コーラル・ブラウンは頭を下げるでもなく、はっきりと言った。「証拠はありますか? 監視カメラの映像を確かめて貰ってもいいでしょうか」
・・・・・・。
かくして、ナナシの罪は晴れた。
結局、ナナシに頭を下げたのは店員の方だった。
本当に万引きなんてしていないのだから、証拠がないのは当然だ。けれども、まさか、こうもすんなりと無実を信じて貰えるとは思っていなかった。
雑誌を棚に戻したところで、ナナシは腕を捕まれたのだった。品物は出ては来なかったが、それからは隠した、隠してないの押し問答。「親に連絡しろ」と言われたが、頼る親もいなかった。突きつけられたスマートフォンの呼び出し履歴の一番上。ナナシがいちばん頻繁にやりとりしていたのは熱心な学校の先生で、それも、学校を休んだときに様子をうかがうような着信だけだった。
まさか来るとも思っていなかったし、来たところで適当に頭を下げさせて終わるだろうと思っていた。やってくるなり「ナナシ、君がやったの?」と問うた。ナナシが首を横に振ると、コーラルはナナシの前に立って、店の人たちに向き直る。
「ナナシ君はやっていないって言ってます。確かめてくれませんか?」
「嫌な思いしちゃったね」
「別に……大丈夫です」
ほんとうは今年で、いや、高校に入ってからいちばん嬉しかった日だった。……なんて言えないだろう。これほどまでに信頼を寄せられたのは初めてだ。心がほかほかとしていた。
コーラルがあんなに毅然とした態度をとるとは思っていなかった。(責任を押しつけられた形ではあったが)ナナシには補導歴があったし、学校ではそういう目で見られることも多かった。
「駅まで送ってくよ」
「俺、電車賃がなくて」
ちょっと嘘をついた。帰りたくなかったのだ。どうせ帰ったところで、家にナナシを心配するような人間はいない。口に出してからなんか小遣いでもせびってるみたいだな、と嫌な気持ちになったが、微妙なニュアンスをくみ取ったのか、コーラルは微笑んだ。
「……じゃあ、うちに泊まってく?」
思いがけない言葉に、自然と頷いていた。
コーラル先生はちょっとボンヤリしていて、熱心だが、から回っているような、そんな印象だった。優しいけどちょっと頼りないな、というのが大半の見方だろう。
夜のファミレスは不思議と静かで、燃料を補給するガソリンステーションみたいな、それでいて宿みたいな不思議な落ち着きを放っている。背伸びした高校生とか、疲れた様子のサラリーマンがちらほら。
ナナシは、コーラルと同じモノを頼んだ。コーラルは、キノコのリゾットに、山盛りのチーズをぶっかけている。へぇ、こんなものが好きなのかと思いながら自分は控えめに食べた。
これが美味しいのか? 美味いのかもしれない。米を噛みながら、良く覚えておこうと思った。もう二度と来ないかもしれない。
「美味しい?」
ナナシは頷いておく。
年齢の分からない丸っこい顔を長めながら、この人はいくつだっけと考える。大学出たてみたいな童顔だが、記憶ではたしか三十過ぎだった。「ええー、見えないー」というクラスメイトのかしましい騒ぎを覚えていた。
いいから、いいから、とつけられたドリンクバーをもてあまして、ナナシはゆるいカフェオレを飲んだ。もう一杯くらい飲まないと損だろうか、と思って、結局、「飲んだらこの人は喜ぶんじゃないか」という結論に達した。実際、嬉しそうにへらへらしていた。
「ごちそうさまです」
「うん。あ、タバコ吸って良い?」
「駄目です」
とっさに言ったのは、ナナシがそう言ったら、「ええー」と言いながらも引っ込めてくれるのが分かっていたからかもしれない。家の連中では絶対こうはならないから、とても愉快だった。自分の意見は明確に吟味されて、判断の材料になる。
――この人って、タバコ吸うのか。
「おなかいっぱいになった?」
領収書をプラスチックの筒から抜き取って財布をごそごそやった。
「はい。なんか、すみません」
「んーん。違うでしょ」
「ごちそうさまです」
「うん」
会計を盗み見る。2000円ちょっと。
何を返せば良いんだろう。
先生が、こんなひいきをしていいんだろうかと思った。そうすると、「ないしょね。ばれたら怒られちゃうから」と、悪さがぜんぶ先生の方に行った。
もしかしたら、この先生は平等にこうやって見えないところでひいきをしているのかもしれない。
「それで、ホントに泊まってく? 今日はもう遅いからそれでもいいんだけど、おうちの人に連絡していい?」
「俺がします」
スマートフォンを取り出して、さっと駐車場の奥に行った。発信だけする振りをした。普通の会話だったら何分くらいだろう。適当に他愛ないニュースを一本読んで閉じた。気がついているのかいないのか、先生は丸っこい似合いの車にもたれていた。
タバコは吸ってないので、良い気分になった。
「いいって言われた?」
「週に一度も帰ってきませんよ」
「そっか、じゃあ行こうか」
びゅんびゅんとライトが過ぎ去っていく。安全運転で、青でどんくさく止まる。ゆっくりでいいです、と思いながら今日の出来事を反芻している。
「えっと、着替えと、あと歯ブラシとか」
「着替えは良いです」
「でも……」先生は笑う。「明日は休む?」
「ガッコ、行きます」
ナナシは機嫌が良かったのだった。
ナナシが、しばしばコーラルの講習に出るようになったのはそれからだった。どっちかというと進学する人間向けの、希望者のみの講習だった。入り浸るには都合が良くて、ナナシは教室の隅に貼り付いた。メリーティカはそうだろうとは思っていたが、キャメロンが常連なのには驚いた。キャシーは、知っているだろうか。コーラルの部屋は普通にきたない。
「ここ、分からないです」
「ここ?」
「はい。分からないんですけど……」
コーラルは教え方が上手かった。
熱心だし、つまづくとそこまで戻ってくる。
「次の数学、頑張るから」
数学はコーラルの受け持っている教科だ。
「……良い点とったら、また飯おごってくれます?」
「えっーと、……内緒にしてくれる?」
ほらまた、こっちの貸しになる言い回しになる。
「ちょっとー! コーラルちゃん、メロンちゃんにはご褒美ないのぉ~?」
「うわあ! ええ、もちろんいいけど……」
ふーん、とちょっと面白くなくなった。
ナナシは放課後の手持ち無沙汰な時間を、こうやって過ごすようになった。
勉強するのはいいけれど、別に目的があるわけでもない。何かになりたいとも、なれるのかとも思ってもいなかった。ただ、その瞬間は幸せだ。
「先生って難しいですか?」
ふと、思いついて言ってみる。
「な、ナナシ! 君……」
ぱあっとコーラルの表情が輝いた。
「君、先生になりたいの? きっと、良い先生になれるよ」
取り寄せて貰った大学のパンフレットとか、奨学金の説明とか、進路とか、別にどうでも良かったのだ。
さんざん手間をかけさせて申し訳ないとは思ったけれど、ナナシは別にセンセイになりたいわけじゃない。むしろ無理だろうな、と思っていた。
「それじゃあ、人に教えられるように、もっとたくさん勉強しないとね?」
――はい、センセイ。
とあえずそう答えておけば、幸せな時間は長引くはずだ。
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