伸ばし、凛とした表情で呪霊を見据えた。
「10年ぶりの優勝が見れなかったのが……心残りだわ」
 そう呟くと、恐ろしいほど自分の声がしわがれていることに小さく笑った。
 目を閉じ、覚悟を決めたその時だった。
「いやまだ優勝かわかんないじゃん、最期がその言葉ってウケんね」
 背後から聞こえた軽薄な声。腹立たしい台詞。予想だにしない人物がやってきた。
 ここで現代最強の特級呪術師、五条悟がくるとは、9回裏、3点ビハインド、ツーアウト満塁の試合で、ホームランを打つことが約束されているも同然だ。
 安堵から、脚が小刻みに震えた。見られたくはないけれど、どうせもう見抜かれている。
……おせーんだよ五条‼︎」
 空を見上げてそう叫んだ瞬間、目の前で爆風が起きた。
 はあ、とため息をついて顔を真っ直ぐにして目を開けると、そこにはもう五条しか残っていなかった。
 歌姫はそのまま意識を手放した。

 助けてもらったことは理解している。生きていてよかった。明日の試合も観れるかもしれない。けれどこの状況は理解できない。
「なんでホテルなのよ……
「言っとくけど何もしてないよ」
「あたりめーだろ‼︎」
 本来なら、怪我の大小にかかわらず補助監督の運転する車に運ばれて、高専に至急戻ることになるはずだ。それがなぜ、こんな侘しく狭くタバコの臭いが壁紙に染み付いた宿で目覚めて、よりによって大嫌いな男である五条と二人きりにされなければならないのだ。
 しかも、裸まで見られることになるとは大失態だ。
「あ、厳密に言うと裸は目視してないから安心して。目隠し取る前に脱がせてあげたから。もうさ、フロントの人が泥だらけの歌姫見て怯えてるの、笑っちゃった。適当に話作ってごまかしたけど。で、着物はクリーニング頼んどいた」
 何一つ安心できないまま一方的に話されるのを歌姫はただ黙って聞く。
「さすがに下着までは脱がせてないよ。別に脱がせたところで歌姫相手にこっちは何とも思わないけど。そっちが嫌でしょ? 一応そのあたりは僕も気を遣ったんだから感謝してよ。このGLGに気を遣わせるなんて歌姫ぐらいじゃない? ところで、そろそろ呪力も戻ってきて身体も動くでしょ。シャワーでも浴びてきたら?」
「じゃあそこどけよ」
 素直に感謝したいのに、どうしてこうも余計なことをベラベラ喋るのか。青筋を立てながら睨みつける歌姫の形相に満足した様子で五条はベッドから腰を上げ、スツールを引っ張り出してそこに座り直す。
「すぐヒスるんだから。アラサーでそんなんじゃ男できないよ」
「関係ねーだろっ」
 歌姫はなりふり構わずに布団を剥いで、どのブラジャーとショーツを身につけていたかを確認した。ブラックの太糸で緻密に編まれたレースにエメラルドグリーンで花の刺繍がされた上下セットだ。歌姫が持っている中でも高額の部類。これがもしスポブラだったなら余計な一言が飛んできたに違いないので、ひとまず安堵する。
 それから上半身を起こし、よろよろとベッドから降りた。
「あと、ありがと」
 その言葉に五条が反応するよりも早く、歌姫はバスルームに消えた。

***

 歌姫がシャワーを終えて備え付けの浴衣姿で出てきたとき、ベッドサイドの時計は17時をまわっていた。デスクの上には出来合いの弁当がふたつ、机の上に並べられている。
「なにそれ。買って来たの?」
「いや、町長が届けに来た。すんませーんって言って。冷蔵庫の中のやつも」
 ベッドの上で寛ぎながら五条が古びた小さな冷蔵庫を指さす。
 なぜ町長とやらからそんな事をされる筋合いがあるのかを問うよりも先に、足元の扉の向こうへのトキメキを感じてしまった歌姫は、遠慮なくドアオープンの儀式を優先した。
「あー! きたぁーっ‼︎」
