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頻子
2022-01-01 01:58:00
9059文字
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TOH二次
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それは稀に時を止める******
#タワハノ村によいしゅうまつを
※だいぶうろんなやつです。
※コーラル・ブラウンのExitエンドのような描写(ほぼ未遂)
※トーロ時代のナナシが超能力に目覚めてコーラル・ブラウンと一瞬すれ違ったりするやつです。
それは忘れがたい、ある年のクリスマス・イブのことだった。
ばしゃん。
道を歩く雑務用HANOIが、人間の男とぶつかった。雑務用の手からはトールサイズのホットコーヒーが滑り落ちて、瞬く間に人間のコートはぐちゃりと黒いコーヒーに染まる。
挽きつぶされたコーヒー豆の匂い。
やってしまった、と雑務用は思った。
大人しく殴られるなり、蹴られておいた方がいいのか。さいわい人通りは多いから、壊されるほどには殴られるってコトはないだろう。
……
そこまで考えてから、手を差し伸べているのだ、助け起こされているのだとわかった。それに気がついたころには、雑務用はその手を振り払っていて、もう自分で立ってしまっていた。
「ああ、ごめんね。ちょっとぼーっとしてて。
……
大丈夫かい」
「はい」
「君、持ち主は?
……
きちんとご飯は貰えてるの? それ、大丈夫? ケガは?」
「
……
」
「その飲み物、君のじゃなさそうだね。代わりを買うお金はある? ないよね。これで足りるかな」
人間はごそごそと懐を探り始め、財布を開いた。
雑務用HANOIは、男の挙動をただ眺めている。
ひとつには、雑務用HANOIが悪名高いトーロファミリーではたらくHANOIであって、これほどまでに親切にされた事はなかったということだった。
もうひとつには、嬉しかった、というよりも薄ら寒さが先にあった。何をどうして欲しいのか。何が目的なのか、はっきりしていなくては信用成らない。
雑務用HANOIはその場に固まっているままだ。それから、ナナシがワイシャツの下にひどい火傷を負っていることに気がつくと、さっと表情を硬くした。
「これ」
「は?」
男は、二つ折りの財布を差し出してくる。
宙に浮いたままの何かは、受け止められることなくずっと漂っていた。真ん中で財布が落ちそうになって、雑務用はようやく、反射的に受け止めた。
「ちょっと、」
「ああ。ごめんね。僕はもう行かなくちゃ。ばいばい、
……
ナナシ」
そして、雑踏は動き出す
――
。
ナナシ?
耳慣れない呼びかけだった。耳元がくすぐったくなるような響き。なにかと聞き違えたのか。それは、強烈な違和感を伴っている。
ナナシ。
買い直したホットコーヒーは冷めてはいなかったが、トーロファミリーの下っ端は機嫌が悪かった。ナナシはしこたまに殴られた。ちらちらと舞い落ちる雪がナナシの頬がもっている熱で溶ける。
教訓は、人間にも、マシなやつがいるということがわかったということだったか?
いや。
ただ、ひたすらにこの世界は不公平だということだ。
***
「撃て」
蹴り飛ばされた拳銃が雑務用の方へと転がってくる。床に横たわった雑務用の視界からは、それは平べったく滑稽に見える。
カラカラと音を立てて、拳銃は腹に当たって止まる。
(暴発したらどうすんだよ。くそ)
「運試しをしようぜ、雑務用。撃てって言ってんだよ。ロシアンルーレット、あと3発残ってる。もし、お前が勝ったら、スクラップは勘弁してやるよ」
何が運試しだ。
拳銃はトカレフTT-33。オートマチック拳銃だ。つまりその引き金を引くと言うことは、確実に弾が出るということだった。
「それができねぇなら、俺が代わりに引いてやるよ」
ナナシは、髪の毛をわしづかみにされ、拳銃を咥えさせられた。
この世界はやはり不均衡だ。
いつもであれば組の持ち物である雑務用が、気まぐれにぶっ壊される事はない。けれどもナナシは、ここのところは思うように身体が動かないことが多かった。ぼさっとしていて、それで何度か殴られた。
だから、もしかしたら、上からお役御免を言い渡されたのかも知れない。それはナナシにはあずかり知らぬ事である。
