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頻子
2022-08-28 19:52:43
3271文字
Public
TOH二次
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ナナシさんは、架空のクワガタを飼っている
アホみたいなネタ
同意書をだいじにしていて変な誤解される
「はい、確かに。ありがとうございます」
一世一代、どうするべきかくらいに思い悩んだ書類にコーラルがサインをすると、びっくりするほどあっさりと、それは終わった。サッととられて、はい、おしまい。日常の事務手続きの一つ、くらいの取り扱いだった。
「あれ?」と思いつつも、コーラルはちょっぴり思った。「あれ、なんだ、こんなものか
――
」
「それじゃあ、紅茶のお代わりでもいかがですか」
「ふぃー
……
」
TOWER of HANOI
――
HANOI保護施設は今日も忙しい。
施設長であるコーラルは一段落ついたところで椅子から立ち上がって、肩をぐるぐる回した。「座りっぱなしは健康に悪いですから、時々は立ち上がって下さいよ」、とは秘書(他称)の有り難いお言葉である。
そのナナシも、今頃はばたばたと走り回っているはずだ。年次報告書やら活動実績のまとめやらで、大いに忙しい時期だった。
活動の規模が大きくなるにつれて、専門家の手を借りることもできるようになったが、やらなければいけないことも増えた。かといって、そういうときに限って都合良く助けを求めるHANOIの数が減るわけでもなし。今日中に講演依頼に返答しなければならないし、それに雑誌の寄稿文が数本あるが、どれも手つかずである。
ぐんぐんと増すばかりの忙しさといったらない。
けれども不思議と充実感に満ちていて、何でも出来る気がするのだった。
(うん、今日も頑張るぞ)
と、施設長が気合いを入れたところで、コンコンとノックされた。
「あのー、施設長
……
」
「あれ?
……
どうしたの?」
「それが」
どうにも深刻そうな様子である。何か言うか言わないか、視線をさんざんさまよわせた後、職員はおずおずと顔を上げる。
「ナナシさんを休ませてあげた方が良いと思うんです」
「え?」
「ナナシさんがものすごく疲れてるみたいなんです」
「そうなの?」
確かに、自分と同じくらいにはナナシは働きづめである。なまじ優秀なばかりに仕事が降ってくるものだ。疲れていてもおかしくはない。けれども、そんなに具合が悪そうな様子もなかったのにな、とコーラルは思った。これよりも死ぬほど忙しい時期がいくらかあったし、それでも平気にしていた。
定期ストレスチェックも問題はなかったはずだ。
……
不調を表に出さないナナシのことだから、なにか我慢しているのかもしれないが。
「なにか、しんどそうだった? どっかケガしてたとか」
「
……
ナナシさんがデスクの引き出しで架空のクワガタを飼ってるんです」
コーラル・ブラウンは動じなかった。
実際はものすごく動揺していたが、態度には出さなかったのだから、これは動じなかったということでいいだろう。ゆっくりとずりおちてくる眼鏡を戻して、いつもの穏やかな様子で言うことができた。
「そうなんだ。とりあえず、どうしてそう思ったのか教えてくれるかな?」
「これを知っているのは、まだ私だけなんですけどね
……
」
職員はほっとしたように話し始める。とりあえず、椅子を勧めた。コーラルは紅茶を淹れてあげようかとポットを探す。「ありがとうございます」と一息ついて、施設のトップに紅茶を淹れて貰うことの是非にすら気が回らないほど職員は憔悴していたようである。
「あの、この前、この前の週末なんですけどね。知っての通り、もうみんなすごい忙しかったんですけど、もう一月くらい休みがない感じでしたよね。
ナナシさんが、今日くらいは早く帰れって言ってくれたんです」
「うん」
「それで、私、忘れ物をして
……
ですね」
「うん」
「オフィスに戻ったら、ナナシさんがじぶんの引き出しを開けてて、何か? 話しかけてて
……
すごく、すごく嬉しそうだったんですよね」
「
……
」
「それで
……
湿度計と温度計を見てたんです。なんか