 350mlの缶ビール6本。正真正銘の生ビール。プレミアムがつく銘柄だ。恐らく五条と二人分でこの量を差し入れてくれたのだろうが、生憎この最強、酒に関しては最弱を極める。つまり全てが歌姫の胃の中に収まるということになる。
「一気に飲まないでよー。あと、それ頼んだの僕だから。感謝してホント」
 歌姫はその日、初めて笑顔を見せた。振り返ってから少し照れたような仕草で五条を見上げ、一本取り出した缶ビールを小さく揺らすと「感謝するする」と言いながらスツールに腰かけて足を組んだ。それから、てづくり幕の内と書かれたシールの貼ってある弁当をひとつ、五条に手渡しながらようやく最大の疑問を口にした。
「で。なんでアンタと私がこんなとこに足止めされてるわけ」
「歌姫さ、呪霊に空間歪まされて歩きまくったでしょ」
……うん、まぁ」
 バツが悪そうな顔で歌姫はプルタブを引く。五条は手を合わせて弁当の蓋を開け、白米を口に放り込みながら話を続ける。
「ほんで、補助監督が待機してる麓と全然反対方向の、隣町に向かってたの。実際に歩いた距離はそんなでもなかったかもしれないけど、最後に無線飛ばした場所から真反対に5キロも進んでたから」
「は? 嘘でしょ
「僕じゃなかったら歌姫の居場所、わからなかったと思うよ。良かったねぇ〜! 助けに来たのがこの特級!五条悟様で──」
「それが! この狭いホテルでアンタと弁当食べてる状況に関係ある?」
……あるよ。大アリ。歌姫抱えて下山したのがこの集落だったんだけど、大雨のせいで土砂崩れが起きて、高専に帰る方向の道が完全に塞がってるの。つまり、陸の孤島ってやつ」
「まじ……
 概ね状況を理解した歌姫は現実から逃れるように缶を煽った。
「マジ。学長が裏で手を回して町長が直々に対応してくれたんだけど、この一室しか空きがなくて。まぁ、近くには日帰りできる温泉もあるらしいし、束の間のバカンスをこのGLGと──」
「で! 復旧は、いつなのよ」
「2、3日だって」
 それを聴いた瞬間、彼女の中で明日の試合のプレミアムチケットが紙屑になった。どこにもぶつけられない苛立ちを鎮めるべく、ただ黙ってビールを喉に流し込んでから肩を落とし、弁当の蓋を開ける。
 こんな生き方をしていれば、楽しみが奪われることなんて日常茶飯事だし、生きている事すら奇跡だ。なんなら今日が命日だったかもしれない。
 ハア、と深いため息一つに色んな想いを詰め込んで吐きだすと、ツマミがわりに焼鮭を突つく。
「そんなしょげないでよ」
「しょげるわ。明日の夜、大事な予定あったのに」
「僕だってさー、今夜は若くて可愛い女の子とデェートの約束だったんだから」
 五条のその言葉を聞いて、歌姫の中には反発心どころか罪悪感が湧き上がった。予定外の行動を取らされたのはむしろ五条だ。自分の不甲斐なさが招いた失態で巻き込んだ。
「悪かったわね。山ん中の集落に仕事で下手こいた同僚アラサー女のせいで閉じ込められて女も逃して幕の内弁当とは、予定外もいいとこよね。ごめん、助けに来てくれてありがと」
 彼女らしからぬ自虐的な発言と素直な態度に五条の箸が止まる。
「珍しい。いつになく弱気じゃん。いいよ、いま目の前で面白いもの見れたから」
「うっさい」
「歌姫も可愛いとこあるね。あと思ったよりおっぱい大きい」
「アンタねぇ……!」
 缶ビールが振り上げられるも、無意味と悟ったらしくすぐに彼女の口元に戻っていく。
「あ、そうそう。着替えもないだろうからって持ってきてくれた」
 そう言って五条がベッドの脇に置かれた紙袋を歌姫の方に寄せた。
「町長の奥さんから、新品の浴衣とかが入ってるから使ってだって」
上から覗き込むと、柄物の浴衣セットや下着と思われるものが入っている。