ああ、いっそ、ここで終わったらいい。死にたくはないが、もうこれ以上いいことは起こりようがないだろう。このまま、一生
――
。
銃声が響き渡るはずだった。
音はしなかった。
どこまでもどこまでも凪いでいた。ナナシは身を起こすと空を見上げた。コーヒーをぶちまけたあの男の声が聞こえる。どうしたの、立って、と。
(ねぇ、立って、君、大丈夫なの)
コレが走馬灯だというなら、ずいぶん安っぽいコレクションだと思った。やっぱり、いいことなんてなにひとつなかった。
ばしゅん。
ナナシが体制を整えると、鋭い音がして、銃弾がはじけた。
ああやっぱり、壊れているのかな、とナナシは思うのだった。
電子脳の中で、情報処理が追いついていないのだろう。跳弾がトーロの下っ端の足を貫通した。
下っ端が悲鳴を上げる。銃弾は空に固まっていて、触ると熱を持っている。
(マジか)
ナナシは時を止めた。
それは、ナナシがしこたま蹴られてていたある夜のコトだった。あのコーヒーの日、そのあと。殴られて、それから、影が上がって、下りてくるまでの間。
……
それが、ずいぶんと長かった。
ナナシが身じろぎする間に、下っ端の足は空を蹴った。それでまた蹴られることになるだろうが、とにかく一瞬だけ、ほんの瞬きする間。ナナシが息を止めると、暴力は少しだけ後に伸びた。
「避けるな」
と、一言言われて、
……
伸びただけだったが。
「どうして殴られるかわかるか」
「俺に非があったからです」
「そうだな。非の打ち所のないHANOIは、死んだHANOIだけだ」
かかとを振り下ろされながら吐き捨てられる。
薬莢が空に飛び出している。
ナナシは息を吸い込むと、男を引っ張って床に倒した。どうなったかは定かではない。銃撃の音が響いた。
***
ナナシは歩いた。たびたび、呼吸を止めながら歩いた。どれくらい歩いただろうか。しばらく闇の中を進んで、路地裏に横たわる。
焼き切れそうなほど熱い回路が、異常を訴えている。
少しだけ寝よう、と思って横になった。そこには薄明るい朝焼けがあった。それから目を覚まして、夕暮れになっていた。いや、まだ朝だ。朝焼けからそのまま、五分と経っていない。それか二十四時間と五分か。確かめる術はない。
不自然な姿勢で羽ばたこうとするカラスがじっとして、凍り付いたように空中に身を投げ出している。
ああもう何もかもイカれてやがる。
『動け』、と心の中で念じると、カチリとスイッチが入った。時が進む。飛び去っていくカラスを眺める。
ナナシは自嘲した。今更。
――
今更。これはいったい、何なんだ。超能力というやつなのか、それとも、ほんとうに頭がイカれたのか。
後者の方だろうな、とナナシは思った。
でも、もし超能力というやつだっていうなら。
この力があれば、どこへだって行けるんじゃないだろうか。なんだってできるんじゃないだろうか。新聞紙にくるまって夢想する。
もうトーロに戻らなくてもいい。
注意深く使えば、たぶん飢えることはないだろう
……
。
誰かに見抜かれて、何か、大事になるのは避けたい。
何をするべきだろうか。何をしたいのだろうか。この自由は、いつまで続くものだろうか。 とりあえず、腹が減っていた。明るくなってからスーパーへとやってきた。慎重に、いくらか力を確かめてから、ナナシは品物に手を伸ばす。
ないはずの心が痛んだ。
いや、これも全て人間といういきもののせいではないか。
俺を正当に扱ってくれたなら、俺が一文無しって事はないはずだ。そう言い聞かせて、ポケットに手を伸ばすと、ふと、財布が残っているのに気がついた。
自分のではない。人のものだ。
空っぽの財布の中に、免許証が残っている。
コーラル・ブラウン。
いまだに分からない。このコーラル・ブラウンという男の裏には一体、何があるのか。
ありふれた名前だった。いくらかの小銭がまだのこっている。けれどもこれはとっておきたい。
ナナシの視界の隅に、買い物かごはそのまま、ジーンズのポケットに、商品を押し込んでいる女がいた。万引きというやつだろう。そいつからビスケットをちょろまかした。だからといって罪が軽くなることはないだろうけれど。
これからどうやって生きよう。
突然与えられた自由は、ひたすらにナナシを困惑させた。
***
どうして財布を見ず知らずのHANOIにくれたんですか。
俺がそんなに、かわいそうに見えましたか?
