頻子
2021-06-23 01:17:42
1477文字
Public TOH二次
 

匿名投書箱

※コーラル・ブラウンが一般女性と結婚していて子供がいます
※ナナシを引き取れなくってそれなりに戻っちゃった話

 コーラル氏は久しぶりの休暇が楽しみで、とても早く起きた。まだベッドで眠っている奥さんのほっぺにキスをすると、せっせと身支度を調えた。
 奥さんが、バターの焦げる匂いが立ちこめていて目を覚ますと、コーラル氏は、ねぐせをそのままにしながら、「たまには僕がやるよ」、と、久しぶりにご自慢のパンケーキを焼いていた。
 今日は夫婦の結婚記念日で、うまくいけばナポリに行く予定だ。
 コーラル氏はHANOIの保護活動をしている。一筋縄ではいかない仕事だけれども、HANOIの理解者や、ハンソン家の援助もあって、そこそこに上手くやっていけていた。
 彼を慕う人間は多く、彼を慕うHANOIはもっと多かった。牛乳を配達しているHANOIが、わざわざコーラルさんを見つけてきて、牛乳瓶を手渡す。ささやかな「いつもありがとう」という言葉目当てだ。
 7才の長男と、4才の長女は庭できゃあきゃあと子犬のように丸くなって泥を跳ねていた。子供たちにはまだ旅行のことは話していない。ひとたび計画について話せば、家中の何から何までリュックサックに詰め込んで収拾が付かなくなるに決まっているからだ。色の違うところのカーペットすら、ひっぺがして持って行きかねない。
「まあ、あれで少し疲れてくれたら、飛行機でもきっと大人しくなるよ」
 急に、長男がぎゃあと声を上げた。
「パパ、だれかけがしてる!」
「え?」
 コーラル氏が驚いて子供たちの方へと駆け寄った。娘の手のひらが真っ赤だった。慌てて抱き上げたのだけれども、痛がってはいなかったし、どこもけがをしている様子はなかった。
「誰かって、誰?」
「わかんない!」
 娘が、足で無造作に散らばった郵便物を跳ね上げた。
 ぱらぱらと舞い落ちるチラシの中に、一枚。
 真っ赤な字で、『ナポリには来るな』と書いてあった。

 この件を巡って、夫婦は少し口論になった。
 なんたって本当に久しぶりの休暇だった。コーラル氏は忙しく、新婚旅行を除いたら、泊まりがけの旅行なんて機会は、ほんとうに数えるほどだった。封筒の表書きはHANOI保護施設、コーラル・ブラウン様宛てで――および奥様、だったために自宅に届いたのだと思われる。
 これでよく届いたものだ。
 切手はつぎはぎしたように大きさも種類もデタラメだったが、貼り方は妙に几帳面だった。
「誰かに言った? ナポリに行くって」
「仕事のみんなには言ってあるよ。でも、わざわざ広めるようなことじゃないし……でも、ううん。なんだかおっかないなあ。どうする、中止にするかい?」
「誰からなの?」
 無邪気にやってきた長男が封筒をひっくり返す。
「それが、心当たりがないんだ」
「パパ、誰からでもないよ」
「誰からでもないの?」
「名前が書いてないもの」
「それなら、イタズラじゃないかしら」
 コーラル氏はさっと顔色を変えた。封筒を手に取って調べてみる。脅迫めいた、いや、脅迫そのものの文言は汚いインクで殴り書きされていて、右下にはわざとらしい空白がある。ロウが擦り付けられたようにピカピカしている。
「やっぱり、旅行はなしにしよう」
「どうして?」
「この名前に心当たりがあるんだ」
 その理由を、コーラル氏はとくに語らなかった。
 一家は旅行の計画を取りやめた。近所の行きつけのお店で、少し豪華な昼食をとった。ナポリでは、マフィア同士の抗争で、何人かが死んだ。
 あの手紙が無かったら、もしかしたらそれはコーラル一家だったかもしれない。
 後にも先にも、手紙が届いたのはそれっきりのことだ。