「あら、ありがたいわね。お礼しに行かないと」
「今から挨拶行って、温泉寄ってみる? 僕ももらったから、浴衣デートだね」
……デートは勘弁だけど、そうね。温泉はアリだわ」
「おっ、じゃあ急がないと」
 そうと決まれば支度が必要だ。二人は黙々と弁当を食べ進めた。

 世話になっている宿は、ホテルというにはあまりにも小さな二階建ての小さな建物だ。歌姫は外に出てみて初めてそのことがわかった。
 この辺りはメインとなる温泉地から少し離れているので宿泊施設が少ない。ここが一室空いていただけでも運が良かったというのは本当だろう。
 宿の前には田んぼが広がっていた。その真ん中を突っ切る畦道を歩いて行くと、町長の家や温泉施設がある県道にぶつかる。
「なんか良いじゃん。歌姫、絵になる」
 五条のその声に、少し先を歩く歌姫が振り返った。
 濃紺に黄色の向日葵が描かれた浴衣をキッチリ着た姿は、雨上がりの蒸し暑さが残る田園の夜に溶け込んでいる。赤紫の宵闇をバックに、昇り始めた月明かりを浴びて浮かび上がる輪郭はいっとう綺麗で、五条が思いがけず見惚れて足を止めたほどだ。
 化粧道具も無いので素肌なわけだが、それがかえって飾らない美しさに拍車をかけていた。
「そういうアンタも、腹が立つほど似合うのよね、和服が」
 今度は歌姫が、五条のつま先から頭のてっぺんまで視線を滑らせてそんなことを言う。
 五条はどこか嬉しそうにしながら歌姫の横に並び、同じ歩幅で歩き始めた。
 虫の音に重なって、下駄の音が二人分、カラコロと鳴るのが心地良い。
「ガキの頃から着慣れてるしね」
「久しぶりに見たわ」
「前見たのいつ?」
「御三家の集まりから直行で京都高に来た時」
「それ、去年? 一昨年? よく覚えてるね。歌姫って僕のこと好きなの?」
 言いながら身体を捩らせて歌姫の殴打を避けるポーズを取る。しかし彼女はツーンと前を向いたまま歩くだけだ。
「寝言は寝て言え」
……ねぇねぇ、僕たちってもしかして、夫婦に見えるかなぁ」
「寝言は! 寝てから言え!」
 今度こそ歌姫は五条に向かって腕を振り下ろした。が、パシッと手首を掴まれて失敗に終わった。それどころか、キュッと掌を握り込まれてしまう。
 目を白黒させて振り解こうとする歌姫の動きを物ともせず、軽い足取りで五条は手を引いて歩く。
「いいじゃん。なんかこういうのも良くない?」
「よくねーよ」
 そう言いながらも抵抗するのをやめて手を繋がれているのは、単に無駄なあがきをやめただけなのか悪くないと感じているからなのか。五条にはわからない。でも、どちらでもいいと思えるそんな夜だった。

 まさかのタイミングだった。町長の自宅まで間も無くというところで、自転車に乗った町長夫人に追い抜かれた。彼女はすぐ先で自転車を降りて二人を振り返った。
「あらこんばんは、五条さん」
 彼らの親世代くらいの物腰柔らかな美女だった。
 歌姫が慌てて手を解くと、さすがにあっさり離された。
「どうもーこんばんは。彼女がお弁当と着替えのお礼をしたいって」
「あの、庵と申します。このたびはありがとうございました」
 手を繋いでいたところを見られた気恥ずかしさで顔が熱くなるのを堪えながら、一歩前に出た歌姫が頭を下げた。
「いおりさん。可愛いお名前ね」
「あ、いえ、それは苗字です」
「あ! そうなの。お二人はもうご夫婦だとばかり」
 もう、どころかその手前ですらないが、否定するのも面倒なので曖昧に笑って話を濁す。手を繋いでおいて違いますっていうのも説明しにくいし、それを言うなら手を繋いだこと自体もおかしいのだが。もう絶対にさせないと歌姫は心に決める。
「着替え、何もなかったんで助かります。クリーニングしてお返ししますんで」