ブレーキ音が響いた。ナナシは、とっさに時間を止めると、その音がした方に向かった。
三輪車がトラックの前輪に巻き込まれている。幸い、乗っていた子供はまだ無事だ。1秒も立てば、それこそぺしゃんこになっていただろうけど。
ナナシは、この能力を善いことに役立てることにした。すなわち人助けに使うことにした。その代わり、自分も生きていて良い、そういうことにしよう。
そして寝る。
生命の危機に陥っているヤツというのは都合良く見つかるものではなく、たいていは転びそうだとか、その程度だった。ナナシは少しばかりの幸運をばらまいて、そのぶんのカネを勝手に抜くことにきめた。
喉の奥にひっかかったような違和感は、理解の出来ない良心の呵責だ。解体して、そのタネを知らなければ気持ちが悪い。
ナナシはほどなくしてコーラル・ブラウンの住所を照らし合わせ、居住地を見つけた。安い、とはいえない、それなりのオートロックのアパートだ。けれどもナナシが時を止める以上は、入ることはたやすい。
チャイムを鳴らすかどうか迷って、それから用がないな、と思いなおした。
コーラル・ブラウンはいつもいなかった。けっこうな確率で、郵便受けからは郵便物があふれ出ていた。テキトーな人間だな、と思って、ナナシはたいていは戻る。
***
この力について、ナナシは少しずつ検証を進めていた。
たとえば、明かりなんていうのはは止める前についていればついたままだ。電化製品のスイッチを入れることは出来るが、電気はそのまま。時を流さないと、動いてはくれない。だから、セキュリティの行き届いた建物には入ることができないことが多かった。
けれども、時間を止めることができれば、さして生活に困ることはなかった。ものを移動させたり、持ち去ることは問題なく出来るのだ。
脱走したHANOIであり、身分の証明が行き届かないのはやっかいだったが。それでも働き場というのはいくらかあった。
この力を使って親切を働いてやったら、代わりにカネをいくらか頂戴することにした。もっと多いのは、悪事を働いているのに出くわすときだった。
時折は胸くその悪い光景に出くわし、ドブに捨ててやろうかと思うこともあった。コレに関しては、少なくともストッパーは働かないようだった。モノの移動であるからで、結果は「時間を流すまで」確定しないからなのだろうか? それでも、せいぜいは攻撃をそらしたり、なだめるのに使った。
そういうとき、ナナシはあのアパートに向かった。
理由もない親切。心からの善意。そういうものがあるのだと、たびたびは、何かにすがりつきたい気持ちになった。ただアパートを見上げて、帰る。
それだけのルーチンだ。
ぐったりと疲れた、ある日のことだった。清掃員の男が裏口から出てきた。奇妙なことに彼は、やあ、どうぞ、という具合に、ぺこりと会釈をすると、ナナシをアパートの中に招いた。
今ならば入れる、とナナシは思った。
入って、どうする?
少し顔を拝んで、帰るだけだ。きっとあの人間はおそろしいばかで、財産を詐欺師にむしられるような。宗教の勧誘を断れないような、そういう人間なのではないだろうか。コーラル・ブラウンの像はいつも定まらなかった。
コーラル・ブラウンの部屋の扉は、開いていた。
鍵が、というわけではない。文字通りあいていた。隙間が空いていたのだ。すっかり雨が降った日の次のことで、泥のようなシミがぽつぽつと階段に続いている。
追うな、と、ナナシは言い聞かせる。
追ってはいけない。
けれども、ナナシの足は自然と屋上に向いていた。
彼は、コーラル・ブラウンは、ビルの屋上に立っていた。手すりの向こう側。飛び降りる寸前だった。
ああ、そうか。結局は最後の置き土産なんだ。あの親切は、天国への速習だったってわけ。
くそったれ。
それは結局、最期にお荷物を降ろしてゆくだけのもので。善意の根源なんてこんなものだ。それでも不思議だったのは、表情が恐怖にゆがんでいて、なぜだか、死にたくないと見えたことだ。
***
もう二度と、ナナシはあのアパートに出かけることはなくなった。
けれどもそれからも、ナナシはやはり善いHANOIではあった。
結局のところナナシは、善きHANOIであろうという理由を探していただけで、それには理由はいらなかった。
