頻子
2016-01-26 19:25:53
3905文字
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(かもかて)ドゥナットss

※子どもの頃にドゥナットと会っていたら、みたいなパラレル話
※レハト(僕) シリアス ドシリアス

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 雨の日は、飼い猫でもなかった猫のことを思い出す。やせっぽっちで汚い猫だ。どうしようもないほど獰猛で、近づきがたいほど猜疑心に溢れていた。僕は、周囲に馴染めない孤独からか時折思い出したように猫を追いまわしては引っかかれ、そんな猫のほうも僕に負けじと気まぐれで、ある日、ふっとどこかに行ってしまった。それ以来、猫を見ていない。

 えてして出会いなんてそんなものだ。そして、その相手が猫ともなればなおさらだ。野垂れ死にでもしたのだろう。猫とのささやかな出会いはほんの僅かな時間の事で。加えて、あの頃の僕はそれはそれは純粋で、文字なんてものを知らなかった。記憶はまるで霞がかったようにその境界線すら曖昧だ。猫が霧の向こう側で尻尾を振っている錯覚におちいる。何でこんなことを思い出したかというと、丁度こんな夢を見たからだ。来いとも来るなともいわず、彼はいっそう口の端を歪めて嘲笑っていた。白けた白昼夢を見たのはよく晴れた日だったけれど、その次の日は雨だった。あいにくと今日は休みだ。その前の日も、そのまた前の日も。どこにも行くつもりがない僕は、退屈しのぎにこんなことを思い出しては夢想するのだ。彼が生きてやしないかどうか、そういった他愛のないことを。どれもこれも今となっては確かめようもないことなので誰も文句などつけやしない。生きていたら良いなとは思うけれど、不幸だ。とっても、気の毒な猫ではあったから。



 あの日は雨だった。僕はこれだけをはっきりと思い出すことが出来る。その証拠に路地裏に倒れていた少年の衣服は濡れていたし、揺り起こそうとした僕もまた泥にまみれた。帰った僕のなりを見るなり、母さんが顔をしかめたことを覚えている。その懸念が、布にこびりついた汚れの落ちにくさに向けてのものであることを、僕は知っていた。ひっつけているのが泥だろうが血だろうが、なんであろうと反応は同じだ。わずらわしいかそうでないか。そういった意味で彼女がこの世でいちばん嫌いなのは鍋の焦げだ。なにが好きかまでは思い至らなかった。今だってわからない。虫の抜け殻、枝、くすねた小銭、道ばたに落ちてる石ころなど、僕はことあるごとに様々なものを持ち帰ったけれど、どれひとつ、なにひとつとして彼女のお眼鏡に叶うことはなかったのだった。そのとき、僕のつけた泥の中には、ほんの少しの赤黒いシミも混じっていた。そのときばかりは助かった。
 彼女は十分に愛情深い。人目を避けるようにしての引越しを幾度となく強いられる彼女がたったひとつ捨てればよいものは明白だ。それは、決して、使い物にならなくなった鍋などではなく。

 夜が明けてもそれは寸分変わらない場所でぐったりと頭を垂れていた。朝食時にくすねたパンの欠片を口元に押しつけてみれば、わずかに身じろいで呻く。食べ物と認識したらしく、痩せこけた手が僕の手からパンをひったくりがっついてゲホゲホとむせた。黒い塊がもぞりと動いて、まぶたがゆっくりと開く。ぎょろっとした目が僕を睨んだ。瞬間、物理的な意味での衝撃が僕を襲い、僕は後方にすっとばされてしたたかに頭を打った。食べ物を口にするのさえままならない少年がどうやってそのようにしたのかは僕にはわからない。僕はそのまま気絶でもしていたのか、ややあって起きあがると、残り何切れかのパンとともに、少年はどこかに消え去っていた。とるにたらないことなのか、それとも頭を打ったからか、その辺の記憶は曖昧だ。
 とにかく、それから、僕はたびたび食べ物を運んだ。毎日のときもあったし、最後のほうは一月と通わなかった。もちろん会えない日のほうが圧倒的に多かった。少しずつ僕は慣れてきた。普通に餌をやっては駄目なのだ。パンやら肉のかけらやら、野菜の切れ端なんかをとりあえず袖やらポケットやらに突っ込んでおく。彼が僕の足を引っかける。抵抗してはいけない。その方が後々痛い目にあうからだ。それからつんのめって、僕は食べ物を盛大にぶちまける。彼がそれを拾う。僕は早すぎないタイミングを見計らって起き上がり、土を払う。ズボンが膝で擦り切れてしまうのが難点だったけど、僕はそれをうまくやってのけた。時々は顔面をしたたかに打っては血の味がした。ときに、彼は得意げに講釈をたれた。盗みの穴場とか、コツとか、大人を殴ったとか、上手く逃げたとか、まあそんな日は滅多にこなかったが、その日に限っては捧げものを素直に受け取ってくれるのだった。後にも先にも一度だけだが、もともと僕のものだったパンを半分くれたことさえある。半分この大きい方は彼のものだった。ほんの数回、こそ泥の見張りも任された。
 彼の上機嫌な日は上手く事が運んだときの次に多かったような気がする。しかしそうとも限らないのだ。いつだったか、彼が上等なベーコンの塊を得意げに持って帰ったときの次は嵐だった。僕の分け前を差し出すとなお怒り狂った。振り上げた拳の袖口から覗いていたのは新しい痣だ。ままならないな、と僕は思った。
 今思い返してみれば、こそ泥の手伝いなど馬鹿げていた。幸いにしてあまり危ない目にはあわなかった。彼とのひそひそ話はいくら大声でも聞かれやしないし、彼は人の気配にとても敏感だった。人の気配に異常なぐらいビクつくのも彼だった。不思議というよりは不可解な少年だった。当たり前のように空中に物を置いたりしてみせた。あまりに当然といった動作だったので僕は苦もなく受け入れた。子どもの適応力というのはあなどれない。たまに僕にも教えてくれたが、いわれたとおりにしてみても、かき回されるような倦怠感を感じるだけだ。真面目にやるとむやみやたらにひけらかすなと怒られる。ところが例え失敗したとして、少年は特には僕を責めず、ただ優越感に浸っていた。僕としては当然少年の機嫌がよいほうがいいので、ひたすらほどほどに手を抜いた。