「これね、神輿会で買った浴衣の余りだから、お土産に持って帰って」
「すみません……大切に着ますね」
「こちらこそ。あの山のお祓いで来てくださったのに……こんなことになって申し訳ないのよ」
「いえ、かえってバカンスぐらいの気持ちでいますので」
 立ち話もなんだから、と家に招かれたのを丁重にお断りし、町長は帰りが遅くなるということだったので挨拶は諦め、二人はその場で夫人と別れた。

 再び歩き出すと当然のように歌姫の手を取ろうとする腕が伸びてくる。彼女はそれを素早く躱して隣の男を睨み上げた。
「ちょっと、ほんとなんなの! 町の人に勘違いされるからやめて」
「えー。別に深い意味なんてないけど。なんか繋ぎたい気分だからそうしてるだけじゃん」
 なぜ文句を言われるのかわからないという顔でそんなふうに答える。それがどこまでも彼らしくて呆れるしかなかった。
「私は繋ぎたい気分じゃないの」
「歌姫って男に苦手意識あんの?」
「はぁ? なんでそうなるのよ」
「だって浴衣で一緒に歩くなら繋ぎたくならない?」
「あんたは誰彼構わずそう思うかもしれないけど、私は好きな人としか繋がない」
 小さく「さっき繋いだじゃん」と呟いた声を聞こえないふりをして、懲りずに寄ってくる腕をまた払う。何度かそれを繰り返し、最後の方は幼稚なじゃれ合いになってきたところで、こぢんまりとした温泉施設にたどり着いた。

***

「はぁーたまにはこんなゆっくり過ごすのもいいね」
 ブンブン、ブンブンと音がしそうなほど腕を揺らされる歌姫の顔はどう考えても震源とは真反対のテンションだった。心の安寧が保てたのは女風呂に入っていた時だけだ。
 宿のエントランスを通る時にようやく解放される。こんな自由人と同室に宿泊するのかと思うと、歌姫は目眩を覚えた。
「ねえ、他の部屋は空かないのかしら。あんたみたいな大男とシングルベッドで寝るなんてありえないんだけど」
「同じように足止めされてる人が泊まってるんだから空くわけないじゃん。意外と歌姫ってワガママなんだね」
「私は! あんたと寝るのがイヤなだけよ!」
「まあまあ、ビールでも飲んで酔っ払ってゴロ寝しちゃえばいいじゃん。合宿みたいなもんだよ。僕も、こんなのんびりするの久しぶりだからさ……楽しくいこーよ」
 五条がそう言いながらアクリル棒のついたルームキーをドアノブに差し込む。
 その言葉に歌姫も、妙に納得させられて「そうね」と小さく返す。
 冷蔵庫にはまだビールが5缶も残っているのだ。さらに、温泉施設のフロントのカゴに盛られていた美味しそうな豆菓子を彼が買ってくれたので、しっかり晩酌を楽しむつもりではいた。
 部屋に戻った二人は宿の薄っぺらい浴衣に再び着替えて、歌姫はベッドの上に、五条はスツールに座ってとりあえずテレビをつける。ザッピングしていると、ちょうど地上波初登場の映画が始まるところに当たった。
「あ、これ! 観たかったのよね」
 動物たちがまるで人間のように暮らす都会で巻き起こるストーリーを描いた3Dアニメ。大ヒット作だとメディアで報道されていたのは記憶に新しい。
 五条は特に興味があったわけではないが、これを“観たかった”と評価する歌姫には興味が湧く。
「歌姫こういうの好きなの?」
……まあ。可愛いから」
「可愛いから」
「うん。……悪い?」
「悪くないよ。ねえ、僕もそっちで壁に寄っかかって観たい」
 歌姫の座るベッドに視線を向けてそんなことを言う。確かに2時間も小さなスツールに収まるような図体をしていないし、もう近寄るなと断るのも今更というやつだ。
「座れば」
 豆菓子をポリポリつまみながら歌姫がベッドの足元の方を指さす。ちなみに彼女は、枕元の方に座って壁に寄りかかっている。あろうことか、五条はそのすぐ隣を陣取った。