心はずいぶんとすさんだ。日々の仕草はほぼルーチンじみていた。長く時を止められるようになった、と思う。ナナシの能力は時計を止めてしまうので正確にはかることはできなかったけれど、一日、一週間、そしておそらくは一月と、主観的にはそんなところだ。止められる時はずいぶんと伸びていった。
せめて予知能力だとか、そういう能力だったら使い用はあっただろうか?いや、それだと、いつかはトーロに追いかけられて詰み、ということになりそうだ。
工事現場で埋もれるHANOIを引き上げて、路上に倒れている女性を見つけた。病院の前まで引きずってくると、通報して、時に任せる。あやしい不審者を見つけては、消火栓をぶったたいて騒ぎを起こした。
そして、善行を蓄えた後だけ、よく眠ることが出来た。
どうして助けてくれなかったの。
夢の中で、あの子供が泣いている。
トーロファミリーの時代、誘拐した政治家の子供だ。
どうして、皆を助けてくれないの。
寝返りを打つ。「できるのに」「その能力があるのに」「にもかかわらず、しない」という選択が何人も殺している。お前は人殺しなんだ、と、下っ端があざ笑っている。仲間を見捨てるHANOIじゃないか。
止める。止める。時間を止め続ける。気の狂いそうな毎日だ。眠ったと思っても、数分ということがあった。外をほっつき歩いて、善行を探す。生きる理由を。しかし、そもそもほっつき歩いていて、死にかけた人間やトラブルに出くわす確率はどれほどだというのか? インターネットのニュースを漁ろうとも、大半は手遅れだ。何人も、そして何体も死ぬ。ナナシとは関係のないところで。
ナナシは、自分の身体にずいぶんガタが来ているのを感じていた。止めた時間だけ、ナナシは年をとった。つまりは経年劣化をし続ける。
どうしてこんな力に目覚めてしまったのか。そもそも全てが自分の妄想なのではないか。気がつけばあのときの屋上の光景は近いものとなっていた。あと一歩、踏み出していればラクになれる。
非の打ち所のないHANOIは死んだHANOIだけだ。下っ端の声が頭に響いていた。
「ねぇ、どうして、みんなをたすけてあげないの」
***
そしてまた、それもある日のことだった。
あの男が
――
コーラル・ブラウンがテレビに出ているのを見かける。HANOIを救うための施設を立ち上げたらしかった。
「とても、自暴自棄になった時期がありました。愚かなことですが、僕は、自分で、自分の命を絶とうと思ったこともあります。
でも今ではないと言われた気がしました。まだやるべきことがあると」
彼は「天からそう言われたからだ」、と答える。
たしかに身を投げ出したはずなのに、気がついたらフェンスの内側にいたんです。時が巻き戻ったみたいに。
くだらないとは思ったが、ナナシの時間が少しずつ動き出した。
自分の代わりに、あの人間が救った人や、HANOIの数を数えるようになった。
目の前の人物しか救えない自分よりも、あの人はよほど救うだろう。
行動だ。行動こそが真実だ。少しだけ身体が軽くなった。相も変わらず、それは馬鹿みたいな偽善ではあったけれど。手の届く範囲だけ。手の届く範囲から。
一度だけ、講演会に出かけたことがある。会場の隅に席をとって話を聞いた。優しい声をしていた。それだけ確認して内容は聞かずに姿を消した。コーラル・ブラウンは相変わらず遠い存在になっていた。寄付を集めて、ひどい目に遭った、曲芸用HANOIの喉を治すらしい。すべては、ナナシがあの人間を助けたからだ
……
。
時間を進めるのを恐れなくなった。必要なとき以外、この力を使わなくなって、ずいぶんと経った。自分の救える範疇は自分の手の届く範囲だけ。ナナシは警備員の職を見つけ、それなりに善行を重ねて、それなりに生きていた。
またコーラル・ブラウンのニュースを見ていた。相変わらず耳障りのよい言葉を並べて、それはもう心をさかむきには撫でなかった。心地よくはない。ただするする入ってくるだけだ。どうしても聞こえはほんとうに思えない。
布団に丸くなっていると、不意に、雑音が混じった。
銃声。
拳銃はトカレフTT-33。
それは生中継で
――
ナナシは、とっさに時を凍り付かせた。
いつまでもつだろうか。どこだ。海の向こう。いや、そもそも、通信の速度の差は?
もう手遅れなのではないだろうか。
その弾丸は当たっているのか?
