頻子
2021-04-11 22:44:02
2061文字
Public TOH二次
 
335009

サインしてしまった

タワハノ、ナナシT1後 サインするところ
いや、お名前変換機能使って遊びたかったんだよ

コーラル・ブラウン サインを終えた。終えてしまった。万年筆を紙から離す。ブルーブラックのインクがまだ乾いていなくて、厚みを持った紙のうえでてらてらと輝いていた。
 例の書類の署名欄にはコーラル・ブラウンの署名がなされている。精一杯格式を満たそうとして、それでもなお丸みを帯びた文字だった。万年筆のペン先は着地点を見失って、空中でさ迷う。
 まだ引き返せるのかもしれない。けれども雑務用HANOIがこちらを睨んでいるのを背中越しに感じていた。重圧が重くのしかかっている。彼の失望を思えば、取り消すことなんてできない。脇の試し書き用の紙でインクを拭うと、コーラルはペンを置いた。
 ゴトンと、音は妙に大きく響いた。
「書いたよ、ナナシ」
 この書類にサインしたところで、今、世界が、何かが、劇的に変わるわけでもない。けれどもたいへんなことをしてしまった。少なくとも、もう取り返しのつかないことをしてしまった。
 過去に遡るのは不可能だが、この日には二度と戻れない。今日を何度も思い返すことになるだろう。同じ岐路に立たされたら、もう一度ここに来るんだろうか。
「はい」
 ナナシは後ろ腕を伸ばすと、書類を取り上げる。持ち上げて電灯に透かす。多分油断はなく、真っ赤な目が、ぎらぎらと書面を追っているはずだ。
 眉間に刻まれたしわがわずかに緩められて、じわじわと喜色が浮かんでいるのかもしれない。それとも、いつもの表情なんだろうか。しかし何か言いたげに口を開いてはまた閉じる様子に、タンタンとつま先で床を蹴る仕草に、それからやんわりと弛緩する二の腕に、なんとなく、嬉しさを感じ取る。
「はい、確かに……。受け取りました。ありがとうございます」
 不意に頭突きを食らった、と思ったのはコーラルの主観で、どうもこれはハグらしかった。椅子に座ったコーラルの胸の辺りに、ナナシの頭が来る格好になる。体重をかけて頭を垂れる、けれども忠誠にしてはぞんざいで、どうにも有無を言わさないような抱きしめかただ。自由になった腕でぽんぽんと背中をさする。
……ありがとうございます。俺は、ずっと……これが欲しかったんですよ」
「なんか、喜んでもらえたのは良かったんだけど。やっちゃったなぁ……。たぶん、僕、一生後悔し続けるんだろうな……
「腹くくってください。今更、取消は無しですよ?」
「そんなことはできないけど。でも……行使しない自由があるってコトは覚えておいてね」
……あー、はいはい。ありがたい施設長のお言葉ですからね……。もう少しこのままでいいですか?」
「何か面白い?」
「音がします」
「心臓の音?」
 ナナシは答えなかった。左手が持ち上がってきてびたりとコーラルの喉を覆った。どうも、脈を測っているらしい。
「それ、楽しいの?」
「別に……。楽しくはないですね」
「早い?」
「ふつうくらい」
 ナナシはじっと黙っている。なんだか不思議と小動物でも見えたような気になって、そっと頭を撫でた。
「君がこれだけしてくれても、僕は、君に、同じようなものを返してあげられないんだよねぇ」
 はぁ、とやる気のなさそうな相づちが聞こえる。
「そりゃあ、そうですよ。アンタはみんなの施設長だし。そのくらい俺は分かってますよ。今更です」
「あの、ほんとによかったの?」
「俺だって俺に殉じてアンタに死ねとは思ってません。そんなの期待してないし、要りませんよ。第一、重いじゃないですか……
「重……ええ? 君が言うの? それを? 重い?」
 ふふん、とナナシは勝ち誇ったように笑った。
「ま、いろいろとしがらみの多い人間様には無理な芸当でしょう。俺は心底HANOIに生まれて良かったと思ってますよ。アンタは人のためなら際限なく身を削りますけど、……ふたり分となればそうもいかないでしょうね」

***

 とくに関係性の名前も、付き合い方も変わらないが、あれからずいぶんとナナシの態度が甘くなったような気がする。
「砂糖はいくつ?」
「え?」
「いいですよ、いくつでも」
「じゃ、じゃあ三つ……
 距離が近くなったのかと思えば、口うるさくなくなったというのが正確なところか。もう別行動をとってもブツブツ言われないし、一人でも大丈夫だと言うと「そうですか」と流されることが増えた。
 なんとなく、自由に泳がされているような気がする。
「前はあれだけ砂糖の取り過ぎは身体に悪いって言ってたのにな……
「アンタももういい大人でしょ? もう、アンタ一人じゃないですからね。その辺はご自分で加減してください」
「うっ……やっぱりひとつにします」
「いいですよ、四個でも五個でも。好きに俺の寿命を縮めてください」
 そう言われると、角砂糖は諦めざるを得ない。
……ナナシはずるいなあ」
「使えるモンは何だって使うって決めましたからね」
 例の書類をどこにやったのか尋ねても教えてくれない。たぶん、ナナシのことだから厳重にどこかに預けているんだろう。