「ちょっと、もっと離れなさいよ」
「だって僕もそれ食べたいもん」
 そう言って豆菓子の袋に手を伸ばす。買った本人にそう言われれば歌姫も強く言えずに口をつぐんだ。

「なんかこのウサギ、歌姫みたい」
 ストーリーがしばらく進んだところで五条がぽつりとこぼした。
「ハァ?」
 主人公のウサギの女の子のことを言っているようだ。何をもってそう思うのか聞いても碌なことがないような気がして、歌姫も適当にキツネの詐欺師を指差す。
「アンタはこのキツネみたい」
 そう言ってベッドの縁から身を乗り出し、冷蔵庫から次の缶ビールを取り出した。
「いいじゃん。このキツネ。チャラそうに見えるけど、物事を本質で考えてる」
「えっ。これが?」
「うん。このウサギちゃんは良い子だけど、表面的なものの見方になってること自分で気付いてないよね」
「あぁ? 私がそうだって言いたいの?」
「言ってないでしょそんなこと。はい飲んで落ち着きなさい」
 五条が歌姫の手に握られた缶のプルタブを開けた。その向こうに視線をやると、すでに空き缶が二つ置かれていて、思わず苦笑する。
 物語が大きく動き始めると、二人とも子どものようにテレビに夢中になった。
「面白いわねこれ」
「うん、面白い」
「いいコンビだわ」
「正反対だから合うんだよ」
 同時に豆を取ろうとした手がぶつかった。が、そこには一つも残っておらず、五条は上から歌姫の手を握って豆の袋を退けた。
 歌姫はビールを片手に画面へ視線を送って静かにしていた。
 話が大団円で終わりを迎えると、自然に手は解かれた。結局、ニ時間で四本の缶が空いて、一人でそれを飲みきった本人は気持ちよさそうに伸びをしている。
「あ〜。おもしろかったぁ〜」
「酔っ払い、ちゃんと歯磨いてよ」
「んー」
 いまにも寝落ちそうなのを阻止すべく五条の手が歌姫の両腕を掴み、ベッドから引き摺り下ろした。
「ほらこっち」
 フラフラとする足取りを後ろから支えるように五条がついていく。
 狭い洗面台の前で二人、歯磨きを始めると歌姫は寄り掛かる場所が欲しかったようで何も考えず後ろに体重をかけた。それを胸で受け止める側も表情を変えず、もう片方の手で今日何度も触れた指を意味ありげにすりすりとなぞった。それはまるで、この後起こり得ることの引き金を引くか、引くまいか、引いていいものか、引いてはまずいか、迷う心を示すように。
 寝る支度が整い、歌姫は吸い込まれるようにベッドの肌がけに潜り込んだ。それから壁際に移動する。
「アンタは、そっちの端っこで寝なさいよ」
 そう言って背を向けてから、
「落ちない程度にね」
 なんて付け足す。
 五条は言われた通り間を空けて仰向けに寝ころぶ。
 おやすみ、と声を掛け合って静寂が訪れた。エアコンの稼働音と、時おり誰かが館内をうろつく足音がドアの向こうから響いてくるだけだ。
 歌姫の呼吸がまだ浅いように感じて五条は口を開いた。
「ねーねー歌姫」
 本当に寝たのか、このまま無視されるのか、と考えるくらいの間を置いてから「何」とぶっきらぼうな返事があった。
「僕、抱き枕がないと寝れないんだけど」
……は? 子どもかよ。じゃあ起きてろ」
 想像通りの言葉が返ってくる。
 無理があるのなんて百も承知、というふうに彼は続ける。
「だって急にこんな田んぼだらけの集落に足止めされてさ。安眠グッズ何も準備してないしさ。今にも床に落ちそうだし。寝たくても寝れないよ。安心できないもん。なんとかしてよ」
「んなこと言われても。助けてくれたのは感謝してるけど、」
「感謝してるなら歌姫が抱き枕になってよ」
「ハァ!?」
 背中を向けていた歌姫が肩を震わせた。明らかに警戒している。
「後ろからでいいから。抱きついたらきっとすぐ寝れるから」