ナナシは立ち上がると、時を止め、ただ、ひたすらに歩いた。が、それは、海岸で途切れる。
(そもそも)
そもそも、どっちに行けばいいんだ。
「あら、」
病衣をまとった少女が、ふわふわと浮いている。包帯を顔にまいた奇妙な少女だ。
「アンタ、あたしが見えるの? ってことは、死ぬわね、もうすぐ。お気の毒さま」
「どっちで死ぬんだよ」
「あっちね」
IVが指を指した。遙か彼方。海の向こうを指さす。ふわふわと漂ってついてくるようだった。水は深く、どこまでも暗かったが、カーペットのような感触を返した。
「ほら、シューニャが呼んでるわ。大丈夫よ、融解はそうつらいことじゃないわ」
「ナナシ」
ナナシは歩いて行った。ずっと歩いて行った。気の遠くなるほど歩いて行った。
機械でなければいけなかった。腹は空かないことにした。時間に比例するらしかった。
長い長いときが過ぎた。
ふわふわと漂う死神の姿を追いかけて、ナナシはひたすらに歩いて行った。
陸が見え、それから、会場にたどり着くと、ナナシは糸が切れるように覆いかぶさった。乾いた銃声は複数ある。
いきなり現れたHANOIが、コーラル・ブラウンを庇ったのだから、それは説明のできないほどのミステリーになるはずだ。
そもそも、どうして?
わからない。それに答えはない。
***
ナナシは顔を上げた。
また、目の前で透明なコーラル・ブラウンも顔を上げていた。
「あれ、君は」
「どうも」
「誰だっけ」
「庇いがいのない野郎だな。俺がせっかく
……
」
顔も覚えてないヤツを助けるなんてのは、かなりイカれているといえるだろう。
結局、二人とも死んでしまったのか。
死んでしまったみたいだった。コーラル・ブラウンの腹にはやはり穴が空いていて、それはとりかえしのつかない損傷に見える。
「ああ。そうか。君はナナシか。でも、これはね、ちっとも無駄じゃないんだよ」
ナナシの眼前に、並行の宇宙がいくらも広がっている。その一つでは男は二発目を撃つ前に取り押さえられていた、それから力尽きて死んだ。それから
……
運よく生き残ったパターンがあった。何も言わず、ともに戦ってくれるように頼んで手を取った。
「良いほうに泳いでいくたびに人生は良いほうに近づいていくんだ、ナナシ」
「ナナシってなんなんだよ」
「え?」
コーラルは、また間抜けな声を上げた。
「ああ、そうか、ナナシか。そうだね、思い出したよ」
幾千分の一のじぶんが、連れ添うようにして、老いたコーラル・ブラウンと歩んでいる。一歩一歩、壇に近づいていくのだった。
「あれは俺なんですか」
「あれは君だよ、ナナシ。
君は時を止めて。時を止め続けて、少しでもマシな方に来れるように最善を尽くしたんだ。だからほかの世界の僕は、ちょっといい目にあって、あの世界の僕と彼が報われているんだ。
ナナシ、人生はゆっくりと泳いだ方に行くんだ。マシな方に泳いでいくんだ。そうすれば、流されることがあっても、マシな方に近づくんだよ。
意味がないことなんて、世の中にはないんだ」
「それは欺瞞です、施設長」
「施設長?」
「ああ、アンタのこと」
「ああ、そうだった」
ひゅうと、アパートの屋上から、目の前を落下するコーラル・ブラウンの姿がある。コーラルは気まずそうに目を背けた。助けなかった世界線だ。
「俺が努力をしたから近い世界の俺が良い結果を得たとするなら、どん底の俺は普通の人間よりも百倍ヒデェ目に遭ってるってことでしょう。
善い目に遭ってる俺がいるから、だから喜べって、そんなの不公平ですよ」
「でもナナシ、君は良いHANOIだったよ」
ちっとも報われなかったこの世界の幕が下りる。
それから、視点が映る。何千万の一だろうか。穏やかな二人に。
「今日は、何年の何月何日だね」答えの代わりに、コーラル・ブラウンが言う。
「はい、確かに、何年の何月何日です」とナナシが言った。
その声は確かに汎用の雑務用の声ではあったけれども、それでも自分だと確信できた。
マイクのスイッチが入った。ハウリングする。雑務用は顔をしかめた。そうか。時間はもう止められないのか
……
。
ライトがあたり、会場を見回した施設長は、フランクに話し出す。一言二言、冗談をうまくはさんで、それから笑った。
雑務用は、それを何十回も聞いていたような顔をしていた。
雑務用は、くたびれた顔をしていた。けれども誇りに満ちた目をしている。今までやってきたことは間違いではない、そう確信している顔だった。
「ナナシ」ああ、あの声は自分を呼んでいたのだと、ナナシは思った。
あれになりたかった。強い情動が胸を突いた。
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