……
『温度20℃・湿度60%』ってつぶやいてて
……
。それで、『元気か?』って話しかけてて
……
それで、」
「
……
ああ、うん
……
」
「思ったんです。クワガタを飼ってるんだって」
「
……
」
コーラルはゆっくり天を仰いだ。
「でも、後から確かめてみたら、違うって。見せて貰ったけど。べつに、引き出しには何も入ってなかったんですよ」
「だから、架空の
……
?」
「はい。だから、クワガタかわからないんですけど。サイズ的にクワガタとかかなって
……
私、クワガタ飼ったことないからわかんないですけど」
「うん
……
」
端から見たらものすごい奇行だが、なんとなくなにをしているのかの見当は付いた。
たぶん、彼は引き出しの中の相対死同意書を見ていたんだろう。コーラルがその書類にサインしたのはごく最近のことだった。
いや、それにしても一ヶ月くらいは経っているのだが。
(実際、すっごく喜んでくれてたり? するのかなあ
……
)
「あの、
……
なんか、疲れて、架空の猫ちゃんを飼ってるって想像することって、あるらしいですよね。その一種かなって」「そっか」「でも引き出しだから、もしかするとカブトムシか、いや、実利をもとめて蚕とか
……
? って思って。いや、どうなんでしょう。分からないんですけど」「
……
まあ
……
」「昆虫詳しくなくて」「そうだね」「ミヤマクワガタだと仮定して」「ミヤマクワガタだと仮定して?」
「はい」
「はい」
そっとお茶を勧めると、職員は飲み込んで一息ついた。
「あの
……
だから、ナナシさんは限界なんじゃないでしょうか。だから、休ませた方が良いんじゃないかって
……
ぜんぜんそうは見えないけど、ぜんぜんそうは見えてないだけで、すごく限界なんじゃ
……
」
「うん
……
」
普段のナナシだったらもっとうまくやっただろう。それを考えると、疲れているのは間違いない。
職員は意を決したように顔を上げた。
「ナナシさん、何らかの罪に問われるんでしょうか?」
――
何の?
「いや、そんなことはないなとは思ったんですけど。すみません。動揺していて」
「いや、うん、するだろうと思うよ
……
そうだね。大丈夫。ナナシ君は
――
えっと、あれだ。ずっと気にかけてた彼の仕事があってね。それが嬉しくて、書類を見てたんじゃないかな」
言い訳としてはかなり苦しいラインだ。
どうだろうか。納得されるだろうか。
「それでは、ナナシさんは架空のクワガタを飼っていたわけではないのですか?」
「
……
うん! そう」
苦しいながら、出発点がおかしいせいでなんとかごまかせている感じがあるが、クワガタを飼っているのと思われるのと、相対死同意書のことを知られるのと、ナナシにとってはどっちがマシだろうか?
聞いておけば良かったかもしれない。
抜け目がなくて要領の良いナナシのことだから、それとなく伝えれば、もうちょっとうまくやってくれるだろうと思われる。とにかく、二度目に誤解されるような失態はしないだろう。
「とにかく、ナナシ君は大丈夫。何の問題もないよ」
「そうですね。ありがとうございます」
表情を明るくした職員だったが、またはっとした表情を見せた。
「
……
待ってください。一つ思い出したんです。ナナシさん、私が去る前に
……
『ご愁傷様』って言ったんです
……
死んだミヤマクワガタじゃないなら、なんなんですか?」
「
……
」
この件についてはほんとうにナナシに問い合わせた方が良さそうだ。
「ハァ? 『ご愁傷様?』 知りませんよそれは?」
……
それとなく伝える方法がなかったので、どストレートに本人に聞いてみたところ、ナナシは見事にしらばっくれた。
引き出しを開けてみせたが、そこには書類はない。
……
どうやら隠し場所を変えているらしい。
「ナナシ、君やっぱりすっごくはしゃいでたんじゃないの?」
「ミヤマクワガタです」
「そうなの?」
「ミヤマクワガタです」
しれっと顔色一つ変えずに言い放つのだから、恐ろしい秘書である。
「俺は架空のミヤマクワガタを飼ってただけなんで、気にしないでください。施設長」
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