 そう言いながら五条はもう歌姫ににじり寄っている。ベッドの揺れと衣擦れの音でその事に気付いた歌姫は頭の中が真っ白になって身動きができない。目を開けると、まず腕が視界に飛び込んできた。ベッドサイドのランプが陰影をつくる筋肉質な腕が、肩ごと抱き込んで巻きついてくる。
「ちょ、ちょっと、待ちなさい」
「静かにして。寝れないじゃん」
 グッと五条の身体がくっつき、うたひめの背中が温もりで包まれる。強張っていた身体の力を抜くと、それは思ったよりも心地よくて彼女自身が驚いた。
 目の前に、自分の手を上から包む、ふしくれだった太くて長い指がある。この手はすきだなぁと歌姫はぼんやりそれを眺めた。
「寝ないの」
「寝るわよ」
 その言葉を合図に再び二人は目を閉じる。
 どのくらい時間が経っただろう。結局まだ眠りの淵に落ちる事ができないでいた。意識がここにあることはお互いわかっている。そんな空気感の中で、五条は親指を歌姫の手の甲に滑らせてぽつり言った。
「今日の歌姫、いい感じだったね。なんか惚れた」
 そんな事を言ってもらえて嬉しいかといえば、むしろ呆れる気持ちの方が先だった。
 なるほど、そうやって女を落とすのか。そのために浴衣デートとか言って連れ出したのか? なんて疑念さえ浮かぶ。いつもと違う姿を褒めておけばとりあえず喜んでその気になる他の女と一緒にされているのか、と思うと情けなさすら湧いてきた。
「誰にでも言ってんでしょ」
「えー、言わないよ。ホントに思った時にしか」
「どうだか」
「だってさ、初めてちゃんと見たから。歌姫の術式」
……え」
 術式のこと──だった。
 それまでの憮然としていた面持ちが、驚くほど一気に融解していった。同時に、歌姫の心にシミのように染み付いていた黒い感情がすぅっと薄れ、五条の指先に触れられたところが温かくなっていく。
「ガッツリ決まると凄そうだよなぁ〜とは思ってたけど。ちょっと、度肝抜かれた」
 歌姫は言葉がでない。こんな男に褒められて喜びたくはないけれど、湧き上がる感情が大きくて自分で自分を誤魔化せない。認められたい心が満たされて、満杯で苦しくなる。
「でも……負けたら意味ない」
「うーん、発動した瞬間は僕も祓ったと思ったんだけどな。まぁ、詰めが甘かったよね」
「それを弱いっていうんでしょ」
「僕からしたらね、歌姫は弱いよ。でも、あんなに“綺麗”っていえる術式出す人、僕を除いたら他にいないんじゃない」
 いつもなら腹の立つ言葉にすら優しさを感じてしまう。歌姫はてのひらを上にひっくり返し、五条の指に自分の指をきゅっと絡めた。
「ありがと。初めて言われた」
 なぜそんなことをしたのかはわからない。ただ、心がそうしたいと言った。
 五条は自分の頭を支えていたもう片方の腕を歌姫の頭の下に捩じ込んだ。歌姫も素直に首を持ち上げて腕枕を迎え入れた。そうして、両手で抱きしめる格好になっても、彼女は何も言わなかった。きつく長い抱擁のあと、その片手がさりげなく胸の膨らみに触れた。
「ちょっ……と、五条」
 抗議の声を上げた瞬間が引き金となった。触れるだけだった膨らみを今度は大きくぎゅうと握り込み、逃げようとする脚も圧倒的な体格差で抑えこむ。
「うん、やっぱ、おっきいね」
 そんな呑気な声に歌姫の頭には血が上っていく。
「コラ、ふざけんな! 抱き枕がわりにすぐ寝るって言っただろーが!」
「ちょっと触っただけじゃん。そんな怒んないでよ。ウケるー」
「アンタねぇ!」
 必死にもがいた歌姫の腕が一本自由になった。殴りかかってやろうと五条の方を向いて腕を振り上げた瞬間、殴りかかるはずだった腕は捕らえられ、浴びせるはずだった罵声は五条の唇にすべて飲み込まれてしまった。