 僕と少年は友達だったのだろうか。虫の抜け殻、枝、小銭、石ころ……、僕はことあるごとに少年に差し出してみたが、わめいたりひったくったりと五月蝿い彼の反応は新鮮なもので面白かった。果たして僕らは友達なのか。いや、友達だったのか。それは永遠にわからない。彼には痣がたくさんあるし、僕にはたった一つだけだ。それだけが、僕たちの唯一決定的な境界だった。彼は時折僕の痣を増やそうと奮闘したが、僕の痣はただひとつを除いてすぐに癒えてしまう。
 しかしまた、僕はこんな関係が終わるとも思っていなかったのだ。彼もそう思っていたろうとなんとなく僕は思うのだ。ところがある日、本当に何でもない日のことだが、何もないところで壁にぶつかった。決して比喩などではなかった。最後まで、全く不思議な事だらけだ。思いがけない障壁に何事かと思って目を凝らすと、あの例の少年が小刻みに肩をふるわせて、多分非常に意地悪く笑っていた。声は聞こえなかった。見えない壁に遮られているらしかった。僕は実際、驚いてしまって声が出なかったのだけど、少年はそれを快くは思わなかったらしい。つまらなそうに鼻を鳴らすと、音もなく近づいてきた。いつものとおり、きたるべき衝撃に身構えていると、しかし、いつまでたってもそれは襲ってこなかった。驚いたことに少年はいつになく上機嫌らしかった。ここのところは不機嫌続きだったので、僕はたいへん驚いた。それから本当に気分がいいのか、ぽつりと自慢を漏らしたのだ。

「こんど、弟ができる」

どこか誇らしげで、危うい響きをはらんだ呟きは、威張るように羨ましいかと続けた。僕は素直に頷いておくにとどめる。言葉の端々から彼に両親がいないことはわかっていた。ただの虚勢とないまぜの願望なのかもしれないと思うと判断に迷った。出ていった母親が戻ってくるのかもしれない。僕はちょっと置いてきぼりをくらった気持ちになったけれど、頭の片隅で彼にとって良い結果を招かないだろうことはなんとなくわかった。僕のも目の前の彼のも繕うにはほころびが過ぎた日常だ。少年と呼ぶにはまだあどけない彼のだぶついた袖口からは真新しい痣がのぞいていた。ただ母は、僕を切り捨てはしなかった。僕はベーコンを持ち帰るときの、狩人が獲物を抱えて帰宅するときの誇らしげな彼の姿を覚えていた。彼が後からがっかりしないように、いさめようかと迷ったあげく、よかったね、と言ってやった。きっと友達なら止めるのだ。僕と少年はそうじゃなかった。少年は口の端を歪めて、別にお前でもいいんだけどな、と言った。お前は痣があるからだめだ。きっとばばあも気に入らない。クソッタレばばあ、神様は嫌いだから。ざまあみろ。僕の理解も追いつかないままに、少年は愉快そうに笑った。ざまあみろ、と。水汲みとはオサラバだ。もう見張りなんてしなくてすむ。犬に追い回されることもない。ざまあみろ。クソッタレ。繰り返し繰り返し、少年はケタケタと笑った。
それから少年は走っていって、二度と僕の前に現れなかった。
それから――まもなく、僕もいつのまにか引っ越して、それで、この話はおしまいだ。



 僕だって、雨の日は、戯れに想像してみることがある。
 猫ははたして死んだのか?それとも逃げおおせたのか?それとも、きまりきった物語の結びのように、いつまでも幸せに暮らしたろうか?
 ねちっこいほど執拗に、ぼんやりとした頭を働かせては、いくつもの結末を想像するが、そのどれもがしっくりこない。雨が降っている。雨が。おそらくは。光をさえぎる分厚いカーテンの向こうは、少しもながめることができない。